なんでもない、の続きを

 一人で本を買った次の日の朝、伊織は駅で会うなり、私の鞄へ目を落とした。

「千景。昨日の本、持ってきたの?」

「持ってきてない」

「もう読み終わった?」

「まだ。重いから家に置いてきた」

「なるほど」

 伊織は納得したように頷いて、本の話はそれで終わった。だけど私は昨日一人で本屋へ行ったことについて、伊織からもう少し何か言われるのだと思っていた。

 どこか拍子抜けして、私は鞄の持ち手を握った。昨日、レジでどんなふうに声が出なくなったかを、伊織には話さなかった。買えた、とだけ送った。伊織に見えているのは、その短い返事だけだった。

「千景、昨日夜更かしでもした?」

「してない」

 伊織はそれ以上聞かず、ホームへ向かう階段を下りる。いつものように伊織が半歩先を歩き、私はその少し後ろにいる。その距離は、今までずっと自然だった。人が多いときは伊織が先に歩き、狭いところでは私が後ろへ回る。どちらから決めたわけでもないのに、気づけばそうなっていた。

 でも今日は、意識して歩幅を広げた。一段、もう一段と降りて、伊織の隣まで追いつく。

「千景、どうしたの?」

「何が」

「今日なんか速いから。競争?」

「違う」

 伊織が笑う。私も笑った。ただ隣を歩いただけだったけれど、いつもの位置を自分で変えたことで、昨日よりほんの少しだけ自分で歩いているような気がした。

*

 進路希望調査の提出日は、翌週だった。空欄のまま出すわけにもいかず、私は家でいくつかの大学を調べた。

 だけどスマートフォンで最初に開いたのは、ブラウザの検索画面ではなく伊織とのトーク画面だった。

『伊織が気になってる大学って、どこ?』

 そこまで打つ。同じ地域の大学なら、卒業しても会いやすい。伊織の答えを待ってから、自分の行き先を探すつもりになっていた。

 だけど送らずに文字を消し、私はトーク画面を閉じた。違う。私が今やりたいのは、そういう探し方ではない。伊織のいる場所を先に決めて、その周りから自分の行き先を探すのでは、結局何も変わらない。

 私は机の上の進路希望調査へ視線を戻した。興味のある分野。何が好きだろう。本。文章。人の話を聞くこと。誰かと話すこと自体は苦手なのに、人が何を考えているのかを想像することは昔から好きだった。

 どうしてこの人はこんなことを言ったんだろう。本当は何を思っていたんだろう。言葉にしなかったものは何だったんだろう。現実の人間に対して考えると答えがなくて苦しくなることも多いけれど、小説の中なら黙っている人物がいても、何度でもその前後を読み返せる。

 会話を遡ることもできるし、言葉になっていない感情が、少しずつ文章の隙間から見えてくることもある。小説の中の人は、私が黙っていても困らない。何を言えばいいか分からなくなっても、ページはそこで待っている。そういうものに、私は昔からずいぶん助けられていた気がする。

 文学。心理。教育。図書館。検索窓に思いついた言葉をいくつか入れると、大学のページが並んだ。学部紹介。授業内容。ゼミ。資格。知らない言葉がたくさんあった。よく分からないことも多かったけれど、一つずつ読んでいるうちになんだかおもしろくなってきた。ここではこういうことを学ぶのか。こういう授業もあるんだ。そんなふうに見ているうちに、気づけば一時間以上が経っていた。

「千景、ご飯」

 母に呼ばれて、ようやく顔を上げる。

「今行く」

 返事をしてから、私は画面をもう一度見た。一つの大学のページが開いたままになっている。文学部。人文系。夏のオープンキャンパス。日程は八月。家から電車で、一時間半くらいかかる。近いとは言えないけれど、行けない距離でもない。

 私はその日付をメモした。誰かに勧められたからでも、伊織が行くからでもない。自分で見つけて、自分で気になった。そのことが、ほんの少しだけ誇らしかった。

*

「これ、気になってる」

 翌日の昼休み、私はスマートフォンの画面を伊織へ見せた。言ってから、自分から進路の話を出したことに自分でも驚いた。昨日までは、伊織の進路を聞くことばかり考えていた。だけど今日は、自分のほうから見せている。

 伊織が画面を覗き込む。肩が近づく。画面を一緒に見るための、いつもの距離。それなのに今は、その近さまで妙に意識してしまう。

「文学部? 千景っぽい。本好きだし」

「読むだけだけど」

「それでいいんじゃない?」

 そう言って、伊織は画面をスクロールする。

「オープンキャンパスあるね。千景、行くの?」

「まだ分からない」

「一緒に行こうか?」

 その言葉を聞いた瞬間、反射的に嬉しいと思った。胸が一度明るくなる。知らない場所。電車で一時間半。初めて行く大学。だけど伊織が一緒なら、たぶん何も怖くない。乗り換えも、受付も、どこへ行けばいいか分からなくなったときも、隣に伊織がいる。そう思っただけで、急に行ける気がした。

 そのあとで、喉元が苦しくなった。まただ。伊織はいつもそうだ。私が何か言えば、すぐに一緒にやろうとしてくれる。それが嬉しい。嬉しいからこそ、困る。

 私は今、伊織がいなくても行けるかどうかを確かめたいのに――伊織が「一緒に行こうか」と言っただけで、その決意が簡単に揺れる。

「……まだいい」

「まだ?」

「決めてから」

「そっか」

 伊織はスマートフォンを返した。私はそれを受け取り、画面を消した。だけどまだ何か言い足したくて、スマートフォンをポケットにしまえなかった。

「でも、よさそうじゃん。千景、ちゃんと調べてるんだ。偉い」

「ちゃんとって何」

「こないだ、決まってないって言ってたじゃん」

「だって、伊織に言われたから。自分が行きたいところにしたほうがいいって」

 そう返すと、伊織は一瞬だけ黙った。それから目を細めて、どこか嬉しそうに笑った。

「そっか。じゃあ言ってよかった」

 その笑顔を見て、胸が痛くなった。伊織は本当に、私が自分で進路を考え始めたことを喜んでくれているのだと思う。たぶん、私が自分でできることを増やせば増やすほど、伊織は安心する。だったら、もっと自分でできるようにならないといけない。

 そう思ったところで、私は違和感を覚えた。私は自立することまで、伊織のためにやろうとしている。それでは結局、自分のために何かを選んでいることになるのだろうか。

 けれど、その違和感をうまく言葉にできなくて、私は何も言わなかった。

*

 それから私は、小さなことを一つずつ変えていった。

 提出物の確認を自分でする。雨の日は自分で天気予報を見る。移動教室の場所を先に調べる。分からないことがあれば伊織にメッセージを送る前に、一度自分で調べてみる。

 どれも大したことではない。誰かにとっては、最初から当たり前にやっていることかもしれない。それでも実際にやってみると、私は思っていたよりたくさんの小さな判断を、無意識に伊織へ渡していたことに気づいた。

 これどこだっけ。明日何持ってくんだっけ。何時の電車。どっちから行く? ひとつひとつなら、どれも小さい。けれど、そのたびに私は自然に伊織のほうを見ていた。それが分かるようになると、自分の動きをいちいち監視しているような気分になった。

 今のは自分で決めた。これは先に調べた。これは聞かなかった。できた。できなかった。誰にも採点されていないのに、私は毎日の中で小さな丸とバツをつけ続けていた。

 家で宿題をしていると、数学でどうしても分からない問題が出た。いつものように伊織へ聞こうと思い、スマートフォンに手を伸ばす。

 トーク画面を開いて、『伊織、これ分かる?』――そこまで打ってから、私は文字を消した。明日、先生に聞けばいい。それだけのことで、伊織でなければいけない理由は何もない。

 翌日、私は一人で職員室の前に立った。中から先生たちの話し声がする。扉へ伸ばしかけた手を、一度下ろした。四月には、ここまで伊織に来てもらった。あのとき持っていたプリントの角が、しわになっていたことまで思い出す。

 私はノートを開いた。付箋を貼った問題が見える。聞きたいところに、昨日のうちに丸をつけておいた。意を決して扉を開けて、「失礼します」と声を出した。近くの先生が顔を上げる。

「あの、数学の……」

 先生の名前を告げると、呼んでもらえた。先生が来るまで、私は扉の前でノートを両手で抱えていた。

「水瀬。どうした?」

「あの、課題のここが、分からなくて」

 指したところを先生が見る。説明を聞いても、途中で一度分からなくなった。頷きかけて、止めた。

「……今のところ、もう一度、お願いします」

「ああ。ここからだな」

 先生は同じ図を、少し大きく書いてくれた。

 職員室を出ると、廊下の窓が開いていた。風でノートのページがめくれ、私は慌てて押さえた。先生が書いてくれた式の横に、自分で小さく丸をつける。

 聞き返しても、大丈夫だった。私はノートを閉じ、教室へ戻った。ポケットの中でスマートフォンが鳴った気がしたけれど、今は取り出さなかった。

 だけど、放課後に昇降口で待っていた伊織の顔を見ると、やっぱり聞いてほしくなった。靴を履き替えて、一緒に外へ出る。校門を過ぎたところで、私は声をかけた。

「伊織。今日……数学、先生に聞いた」

「千景が? すごいじゃん、どうだった?」

「分かった。ここなんだけど……」

 私が鞄に手をかけると、伊織が歩く速さを緩めた。私は道の端へ寄って立ち止まり、ノートを取り出した。付箋を貼ったページを開くと、伊織が隣から覗き込んだ。

「最初に説明してもらったとき、まだ分かんなくて。でも、もう一回言ってもらったら……分かった」

「分かんないままにしなかったんだ。千景、よかったね」

 伊織の声が明るくなった。

「……うん」

 頷いて、私は付箋の端を指で押さえた。この声で、そう言ってほしかった。ノートを鞄にしまうと、伊織がまた歩き出した。私もその隣に並んだ。

*

 六月に入るころには、三組にもだいぶ慣れてきた。それに、真緒とは毎日普通に話すようになった。普通というのがどれくらいなのかは分からないけれど、休み時間に話して、移動教室に一緒に行く。何かを聞かれたとき、返事を考えすぎずに答えられることも増えた。そのくらいだった。

「水瀬さん、今日購買行かない? 限定のパンがあるらしいよ」

 ある日の昼休み、真緒にこう誘われた。私が時計を見ると、真緒も教室の入り口へ目を向けた。

「あ、榊原さん待ってる? だったら、また今度でも」

 昼休みになったばかりで、伊織はまだ来ていない。もう少し待てば、弁当袋を持って顔を出す。いつものように。真緒が、机に置いた財布へ手を伸ばした。

「……行く」

 私がそう答えると、その手が止まる。

「ほんと? いいの?」

「うん。私も、パン買いたい」

「じゃあ、買って一緒に食べよ」

 真緒が笑った。思っていたより嬉しそうで、私も口元が緩んだ。

「早くしよ。売り切れちゃう」

 私も財布を持って立ち上がる。伊織には、購買へ行くと送っておこう。そう思ってスマートフォンを取り出しかけたところで、教室の入り口に伊織が見えた。

「あ、千景。どこ行くの?」

「購買。真緒と」

 伊織の手には、いつもの弁当袋があった。私が席にいると思って、持ってきてくれた。そのことが急に気になった。

「今日は、一緒に食べようって……真緒が誘ってくれたから」

「ああ、そうなんだ。行ってらっしゃい」

 伊織は自然に道を空けた。いつもと同じ声だった。私は一歩進み、それから立ち止まった。

「……伊織は?」

「私?」

「お昼」

「ああ。クラス戻るよ」

「……そっか」

「うん。パン買えるといいね」

 伊織が笑った。残念そうには見えなかった。それなのに、何か言ってから行ったほうがいい気がした。ごめん、だろうか。でもそう言ったら、真緒と行くことが悪いことみたいになる。

「水瀬さん、行こ」

 少し先で待っていた真緒に、私は頷いた。

「……行ってくる」

「うん」

 真緒の隣に追いついて、階段の手前でもう一度振り返った。伊織はまだ、三組の扉のそばにいた。私に気づくと、弁当袋を持っていないほうの手を上げた。私も小さく振り返した。

 階段を下りながら、伊織が誰の隣に座るのか考えた。五組には友達がいる。私が心配しなくても、一緒に食べる人はいるはずだった。

「誘ってよかった」

 階段を下り切ると、隣で真緒が言った。

「水瀬さん、いつも榊原さんと食べてるから。どうかなって思ったんだけど」

「……うん」

「限定パン、一人で並ぶほどでもないかなって。でも気になるじゃん」

 真緒が笑う。私は手の中の財布を持ち直した。

「……私も、誘ってくれて嬉しかった」

 少し小さな声になった。それでも真緒は聞き取って、こちらを見た。

「ほんと? じゃあ、また誘うね」

 その笑顔に、私は頷いた。

 購買へ着くと、すでに列ができていた。

「やば。間に合うかな」

 そう呟いて、真緒が背伸びをする。

「限定パンって……何のパンなの?」

「知らない。だけど、限定って言われると欲しくならない?」

「ならない」

「水瀬さんそういうとこあるよね。じゃあ、何買うの」

 真緒は私を見て、楽しそうに笑った。

「メロンパン」

「普通だ」

 列に並ぶと、前にも後ろにも人がいる。知らない声が重なって、購買の店員の大きな声も聞こえる。以前なら何を買うか決めても、注文するまで何度も言葉を確かめていたと思う。今日も少し緊張する。でも、真緒と話しているうちに、列は進んでいた。

「あったよ、メロンパン」

 真緒が棚を指す。つられて背伸びをした。楽しかった。だけど、伊織に手を振ったときのためらいも、まだ私の中に残っていた。

*

 放課後、いつものように昇降口で伊織と待ち合わせる。私が先に着いた。五分ほどして、伊織がやってくる。

「千景、待った? ごめん」

「別に」

「昼、パン買えた?」

「メロンパン買った」

「あれ、限定買いに行ったんじゃないの?」

「それは、真緒が買いたかっただけだから」

「佐伯さんは買えた?」

「買えた」

「よかったね」

 そう言って、伊織は靴を履き替える。外へ出ると、重たい空気が制服の内側へまとわりついた。梅雨が近い。

「千景。最近、三組楽しそうだね」

 伊織が言ったその言葉に、足が止まりそうになった。

「……普通だよ」

「また普通」

 伊織は前を向いたまま、軽く笑った。

「でもよかった。最初、ちょっと心配してたから。クラス別れたし、千景、慣れるまで時間かかるでしょ。でも佐伯さんとも仲良くなったし」

「そんなに仲良くないよ」

「またそれ言う、一緒に購買行ってるじゃん」

「それだけ」

「十分じゃない?」

 伊織の声は明るい。本当に喜んでいるように聞こえる。だからこそ、胸が痛んだ。伊織が喜んでいるなら、私も嬉しいはずなのに。

「伊織」

「ん?」

「……なんでもない」

「また?」

「うん」

 少しだけ、言いかけた。寂しい? そう聞きたかった。私が真緒と一緒にいたら、伊織は少しくらい寂しいと思う? でも、何を根拠にそんなことを聞くんだろう。

 伊織は笑っている。私が三組に慣れたことを、伊織以外の人と話せるようになったことを、ちゃんと喜んでいる。

 それなのに、勝手に寂しがっていてほしいと思うなんて、ひどく身勝手な気がした。

「千景もさ、一人でいろいろできるようになったよね」

 伊織が言う。胸が少し跳ねた。

「まだそんなに」

「でも前より。いいことじゃん」

 その声は、やっぱり優しかった。

 信号が赤になって、二人で止まる。駅へ向かう人の流れが、少しずつ横に広がっていく。いつもなら、伊織が少し前へ出る。私が人にぶつからないように、遅れないように、何も言わずに前へ行く。

 でも今日は、私も横に並んだ。信号が青になる。人が動く。私は流れに合わせて歩く。誰にも引かれずに。ぶつからずに。自分で。

 伊織がこちらを見る。

「千景、大丈夫?」

「大丈夫」

 今度は本当だった。すれ違う人を避けて、前へ進む。伊織の手が伸びてくる前に、自分で足を出せた。

 伊織を見てから動く癖を、今日は少しだけ変えられた。だから、伊織が一瞬手を上げて、私の腕を掴もうとしたように見えたことには、気づかないふりをした。

 指先がほんのわずかに宙で止まって、そのまま下りる。伊織は何も言わない。私も何も言わない。人の流れの中を二人で並んで歩いていると、さっきまでよりほんのわずかに、間に風が通るような気がした。

*

 その夜、伊織からメッセージが来た。

『明日の朝、ちょっと早く出られる?』

『出られるけど、なんで?』

『駅前のパン屋、新しいの出たらしいよ。千景が好きそうだったから、一緒に行かない?』

『いいよ』

『じゃあいつもより十分早くね』

 画面を見ながら、私は笑った。私が好きそうだからという理由で、伊織は駅前のパン屋のことを覚えていたらしい。そういうことを嬉しいと思う自分は、まだ変わらない。明日も一緒に行く。そのことが、ちゃんと嬉しい。

 スマートフォンを伏せると、部屋が暗くなる。そのまま、しばらく考えた。

 一人でできるようになりたい。そのために、今日も自分で選んだ。それなのに、明日伊織とパンを選べることを考えると、頬が緩んだ。だけどふと、昼の廊下を思い出した。弁当袋を持って立っていた伊織。

 大丈夫。明日は一緒に行くのだから、と思って、私は目を閉じた。