なんでもない、の続きを

 次の日の朝、雨は降っていなかった。家を出る前に窓から空を見上げると、雲は薄く広がっているだけで、すぐに降り出しそうには見えなかった。それでも天気予報を確認すると午後から雨の表示が出ていたので、私は鞄を開けて折り畳み傘が入っていることを確かめた。

 昨日の夜に伊織から言われたからではなく、自分で天気予報を見たから持ってきたのだと思ったあとで、いったい誰に向かってそんな言い訳をしているのだろうと思った。伊織だって、私がどういう理由で傘を持ってきたのかなんて気にするはずがない。それなのに、これは自分でやったことなのだと、誰にも聞かれていないのに証明したくなっている。

 駅へ着くと、伊織はもう改札の前にいた。

「千景、おはよう。傘持った?」

「持った」

「偉い」

「天気予報くらい見るよ」

「昨日私が言ったからでしょ」

「違う」

 伊織が笑ったので、私は少しだけむっとした。本当に、天気予報を見るくらい自分でできる。高校二年生なのだからスマートフォンを開いて、天気のアプリを見て、降水確率を確認するくらい、できて当然だ。

 けれど、伊織が昨日何も言わなかったとして、それでも私は今朝きちんと天気予報を見ただろうかと考えると、急に自信がなくなった。いつも伊織は明日は雨らしいとか、気温が下がるらしいとか、電車が遅れているとか、そういうことを先に教えてくれる。学校の提出物も、たまに前日の夜になってから「明日のやつ持った?」と聞いてくる。

 私は忘れ物が怖くて、前の晩から何度も鞄を確かめる。それでも伊織に聞かれると、もう一度見たくなる。「入っていた」と返して「よし」と届くと、ようやくファスナーを閉められる夜があった。

 伊織は翌朝にも、たまに同じことを聞く。私は「持った」と答える。そのやり取りが済めば、教室へ向かう足が妙に軽くなったこともある。

 今までは、それを特別なことだとは思っていなかった。伊織はそういう人なのだと思っていたし、実際、たぶんそういう人なのだと思う。人のことをよく見ていて、困っていれば手を出して、何気なく覚えていて、私が立ち止まれば一緒に止まる。

 ただ、昨日の夜に自分の気持ちへ「好き」という言葉が触れてしまってからは、それまで当たり前だったひとつひとつが、急に違うものに見えるようになっていた。

 傘。提出物。電車。道。人混み。私が気づく前に伊織が見つけてくれていたものが、思っていたよりたくさんある。私はいったいどこまで自分で歩いていて、どこから伊織に歩かせてもらっていたのだろう。

*

 四時間目のホームルームで、進路希望調査の紙が配られた。

「まだ二年だからな。現時点で決めてる範囲でいいぞ」

 担任がそう言って、前から用紙が回ってくる。進学か就職か。希望する学校や学部。興味のある分野。いくつかの項目が並んでいる白い紙を見つめながら、私はシャープペンシルを手に持った。

 進学。そこまでは決めている。大学へ行くつもりではいる。けれど、どこで何を勉強したいのか、その先に何になりたいのかと聞かれると、急に何も書けなくなった。

 考えたことがないわけではない。小さいころから将来の夢を書かされたことは何度もあるし、高校へ入るときにも進路について聞かれた。ただ、それらはいつも、まだ先のことだった。そのうち決めればいいと思っているうちに、その「そのうち」が近づいてきたらしい。

 前の席から、真緒が小さな声で聞いてきた。

「水瀬さん、大学? どこ行きたいとか決まってる?」

「まだ」

「よかった、私も全然」

 ほっと息を吐いて、真緒が用紙をひらひらさせる。

「こういうの、急に聞かれても困るよね。榊原さんは決まってるの?」

 ふいに伊織の名前を出されて、私は顔を上げた。

「伊織?」

「うん。榊原さんも、なんかしっかりしてそうだから」

「……知らない」

「そうなんだ、水瀬さんでも知らないことあるんだね」

 自分で答えたくせに、その言葉に少し驚いた。知らない。そういえば、私は伊織がどこの大学へ行きたいのか、何を勉強したいのか、将来何になりたいのかを、きちんと聞いたことがなかった。

 四年も一緒にいる。朝も、昼も、帰り道も、たくさんのことを話してきた。好きなお菓子も、苦手な教科も、弟のことも、家で見たテレビのことも知っている。

 なのに、その先の伊織については、ほとんど何も知らない。大学。卒業。そのあとの生活。そういう言葉を頭に浮かべた瞬間、胸が冷たくなった。帰り道で聞けばいい。伊織はどこへ行きたいのか、何をしたいのか。そのくらいなら簡単に聞ける。

 けれど、そのすぐあとに、どうして私は自分の進路より先に伊織の未来を知ろうとしているんだろうという疑問が浮かんだ。

 私はもう一度、手元の紙を見る。第一志望、空欄。興味のある学部、空欄。もし伊織の答えを聞いたら、私はそこへ何か書けるのだろうか。

 シャープペンシルの芯を白い紙に触れさせたまま、私はしばらく何も書けなかった。

*

 昼休みになって伊織が来る前に、私は一つだけ決めた。今日は、伊織を待たずに弁当を食べる。理由は特にないと自分に言い聞かせたけれど、本当は理由がある。

 いつも昼休みになると弁当を机に出しながら、私はなんとなく蓋を開けずに待っている。しばらくすると伊織が来て、私の名前を呼び、それから一緒に食べ始める。そんなことを決めた記憶はないのに、いつの間にかそうなっていた。だから今日は、それをやめてみる。

 弁当箱の蓋を開けて、箸を持ち、卵焼きを一口食べる。何も起きない。当たり前だ。それなのに、胸の中で小さく「できた」と思ってしまい、私はすぐに自分が嫌になった。ただ、昼ごはんを先に食べ始めただけだ。

「水瀬さん、今日早いね。いつも榊原さん来てから食べてない?」

 席から立ち上がった真緒に早速指摘され、私は箸を一度止める。

「……たまたま」

「お腹減ってたんだね」

 真緒はそれ以上何も言わず、弁当を持って友達のところへ向かって行った。私は二口目を食べた。三口目。食べているだけなのに、どこか落ち着かない。教室の入り口を見たくなったけれど、見ないようにして箸を動かす。

 別に待っていない。私は一人で昼休みを始められる。そんなことをわざわざ考えながら食べている時点で、たぶん全然自然ではなかった。

「千景」

 名前を呼ばれた瞬間、私は反射的に顔を上げた。考えるより先に身体が動いた。伊織が教室の入り口に立っている。

「珍しい、もう食べてる」

「……お腹空いてたから」

「そっか」

 伊織はなんでもない顔で、前の席の椅子に座った。怒らないし、寂しそうにもしない。当たり前だった。私が先にごはんを食べたくらいで、伊織が何か感じる理由なんてない。それなのに、私はほんの少しだけ拍子抜けしていた。

 待ってなかったんだ、とか。先に食べちゃったんだ、とか。そんなことを言われたかったのかもしれない。何を確かめたかったのか、自分でも分からなかった。

「千景のとこも、進路希望調査出た?」

 伊織が弁当箱を開けながら聞く。

「出た。伊織……どうするの?」

 私は、自分が思っていたより早く聞いていた。

「大学かな」

「……どこ?」

「まだ決めてないけど、県外も見てる」

 その言葉で、一度呼吸が止まった気がした。

「県外? ……遠いところなの?」

「まだ分かんないよ。行きたい学部がある大学、何個か見てるだけ」

 私の動揺に気づかないまま、伊織は気軽に答えた。

「……何の学部?」

「教育系とか心理系とか。まだ迷ってる」

「……そうなんだ」

 知らなかった。伊織が教育や心理に興味があることも、県外の大学まで調べていることも。別に隠されていたわけではない。私が聞かなかっただけ。

 伊織は私の知らないところで、ちゃんと自分の先を見ていた。

「千景は?」

「まだ。伊織が県外なら……」

 そこまで言って、私は止まった。喉の奥で、言葉が引っかかった。伊織がこちらを見る。

「なに?」

「……なんでもない」

 私は慌てて口を閉ざす。今、私は何を言おうとしたんだろう。

――伊織が県外なら、その近くも見てみようかな。たぶん、そう言いかけた。自分が何を学びたいのかも、どの大学へ行きたいのかも何ひとつ決まっていないのに、伊織がいるというだけで、自分の未来までそちらへ寄せようとした。

 朝、自分で天気予報を見た。昼、伊織を待たずに弁当を食べた。そんな小さなことで、少しは変われるような気がしていた。でも、進路という大きな話になった途端、私の頭は真っ先に伊織のいる場所を探した。

 何も変わっていない。そう思うと、自分でも笑いたくなるくらいだった。

「千景、ほんとになんでもない?」

 伊織は心配そうに私を見る。嘘だと分かっているのかもしれない。だけど私が頷くとそれ以上は聞かずに、箸を置いてペットボトルのお茶を飲んだ。

「千景はさ……自分が行きたいところにしたほうがいいよ」

 その言葉に、心臓が跳ねた。伊織に全てを見透かされたような気がした。

「……何が?」

「進路」

「別に伊織に合わせるって言ってないけど」

「うん。千景、本のこと話すと楽しそうだし。そういうので選んでいいんじゃない?」

「……そんな理由で、いいのかな」

「調べてみたら? 千景が好きそうな授業、あるかもよ」

 伊織はそれ以上、何も言わなかった。だけど、私はしばらく弁当に箸をつけられなかった。

 自分が行きたいところにしたほうがいい。あまりにも正しい言葉だった。進路なんて、自分で決めるものだ。伊織がどこへ行くかとは関係ない。伊織だって、自分の行きたい場所へ行く。それが当然だ。

 なのに伊織は、自分の未来に私がいることを前提にしていない。そんなふうに考えてしまった。それも当たり前のことなのに、胸が痛かった。

 県外という言葉を、口の中で繰り返した。朝、同じ駅へ行っても伊織はいない。それが毎日になる。そんな未来を、私は今日まで一度もちゃんと想像していなかった。

*

 放課後、私は伊織と駅まで歩いた。いつもの道だった。歩幅も、隣にいる距離も、昨日までと何も変わらない。だけど昼に県外という言葉を聞いたことだけが、胸の片隅に残っている。

「千景、本屋寄る? 今日新刊出るって言ってなかった?」

 その言葉に、私ははっとして顔を上げる。好きな作家の、先月から待っていた本だった。それなのに、今日発売だったことを忘れていた。

「……伊織、わざわざ覚えてたの?」

「千景が言ってたから」

 いつもなら、迷わず頷いたと思う。伊織と一緒に本屋へ行って、私は棚を見る。伊織は本をあまり読まないから、近くで雑誌を眺めたりスマートフォンを触ったりしている。それでも「まだ?」とは言わない。私が棚から棚へ移動すれば、少し離れたところをついてくる。私が見終わるまで、なんとなく待っている。

 私は、その時間が好きだった。だからこそ、今日はそれを選んではいけないような気がした。

「……今日はいい」

「買わないの?」

「明日、一人で行く」

「明日? 別に、今日一緒に行けばよくない?」

 伊織は不思議そうな顔をする。胸の奥が小さく揺れた。私もそう思う。今日、伊織と一緒に行けばいい。そのほうが楽しいし、一人で行く理由なんて本当はない。むしろ私は、伊織と行きたい。

 だから、一人で行かなければならない気がした。

「一人で行きたい」

 言葉にすると、自分でもなんだか意地になっているように聞こえた。伊織が私を見る。

「本屋に?」

「うん」

「別にいいけど」

 笑われるかと思った。高校二年生が一人で本屋へ行く。ただそれだけのことを、何か大きな挑戦みたいに口にするのは、確かに変だ。でも、伊織は笑わなかった。

「じゃあ、明日だね。売り切れてたらどうする?」

「別の店行く」

「おお」

「なに」

「いや、いいじゃん」

 伊織が控えめに笑った。その言葉を聞いた瞬間、胸があたたかくなった。嬉しかった。そして、その嬉しさに気づいた途端、また自分が嫌になった。一人で行くと決めただけなのに、伊織から「いいじゃん」と言われたことで、その選択が急に正しいものになったような気がした。

 自分で立ちたいと思っているのに、その決意まで伊織の言葉に支えてもらっている。そんな自分が、惨めだった。

*

 翌日、授業が終わって昇降口に行くと、いつも通り伊織が立っていた。クラスが分かれてから、帰りはここで合流するのが、いつの間にか習慣になっていた。だけど今日は、私から言った。

「伊織。今日、先帰っていいよ」

「ああ、一人で本屋行くって言ってたね。店の前で待ってようか?」

 反射的に「お願い」と言いたくなった。その言葉は喉のあたりまで上がってきたけれど、私は飲み込む。

「大丈夫」

 言えた。その「大丈夫」は、今日は少しだけ本当だった。そして少しだけ、嘘でもあった。

「そう? じゃあ千景、気をつけてね」

「本屋行くだけだよ」

「帰り遅くならないようにね」

「伊織、子どもじゃないんだけど」

「知ってる」

 伊織は笑いながら、手を振って帰っていった。昨日までなら、その背中の隣に私もいた。だけど今日は自分で、そこにいないことを選んだ。

 しばらくして、私は一人で駅へ向かう。最初から一人だと分かっているせいか、この間ほどの違和感はなかった。歩調がおかしいとも思わないし、袖を掴まれないことも今日は分かっている。

 目的地は、駅前の大型書店だった。伊織とも家族とも何度も来たし、一人で来たこともある。ただ、そのときは棚を眺めただけで帰った。今日は財布を出して、レジの人と話すところまで、一人だ。

 試験を受けているみたいだった。誰も採点していない。合格も不合格もない。それでも、失敗したくなかった。別に誰も私を見ていないから、どの棚へ行ってもいい。何分いてもいい。迷ってもいいし、途中で帰ってもいい。頭では全部分かっている。

 中に入ると、目当ての新刊はすぐに見つかった。一冊取って表紙を確かめる。間違っていない。これで目的は終わりだから、このままレジへ行けばいい。それでも私は本を持ったまま、店内を歩いた。

 新刊棚。文庫。雑誌。いつもと同じ景色なのに、今日は誰も待っていない。伊織がいれば、もう少し見たいと言っただろうか。たぶん何も言わなくても、伊織は待っている。私が棚を一つずつ見て、新刊を裏返して、帯を読んで、迷って、その全部が終わるまで。

 私は今さら、そのことに気づいた。

 伊織はいつも急かさなかった。興味のない本屋でも、雑貨屋でも、私が立ち止まれば一緒に止まった。だけど、私はそれを優しさだとすら思っていなかった。伊織と出かけるというのは、そういうものなのだと思っていた。

 ようやくレジへ向かうと、列は短かった。前に二人。一人減って、残り一人。すぐに私の番になる。

「カバーおかけしますか?」

「えっと……」

 ふいに聞かれて、言葉が止まる。本当はいらない。家で読むだけだから、必要ない。いりません、と言えばいい。頭の中では、ちゃんと答えが分かっていた。

「……お願いします」

 それでも、そう言ってしまった。店員が手際よくカバーをかけていく。紙が本の形に折られていくのを見ながら、喉が詰まった。困ることではない。カバーがあったところで、何かを失うわけでもない。それなのに私は、「できなかった」と思った。

 たった一言。いりません――それが言えなかった。だから、一人で本屋へ来ただけで何かが変わるような気がしていた自分が、急に恥ずかしくなった。

「ポイントカードお持ちですか?」

「……ないです」

 今度は言えた。

「袋はおつけしますか?」

「……いらないです」

 それも言えた。会計を済ませて店を出る。大したことは何もしていない。本を一冊買っただけ。何度も来たことのある店で、知っている本を取って、レジへ持っていっただけ。

 それでも、私は少し疲れていた。

 改札を通り、ホームのベンチへ座りながら鞄を開く。すると、買ったばかりの本のカバーがちらりと見えた。本当はいらなかったもの。でも、断れなかったもの。中からスマートフォンを取り出すと、伊織からメッセージが来ていた。

『買えた?』

 その文字を見た瞬間、思わず笑った。ふっと、身体の力が途端に抜ける。

『買えた』

 それだけ返す。すぐに、『よかった』と来た。その短い返事で、その日一番簡単に嬉しくなった。

 まただ。

 私は画面を消した。本を買えたときよりも、伊織の返事を見たときのほうが、ほっとした。だけど、これで一人でできたことになるのだろうか。鞄の中の本に触れて、私はもう一度画面をつけた。

*

 中学一年の秋。まだ、保健室で過ごす時間のほうが長かったころ。私は保健室の窓際の椅子に座って、五時間目の教科書を眺めていた。

 数学だった。嫌いな教科ではないし、先生も怖くない。教室に嫌な人がいるわけでもない。それでも教室へ行くことを考えるだけで、喉の奥が狭くなるような感覚があった。

 伊織は昼休みになると、いつものように保健室へ来た。いつからそれが「いつものように」になったのかは、今ではもう覚えていない。

 給食を食べ終えたあと、私は教科書を見たまま言った。

「今日の五時間目……行ってみようかな」

 声が小さすぎて、聞こえなかったかと思った。だけど言ったあとで、すぐに後悔した。もし行けなかったらどうしよう。やっぱり無理と言ったら、伊織はどう思うんだろう。もし「すごいね」と言われたら、その期待に応えなければならないような気もした。

 伊織は少しだけ目を丸くした。でも「無理しないで」とも、「すごいじゃん」とも言わなかった。

「そっか」

 それだけだった。その反応に、私は息を吐いた。それからしばらくしてから、伊織が言った。

「じゃあ、一緒に行こっか」

「……うん」

 五時間目のチャイムが鳴る前に、二人で廊下を歩いた。教室が近づくほど、足が重くなる。床に上履きの裏がくっついているような気がした。教室の扉が見える。何度も通ったことがある場所なのに、その日はずいぶん遠く見えた。

 扉の前で、私は止まった。中から声が聞こえる。笑い声。椅子を引く音。誰かが先生の名前を呼ぶ声。

 胸が苦しくなる。私は動けなかった。伊織も立ち止まった。

「千景」

 そのころから、伊織は私を名前で呼んでいた。

「無理だったら戻っていいよ。保健室、逃げないから」

 私は伊織を見る。少し変な言い方だった。保健室は動かない。逃げるわけがない。でも、その言葉を聞いたらなぜか息ができた。

 戻っていい。失敗しても、戻る場所はなくならない。

「……伊織は?」

「私は教室行くよ。でも、私の隣の席空いてるから、来られそうだったら来て」

 伊織は私の返事を少し待ってから、扉を開けて一人で教室へ入った。中から誰かが伊織を呼ぶ声がした。扉が半分だけ閉まる。

 伊織は私を引っ張って連れていこうとはしなかった。私はしばらく、目の前の扉を見ていた。一度手を伸ばし、引っ込める。もう一度伸ばして、取っ手に触れた。冷たかった。それから私は自分で、扉をもう少し開けた。

*

 電車がホームへ入ってくる音で、昔の記憶から戻った。私はベンチから立ち上がる。あの日の取っ手の冷たさを、まだ指が覚えていた。私は自分で扉を開けた。でもその向こうに伊織がいなかったら、開けられただろうか。

 電車に乗る。今日は一人だった。降りる駅は知っているし、ここから家までの道も分かる。なのに鞄の中のスマートフォンが気になった。

 一人でできることを、もう少し増やしたかった。伊織に見てもらわなくても、私ができたと思えることを。そうすれば、この気持ちに名前をつけるのも、多少は怖くなくなるだろうか。

 私は鞄の中の新しい本に触れた。指先に、紙のカバーが引っかかる。本当はいらなかった。ちゃんと断れなかった。今日だって全部できたわけではないけれど、それでも、ポイントカードはないと言えた。袋はいらないと言えた。一人で店に入って、本を選んで、買って、ここまで帰ってきた。

 ただ、それだけだ。こんなことで何かが大きく変わるわけではない。それでもたぶん、最初はそれくらいでいい。

 窓の外に、知らない家や店が流れていく。ガラスには、一人で座っている私の姿が薄く映っていた。

 隣の席は空いている。私はそこを見ないようにしながら、鞄の中の本へもう一度指先で触れた。そして初めて、自分から少しだけ伊織の隣を離れてみようと思った。