なんでもない、の続きを

 学校へ向かう坂道で、高梨さんが前を歩く同じクラスの子に声をかけた。二人が並んで歩き出し、その背中が徐々に遠ざかる。

 伊織は私の隣を歩いていた。私はさっきから、いつもより少しだけ無口になっていた。もともとよく喋るほうではない。相槌がちょっと減ったくらい、伊織には分からないと思っていた。

「千景、眠いの?」

 そう思っていると、隣から顔を覗き込まれた。

「……なんで?」

「今日、いつもより静かだから」

「いつも静かでしょ」

「そうなんだけど」

 伊織は何かを考えるように私を見る。その視線が顔の上をなぞるような気がして、落ち着かなくなった。

「なんか違う気がする」

 そう言われて、目を逸らした。朝の光が歩道の端に落ちている。自転車が横を通る。なんでもない朝だった。

「別に普通」

「そう?」

 伊織はそれ以上聞いてこなかった。助かった。けれど、少しだけ困る。もしさらに聞かれていたら、私はどうしていただろう。たぶん、答えられなかった。

 今朝のことが嫌だった。それだけなら、まだ言える。だけど、高梨さんが伊織の袖を掴んでいたこと。二人が私の知らない話で笑っていたこと。私の知らない昨日を、伊織が持っていること。それを見て、嫌だと思った。でも、どうして嫌だったのかは分からない。

 友達がほかの誰かと仲良くしていたら、寂しくなることもある。たぶん、それだけのことだ。なのに頭の中に浮かんだ「私の場所」という言葉だけは、思い出すたびに顔を伏せたくなった。

*

 午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。英語の長文を読みながら、気づけば朝のホームを思い出している。

 高梨さんが伊織の袖を掴んだ。伊織が振り返った、その横顔。私は、あの表情を知っている。名前を呼ばれたときに、少しだけ眉を上げて振り返る顔。話がおもしろいとき、口元より先に目が笑うこと。困ったときは、ほんのわずかに首を傾げること。人の話を聞いているとき、相手のほうへ顔を少し傾ける癖。私が黙っているとき、急かさずに一度待ってくれること。

 高梨さんも、そういう顔を知るようになるのだろうか。

「水瀬さん」

 名前を呼ばれて顔を上げると、先生がこちらを見ていた。

「次、訳してみて」

「えっと……はい」

 私は慌てて教科書へ視線を戻した。だけど、どこを読んでいたのか分からない。一瞬、文字が全部同じに見えた。真緒が振り返って、小さくページの端を指してくれる。私はそこを目で追い、なんとか訳した。先生は特に何も言わず、次へ進んだ。

 息を吐く。授業中にぼんやりするなんて、自分でも珍しい。私は考えごとをするときでも、授業中だけは別にできるほうだと思っていた。答えの出ないことを、授業中まで考えても仕方がない。今考えても変わらないことなら、あとで考えればいい。いつもなら、そうやって頭の中に箱を作って、いったん閉じておける。

 今日は閉じても、隙間から出てくる。高梨さんの指。伊織の袖。二人の笑い声。自分の場所なのに。その言葉。

「水瀬さん、大丈夫?」

 休み時間になると、真緒が振り返った。

「……何が?」

「さっき止まってたから」

「ちょっと考えごとしてただけ」

「そうなの? 水瀬さんでも授業中に考えごとするんだ」

 そう言って笑い、真緒は机に頬杖をついた。

「するよ」

「なんか意外」

 真緒が笑う。前にも同じようなことを言われた気がするけれど、その笑い方を見て、ふっと緊張が緩んだ。真緒なら聞いても、変に深掘りしない気がする。だから少し迷ってから、私は聞いた。

「佐伯さんって」

「真緒でいいよ」

「……じゃあ、真緒」

「うん」

「真緒は友達がほかの人と仲良くしてたら……嫌?」

 言ってから後悔した。なんでこんなことを聞いたんだろう。質問が、思っていたより自分の近くに聞こえた。聞いた真緒は、一瞬だけ目を丸くした。

「うーん……場合によるかな」

「場合?」

「うん。自分だけ仲間外れにされてるとかなら嫌だし。でも普通にほかの友達と喋ってるだけなら、別に。なんで?」

「なんでもない、ありがとう」

 そう言って、私は教科書を閉じる。なんでもない、という言葉は便利だった。自分でも分からないことを説明しなくて済む。説明したくないことも隠せる。何も決めなくていい。

「あ、でもさ。すごく仲いい子だったら、ちょっと寂しいかも」

 真緒は特に気にした様子もなく、そのまま続けた。

「寂しい?」

「うん。自分の知らない話して盛り上がってると、あー、知らないなーって思うじゃん」

「……うん」

 まさにそうだった。昨日言ってた、その一言が嫌だった。私の知らない時間があることを、わざわざ見せられた気がした。

「でもさ、そう思っちゃうのって、別に普通じゃない?」

 普通。その言葉に、少しだけ安心する。胸の奥に散らばっていたものが、一度だけ同じ方向を向いた気がした。

「……そうだよね」

「たぶん。でも、水瀬さんがわざわざこんなこと聞くってことは、何かあった?」

 そう言ってから、真緒は笑った。

「ない」

「即答」

「本当に」

「ふーん?」

 真緒は口元を緩めたけれど、それ以上追及しなかった。とりあえず、少なくとも寂しいと思うこと自体は、変ではないらしい。でも。

――私の場所なのに。

 あれだけは、まだ誰にも聞けなかった。もし、「それは普通じゃない」と言われたら。私は、それを何と呼べばいいんだろう。

*

 昼休みになっても、伊織は来なかった。チャイムが鳴って一分、二分、三分。私は弁当箱を机の上に置いたまま、教室の入り口を見ないようにしていた。

 来るとは聞いていないし、毎日来ると約束したわけでもない。それに、この間まで来ていたからといって、今日も来るとは限らない。

 そんな当たり前のことを、わざわざ頭の中で確認する。確認すればするほど、自分が待っていることだけがはっきりしていく。

「水瀬さん、今日榊原さん来ないの?」

 椅子から立ち上がり、真緒が聞いた。

「知らない」

「連絡ないの?」

「ない」

「そうなんだ」

 真緒はそれだけ言って、自分の弁当箱を手に持った。私は、まだ蓋を開けなかった。どうして待っているんだろう。伊織が来てから食べると決めたわけではない。先に食べても怒らない。そもそも、来ないかもしれない。

 数秒して、ようやく蓋を開ける。食べればいい。一人で食べたって何も困らない。というより、中学のころは一人で食べることのほうが多かった時期だってあったのだから。

 そこまで考えたところで、少しだけ昔のことが浮かんだ。

 白いカーテン。消毒液の匂い。保健室の隅に置かれた、小さな丸椅子。中学一年の春、教室に戻れなくなっていたころ。昼休みになると、廊下の向こうから大勢の声が聞こえてきた。

 笑い声。食器の音。椅子を引く音。自分だけがその中にいないことを、毎日、音で教えられている気がした。

 思い出しそうになって、やめた。今は関係ない。

「千景」

 名前を呼ばれて顔を上げると、伊織が教室の入り口にいた。

「あ」

 声が勝手に出た。

「ごめん、遅くなった」

 胸の中に空気が入ったみたいに、一気に軽くなる。そして、それまで苦しかったことに、その瞬間初めて気がついた。その変化があまりにも分かりやすくて、自分で自分が嫌になった。

「別に待ってない」

「待ってない顔じゃなかったでしょ」

 伊織が笑いながら近づいてくる。手には弁当袋。その後ろから、高梨さんが顔を覗かせた。

「あれっ、伊織。毎日ここにいたんだ?」

 私の手が止まった。さっきまで軽くなっていた胸の中へ、また冷たいものが戻ってくる。伊織が高梨さんを振り返った。

「美月、ごめんね。今日はこっちで食べるから」

「全然いいよ。また今度ね」

 また今度。その言葉だけが耳に残った。高梨さんがこちらを見る。

「あ、水瀬さん。朝ぶりだね」

「……うん」

「じゃあ伊織、またあとで」

「また」

 伊織が手を振る。またあとで。朝から。昼も。このあとも。同じクラスなのだから、当たり前だ。私はそれを見送った。高梨さんの姿が見えなくなると、伊織が私に向き直った。

 伊織はいつものように、真緒の席を借りて座った。その動作も、弁当袋を机へ置く位置も、椅子を私のほうへ向ける角度も見慣れている。それが妙に安心する。

「今日さ、五組で一緒に食べようって誘われてたんだけど」

 伊織が箸を取り出しながら、口を開いた。

「……行けばよかったのに」

 私は俯く。伊織は誘いを断って、私を選んだ。どうして、それを私に言うんだろう。そんなこと、言わなくてもいいのに。

「なんで?」

「だって、あの子と朝も一緒だったでしょ」

「美月のこと? 駅で会っただけだよ」

「でも、仲いいんじゃないの」

「まあ、同じクラスだし」

「だったら、一日くらい別に」

「いつも言ってるでしょ。私は千景と一緒に食べたかったの」

 伊織はそう言って、何事もなかったように弁当を開けた。私はしばらく、何も言えなかった。たったそれだけ。伊織は高梨さんではなく、私と食べたかった。その事実が、私の中にゆっくり広がっていく。

「……そう」

「うん」

 胸の奥があたたかくなる。朝とは違う。さっきまであった冷たさが、あっけないくらい消えていく。でも、これもあまり好きじゃない。高梨さんを見ただけで冷たくなって、伊織に「一緒に食べたかった」と言われただけであたたかくなる。

 自分の気分が、自分のものではないみたいだった。伊織が少し動くだけで、私の中まで揺れる。それが嫌だった。

*

 放課後、今日は伊織と一緒に帰った。高梨さんはいなかった。それを確認して安心した自分に、また嫌になる。

 電車は混んでいて、私たちは座れなかった。ドアの横に立つと、次の駅でたくさん人が乗ってきた。身体が押される。人の肩。鞄。知らない匂い。私は伊織から離れる。その瞬間、腕を掴まれた。

「千景、こっち」

 伊織が私を自分のほうへ寄せる。一歩、距離が縮まった。

「離れると、降りるとき心配だから」

「……うん」

 伊織の指が腕から離れる。ほんの数秒。ただ掴まれただけ。それだけだった。それだけなのに触れられていたところだけ、しばらく熱い。制服の布越しなのに、そこだけ皮膚が薄くなったみたいに感じる。

 私は窓の外を見た。流れていく建物。夕方の光。ガラスに重なる、自分と伊織の影。

 伊織の肩が、すぐ隣にある。これも四年間ずっとやってきたことだ。人が多ければ伊織が私を引く。私が道を間違えれば教える。知らない場所では先に歩く。信号では振り返る。駅では、私がついてきているか一度見る。

 それを私は、何とも思っていなかった。いや、思っていなかったわけではない。安心していた。嬉しかった。ただ、それをわざわざ言葉にしたことがないだけだった。

 友達なら、長く一緒にいるなら、そういうこともある。そう思っていた。それ以上の意味なんて、考えなかった。

「千景、次降りるよ」

「分かってる」

「ほんと? ぼーっとしてたから」

「してない」

「してたよ」

 電車が駅へ滑り込む。ドアが開くと、伊織が先に降りる。私はその後ろについていく。見慣れた背中。伊織についていけばいい。そう思った瞬間、改札を出たところで、ふと昔のことを思い出した。

*

 中学一年のころ、私はしばらく教室に入れなかった。

 理由は、自分でもよく分からなかった。いじめられていたわけではない。誰かと喧嘩したわけでもない。先生が怖かったわけでもない。ただ朝になると、教室の前で足が止まった。扉の向こうから聞こえる声が怖かった。誰かが笑っている。誰かが机を動かしている。名前を呼び合っている。

 どれも自分に向けられた音ではないのに、扉を開けた瞬間だけ、全部がこちらを向くような気がした。

 自分が入った瞬間、誰かに見られること。席についたあとの、誰とも話せない時間。休み時間に何をしていればいいか分からないこと。昼休みに一人になること。そういう小さなことだった。一つなら我慢できそうなものが全部一緒になると、私はどうしても扉を開けられなかった。

 最初は一時間だけ保健室にいた。次の日は午前中。そのうち、ほとんど一日をそこで過ごすようになった。

 先生には何度も、「何かあった?」と聞かれた。そのたびに、「なんでもないです」と答えていた。

 本当に、それしか言えなかった。嫌なことがあるなら、それを言えばいい。誰かが悪いなら、その人の名前を言えばいい。

 でも、何もない。何もないのに、入れない。何が嫌なのか自分でも分からないのに、説明なんてできなかった。

 ある昼休み。給食を保健室で食べていると、扉が開いた。

「失礼します」

 聞き慣れない声だった。顔を上げると、短い黒髪の女の子がプリントを何枚か持って立っていた。同じクラスだったと思う。名前は、たしか。

「水瀬さん、今日のプリント。先生、今ちょっと手が離せないから、届けてって。ここ置くね」

「……ありがとう」

 その子は机の端にプリントを置いた。いつもは担任の先生が持ってきてくれる。今日も、先生が来るものだと思っていた。

 私は食べかけの給食へ目を戻した。用事は済んだから、すぐに教室へ帰るだろうと思っていた。

 でも、扉の閉まる音はしなかった。顔を上げると、その子は私の向かいの椅子を見ていた。

「私もここで給食食べてもいい?」

 驚いた。

「……なんで?」

 今思えば、かなり感じの悪い返事だったと思う。でも彼女は、特に気にした様子もなかった。

「教室うるさくて。ここなら静かそうだし。嫌だったら戻るけど」

 嫌ではなかった。知らない人と二人で食べるなんて、本当なら落ち着かないはずだった。でも、教室へ戻ってほしいとも思わなかった。いてほしい、と言うこともできなかった。

「……嫌じゃ、ないけど」

「じゃあ持ってくる」

 彼女はそう言って教室に戻り、本当に自分の給食を持って戻って来た。牛乳パックにストローを刺す。紙が小さく破れる音。それだけが妙に記憶に残っている。

 たぶんあの日、保健室の白い机の向こうに誰かが座っていることが、思っていたよりも嬉しかったんだと思う。それが、伊織と初めて二人で昼を食べた日だった。

 何日かして、その子の名前を覚えた。榊原伊織。クラス委員をしている子だった。プリントはまた先生が持ってくるようになったけれど、その子は毎日給食を持ってきた。

 私はなかなか名前を呼べなかった。向こうから話しかけられれば答えたけれど、自分から何か言おうとすると、その前に牛乳を飲んだり、スプーンを置き直したりしてしまった。

 ある金曜日、伊織が食器を重ねて立ち上がった。

「じゃあ、教室戻るね」

 私は給食のパンをちぎったまま、顔を上げた。今日もほとんど話せなかった。その日、伊織は教室であったことをいくつか話してくれたのに、私は笑うタイミングまで遅れてしまった。

 つまらなかっただろうか。来週も、来てくれるだろうか。

「……明日も」

 そう声が出て、伊織が止まる。

「明日も……来る?」

 言ったあとで、明日は土曜日だと思い出した。耳まで熱くなる。伊織は食器を持ったまま、こちらを見ていた。

「明日は休みだよ」

「……うん。ごめん」

「でも、月曜なら来るよ」

 私はパンを皿へ置き、小さく頷いた。月曜。次に学校へ来たら、また会える。そのことに安心して、私は下を向いてしまった。伊織がどんな顔をしていたのかは、覚えていない。

*

「千景?」

 現実の声に戻される。私は立ち止まっていたらしい。伊織が数歩先で振り返っている。あのころより、伊織は背が高くなった。髪型は、あまり変わっていない。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

 伊織がわざわざ戻ってきてくれる。私が追いつくのを待つのではなく、数歩、こちらへ戻ってきた。

「疲れてる?」

「大丈夫」

「ならいいけど、無理しないでね」

 そう言って、また歩き出す。私は隣に並ぶ。中学一年のころ、保健室で給食を食べるようになって、少しずつ話すようになって、それから教室に戻るときも、伊織がいた。中二も。中三も。高校受験の日も。入学式も。

 気づけば、節目の近くにはいつも伊織がいた。ずっと私は、伊織がいれば大丈夫だった。

 そのことを、今まであまり深く考えたことがなかった。それに、私は伊織がいないとだめだ、とも思っていなかった。ただ、いるのが普通だった。

 扉を開けるとき。人混みを歩くとき。知らない場所へ行くとき。困ったとき。振り返れば伊織がいる。それが、私の中でいつの間にか当たり前になっていた。

 その隣に高梨さんがいた朝を思い出した。さっき、伊織から一緒に食べたかったと言われたときのことも。

 伊織が笑うと、ついその口元を見てしまう。目が合えば逸らす。さっき掴まれた腕はもう何ともないはずなのに、そこだけ袖が気になる。

 好き、という言葉が浮かんだ。友達なのだから好きで当たり前だ。そう思っても、隣の顔を見られなかった。

「じゃあ、千景。また明日」

 分かれ道で伊織が言う。

「……うん」

「朝いつも通りね」

「うん」

「おやすみ」

「まだ早いでしょ」

「そっか。じゃ、またね」

 伊織が笑う。私はその背中を見送った。黒い短髪が夕方の光の中で揺れている。鞄の紐。少し速い歩幅。いつも見ている背中。曲がり角で見えなくなるまで、私はそこに立っていた。

 どうして見ているんだろうと思う。家に帰れば明日の朝、また会う。何時間か眠れば、いつもの駅にいる。見送る理由なんてない。それなのに。

 好き。

 さっき浮かんだ言葉が、もう一度頭に出てくる。私はそれを、今度はすぐには消せなかった。

*

 夜、ベッドに入ってからスマートフォンを見ると、伊織からメッセージが来ていた。

『明日、ちょっと雨みたい。折り畳み持ってきた方がいいよ』

 その言葉に苦笑して、私は『わかった』と返した。すると、一分もしないうちに既読がつく。

『千景、たまに天気予報見ないから』

『見るよ』

『この前見てなかったじゃん』

『たまたま』

『はいはい』

 私は画面を見ながら、つい笑った。昼間からずっと胸の中に引っかかっていたものが、ほんの少しだけ緩む。

 伊織はいつもの伊織だ。明日の雨を気にする。私が傘を忘れないか心配する。いつも通り。それが嬉しい。そう思った瞬間、急に怖くなった。笑っていた口元が、そのまま止まる。

 私は、伊織が好きなのかもしれない。だけど――もしそうなら、今まで私が伊織にしてもらってきたことは、全部どうなるんだろう。

 毎朝待ってくれること。昼に会いに来てくれること。一緒に帰ること。人混みで腕を掴まれること。雨が降ると教えてくれること。知らない場所では少し先を歩いてくれること。困ったとき、私が言うより先に気づいてくれること。

 私はそれを、友達だからと何も考えず受け取ってきた。当たり前みたいに。

 でも、自分が伊織を友達以上に好きなのだとしたら――伊織が何も知らないまま、私はその近くで好きな人からもらう優しさを、ただの友達の顔をしてずっと受け取っていることになる。それはなんだか、ずるい気がした。

 それだけではなかった。もう一つ、もっと嫌な考えが浮かんだ。

 私は、本当に伊織が好きなのだろうか。

 伊織がいれば安心する。伊織がいると、知らない場所へ行ける。伊織がいると、人が多くても怖くない。分からないことがあっても、伊織に聞ける。伊織がいなくなると、不安になる。伊織が高梨さんの隣にいるだけで、落ち着かなくなる。

 それを私は、好きだと思っているだけなのかもしれない。

 伊織が好きなのではなくて、ただ伊織がいないと困るだけ。伊織がいれば安心するから、いなくなられると困るから、誰かに取られたくないだけ。

 もしそうなら――私が考えていた「好き」は、「好き」なんかではないのかもしれない。好きだから必要なのか、必要だから好きなのか、分からなかった。

 たった一つ。好き、という言葉を見つけただけなのに――それまで曖昧だったものに輪郭ができるどころか、その向こうに、もっと分からないものが増えていた。

 私は伊織とのトーク画面を閉じる。黒い画面に、自分の顔がうっすら映った。逃げるようにまぶたを閉じると、すぐに見えなくなる。その暗闇の中で、自分の心臓の音だけが大きく聞こえた。

 伊織が好きかもしれない。

 そのこと自体よりも――もし、伊織がいなければ何もできない自分が、その不安を「好き」だと思い込んでいるだけなのだとしたら。そのほうが、私はずっと怖かった。