クラスが別になって、一週間が経った。だけどそれは私が思っていたより、大したことではなかった。
朝はこれまで通り駅で伊織と会う。帰りも、用事や委員会がない日は一緒に帰る。昼休みになると、伊織は毎日三組へやってきた。だから、変わったのは教室だけだ。
そう思えるくらいには、今までと同じ時間が残っていた。
伊織は毎日、知らない人の多い教室の扉をためらわずに開ける。私なら五組の前で立ち止まって、結局メッセージで呼び出してしまうと思う。弁当袋を持って近づいてくる伊織を見るたび、まだ少し驚いた。
「今日も来たの?」
昼休み、いつものようにやってきた伊織にそう聞くと、首を傾げられた。
「来たらだめなの?」
「別に、だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
伊織の中では、それで話が終わったらしい。私は五組の子のことも、真緒の椅子のことも気になっていたけれど、伊織が来たことは嬉しかった。だけど口に出せるのは、そのどれでもなかった。
伊織は前の席の椅子を借りて、こちらへ向けて座る。その席の持ち主である佐伯真緒は、最近ではすっかり慣れたらしい。
「あ、榊原さん。今日も水瀬さんと食べる?」
「うん。椅子借りてもいい?」
「どうぞどうぞ。私、あっち行くから」
そう言って、真緒は数席向こうの友達のところへ弁当を持って移動した。その背中を見るたびに、なんだか申し訳なくなる。
真緒に悪い気がして、一度だけ「教室じゃなくてもいいよ」と伊織に言った。だけど、どこがいい? と聞かれて、私は答えられなかった。中庭も、空き教室も知っている。けれど、知らない人がいたらどうするのだろうと考えると、決められなかった。
だから結局、今日も同じ場所で食べている。
「伊織、大丈夫なの?」
私は、卵焼きを箸で切りながら聞いた。
「何が?」
「……五組の友達とか」
そう言うと、伊織は納得したように頷く。
「ああ、普通にいるよ」
「じゃあ、一緒に食べればいいのに」
自分から聞いたくせに、そう言った。伊織が五組でちゃんと過ごせていることは、いいことのはずなのに。
「千景は? 誰かと食べる約束してる?」
「……してない」
「じゃあ、明日も来るね」
伊織はそう言って、弁当のブロッコリーを口に入れた。明日のお昼も、私は一人にならない。そう分かった途端、肩の力が抜けた。
伊織はたぶん、私が誰かを誘えずにいることを知っている。教室が離れても、お昼になれば来てくれる。私は今日も、自分の席でただ待っていただけだった。
「伊織、毎日来なくてもいいよ」
言ってから、また違うと思った。今、明日も来ると言ってもらえて、ほっとしたばかりなのに。伊織の五組での昼休みを、私が先に取ってしまっている気がした。向こうにも、一緒に食べたい人がいるかもしれない。
伊織は箸を止めて、私を見た。
「千景、私が来るの嫌?」
「嫌じゃない」
「それならいいじゃん。私が千景と食べたかっただけ」
前も同じような会話をした気がする。私の手が止まった。前を向くと伊織はもう、次のおかずに箸を伸ばしていた。伊織が来てくれた理由を、私は一つしか考えていなかった。
「……千景、どうしたの?」
「……別に」
「なにそれ」
伊織は呆れたように笑って、私は卵焼きを口に入れた。甘かった。母が作る卵焼きは、いつも同じ味がする。砂糖の量が今日だけ増えたはずもない。なのに今日は、やけに甘く感じた。
たぶん、気のせいだ。そういうことにしておいた。
*
クラスでは、少しずつ話す人が増えた。と言っても、胸を張って増えたと言えるほどでもない。
一番よく話すのは、前の席の真緒だった。真緒は、私とはずいぶん違うタイプに見える。明るいけれど、騒がしくはない。誰かと一緒にいることもあれば、一人でいることもある。だけど一人でスマートフォンを見ているときも、別に寂しそうではない。誰かに呼ばれればそちらへ行くし、呼ばれなくても気にしていない。
たぶん、人といるか一人でいるかということを、私ほど大きな問題だと思っていない。それが羨ましかった。
「水瀬さん、次移動だよね? 化学室だっけ?」
二時間目が終わると、真緒が振り返った。
「うん。第二化学室」
「あ、第二なんだ。危な。普通に第一行くとこだった」
真緒は照れくさそうに笑っている。私は教科書と筆箱を持って立ち上がった。
「水瀬さん、一緒に行かない?」
そう言われて、私は一瞬返事に困った。断る理由はない。むしろ一人で行くより、そのほうが自然だ。分かっている。なのに、「一緒に」という言葉を向けられると、ほんの少し身構える。
「……うん」
頷いて廊下へ出ると、真緒は歩きながらさっきの数学の授業の話をした。板書が速すぎるとか、宿題が多いとか、そんなことだった。
「あの先生、絶対こっちが書き終わってると思ってるよね?」
「たぶん黒板しか見てない」
「あ、それありそう」
私は相槌を打った。返事が小さくて一度聞き返されたけれど、真緒はただ耳を寄せてくれた。言い直すと、そこでまた笑った。途中で会話が途切れ、私は次の言葉を探した。真緒は窓の外を見ている。待たせているのかと思ったけれど、目が合うと「今日あったかいね」と言った。返事を間違えても、会話は終わらないらしかった。
真緒は、話を止めても気まずそうにしない。そして、私が何か言うまで待っている感じもしない。それが楽だった。
階段を下りる途中、ふと気づいた。私は今、伊織ではない人と二人で歩いている。それだけのことなのに、なんだか不思議だった。
昔から友達がいなかったわけではない。クラスで話す人はいたし、一応グループに入っていた時期もある。でも、学校の中を二人で移動するほど自然に近くにいる人は、ずっと伊織だった。
廊下を歩くとき、階段を下りるとき、次の教室へ行くとき――気づけば隣にいる人。そういう位置に、いつの間にか伊織がいた。
「水瀬さん、こっちじゃない?」
「あ」
声をかけられて気がつくと、階段を一階分下りすぎていた。真緒が笑う。
「水瀬さんでも間違えるんだ? なんか意外、しっかりしてそうなのに」
それはたぶん、間違っている。私はしっかりしているのではなく、失敗しないようにいつも先に確認しているだけだ。
間違えるのが嫌だから、前日に調べる。遅れるのが怖いから、早く出る。忘れるのが嫌だから、鞄を何度も見る。確認できることならいい。時間割。電車。提出物。そういうものは、調べれば間違えずに済む。正しい答えがある。
でも、人間は調べられない。今この言葉を言っていいのか。相手は本当は嫌ではないか。どこまで近づけば迷惑なのか。そういうことには、答えが書いていない。
「全然しっかりしてないよ」
「そう? じゃあ仲間だ」
真緒は楽しそうに笑った。私は少し遅れて、笑った。その笑い方が無理ではなかったことに、自分で驚いた。
その日の昼休み、伊織にはそのことを言わなかった。というより、言う必要がないと思った。化学室へ真緒と一緒に行った、それだけだ。だけど、言わないと決めたわけでもない。帰り道で思い出したら話すかもしれない。その程度のことだった。
でも放課後、いつものように並んで駅へ歩きながら、伊織が突然言った。
「千景、三組慣れてきた? 佐伯さんだっけ、よく喋ってるよね」
その声に、私は伊織を見る。
「知ってるの?」
「だって、昼行くといつもいるし。今日、廊下でも一緒にいたでしょ?」
「見てたの?」
「たまたまね」
伊織は前を向いたまま答えた。たまたま。それだけなのに、胸の中に小さな明かりがついたみたいな感じがした。
伊織の視界の中に、私がいた。そんなことを嬉しいと思う理由は、自分でも分からない。
「千景、友達できてよかったね」
「……友達っていうほどじゃない。席が前だから話すだけ」
「でも一緒に移動してた」
「それだけだよ」
私は俯く。どうして言い訳みたいになっているんだろう。別に、伊織に説明する必要はない。真緒と仲良くなったとしても、伊織に許可をもらうようなことではない。
それなのに――友達じゃない。まだそんなに近くない。伊織にそう伝えておきたくなる。
「千景と合いそう。落ち着いてそうな子だよね」
伊織が言った。
「そうかな、でも伊織よりは大人しい」
「私もうるさくないでしょ」
伊織が笑う。いつもの笑い方だった。それを見て、胸の中にさっき生まれた何かが、静かに元の場所へ戻った。私は安心して、少し笑った。
*
その週の金曜日。五時間目が終わったあとにスマートフォンを見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『今日、日直だから少し遅くなる』
私は『わかった』と返した。六時間目、ホームルーム、帰りの挨拶。いつも通りに全てを終えて、鞄に教科書を入れていると、真緒が声をかけてきた。
「水瀬さん、今日一緒に帰らない?」
その声に、私の手が止まった。
「……駅まで?」
「うん。私も電車だし」
断る理由はない。一瞬、真緒と帰る自分を想像した。たぶん、普通に帰れる。この前も化学室まで二人で歩けた。駅までくらい、何も問題ない。
でも伊織を待つ。そう言いかけて、やめた。伊織は日直だから遅くなる。何分かかるか分からない。それに、別に毎日必ず一緒に帰ると決めているわけではない。
「もしかして、榊原さん待ってた?」
考えていると、真緒はすぐ引いた。それになんだか申し訳なくなりながら、私は頷く。
「うん」
「いつも一緒だもんね」
その言葉に、少しだけ引っかかった。いつも一緒。外から見れば、私たちはそう見えるらしい。
「中学からだから」
「あ、そうなんだ? じゃあ長いね」
長い。四年くらい。数字にすると、思っていたより長かった。だけど、毎日全部一緒だったわけではない。伊織にもほかの友達はいたし、私にも話す人はいた。それでも四年、と言われると、その中にずいぶんたくさんの朝と昼と帰り道が詰まっている気がした。
「じゃ、水瀬さん。お先に」
「ごめん。また月曜」
真緒が教室を出ていく。私は一人になった席で、伊織からのメッセージをもう一度見た。
『今日、日直だから少し遅くなる』
少し。どれくらいだろう。『どれくらい?』と打って、画面の中に並んだ文字を見る。急かしているみたいだ。だけど待っていると伝えるのも、なんとなく重い気がする。
伊織は待ってほしいとは言っていない。そもそも私は、待つとも言っていない。文字を消した。結局何も送らず、教室で十分ほど時間を潰した。
窓の外を見る。スマートフォンを見る。机の中を整理する。意味もなくプリントを揃える。またスマートフォンを見る。まだ連絡はない。昇降口で待っていたら、一緒に帰りたくて残っていたことが、そのまま伝わってしまう気がした。教室にいれば、まだ帰る支度をしていただけの顔ができる。もう揃っているプリントを、私はまた机の端で揃えた。
私はさらに五分待った。すると、ようやくスマートフォンが震えた。反射的に画面を見る。
『ごめん。クラスの子に誘われたから、そのまま駅前寄って帰ってもいい?』
一度読んだ。意味は分かった。もう一度読んだ。やっぱり意味は同じだった。別に、何も難しい文章ではない。
ただ――頭の中で想像していた帰り道が、その一文で急になくなった。当たり前だけど、指先が少し止まる。
『いいよ』
それだけ返した。ほかに何を返せばいいのか分からなかった。すぐに既読がつく。
『ごめんね。また月曜一緒に帰ろ』
私は、『うん』と返した。それだけで会話は終わった。鞄を持って立ち上がる。椅子を机の中へ戻す音が、やけに大きく響いた。
何もおかしいことはない。伊織にも新しいクラスがある。友達ができる。放課後に誘われる。それくらい普通だ。私だって、さっき真緒に誘われた。ただ私は断って、伊織が断らなかったというだけ。
そこに違いなんてない。そう考えるほど、何か違う気がした。
廊下には、ほとんど人が残っていなかった。さっきまで教室のあちこちから聞こえていた声も、もう遠い。
昇降口で靴を履き替える。一人で校門を出る。駅までの道は知っている。何百回も歩いた。信号がどこにあるかも、どの道が近いかも知っている。
一人で歩けない理由なんて、何もない。
なのに――歩き出してすぐ、妙な違和感があった。歩調が合わない。誰と歩調を合わせるのかと考えてから、自分しかいないことに気づいた。自分の歩幅くらい、自分で決めればいい。なのに、少し速い気がする。少し遅い気もする。
いつも伊織は、私より歩くのが速い。でも、私が遅れると無意識に速度を落としてくれる。その瞬間を、私は今までほとんど意識したことがなかった。私が横に並ぶころには、もう同じ速さになっていたから。信号が変わりそうなときも、伊織は無理に走らない。私が走るのが嫌いなのを知っているから。
駅前のコンビニを通る。伊織は金曜日になると、よくここで新しいお菓子を見る。買わないくせに、一度入る。毎週ではない。何もない日は通り過ぎる。だから今日だって、伊織と一緒だったとして入ったかどうかは分からない。
それでも、私は店の前でほんの少し歩く速度を落とした。だけど、今日は入らない。
横断歩道を渡る。人が多いとき、伊織は少しだけ私の前を歩く。たまに袖を掴まれる。危ないから、と言われたこともない。ただ、気づけば掴まれている。今日は誰も掴まない。私の袖は、何にも触れないまま揺れている。
駅へ着いて、電車に乗った。座れた。何も困らなかった。迷わなかった。転ばなかった。乗る電車も間違えなかった。
高校二年生なのだから、当たり前だ。
顔を上げると、窓に自分の顔が映っている。いつもより暗く見えるのは、外が夕方だからだと思う。
私は別に寂しくない。一日一緒にいなかっただけ。朝も会った。昼も一緒に食べた。月曜日にはまた会う。むしろ、一日のほとんどは会っていた。
スマートフォンを開いて、伊織とのトーク画面を見た。伊織の最後のメッセージは、『また月曜一緒に帰ろ』だった。だったら何も問題ない。月曜日が来れば、また同じ道を歩く。
画面を閉じる。それでも――駅から家までの道も、いつもより少し長かった。
*
月曜日、いつもと同じ時間に駅へ着くと、伊織はまだ来ていなかった。二分、三分、四分。遅刻するような時間ではないと分かっている。電車にも十分間に合う。それでも、駅の入り口から人が入ってくるたびに顔を上げた。
違う。また違う。私は改札の横で待った。
五分経ったところで、伊織が駅の入り口に現れた。見つけた瞬間、まず、よかったと思った。そのあと、隣に誰かいることに気がついた。
知らない女の子だった。伊織より背が低く、肩まである髪を一つに結んでいる。二人は何か話していた。女の子が笑う。伊織も笑う。
私は、その笑い方を知っている。話がおもしろいとき、口元より先に目が細くなる。でも、何がおもしろかったのかは知らない。私の知らない話だった。当たり前だ。私の知らない人なのだから。
それだけのことなのに――私は一瞬、自分が待っていた五分間だけ、別の場所に置いていかれたような気がした。
やがて、伊織がこちらに気づいた。
「あ、千景。おはよう」
「……おはよう」
「ごめん、ちょっと遅れた」
「別に」
本当は少し待った。でも、それを言うほどでもない。隣の子が私を見る。
「あ、もしかして水瀬さん?」
一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
「やっぱり。五組の高梨美月だよ。伊織とさっきたまたま会って」
伊織。その呼び方が耳に残った。名前で呼ぶんだ。私だって名前で呼ぶ。中学のころからずっと。そんなことに引っかかる理由はない。名前なんて、ただの呼び方にすぎない。
「……そうなんだ」
「水瀬さん、伊織と中学から一緒って聞いてるよ」
中学からの友達。それは正しい。間違っていない。四年。十分長い。それ以外に、私たちの間を表す言葉を私は知らない。だから、何もおかしくない。それなのに胸のどこかに、薄い空洞ができたような気がした。
「よろしくね」
そう言って、高梨さんが笑う。
「……よろしく」
私も笑い返し、三人で改札を通ってホームへ向かう。伊織と高梨さんが前に並んで、私は半歩遅れて歩く。いつもなら、そこには私がいる。そう思いかけて、やめた。いつもなら、というだけだ。決まっていたわけではない。
二人が話している話題は、五組の担任のことだった。私は知らない。先生の口癖。先週のホームルームで言ったこと。五組でしか分からない話。
聞いていれば、意味はなんとなく分かる。でも、笑うところが分からない。相槌を入れる場所もない。私は隣にいるのに、少しだけ外側にいる。
高梨さんが、「ねえ伊織、昨日言ってたやつさ」と伊織の袖を軽く引いた。その仕草を見た瞬間だった。胸の奥に、何か冷たいものが落ちた。一滴だけ。でも、その冷たさがじわじわ広がっていく。
伊織が振り返る。
「なに?」
「これこれ」
高梨さんがスマートフォンを見せ、伊織が覗き込む。二人の肩が少し近づく。画面を見て、二人で笑う。私は後ろを歩きながら、その横顔を見ていた。
昨日言ってた――つまり私が知らない昨日にも、この二人は話していた。当たり前だ。同じクラスの友達なのだから。休日に会っていたり、メッセージだってするかもしれない。そうやって、私の知らない伊織の時間が増えていく。
そんなの、今までもあったはずだ。私だって、伊織の全部を知っていたわけではない。家で何をしているかも、家族と何を話しているかも、ほかの友達とどんな会話をしているかも。知らないことなんて、いくらでもある。
なのに今は――高梨さんの指が、まだ伊織の袖に触れていることばかり気になった。細い指。制服の紺色の袖。ほんの少しつままれているだけ。それだけなのに知っている景色を、知らない人に使われているような気がした。
――そこ、私の場所なのに。そう思った瞬間、足が止まりそうになった。自分が何を考えたのか理解するまで、時間がかかった。
私の場所。そんなもの、どこにも書いていない。私は伊織の袖に触れている高梨さんの手を見た。高梨さんは何も悪くない。そう思っても、目がそこから動かなかった。
「千景? どうしたの?」
伊織が振り返った。少し先で立ち止まって、私を待っている。高梨さんもこちらを見た。二人の間に、私一人分くらいの距離が空いている。そこへ来るのを待たれている。
胸の奥に落ちた冷たいものが、わずかに溶けた。
「……なんでもない」
私は歩き出した。一歩。二歩。伊織の隣へ追いつく。肩が並ぶ。見慣れた距離。その場所へ入った瞬間、身体のどこかがほっと緩んだ。
それがあまりにも自然で、あまりにも嬉しくて。私は、そのことが一番嫌だった。
朝はこれまで通り駅で伊織と会う。帰りも、用事や委員会がない日は一緒に帰る。昼休みになると、伊織は毎日三組へやってきた。だから、変わったのは教室だけだ。
そう思えるくらいには、今までと同じ時間が残っていた。
伊織は毎日、知らない人の多い教室の扉をためらわずに開ける。私なら五組の前で立ち止まって、結局メッセージで呼び出してしまうと思う。弁当袋を持って近づいてくる伊織を見るたび、まだ少し驚いた。
「今日も来たの?」
昼休み、いつものようにやってきた伊織にそう聞くと、首を傾げられた。
「来たらだめなの?」
「別に、だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
伊織の中では、それで話が終わったらしい。私は五組の子のことも、真緒の椅子のことも気になっていたけれど、伊織が来たことは嬉しかった。だけど口に出せるのは、そのどれでもなかった。
伊織は前の席の椅子を借りて、こちらへ向けて座る。その席の持ち主である佐伯真緒は、最近ではすっかり慣れたらしい。
「あ、榊原さん。今日も水瀬さんと食べる?」
「うん。椅子借りてもいい?」
「どうぞどうぞ。私、あっち行くから」
そう言って、真緒は数席向こうの友達のところへ弁当を持って移動した。その背中を見るたびに、なんだか申し訳なくなる。
真緒に悪い気がして、一度だけ「教室じゃなくてもいいよ」と伊織に言った。だけど、どこがいい? と聞かれて、私は答えられなかった。中庭も、空き教室も知っている。けれど、知らない人がいたらどうするのだろうと考えると、決められなかった。
だから結局、今日も同じ場所で食べている。
「伊織、大丈夫なの?」
私は、卵焼きを箸で切りながら聞いた。
「何が?」
「……五組の友達とか」
そう言うと、伊織は納得したように頷く。
「ああ、普通にいるよ」
「じゃあ、一緒に食べればいいのに」
自分から聞いたくせに、そう言った。伊織が五組でちゃんと過ごせていることは、いいことのはずなのに。
「千景は? 誰かと食べる約束してる?」
「……してない」
「じゃあ、明日も来るね」
伊織はそう言って、弁当のブロッコリーを口に入れた。明日のお昼も、私は一人にならない。そう分かった途端、肩の力が抜けた。
伊織はたぶん、私が誰かを誘えずにいることを知っている。教室が離れても、お昼になれば来てくれる。私は今日も、自分の席でただ待っていただけだった。
「伊織、毎日来なくてもいいよ」
言ってから、また違うと思った。今、明日も来ると言ってもらえて、ほっとしたばかりなのに。伊織の五組での昼休みを、私が先に取ってしまっている気がした。向こうにも、一緒に食べたい人がいるかもしれない。
伊織は箸を止めて、私を見た。
「千景、私が来るの嫌?」
「嫌じゃない」
「それならいいじゃん。私が千景と食べたかっただけ」
前も同じような会話をした気がする。私の手が止まった。前を向くと伊織はもう、次のおかずに箸を伸ばしていた。伊織が来てくれた理由を、私は一つしか考えていなかった。
「……千景、どうしたの?」
「……別に」
「なにそれ」
伊織は呆れたように笑って、私は卵焼きを口に入れた。甘かった。母が作る卵焼きは、いつも同じ味がする。砂糖の量が今日だけ増えたはずもない。なのに今日は、やけに甘く感じた。
たぶん、気のせいだ。そういうことにしておいた。
*
クラスでは、少しずつ話す人が増えた。と言っても、胸を張って増えたと言えるほどでもない。
一番よく話すのは、前の席の真緒だった。真緒は、私とはずいぶん違うタイプに見える。明るいけれど、騒がしくはない。誰かと一緒にいることもあれば、一人でいることもある。だけど一人でスマートフォンを見ているときも、別に寂しそうではない。誰かに呼ばれればそちらへ行くし、呼ばれなくても気にしていない。
たぶん、人といるか一人でいるかということを、私ほど大きな問題だと思っていない。それが羨ましかった。
「水瀬さん、次移動だよね? 化学室だっけ?」
二時間目が終わると、真緒が振り返った。
「うん。第二化学室」
「あ、第二なんだ。危な。普通に第一行くとこだった」
真緒は照れくさそうに笑っている。私は教科書と筆箱を持って立ち上がった。
「水瀬さん、一緒に行かない?」
そう言われて、私は一瞬返事に困った。断る理由はない。むしろ一人で行くより、そのほうが自然だ。分かっている。なのに、「一緒に」という言葉を向けられると、ほんの少し身構える。
「……うん」
頷いて廊下へ出ると、真緒は歩きながらさっきの数学の授業の話をした。板書が速すぎるとか、宿題が多いとか、そんなことだった。
「あの先生、絶対こっちが書き終わってると思ってるよね?」
「たぶん黒板しか見てない」
「あ、それありそう」
私は相槌を打った。返事が小さくて一度聞き返されたけれど、真緒はただ耳を寄せてくれた。言い直すと、そこでまた笑った。途中で会話が途切れ、私は次の言葉を探した。真緒は窓の外を見ている。待たせているのかと思ったけれど、目が合うと「今日あったかいね」と言った。返事を間違えても、会話は終わらないらしかった。
真緒は、話を止めても気まずそうにしない。そして、私が何か言うまで待っている感じもしない。それが楽だった。
階段を下りる途中、ふと気づいた。私は今、伊織ではない人と二人で歩いている。それだけのことなのに、なんだか不思議だった。
昔から友達がいなかったわけではない。クラスで話す人はいたし、一応グループに入っていた時期もある。でも、学校の中を二人で移動するほど自然に近くにいる人は、ずっと伊織だった。
廊下を歩くとき、階段を下りるとき、次の教室へ行くとき――気づけば隣にいる人。そういう位置に、いつの間にか伊織がいた。
「水瀬さん、こっちじゃない?」
「あ」
声をかけられて気がつくと、階段を一階分下りすぎていた。真緒が笑う。
「水瀬さんでも間違えるんだ? なんか意外、しっかりしてそうなのに」
それはたぶん、間違っている。私はしっかりしているのではなく、失敗しないようにいつも先に確認しているだけだ。
間違えるのが嫌だから、前日に調べる。遅れるのが怖いから、早く出る。忘れるのが嫌だから、鞄を何度も見る。確認できることならいい。時間割。電車。提出物。そういうものは、調べれば間違えずに済む。正しい答えがある。
でも、人間は調べられない。今この言葉を言っていいのか。相手は本当は嫌ではないか。どこまで近づけば迷惑なのか。そういうことには、答えが書いていない。
「全然しっかりしてないよ」
「そう? じゃあ仲間だ」
真緒は楽しそうに笑った。私は少し遅れて、笑った。その笑い方が無理ではなかったことに、自分で驚いた。
その日の昼休み、伊織にはそのことを言わなかった。というより、言う必要がないと思った。化学室へ真緒と一緒に行った、それだけだ。だけど、言わないと決めたわけでもない。帰り道で思い出したら話すかもしれない。その程度のことだった。
でも放課後、いつものように並んで駅へ歩きながら、伊織が突然言った。
「千景、三組慣れてきた? 佐伯さんだっけ、よく喋ってるよね」
その声に、私は伊織を見る。
「知ってるの?」
「だって、昼行くといつもいるし。今日、廊下でも一緒にいたでしょ?」
「見てたの?」
「たまたまね」
伊織は前を向いたまま答えた。たまたま。それだけなのに、胸の中に小さな明かりがついたみたいな感じがした。
伊織の視界の中に、私がいた。そんなことを嬉しいと思う理由は、自分でも分からない。
「千景、友達できてよかったね」
「……友達っていうほどじゃない。席が前だから話すだけ」
「でも一緒に移動してた」
「それだけだよ」
私は俯く。どうして言い訳みたいになっているんだろう。別に、伊織に説明する必要はない。真緒と仲良くなったとしても、伊織に許可をもらうようなことではない。
それなのに――友達じゃない。まだそんなに近くない。伊織にそう伝えておきたくなる。
「千景と合いそう。落ち着いてそうな子だよね」
伊織が言った。
「そうかな、でも伊織よりは大人しい」
「私もうるさくないでしょ」
伊織が笑う。いつもの笑い方だった。それを見て、胸の中にさっき生まれた何かが、静かに元の場所へ戻った。私は安心して、少し笑った。
*
その週の金曜日。五時間目が終わったあとにスマートフォンを見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『今日、日直だから少し遅くなる』
私は『わかった』と返した。六時間目、ホームルーム、帰りの挨拶。いつも通りに全てを終えて、鞄に教科書を入れていると、真緒が声をかけてきた。
「水瀬さん、今日一緒に帰らない?」
その声に、私の手が止まった。
「……駅まで?」
「うん。私も電車だし」
断る理由はない。一瞬、真緒と帰る自分を想像した。たぶん、普通に帰れる。この前も化学室まで二人で歩けた。駅までくらい、何も問題ない。
でも伊織を待つ。そう言いかけて、やめた。伊織は日直だから遅くなる。何分かかるか分からない。それに、別に毎日必ず一緒に帰ると決めているわけではない。
「もしかして、榊原さん待ってた?」
考えていると、真緒はすぐ引いた。それになんだか申し訳なくなりながら、私は頷く。
「うん」
「いつも一緒だもんね」
その言葉に、少しだけ引っかかった。いつも一緒。外から見れば、私たちはそう見えるらしい。
「中学からだから」
「あ、そうなんだ? じゃあ長いね」
長い。四年くらい。数字にすると、思っていたより長かった。だけど、毎日全部一緒だったわけではない。伊織にもほかの友達はいたし、私にも話す人はいた。それでも四年、と言われると、その中にずいぶんたくさんの朝と昼と帰り道が詰まっている気がした。
「じゃ、水瀬さん。お先に」
「ごめん。また月曜」
真緒が教室を出ていく。私は一人になった席で、伊織からのメッセージをもう一度見た。
『今日、日直だから少し遅くなる』
少し。どれくらいだろう。『どれくらい?』と打って、画面の中に並んだ文字を見る。急かしているみたいだ。だけど待っていると伝えるのも、なんとなく重い気がする。
伊織は待ってほしいとは言っていない。そもそも私は、待つとも言っていない。文字を消した。結局何も送らず、教室で十分ほど時間を潰した。
窓の外を見る。スマートフォンを見る。机の中を整理する。意味もなくプリントを揃える。またスマートフォンを見る。まだ連絡はない。昇降口で待っていたら、一緒に帰りたくて残っていたことが、そのまま伝わってしまう気がした。教室にいれば、まだ帰る支度をしていただけの顔ができる。もう揃っているプリントを、私はまた机の端で揃えた。
私はさらに五分待った。すると、ようやくスマートフォンが震えた。反射的に画面を見る。
『ごめん。クラスの子に誘われたから、そのまま駅前寄って帰ってもいい?』
一度読んだ。意味は分かった。もう一度読んだ。やっぱり意味は同じだった。別に、何も難しい文章ではない。
ただ――頭の中で想像していた帰り道が、その一文で急になくなった。当たり前だけど、指先が少し止まる。
『いいよ』
それだけ返した。ほかに何を返せばいいのか分からなかった。すぐに既読がつく。
『ごめんね。また月曜一緒に帰ろ』
私は、『うん』と返した。それだけで会話は終わった。鞄を持って立ち上がる。椅子を机の中へ戻す音が、やけに大きく響いた。
何もおかしいことはない。伊織にも新しいクラスがある。友達ができる。放課後に誘われる。それくらい普通だ。私だって、さっき真緒に誘われた。ただ私は断って、伊織が断らなかったというだけ。
そこに違いなんてない。そう考えるほど、何か違う気がした。
廊下には、ほとんど人が残っていなかった。さっきまで教室のあちこちから聞こえていた声も、もう遠い。
昇降口で靴を履き替える。一人で校門を出る。駅までの道は知っている。何百回も歩いた。信号がどこにあるかも、どの道が近いかも知っている。
一人で歩けない理由なんて、何もない。
なのに――歩き出してすぐ、妙な違和感があった。歩調が合わない。誰と歩調を合わせるのかと考えてから、自分しかいないことに気づいた。自分の歩幅くらい、自分で決めればいい。なのに、少し速い気がする。少し遅い気もする。
いつも伊織は、私より歩くのが速い。でも、私が遅れると無意識に速度を落としてくれる。その瞬間を、私は今までほとんど意識したことがなかった。私が横に並ぶころには、もう同じ速さになっていたから。信号が変わりそうなときも、伊織は無理に走らない。私が走るのが嫌いなのを知っているから。
駅前のコンビニを通る。伊織は金曜日になると、よくここで新しいお菓子を見る。買わないくせに、一度入る。毎週ではない。何もない日は通り過ぎる。だから今日だって、伊織と一緒だったとして入ったかどうかは分からない。
それでも、私は店の前でほんの少し歩く速度を落とした。だけど、今日は入らない。
横断歩道を渡る。人が多いとき、伊織は少しだけ私の前を歩く。たまに袖を掴まれる。危ないから、と言われたこともない。ただ、気づけば掴まれている。今日は誰も掴まない。私の袖は、何にも触れないまま揺れている。
駅へ着いて、電車に乗った。座れた。何も困らなかった。迷わなかった。転ばなかった。乗る電車も間違えなかった。
高校二年生なのだから、当たり前だ。
顔を上げると、窓に自分の顔が映っている。いつもより暗く見えるのは、外が夕方だからだと思う。
私は別に寂しくない。一日一緒にいなかっただけ。朝も会った。昼も一緒に食べた。月曜日にはまた会う。むしろ、一日のほとんどは会っていた。
スマートフォンを開いて、伊織とのトーク画面を見た。伊織の最後のメッセージは、『また月曜一緒に帰ろ』だった。だったら何も問題ない。月曜日が来れば、また同じ道を歩く。
画面を閉じる。それでも――駅から家までの道も、いつもより少し長かった。
*
月曜日、いつもと同じ時間に駅へ着くと、伊織はまだ来ていなかった。二分、三分、四分。遅刻するような時間ではないと分かっている。電車にも十分間に合う。それでも、駅の入り口から人が入ってくるたびに顔を上げた。
違う。また違う。私は改札の横で待った。
五分経ったところで、伊織が駅の入り口に現れた。見つけた瞬間、まず、よかったと思った。そのあと、隣に誰かいることに気がついた。
知らない女の子だった。伊織より背が低く、肩まである髪を一つに結んでいる。二人は何か話していた。女の子が笑う。伊織も笑う。
私は、その笑い方を知っている。話がおもしろいとき、口元より先に目が細くなる。でも、何がおもしろかったのかは知らない。私の知らない話だった。当たり前だ。私の知らない人なのだから。
それだけのことなのに――私は一瞬、自分が待っていた五分間だけ、別の場所に置いていかれたような気がした。
やがて、伊織がこちらに気づいた。
「あ、千景。おはよう」
「……おはよう」
「ごめん、ちょっと遅れた」
「別に」
本当は少し待った。でも、それを言うほどでもない。隣の子が私を見る。
「あ、もしかして水瀬さん?」
一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
「やっぱり。五組の高梨美月だよ。伊織とさっきたまたま会って」
伊織。その呼び方が耳に残った。名前で呼ぶんだ。私だって名前で呼ぶ。中学のころからずっと。そんなことに引っかかる理由はない。名前なんて、ただの呼び方にすぎない。
「……そうなんだ」
「水瀬さん、伊織と中学から一緒って聞いてるよ」
中学からの友達。それは正しい。間違っていない。四年。十分長い。それ以外に、私たちの間を表す言葉を私は知らない。だから、何もおかしくない。それなのに胸のどこかに、薄い空洞ができたような気がした。
「よろしくね」
そう言って、高梨さんが笑う。
「……よろしく」
私も笑い返し、三人で改札を通ってホームへ向かう。伊織と高梨さんが前に並んで、私は半歩遅れて歩く。いつもなら、そこには私がいる。そう思いかけて、やめた。いつもなら、というだけだ。決まっていたわけではない。
二人が話している話題は、五組の担任のことだった。私は知らない。先生の口癖。先週のホームルームで言ったこと。五組でしか分からない話。
聞いていれば、意味はなんとなく分かる。でも、笑うところが分からない。相槌を入れる場所もない。私は隣にいるのに、少しだけ外側にいる。
高梨さんが、「ねえ伊織、昨日言ってたやつさ」と伊織の袖を軽く引いた。その仕草を見た瞬間だった。胸の奥に、何か冷たいものが落ちた。一滴だけ。でも、その冷たさがじわじわ広がっていく。
伊織が振り返る。
「なに?」
「これこれ」
高梨さんがスマートフォンを見せ、伊織が覗き込む。二人の肩が少し近づく。画面を見て、二人で笑う。私は後ろを歩きながら、その横顔を見ていた。
昨日言ってた――つまり私が知らない昨日にも、この二人は話していた。当たり前だ。同じクラスの友達なのだから。休日に会っていたり、メッセージだってするかもしれない。そうやって、私の知らない伊織の時間が増えていく。
そんなの、今までもあったはずだ。私だって、伊織の全部を知っていたわけではない。家で何をしているかも、家族と何を話しているかも、ほかの友達とどんな会話をしているかも。知らないことなんて、いくらでもある。
なのに今は――高梨さんの指が、まだ伊織の袖に触れていることばかり気になった。細い指。制服の紺色の袖。ほんの少しつままれているだけ。それだけなのに知っている景色を、知らない人に使われているような気がした。
――そこ、私の場所なのに。そう思った瞬間、足が止まりそうになった。自分が何を考えたのか理解するまで、時間がかかった。
私の場所。そんなもの、どこにも書いていない。私は伊織の袖に触れている高梨さんの手を見た。高梨さんは何も悪くない。そう思っても、目がそこから動かなかった。
「千景? どうしたの?」
伊織が振り返った。少し先で立ち止まって、私を待っている。高梨さんもこちらを見た。二人の間に、私一人分くらいの距離が空いている。そこへ来るのを待たれている。
胸の奥に落ちた冷たいものが、わずかに溶けた。
「……なんでもない」
私は歩き出した。一歩。二歩。伊織の隣へ追いつく。肩が並ぶ。見慣れた距離。その場所へ入った瞬間、身体のどこかがほっと緩んだ。
それがあまりにも自然で、あまりにも嬉しくて。私は、そのことが一番嫌だった。



