伊織に告白した翌朝も、私たちはいつもの駅で会った。
私たちは、まだ付き合っていない。朝は一緒に学校へ行き、昼も予定が合えば一緒に食べる。放課後も帰る。そんな日が続いた。
毎日会えることに安心しているのに、ときどき、何も決まらないままこの先も続くのだろうかと怖くなった。伊織が黙ると、その続きを勝手に想像しそうになる。
そんなときは、なるべく目の前の顔を見た。
「千景、今日締切の……」
「二学期の進路希望調査票? 入れた」
「さすが」
電車の中で私は鞄を開け、中のファイルに触れた。確かに入っている。
「伊織。ほかのことも聞いてくれていいよ」
そう言うと、伊織が私を見る。
「……また聞きすぎるかなって、思って」
「嫌だったら言うよ」
「うん」
伊織は少し考えたあと、真面目な顔をした。
「千景。朝ごはん、食べた?」
「食べたよ」
「何?」
「パン」
「それだけ?」
「サラダとヨーグルトも」
「よし」
満足そうに頷く伊織に、私は笑ってしまった。
「伊織は?」
「パン」
「それだけ?」
「……パン、二個」
「伊織、数じゃない」
伊織も笑った。向かいの窓に、並んだ私たちが薄く映っていた。
*
翌週のある昼休み、私は真緒と職員室へ向かっていた。文化祭で使うパネルを借りられるか、先生に聞くことになっていた。何枚必要か、いつから使うか。教室で真緒と確かめて、メモも作った。
それでも、職員室の前まで来ると足が止まった。今、声をかけてもいいのだろうか。扉の小窓から覗いていると、真緒が手を上げようとした。
「……待って。私、聞くね」
そう言うと、真緒のノックしかけた手が止まる。
「うん。お願い」
そう言われ、私はメモを持ち直した。一度息を吸って、扉を叩く。
「失礼します。文化祭のパネルのことで、聞きたいんですけど……」
近くの先生が顔を上げた。名前とクラスを言う。声は小さくなったけれど、先生は手元の書類を置いて、こちらへ来てくれた。
「パネル、何枚いる?」
「四枚です」
「いつから使う予定?」
「えっと……」
頭の中が止まった。枚数を伝えるところばかり練習して、次のことが抜けていた。メモへ目を落とすと、隣から真緒が言った。
「来週の月曜日から使えれば嬉しいんですけど」
「分かった。在庫を確認するから、明日の昼、もう一度来てくれる?」
「はい」
頷いてから、メモに書き足した。明日の昼。もう一度、職員室。廊下へ戻って、ようやく息を吐いた。
「真緒、ありがとう。いつから使うか抜けてた」
「全然、私も枚数うろ覚えだったし。四枚で合ってたよね?」
「うん。教室の後ろに二枚と、入り口のところに二枚」
「そっかそっか」
真緒が頷く。私はメモを畳んだ。忘れたことはあったけれど、二人で必要なことを伝えられた。
「明日も、お昼でいい?」
「うん。ご飯食べる前に一緒に来よ」
頷いて、真緒と並んで教室へ戻った。
放課後は伊織と帰りながら、その話をした。
「今日……昼に職員室で、パネル借りられるか聞いた」
「文化祭の?」
「うん。私が聞くって言ったのに、途中で忘れちゃって……真緒に手伝ってもらった」
「借りられそう?」
「枚数を確認してくれるって。明日、もう一回行く」
「そっか」
「聞くこと、ちゃんと練習してたのに」
思い出すと、まだ少し恥ずかしかった。俯くと、私の隣で伊織は頷いていた。
「練習してない順番で聞かれると、分かんなくなるよね」
「伊織も?」
「なるよ。委員会の報告とか。席に戻ってから、一個言い忘れたって気づいたりする」
「……そうなんだ」
「千景、私のこと何だと思ってるの」
むくれたような声に私は少し笑って、それから考えた。
「……何でもできる人、だと思ってた」
「そんなわけないじゃん」
「うん」
今日は、その返事を疑わずに聞けた。伊織にも言い忘れることがある。誰かに教えてもらったり、もう一度聞きにいったりすることがある。たぶん、私が見ていなかっただけで。
「明日はメモ、先に見る」
「それがいいね」
伊織が笑った。私も頷いて、前を向いた。だけどふいに、隣を歩く伊織の靴紐が緩んでいるのが見えた。
「伊織、紐」
「あ、ほんとだ」
伊織が道の端に寄ってしゃがむ。私は隣で待った。結び直す手が、一つ輪を作り損ねて、もう一度やり直していた。
*
ある日、伊織は昼休みに二度、箸を持ったまま欠伸をこらえていた。
「伊織、眠いの?」
「ちょっと。朝は大丈夫だったんだけど」
そう言って、伊織が目元を指で押さえる。
「弟の宿題見てたら、自分のやるの遅くなった」
「今日は早く寝なよ」
「うん。そうする」
素直な返事だった。私は弁当へ目を戻した。伊織が眠いと言っただけなのに、なんだか嬉しかった。私の前では、いつも元気でいてくれなくてもいい。そのことを、わざわざ言わずに済んだ気がした。
帰りの電車には、二人で座れた。伊織はリュックを膝に置くと、小さく息を吐いていた。
「伊織、少し寝たら?」
「でも、千景」
「何?」
「……話してたから」
文化祭の飾りつけで、真緒が折り紙を買いすぎたという話だった。明日でも来週でも話せることなのに、伊織は聞いていようとしてくれた。
「続きはまた話すよ。着いたら起こす」
そう言うと、伊織はこちらを見て控えめに笑った。
「ごめん。じゃあ、お願い」
伊織は目を閉じる。私は正面の窓へ視線を移した。ガラスには膝の上で手を揃えた私と、その隣の伊織が薄く映っていた。
しばらくすると、伊織の頭が少しずつ傾いてきた。肩に髪が触れる。息を止めたところで、伊織が顔を上げた。
「ごめん」
「……平気」
伊織は座り直した。でも、またすぐにまぶたが下りてくる。私は膝の上の手を見てから、小さく言った。
「伊織。こっち、寄りかかってもいいよ」
言うだけで、頬が熱くなった。伊織が目を開ける。
「重いよ」
「たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「まだ、分かんないから」
伊織が笑った。私も少し笑ったら、肩に入っていた力が抜けた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
今度はゆっくり、伊織の頭が肩に触れた。さっきよりも、はっきり重みがあった。制服越しにあたたかい。短い髪の先が首に触れて、私は顔を動かせなくなった。
「千景、痛くない?」
「うん」
「重くなったら言って」
「分かった」
伊織はそれ以上言わず、口を閉じた。少しして、肩にかかる重みが増えた。隣を見ると、リュックを握っていた指も緩んでいた。
伊織が、私の隣で眠っている。前を見てそう思った途端、口元が緩みそうになった。正面の窓に映る自分から、慌てて目を逸らす。
伊織は眠いだけだ。私は肩を貸しただけで、返事をもらえたわけではない。
前なら少しでも姿勢を変えたら離れてしまいそうで、窮屈でも動けなかったと思う。今日は、腕が窮屈になったところで、そっと置き直した。伊織がわずかに動いて、また肩へ落ち着いた。
私も背もたれに身体を預けた。降りる駅の案内が流れてから、伊織の腕に軽く触れる。
「伊織。次だよ」
「……うん」
返事はしたのに、伊織はまだ目を閉じていた。
「起きてる?」
「起きてる」
「目、閉じてるけど」
伊織がようやく顔を上げた。肩が軽くなって、そこだけ少し涼しくなった。
「ありがとう。楽になった」
そう言う伊織の髪の片側が、少しだけ跳ねていた。直してあげたいと思って、手を伸ばしかける。それに伊織が気づいたので、私は自分の髪を指した。
「ここ、癖ついてる」
「え、どこ」
「もうちょっと後ろ」
伊織は手で押さえながら、私を見た。
「直った?」
「……うん」
まだ少し跳ねていたけれど、ドアが開いた。立ち上がった伊織のあとに続いて、ホームへ降りる。
「で、どうなったの?」
「何が?」
「佐伯さんの折り紙。買いすぎたって」
さっきまで私が話していたことを、伊織はきちんと覚えていたのだと思った。私は伊織の隣に並んで、口を開く。
「結局、みんなで折ることになって」
「千景も?」
「うん。鞄の中に入ってる」
「じゃあ、私も手伝おうかな」
伊織の顔を見る。眠る前より、目が開いていた。
「伊織、今日は帰って寝て」
「……はい」
その素直な返事がおかしくなって、笑った。伊織も笑い、今度は続きを聞きながら、私と同じ速さで歩いていた。
*
告白から二週間ほど経った金曜日、昇降口で伊織が待っていた。
「千景。今日時間ある? この前の公園行かない?」
そう言って、伊織がリュックの紐を持ち直した。その指を見て、私は靴箱へ伸ばしかけていた手を止めた。
「……うん」
返事をすると、伊織は小さく頷いた。
駅とは反対の道へ歩く。伊織はあまり話さなかった。私も、沈黙を埋めるための話題を探さなかった。途中で何度か顔を見たけれど、そのたびに伊織もこちらを見そうになって、二人とも前を向いた。
何を言われるのか、考えないようにはできなかった。
公園が見えてくると、足を遅くしたくなった。それでも私は、伊織の隣を離れずに歩いていた。
ベンチは空いていた。あの日と同じ場所に座ると、伊織が膝の上へリュックを置いた。
隣に手を伸ばしかけて、やめた。伊織の返事を、触れることで変えてしまいたくなかった。だから、私は自分の鞄を抱え直した。
「千景、この前のこと……考えたよ」
伊織はファスナーの引き手に触れ、それから手を離した。
「私、千景に頼られたら隣にいられるって、話したでしょ」
私は頷いた。
「でも、千景との毎日を思い出してたら、別に何もしてない日も……いっぱいあったなって思った。本屋で千景が選んでるの待ってたり。コンビニで、結局何も買わなかったり。電車で二人とも寝ちゃって、降りる駅ぎりぎりで起きたこともあったよね」
「うん、あったね」
少し笑ってから、目の奥が熱くなった。私にとって大事だった時間が、伊織の中にも残っていた。伊織に何かをしてもらった日だけではない。何を話したかさえ、もう思い出せないような日まで。
「私、ああいうのがなくなるの、嫌だったんだと思う。でも、一緒にいたいって言うより、何か手伝うよって言うほうが……言いやすかった」
伊織は膝の上へ目を落とし、私は黙って聞いていた。返事を急がなくてよかった。伊織が言葉を探す間も、私はここにいて、続きを聞いていたかった。
「この前見せてくれた、うどんの写真」
「うどん?」
「うん。暑そうだなって思ったやつ」
思わず笑うと、伊織も少し笑った。
「でも、私ならそう言うと思って撮ったんでしょ。それが、嬉しかった」
伊織の指が、リュックの端を軽く握った。
「千景が一人で出かけて、いろんなもの見て。その途中で、私のこと思い出してくれたんだなって」
白いうどんの器を思い出した。昼に送れずに閉じた画面も、帰りの電車の窓も。隣にいない伊織の声を、何度も頭の中で聞いたことも。
「伊織のこと……いっぱい思い出してたよ。ご飯のときだけじゃなくて。これ見たら何て言うかなって、何回も」
そう言うと、伊織が顔を上げた。
「……うん」
伊織が笑った。その笑顔を見たら、今すぐ手に触れたくなった。私は鞄から指を離して、膝の上へ置いた。
「私も聞きたい。千景が一人で行ったところのこと。何見たとか、おもしろかったとか。帰ってきたら、そういうの聞きたい」
「いっぱい話すと思う」
「うん」
返事のあと、伊織は一度、息を吸った。
「あと、千景のこと……なるべく気にしないで過ごしてみようと思ったんだけど」
「……どうだった?」
「無理だった」
すぐに返ってきたので、私は笑ってしまった。
「だって、朝、駅に着いたら探すし。昼も、今日は一緒に食べられるかなって考えるし」
伊織が私を見る。
「佐伯さんと楽しそうにしてると、何の話だろうって思う。あとで私にも話してくれないかなって」
「うん」
「それに、この前……電車で肩、借りたでしょ」
頷くと、伊織がふいに目を逸らした。
「起こしてくれたとき、本当はもうちょっと、そのままでいたかった」
頬が熱くなった。伊織の頭が触れていた肩に、あの日の重みが戻ってくる気がした。
「……私、動かないようにしてた」
「やっぱり?」
「起こしたくなかったから」
それだけではなかった。言おうか迷っていると、伊織が膝の上のリュックを横へ置いた。
「それに、手も……千景とまた繋ぎたかった」
そう言われ、私は伊織を見た。
「あの日、公園を出てから。鞄持つから離したけど、そのあとも、ずっと」
「……私も」
声が小さくなった。それでも伊織は聞き取って、こちらへ向き直った。
「私も、千景が好きなんだと思う」
息を吸う途中で、止まった。
「だから恋人になりたい。千景と」
伊織の顔が滲んだ。返事をしなければと思った。嬉しい。私も。言いたい言葉は分かっているのに、口を開くと息ばかり漏れた。
「千景」
「……待って」
咄嗟に返すと、伊織の手が少し動いた。
「今、返事……するから」
「うん。待つ」
私は目元を拭った。何度も想像した言葉だった。想像するたび、そうならなかったときのことを考えて、途中でやめていた。
伊織が私を好きだと言った。私がいなくても困らない人が、私と恋人になりたいと。
「……嬉しい」
やっと言えた。伊織の眉が、少し下がった。
「私も、なりたい。伊織の……恋人に」
伊織が長く息を吐いた。肩が下がって、それから笑った。目元へ手を持っていったので、私は拭いかけていた自分の涙を忘れた。
「……緊張した」
「伊織も?」
「するよ。ずっと待っててもらったし。今日ここ来る途中も、何から言おうって」
少し掠れた声だった。伊織は笑いながら、もう一度息を吐いた。
「よかった」
その言葉で、また涙が出た。
何度も聞いた声だった。私が何かできるたびに、伊織はそう言ってくれた。嬉しいのか寂しいのか分からなくなって、笑顔の奥ばかり見ようとしていた。
今日は、私にも分かった。伊織は笑っていた。目元が濡れたまま、私の返事に安心していた。
「伊織」
「うん?」
「今日、よかった顔してる」
伊織は一度瞬いた。それから、照れくさそうに笑った。
「うん。してると思う」
私も笑った。拭いても追いつかない涙を、そのままにした。伊織がベンチの上へ手を置いた。そして手のひらを、こちらへ向ける。
「千景、繋いでもいい?」
私は頷いて、その手に自分の手を重ねた。指が閉じる。前と同じ手なのに、握り返すだけでまた泣きそうになった。
「……私からも、聞こうと思ってた」
「じゃあ、今日は私が先だ」
伊織が笑った。私は繋いだ手を見た。もう、何かを言うための勇気をもらうだけではなかった。ただ触れていたくて、指を握り直した。
しばらくして、伊織が口を開いた。
「千景。もう一つ話していい? ……大学のことなんだけど」
顔を上げると、伊織は私を見ていた。
「夏休みに行った、県外の大学。まだ気になってる」
「……うん」
「教育の授業、おもしろそうで。ほかも見てるけど、もっと調べたいと思ってる」
私はゆっくり頷いた。伊織の指が、私の指に触れている。ついさっきまで、その近さだけでいっぱいだったのに。
「遠いね」
「うん」
行かないで、と言いたくなった。ようやく恋人になれたのだから、近くにいてほしい。そう思ったことを、すぐに打ち消せなかった。
卒業したら、いつもの時間に駅へ行っても、伊織はいないかもしれない。昼休みに二つ隣の教室へ行くことも、昇降口に残った靴を見て、まだいると分かることもなくなる。
あと一年半ほど。ずっと先のことだと思っていた卒業が、急に数えられる長さになった。
「千景は、このあいだの大学?」
「まだ、ほかも見てる。でも、今は一番行きたい」
「そっか」
伊織が頷いた。その顔を見て、自分の行きたい場所を変えたくないことも分かった。伊織にも、そう思える場所がある。
私は、繋いだ手へ目を落とした。
「……寂しい。まだ何も決まってないのに。今から……寂しい」
口にすると、声が頼りなくなった。
「私も」
伊織の手に、少し力が入った。
「でも、行ってみたいんだ」
「……うん」
分かった、と簡単には言えなかった。寂しくなくなる答えも、思いつかなかった。
伊織は待っていた。ベンチの前を、小さな子が走っていく。そのあとを追う足音が遠ざかってから、私は顔を上げた。
「毎朝は、伊織に会えなくなるかもしれないね」
「うん」
「でも、会いたい。伊織と学校が別になっても」
「私も会いたい」
「だから……会える日、二人で決めたい。私からも誘う。伊織が来てくれるの、待ってるだけじゃなくて」
そう言うと、伊織が頷いた。
「うん、決めよう。私も行くよ。千景のところ」
どのくらい会えるのか、まだ分からなかった。受験も、その先の暮らしも、知らないことばかりだ。それでも、伊織も会いに来たいと思ってくれている。その言葉を、今は信じたかった。
「伊織。大学、決めたら教えて」
「決める前にも、話していい?」
「……うん。迷ってるところも、聞きたい。私も話すから」
伊織が頷いて、少し近くへ座り直した。肩が触れた。私は離れず、そのままでいた。
「千景」
「何?」
「……明日も会える?」
そう言われて考えると、明日は土曜日だった。学校へ行く理由も、駅で待ち合わせる約束も、まだなかった。
「……会える」
「ほんとに? どこ行こうか」
考えようとしたのに、また目が熱くなった。中学生の私が、間違えて尋ねた明日。休みだから会えないのだと、恥ずかしくなって俯いた日。
だけど今日は、会えると答えられた。
「どこでも。伊織と一緒に決めたい」
「うん」
伊織が笑った。私は繋いだ手を少し持ち上げて、握り直した。
卒業したらどうなるのか、まだ怖かった。遠くへ行ってほしくない気持ちも、消えてはいない。その話も、これから伊織にしていいのだと思った。
「伊織。明日も、こうしていい?」
手元を見ると、伊織が指を握り返した。
「いいよ。私も繋ぎたい」
私は頷いて、伊織の肩へ少しだけ寄った。明日、何時に会おうかと聞かれた。考えながらもう少しだけ、このままでいようと思った。
公園を出る前に、私たちは一度手を離した。伊織がリュックを背負う。私は鞄を肩に掛け直して、空いた手を見た。
さっき、明日も繋いでいいか聞いた。でも、今日もまだ終わっていなかった。
「伊織」
振り向いた伊織へ、手を差し出した。伊織は私の手を見て、それから顔を見た。そして照れたように笑って、指を重ねてくれた。
「……帰る間も、繋いでたい」
「うん」
指の間に、伊織の指が入る。さっきと違う繋ぎ方だった。どう握ればいいのか迷っていると、伊織がそっと力を緩めた。
「嫌?」
「違う。……慣れてなくて」
「私も」
伊織が自分たちの手を見た。その横顔に、私だけがこんなに意識しているのではないと分かって、少し安心した。安心したら、今度は嬉しくなった。
指を曲げて、握り返す。伊織も、もう緩めなかった。
いつもの帰り道には、人が増えていた。自転車が近づいてきて、二人で端へ寄る。私が半歩後ろになると、伊織が振り返った。
「千景、大丈夫?」
「うん」
自転車が通り過ぎてから、また隣へ戻った。繋いだ腕が少し揺れた。それだけで、伊織と歩いていることを何度も意識した。
赤信号で止まる。私は手元を見て、それから伊織を見た。
「千景、何?」
「ううん。伊織と……恋人なんだなって」
口にした途端、頬が熱くなった。伊織が目を瞬かせる。そのあとで、私と繋いだ手を持ち上げた。
「今?」
「さっきから、何回も思ってる」
「……私も」
伊織は前を向く。耳が少し赤かった。その顔をもっと見たかったけれど、見ていたら自分まで笑ってしまいそうで、私も信号へ目を戻した。
青になっても、歩き始めるのが一拍遅れた。伊織と同時に足を出して、二人で顔を見合わせた。
駅の改札では、定期券を出すために手を離した。いつもの動作なのに、鞄の中を探すのに手間取った。伊織が先に通り、通路を空けたところで待っていた。
私が追いつくと、伊織は何も言わずに手を差し出した。今度は迷わず、その手を取った。
*
週明けの朝、私はいつもの時間に家を出た。天気予報は見た。提出物も入れた。家を出てから一瞬不安になったけれど、玄関で確かめたファイルを思い出して、そのまま歩いた。
土曜日にも伊織と会った。待ち合わせて、歩いて、手を繋いだ。別れたあとには、次に会うのが月曜日だと分かっていた。
それでも駅が近づくと、歩くのがいつもより速くなる。
改札の前に、伊織がいた。私の恋人。まだ、頭の中でそう呼ぶたびに落ち着かなくなる。
伊織が顔を上げた。私を見つけて、片手を上げる。
「おはよう、千景」
「伊織、おはよう」
隣へ行く。いつものリュック。同じ短い髪。何年も見てきた朝の伊織なのに、顔を合わせただけで、言いたいことが増えてしまった。
「……会いたかった」
呟くと、伊織の手がリュックの紐を握ったまま止まった。
「土曜会ったよ?」
「うん」
分かっている。だから昨日は我慢したとか、そういうことでもない。今、伊織の顔を見たら、そう思った。
「今日も……会いたかった」
伊織が片手で口元を隠し、俯いた。だけど指の隙間から、口が緩んでいるのが見えていた。
「千景。朝からそういうこと言うんだ」
「……言わないほうがよかった?」
「違う」
返事はすぐだった。伊織は私を見て、はにかむように笑った。
「嬉しい。私も千景に会いたかった」
私は頷く。改札を通る前から、もう今日がいい日になった気がした。
二人で定期券を出す。改札を抜けて、ホームへ続く階段へ向かう途中、伊織が聞いた。
「千景、今日帰りどうする?」
今日の予定を考えた。放課後に残る用事はない。私は伊織を見た。
「伊織と一緒に帰りたい」
「うん。私も」
その返事が嬉しくて、また笑いそうになった。伊織も気づいたようだったけれど、今度は何も聞かず、隣でただ笑っていた。
階段では前後になった。下まで着いてから追いつくと、伊織がこちらへ顔を向ける。
「昇降口でいい?」
「うん。私のほうが早かったら、伊織を待ってる」
「私が先だったら、私が待ってるね」
私は頷いた。昔は、待っていてもらえると安心した。自分が遅れても、うまくできなくても、伊織は先に行かない。そのことに、何度も助けられた。
今も、待っていてくれるのは嬉しい。でも今日は、自分が先に着くのも楽しみだった。靴を履き替えて、伊織の姿を探す。見つけたら、今朝の伊織みたいに手を上げようと思った。
ホームに電車が入ってきた。風に揺れた伊織の袖が、手の甲に触れる。
「伊織」
「ん?」
「帰り、話したいことある」
「何?」
「土曜に買った本。昨日、読み終わったから」
「もう? 早いね」
「うん。最後、思ってたのと違って」
そう言うと、伊織が笑った。
「じゃあ、帰りに聞く」
扉が開いた。降りてくる人を待って、二人で乗り込む。奥へ進んだ伊織が振り返り、私が隣へ行くと、指先にそっと触れた。私はその手を取った。
放課後になったら、また会える。話したいことは、きっと帰るまでにも増えている。
繋いだ手をそっと握ると、伊織が握り返してくれた。
(完)
私たちは、まだ付き合っていない。朝は一緒に学校へ行き、昼も予定が合えば一緒に食べる。放課後も帰る。そんな日が続いた。
毎日会えることに安心しているのに、ときどき、何も決まらないままこの先も続くのだろうかと怖くなった。伊織が黙ると、その続きを勝手に想像しそうになる。
そんなときは、なるべく目の前の顔を見た。
「千景、今日締切の……」
「二学期の進路希望調査票? 入れた」
「さすが」
電車の中で私は鞄を開け、中のファイルに触れた。確かに入っている。
「伊織。ほかのことも聞いてくれていいよ」
そう言うと、伊織が私を見る。
「……また聞きすぎるかなって、思って」
「嫌だったら言うよ」
「うん」
伊織は少し考えたあと、真面目な顔をした。
「千景。朝ごはん、食べた?」
「食べたよ」
「何?」
「パン」
「それだけ?」
「サラダとヨーグルトも」
「よし」
満足そうに頷く伊織に、私は笑ってしまった。
「伊織は?」
「パン」
「それだけ?」
「……パン、二個」
「伊織、数じゃない」
伊織も笑った。向かいの窓に、並んだ私たちが薄く映っていた。
*
翌週のある昼休み、私は真緒と職員室へ向かっていた。文化祭で使うパネルを借りられるか、先生に聞くことになっていた。何枚必要か、いつから使うか。教室で真緒と確かめて、メモも作った。
それでも、職員室の前まで来ると足が止まった。今、声をかけてもいいのだろうか。扉の小窓から覗いていると、真緒が手を上げようとした。
「……待って。私、聞くね」
そう言うと、真緒のノックしかけた手が止まる。
「うん。お願い」
そう言われ、私はメモを持ち直した。一度息を吸って、扉を叩く。
「失礼します。文化祭のパネルのことで、聞きたいんですけど……」
近くの先生が顔を上げた。名前とクラスを言う。声は小さくなったけれど、先生は手元の書類を置いて、こちらへ来てくれた。
「パネル、何枚いる?」
「四枚です」
「いつから使う予定?」
「えっと……」
頭の中が止まった。枚数を伝えるところばかり練習して、次のことが抜けていた。メモへ目を落とすと、隣から真緒が言った。
「来週の月曜日から使えれば嬉しいんですけど」
「分かった。在庫を確認するから、明日の昼、もう一度来てくれる?」
「はい」
頷いてから、メモに書き足した。明日の昼。もう一度、職員室。廊下へ戻って、ようやく息を吐いた。
「真緒、ありがとう。いつから使うか抜けてた」
「全然、私も枚数うろ覚えだったし。四枚で合ってたよね?」
「うん。教室の後ろに二枚と、入り口のところに二枚」
「そっかそっか」
真緒が頷く。私はメモを畳んだ。忘れたことはあったけれど、二人で必要なことを伝えられた。
「明日も、お昼でいい?」
「うん。ご飯食べる前に一緒に来よ」
頷いて、真緒と並んで教室へ戻った。
放課後は伊織と帰りながら、その話をした。
「今日……昼に職員室で、パネル借りられるか聞いた」
「文化祭の?」
「うん。私が聞くって言ったのに、途中で忘れちゃって……真緒に手伝ってもらった」
「借りられそう?」
「枚数を確認してくれるって。明日、もう一回行く」
「そっか」
「聞くこと、ちゃんと練習してたのに」
思い出すと、まだ少し恥ずかしかった。俯くと、私の隣で伊織は頷いていた。
「練習してない順番で聞かれると、分かんなくなるよね」
「伊織も?」
「なるよ。委員会の報告とか。席に戻ってから、一個言い忘れたって気づいたりする」
「……そうなんだ」
「千景、私のこと何だと思ってるの」
むくれたような声に私は少し笑って、それから考えた。
「……何でもできる人、だと思ってた」
「そんなわけないじゃん」
「うん」
今日は、その返事を疑わずに聞けた。伊織にも言い忘れることがある。誰かに教えてもらったり、もう一度聞きにいったりすることがある。たぶん、私が見ていなかっただけで。
「明日はメモ、先に見る」
「それがいいね」
伊織が笑った。私も頷いて、前を向いた。だけどふいに、隣を歩く伊織の靴紐が緩んでいるのが見えた。
「伊織、紐」
「あ、ほんとだ」
伊織が道の端に寄ってしゃがむ。私は隣で待った。結び直す手が、一つ輪を作り損ねて、もう一度やり直していた。
*
ある日、伊織は昼休みに二度、箸を持ったまま欠伸をこらえていた。
「伊織、眠いの?」
「ちょっと。朝は大丈夫だったんだけど」
そう言って、伊織が目元を指で押さえる。
「弟の宿題見てたら、自分のやるの遅くなった」
「今日は早く寝なよ」
「うん。そうする」
素直な返事だった。私は弁当へ目を戻した。伊織が眠いと言っただけなのに、なんだか嬉しかった。私の前では、いつも元気でいてくれなくてもいい。そのことを、わざわざ言わずに済んだ気がした。
帰りの電車には、二人で座れた。伊織はリュックを膝に置くと、小さく息を吐いていた。
「伊織、少し寝たら?」
「でも、千景」
「何?」
「……話してたから」
文化祭の飾りつけで、真緒が折り紙を買いすぎたという話だった。明日でも来週でも話せることなのに、伊織は聞いていようとしてくれた。
「続きはまた話すよ。着いたら起こす」
そう言うと、伊織はこちらを見て控えめに笑った。
「ごめん。じゃあ、お願い」
伊織は目を閉じる。私は正面の窓へ視線を移した。ガラスには膝の上で手を揃えた私と、その隣の伊織が薄く映っていた。
しばらくすると、伊織の頭が少しずつ傾いてきた。肩に髪が触れる。息を止めたところで、伊織が顔を上げた。
「ごめん」
「……平気」
伊織は座り直した。でも、またすぐにまぶたが下りてくる。私は膝の上の手を見てから、小さく言った。
「伊織。こっち、寄りかかってもいいよ」
言うだけで、頬が熱くなった。伊織が目を開ける。
「重いよ」
「たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「まだ、分かんないから」
伊織が笑った。私も少し笑ったら、肩に入っていた力が抜けた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
今度はゆっくり、伊織の頭が肩に触れた。さっきよりも、はっきり重みがあった。制服越しにあたたかい。短い髪の先が首に触れて、私は顔を動かせなくなった。
「千景、痛くない?」
「うん」
「重くなったら言って」
「分かった」
伊織はそれ以上言わず、口を閉じた。少しして、肩にかかる重みが増えた。隣を見ると、リュックを握っていた指も緩んでいた。
伊織が、私の隣で眠っている。前を見てそう思った途端、口元が緩みそうになった。正面の窓に映る自分から、慌てて目を逸らす。
伊織は眠いだけだ。私は肩を貸しただけで、返事をもらえたわけではない。
前なら少しでも姿勢を変えたら離れてしまいそうで、窮屈でも動けなかったと思う。今日は、腕が窮屈になったところで、そっと置き直した。伊織がわずかに動いて、また肩へ落ち着いた。
私も背もたれに身体を預けた。降りる駅の案内が流れてから、伊織の腕に軽く触れる。
「伊織。次だよ」
「……うん」
返事はしたのに、伊織はまだ目を閉じていた。
「起きてる?」
「起きてる」
「目、閉じてるけど」
伊織がようやく顔を上げた。肩が軽くなって、そこだけ少し涼しくなった。
「ありがとう。楽になった」
そう言う伊織の髪の片側が、少しだけ跳ねていた。直してあげたいと思って、手を伸ばしかける。それに伊織が気づいたので、私は自分の髪を指した。
「ここ、癖ついてる」
「え、どこ」
「もうちょっと後ろ」
伊織は手で押さえながら、私を見た。
「直った?」
「……うん」
まだ少し跳ねていたけれど、ドアが開いた。立ち上がった伊織のあとに続いて、ホームへ降りる。
「で、どうなったの?」
「何が?」
「佐伯さんの折り紙。買いすぎたって」
さっきまで私が話していたことを、伊織はきちんと覚えていたのだと思った。私は伊織の隣に並んで、口を開く。
「結局、みんなで折ることになって」
「千景も?」
「うん。鞄の中に入ってる」
「じゃあ、私も手伝おうかな」
伊織の顔を見る。眠る前より、目が開いていた。
「伊織、今日は帰って寝て」
「……はい」
その素直な返事がおかしくなって、笑った。伊織も笑い、今度は続きを聞きながら、私と同じ速さで歩いていた。
*
告白から二週間ほど経った金曜日、昇降口で伊織が待っていた。
「千景。今日時間ある? この前の公園行かない?」
そう言って、伊織がリュックの紐を持ち直した。その指を見て、私は靴箱へ伸ばしかけていた手を止めた。
「……うん」
返事をすると、伊織は小さく頷いた。
駅とは反対の道へ歩く。伊織はあまり話さなかった。私も、沈黙を埋めるための話題を探さなかった。途中で何度か顔を見たけれど、そのたびに伊織もこちらを見そうになって、二人とも前を向いた。
何を言われるのか、考えないようにはできなかった。
公園が見えてくると、足を遅くしたくなった。それでも私は、伊織の隣を離れずに歩いていた。
ベンチは空いていた。あの日と同じ場所に座ると、伊織が膝の上へリュックを置いた。
隣に手を伸ばしかけて、やめた。伊織の返事を、触れることで変えてしまいたくなかった。だから、私は自分の鞄を抱え直した。
「千景、この前のこと……考えたよ」
伊織はファスナーの引き手に触れ、それから手を離した。
「私、千景に頼られたら隣にいられるって、話したでしょ」
私は頷いた。
「でも、千景との毎日を思い出してたら、別に何もしてない日も……いっぱいあったなって思った。本屋で千景が選んでるの待ってたり。コンビニで、結局何も買わなかったり。電車で二人とも寝ちゃって、降りる駅ぎりぎりで起きたこともあったよね」
「うん、あったね」
少し笑ってから、目の奥が熱くなった。私にとって大事だった時間が、伊織の中にも残っていた。伊織に何かをしてもらった日だけではない。何を話したかさえ、もう思い出せないような日まで。
「私、ああいうのがなくなるの、嫌だったんだと思う。でも、一緒にいたいって言うより、何か手伝うよって言うほうが……言いやすかった」
伊織は膝の上へ目を落とし、私は黙って聞いていた。返事を急がなくてよかった。伊織が言葉を探す間も、私はここにいて、続きを聞いていたかった。
「この前見せてくれた、うどんの写真」
「うどん?」
「うん。暑そうだなって思ったやつ」
思わず笑うと、伊織も少し笑った。
「でも、私ならそう言うと思って撮ったんでしょ。それが、嬉しかった」
伊織の指が、リュックの端を軽く握った。
「千景が一人で出かけて、いろんなもの見て。その途中で、私のこと思い出してくれたんだなって」
白いうどんの器を思い出した。昼に送れずに閉じた画面も、帰りの電車の窓も。隣にいない伊織の声を、何度も頭の中で聞いたことも。
「伊織のこと……いっぱい思い出してたよ。ご飯のときだけじゃなくて。これ見たら何て言うかなって、何回も」
そう言うと、伊織が顔を上げた。
「……うん」
伊織が笑った。その笑顔を見たら、今すぐ手に触れたくなった。私は鞄から指を離して、膝の上へ置いた。
「私も聞きたい。千景が一人で行ったところのこと。何見たとか、おもしろかったとか。帰ってきたら、そういうの聞きたい」
「いっぱい話すと思う」
「うん」
返事のあと、伊織は一度、息を吸った。
「あと、千景のこと……なるべく気にしないで過ごしてみようと思ったんだけど」
「……どうだった?」
「無理だった」
すぐに返ってきたので、私は笑ってしまった。
「だって、朝、駅に着いたら探すし。昼も、今日は一緒に食べられるかなって考えるし」
伊織が私を見る。
「佐伯さんと楽しそうにしてると、何の話だろうって思う。あとで私にも話してくれないかなって」
「うん」
「それに、この前……電車で肩、借りたでしょ」
頷くと、伊織がふいに目を逸らした。
「起こしてくれたとき、本当はもうちょっと、そのままでいたかった」
頬が熱くなった。伊織の頭が触れていた肩に、あの日の重みが戻ってくる気がした。
「……私、動かないようにしてた」
「やっぱり?」
「起こしたくなかったから」
それだけではなかった。言おうか迷っていると、伊織が膝の上のリュックを横へ置いた。
「それに、手も……千景とまた繋ぎたかった」
そう言われ、私は伊織を見た。
「あの日、公園を出てから。鞄持つから離したけど、そのあとも、ずっと」
「……私も」
声が小さくなった。それでも伊織は聞き取って、こちらへ向き直った。
「私も、千景が好きなんだと思う」
息を吸う途中で、止まった。
「だから恋人になりたい。千景と」
伊織の顔が滲んだ。返事をしなければと思った。嬉しい。私も。言いたい言葉は分かっているのに、口を開くと息ばかり漏れた。
「千景」
「……待って」
咄嗟に返すと、伊織の手が少し動いた。
「今、返事……するから」
「うん。待つ」
私は目元を拭った。何度も想像した言葉だった。想像するたび、そうならなかったときのことを考えて、途中でやめていた。
伊織が私を好きだと言った。私がいなくても困らない人が、私と恋人になりたいと。
「……嬉しい」
やっと言えた。伊織の眉が、少し下がった。
「私も、なりたい。伊織の……恋人に」
伊織が長く息を吐いた。肩が下がって、それから笑った。目元へ手を持っていったので、私は拭いかけていた自分の涙を忘れた。
「……緊張した」
「伊織も?」
「するよ。ずっと待っててもらったし。今日ここ来る途中も、何から言おうって」
少し掠れた声だった。伊織は笑いながら、もう一度息を吐いた。
「よかった」
その言葉で、また涙が出た。
何度も聞いた声だった。私が何かできるたびに、伊織はそう言ってくれた。嬉しいのか寂しいのか分からなくなって、笑顔の奥ばかり見ようとしていた。
今日は、私にも分かった。伊織は笑っていた。目元が濡れたまま、私の返事に安心していた。
「伊織」
「うん?」
「今日、よかった顔してる」
伊織は一度瞬いた。それから、照れくさそうに笑った。
「うん。してると思う」
私も笑った。拭いても追いつかない涙を、そのままにした。伊織がベンチの上へ手を置いた。そして手のひらを、こちらへ向ける。
「千景、繋いでもいい?」
私は頷いて、その手に自分の手を重ねた。指が閉じる。前と同じ手なのに、握り返すだけでまた泣きそうになった。
「……私からも、聞こうと思ってた」
「じゃあ、今日は私が先だ」
伊織が笑った。私は繋いだ手を見た。もう、何かを言うための勇気をもらうだけではなかった。ただ触れていたくて、指を握り直した。
しばらくして、伊織が口を開いた。
「千景。もう一つ話していい? ……大学のことなんだけど」
顔を上げると、伊織は私を見ていた。
「夏休みに行った、県外の大学。まだ気になってる」
「……うん」
「教育の授業、おもしろそうで。ほかも見てるけど、もっと調べたいと思ってる」
私はゆっくり頷いた。伊織の指が、私の指に触れている。ついさっきまで、その近さだけでいっぱいだったのに。
「遠いね」
「うん」
行かないで、と言いたくなった。ようやく恋人になれたのだから、近くにいてほしい。そう思ったことを、すぐに打ち消せなかった。
卒業したら、いつもの時間に駅へ行っても、伊織はいないかもしれない。昼休みに二つ隣の教室へ行くことも、昇降口に残った靴を見て、まだいると分かることもなくなる。
あと一年半ほど。ずっと先のことだと思っていた卒業が、急に数えられる長さになった。
「千景は、このあいだの大学?」
「まだ、ほかも見てる。でも、今は一番行きたい」
「そっか」
伊織が頷いた。その顔を見て、自分の行きたい場所を変えたくないことも分かった。伊織にも、そう思える場所がある。
私は、繋いだ手へ目を落とした。
「……寂しい。まだ何も決まってないのに。今から……寂しい」
口にすると、声が頼りなくなった。
「私も」
伊織の手に、少し力が入った。
「でも、行ってみたいんだ」
「……うん」
分かった、と簡単には言えなかった。寂しくなくなる答えも、思いつかなかった。
伊織は待っていた。ベンチの前を、小さな子が走っていく。そのあとを追う足音が遠ざかってから、私は顔を上げた。
「毎朝は、伊織に会えなくなるかもしれないね」
「うん」
「でも、会いたい。伊織と学校が別になっても」
「私も会いたい」
「だから……会える日、二人で決めたい。私からも誘う。伊織が来てくれるの、待ってるだけじゃなくて」
そう言うと、伊織が頷いた。
「うん、決めよう。私も行くよ。千景のところ」
どのくらい会えるのか、まだ分からなかった。受験も、その先の暮らしも、知らないことばかりだ。それでも、伊織も会いに来たいと思ってくれている。その言葉を、今は信じたかった。
「伊織。大学、決めたら教えて」
「決める前にも、話していい?」
「……うん。迷ってるところも、聞きたい。私も話すから」
伊織が頷いて、少し近くへ座り直した。肩が触れた。私は離れず、そのままでいた。
「千景」
「何?」
「……明日も会える?」
そう言われて考えると、明日は土曜日だった。学校へ行く理由も、駅で待ち合わせる約束も、まだなかった。
「……会える」
「ほんとに? どこ行こうか」
考えようとしたのに、また目が熱くなった。中学生の私が、間違えて尋ねた明日。休みだから会えないのだと、恥ずかしくなって俯いた日。
だけど今日は、会えると答えられた。
「どこでも。伊織と一緒に決めたい」
「うん」
伊織が笑った。私は繋いだ手を少し持ち上げて、握り直した。
卒業したらどうなるのか、まだ怖かった。遠くへ行ってほしくない気持ちも、消えてはいない。その話も、これから伊織にしていいのだと思った。
「伊織。明日も、こうしていい?」
手元を見ると、伊織が指を握り返した。
「いいよ。私も繋ぎたい」
私は頷いて、伊織の肩へ少しだけ寄った。明日、何時に会おうかと聞かれた。考えながらもう少しだけ、このままでいようと思った。
公園を出る前に、私たちは一度手を離した。伊織がリュックを背負う。私は鞄を肩に掛け直して、空いた手を見た。
さっき、明日も繋いでいいか聞いた。でも、今日もまだ終わっていなかった。
「伊織」
振り向いた伊織へ、手を差し出した。伊織は私の手を見て、それから顔を見た。そして照れたように笑って、指を重ねてくれた。
「……帰る間も、繋いでたい」
「うん」
指の間に、伊織の指が入る。さっきと違う繋ぎ方だった。どう握ればいいのか迷っていると、伊織がそっと力を緩めた。
「嫌?」
「違う。……慣れてなくて」
「私も」
伊織が自分たちの手を見た。その横顔に、私だけがこんなに意識しているのではないと分かって、少し安心した。安心したら、今度は嬉しくなった。
指を曲げて、握り返す。伊織も、もう緩めなかった。
いつもの帰り道には、人が増えていた。自転車が近づいてきて、二人で端へ寄る。私が半歩後ろになると、伊織が振り返った。
「千景、大丈夫?」
「うん」
自転車が通り過ぎてから、また隣へ戻った。繋いだ腕が少し揺れた。それだけで、伊織と歩いていることを何度も意識した。
赤信号で止まる。私は手元を見て、それから伊織を見た。
「千景、何?」
「ううん。伊織と……恋人なんだなって」
口にした途端、頬が熱くなった。伊織が目を瞬かせる。そのあとで、私と繋いだ手を持ち上げた。
「今?」
「さっきから、何回も思ってる」
「……私も」
伊織は前を向く。耳が少し赤かった。その顔をもっと見たかったけれど、見ていたら自分まで笑ってしまいそうで、私も信号へ目を戻した。
青になっても、歩き始めるのが一拍遅れた。伊織と同時に足を出して、二人で顔を見合わせた。
駅の改札では、定期券を出すために手を離した。いつもの動作なのに、鞄の中を探すのに手間取った。伊織が先に通り、通路を空けたところで待っていた。
私が追いつくと、伊織は何も言わずに手を差し出した。今度は迷わず、その手を取った。
*
週明けの朝、私はいつもの時間に家を出た。天気予報は見た。提出物も入れた。家を出てから一瞬不安になったけれど、玄関で確かめたファイルを思い出して、そのまま歩いた。
土曜日にも伊織と会った。待ち合わせて、歩いて、手を繋いだ。別れたあとには、次に会うのが月曜日だと分かっていた。
それでも駅が近づくと、歩くのがいつもより速くなる。
改札の前に、伊織がいた。私の恋人。まだ、頭の中でそう呼ぶたびに落ち着かなくなる。
伊織が顔を上げた。私を見つけて、片手を上げる。
「おはよう、千景」
「伊織、おはよう」
隣へ行く。いつものリュック。同じ短い髪。何年も見てきた朝の伊織なのに、顔を合わせただけで、言いたいことが増えてしまった。
「……会いたかった」
呟くと、伊織の手がリュックの紐を握ったまま止まった。
「土曜会ったよ?」
「うん」
分かっている。だから昨日は我慢したとか、そういうことでもない。今、伊織の顔を見たら、そう思った。
「今日も……会いたかった」
伊織が片手で口元を隠し、俯いた。だけど指の隙間から、口が緩んでいるのが見えていた。
「千景。朝からそういうこと言うんだ」
「……言わないほうがよかった?」
「違う」
返事はすぐだった。伊織は私を見て、はにかむように笑った。
「嬉しい。私も千景に会いたかった」
私は頷く。改札を通る前から、もう今日がいい日になった気がした。
二人で定期券を出す。改札を抜けて、ホームへ続く階段へ向かう途中、伊織が聞いた。
「千景、今日帰りどうする?」
今日の予定を考えた。放課後に残る用事はない。私は伊織を見た。
「伊織と一緒に帰りたい」
「うん。私も」
その返事が嬉しくて、また笑いそうになった。伊織も気づいたようだったけれど、今度は何も聞かず、隣でただ笑っていた。
階段では前後になった。下まで着いてから追いつくと、伊織がこちらへ顔を向ける。
「昇降口でいい?」
「うん。私のほうが早かったら、伊織を待ってる」
「私が先だったら、私が待ってるね」
私は頷いた。昔は、待っていてもらえると安心した。自分が遅れても、うまくできなくても、伊織は先に行かない。そのことに、何度も助けられた。
今も、待っていてくれるのは嬉しい。でも今日は、自分が先に着くのも楽しみだった。靴を履き替えて、伊織の姿を探す。見つけたら、今朝の伊織みたいに手を上げようと思った。
ホームに電車が入ってきた。風に揺れた伊織の袖が、手の甲に触れる。
「伊織」
「ん?」
「帰り、話したいことある」
「何?」
「土曜に買った本。昨日、読み終わったから」
「もう? 早いね」
「うん。最後、思ってたのと違って」
そう言うと、伊織が笑った。
「じゃあ、帰りに聞く」
扉が開いた。降りてくる人を待って、二人で乗り込む。奥へ進んだ伊織が振り返り、私が隣へ行くと、指先にそっと触れた。私はその手を取った。
放課後になったら、また会える。話したいことは、きっと帰るまでにも増えている。
繋いだ手をそっと握ると、伊織が握り返してくれた。
(完)



