なんでもない、の続きを

 夏休みの終わる前日の夜、私は伊織とのトーク画面を読み返していた。オープンキャンパスの話は、少しずつした。駅で迷ったこと。受付で噛んだこと。図書館の大きさ。温かいうどんを選んでしまった理由。

『後ろに並ばれると焦るよね』

 そう返ってきたとき、私は『伊織も?』と聞いた。

『あるよ。前、違う飲み物のボタン押した』

 知らなかった。何の飲み物だったのか聞くと、伊織の苦手な炭酸だった。私は笑い、それから、自分が伊織について知らないことを、いつも怖がる必要はないのかもしれないと思った。

 伊織のオープンキャンパスの話も聞いた。高梨さんたちと行った大学のこと。気になっていた学部のこと。弟と海へ行った写真も送られてきた。

 その写真には、伊織の足元しか写っていなかった。顔も見たい、と思った。でも、それは送れなかった。

 夏休みの間、私は会いたいと伊織に言えていなかった。何度か空いている日を聞こうとした。だけど『今度』まで打って、その続きを書けずに閉じた。伊織からも誘いもなかった。

 そうしているうちに、夏休みが終わる。明日は学校がある。いつもの時間に駅へ行けば、伊織に会える。

 私はスマートフォンを枕元へ置いた。目を閉じると、夕焼けとうどんの写真が、まだまぶたの裏に並んでいた。

*

 夏休み明けの月曜日、改札の前に伊織がいた。黒い短髪。いつものリュック。半袖から出ている腕が、夏休み前より日に焼けていた。

 私は足を止めかけた。写真を見ていたときよりも、久しぶりだと思った。

「おはよう、千景」

「……おはよう」

「久しぶり」

「うん」

 声も久しぶりだった。文字を読んでいるときは頭の中で聞こえていたのに、本物は少し違った。

「伊織、焼けたね」

「海行ったからかな」

「聞いた」

「そうだった」

 伊織が笑う。私も笑った。それだけで、昨夜考えていたことを全部言ってしまいそうになり、私は鞄を持ち直した。

 階段へ向かう。伊織が半歩先へ出たので、私は歩幅を広げた。隣へ並ぶと、伊織がこちらを見る。

「何?」

「ううん」

 今日は、そのまま隣を歩いた。

 始業式とホームルームが終わって昼休みになると、教室は弁当を広げる人で賑やかになった。真緒たちと机を寄せ、私も蓋を開ける。夏休みの話を聞いて、自分も少し話した。それでも廊下に足音がすると、つい顔を上げてしまった。

「榊原さんのこと、待ってるの?」

 真緒が隣から聞いた。待ってない、と言いそうになって、箸を止める。

「……うん」

 素直に頷くと、真緒が目を丸くした。私はなんだか気恥ずかしくて、弁当へ視線を落とした。

「来るって連絡あった?」

「ないけど」

「そっか」

 それだけで、真緒は私をからかわなかった。私は少し息を吐き、今度は隠さず入り口を見た。すると伊織が、弁当袋を持って立っていた。

 真緒が私を見て笑う。

「よかった、来たね」

 私は頷いた。伊織が近づいてくる。椅子を一つ借りて、机の端に寄せて座る。この席が一つ増えただけで、私はさっきとは違う気持ちでお昼を食べていた。

*

 放課後になって教室を出る前に、伊織へメッセージを送った。

『今日、一緒に帰りたい』

 たったそれだけなのに、送った指が熱かった。やっぱり『帰る?』に直そうかと思ったときには、もう既読になっていた。

『昇降口で待ってる』

 その返事を見て、私は鞄を持って立ち上がった。昇降口で靴を履き替えていると、近くに来た伊織が「今日、珍しかったね」と言った。

「何が?」

「一緒に帰りたいって」

「……だめだった?」

「嬉しかった」

 そう言われて、顔を上げられなくなった。靴のかかとを直して、立つ。伊織は先に外へ出ず、私の隣で待っていた。

 九月なのに、まだ暑かった。校門を出ると、白い日差しがアスファルトに残っている。駅へ向かう角まで来たところで、私は足を止めた。

「伊織。ちょっと、話したいんだけど」

 そう言うと、伊織が振り返る。

「いいけど、ここで?」

「……どこでも。少し、ゆっくり」

 伊織は少し考えて、住宅街の先を指した。そこには小さな公園がある。私たちは駅へ向かう道を外れ、そちらへ歩いた。

 遊具のそばでは、子どもが二人遊んでいた。木陰のベンチに座ると、膝の上へ葉の影が落ちる。伊織はリュックを膝へ置いた。

「どうしたの?」

 私は抱えていたままの鞄の持ち手を見た。口を開いて、一度閉じる。

 伊織は待っている。なんでもない、と言えば、今日もこのまま帰れる。明日の朝も会えるかもしれない。けれどまた、言えなかったことが一つ増える。

 私はスマートフォンを取り出した。写真を開こうとして、違うところに指が触れた。画面を戻す。さっきまで何度も確かめていた一枚が、見つからない。

 伊織は何も言わなかった。そのことがありがたくて、同じくらい怖かった。

 私は白いうどんの器が写った写真を、二人の間へ差し出した。

「これ、あの日……帰りに送ったやつ。お昼には、送れなかった」

 伊織が画面へ目を落とす。

「……オープンキャンパスの日?」

「うん。伊織なら、暑くないのって言うと思って」

 言いながら、少しだけ笑おうとした。だけど、うまくいかなかった。

「そう言うだろうなって思ったら、撮りたくなって。でも、送るのは……」

 指が画面の端を押した。伊織に見せるために撮ったのに、あのときは送れなかった。何を食べたかなんて、聞かれてもいなかった。急に写真だけ届いても困るかもしれないと考えて、鞄へしまった。

「帰りには、ほかのことも全部……伊織に話したくなったの。授業のこととか、図書館のこととか。乗り換えでは迷ったけど、聞いたら分かったし、ご飯も食べられたし。ちゃんと行って、帰れたのに」

 声が詰まって、私はスマートフォンを膝へ戻した。

「電車で……泣いた」

「……泣いた?」

 伊織が顔を覗き込む。その目を見たら、今ここでも泣きそうになった。

「困ったことは、もう何もなかったのに」

「千景」

「私……伊織に会いたかった」

 声が重なった。伊織が口を閉じる。今度は私が、続きを言わなければならなかった。

「話したかった。帰ってからも、次の日も。夏休み……ずっと」

 会いたいと思うたび、一人でできることを探していた。それが済めば、この気持ちを疑わずにいられる気がした。けれど一つ終わるたびに、伊織に話したいことが増えただけだった。

「私、伊織が好き……」

 言った。伊織の顔を見たまま、息を吸った。返事を聞くのが怖くて、でも、違う意味で頷かれるのはもっと怖かった。

「友達としてだけじゃ……なくて」

 伊織の指が、鞄の上で曲がった。

「千景、待って」

 口を閉じた。伊織は下を向いた。風が短い髪を揺らしても、伊織は顔を上げなかった。

 言わなければよかったと思いかけた。膝の上のスマートフォンを持ち上げ、鞄へ戻そうとする。入れ口に引っかかって、押し込む手が止まった。

「ごめん。困るよね」

「今、それ言わないで」

 その声に、私は動けなくなった。

「まだ何も言ってないから」

 伊織がこちらを見る。怒っているのか、困っているのか、分からなかった。分からないまま、聞かなければいけなかった。

 スマートフォンを鞄に収めて、手を膝へ戻す。伊織は一度息を吐いた。

「千景が、一人でできるようになりたいって言ってたのも……」

 そこで一度、言葉が切れた。

「私のこと……好きだから?」

 私は頷いた。伊織の顔を見ると声が出なくなりそうで、鞄の持ち手へ目を落とした。

「伊織に頼ってばっかりじゃ……好きなんて言えないと思った」

「どうして?」

「伊織がいないと困るから、好きだと思ってるだけだったら……」

 その先を言おうとして、喉が詰まった。伊織は何も言わず、私は両手を握り直した。

「一人でできるようになったら……ちゃんと言えると思ったの」

 隣で、伊織が息を吐いた。

「駅で、分かんないって言ってたとき……それ、あのときも考えてたんだ」

 頷くと、伊織は唇を結んだ。分からない。伊織には分からないよ。あの朝、自分が言った言葉を思い出した。本当は、分かってほしくなかったわけではない。知られたあとも隣にいてくれるのか、それが怖かった。

「言えなくて、ごめん」

 伊織はすぐには返事をしなかった。私の手元を見て、それから、小さく首を振った。

「一緒に行きたいって言ってくれたから、嫌われたわけじゃないんだって思った。ゼリーくれた日も、嬉しかった。帰りに話せたし。もう大丈夫かなって」

 あの日のコンビニが浮かんだ。入り口で足を緩めた伊織に追いついて、一緒に飲み物を選んだ。何を話すか決めていなくても、もう少し隣にいたかった。

 伊織も、あの日のことを覚えていた。

「でも、夏休みになったらさ……学校、なくなったじゃん」

 伊織が鞄の上で指を重ねる。私は頷いた。

「千景、今日は何してるのかなって思って。聞こうかなって。でも、聞いてどうするんだろうって、そこで止まってた」

「……どうするって?」

「会おうって言えばよかったんだけど。何するのって聞かれたら、何も思いつかなくて」

 伊織は少し笑おうとした。だけど、口元が動いただけだった。胸の奥が詰まった。

 私も、何度も伊織とのトーク画面を開いた。『今度』まで打って、その続きを探した。用事がなければ会えないわけではないと分かっているのに、会いたいという気持ちだけを送れなかった。

「私も……誘おうと思ってた。でも、何て送ればいいか、分かんなくて」

 伊織がこちらを見た。

「千景。オープンキャンパスの日、話したいこといっぱいあるって来たでしょ。あれ、何回も読んだよ」

 その声に、私は顔を上げた。

「嬉しかった。それで、会って聞きたいって返そうと思ったんだけど」

「……思ったの?」

「うん。でも、聞かせて、だけ送った」

 画面に届いた短い言葉を思い出した。あの返事が嬉しくて、それでも私は、いつ会えるかとは聞かなかった。

「本当は会って話したかった。文字でも嬉しかったけど。千景がどんな顔して話すのか、見たかった」

 伊織の声が少し掠れた。私は握りしめていた手を離した。爪が当たっていたところに、浅い跡が残っていた。

「私から……会いたいって言えばよかった」

「私もだよ」

 返事は早かった。私は伊織を見た。

「千景が言わなかったって、ずっと思ってたけど。私も、言ってない」

 そう言って、伊織は自分の指を見つめた。

「あの日も」

「……いつ?」

「佐伯さんと千景が購買行った日」

 弁当袋を持った伊織が浮かんだ。三組の扉のそば。私が振り返ると、上げてくれた手。

「クラス戻るって言ったのに、私、すぐには戻れなかった」

 伊織は少し俯いてから、続けた。

「千景、何か言ってくれないかなって、思ってた。帰りは一緒に、とか。明日は一緒に食べよう、とか」

 あの廊下で、私は伊織の手を見ていた。戻ってほしいなら、呼んでくれるかもしれない。普通に笑っているのだから、大丈夫なのかもしれない。そうやって、伊織の顔ばかり見ていた。

「自分で言えばよかったのにね。行ってらっしゃいって言って、手まで振ったんだから。千景には分かんないよね」

 私は何も言えなかった。伊織も、私が何か言うのを待っていた。同じ廊下で、すぐそこにいたのに。

「私さ、千景に頼まれると、ほっとしてたんだと思う」

 伊織が言った。

「一緒に来てって言われたら、行けるから。何をしたらいいか分かるし、行ったら千景も安心してくれるし。でも、自分が会いたいだけだと……」

 そこで止まった。私は続きを待った。伊織は一度こちらを見て、すぐに目を伏せた。

「来てよかったのかなって、分かんなくなる」

 そんなことを考えていたなんて、知らなかった。

 伊織はいつも、迷わず私のところへ来るように見えた。私が顔を上げたら、もうそこにいてくれた。

「何かできることがあればって、考えてた。千景の役に立てたら、その日は――」

「何もしなくていいよ」

 思わず口にすると、伊織の指が止まった。

「……それが、寂しかった」

 私は口を閉じた。違う。そういう意味ではない。反射的に言いかけて、止まった。それだけでは、また伊織に続きを考えさせてしまう。

「何もしてくれなくても、伊織に会いたいの」

 伊織が顔を上げた。私はその目を見た。声が震えたけれど、目を逸らさなかった。

「さっき、伊織にそう言いたかった」

 伊織の唇が動いた。何か言おうとして、息だけが漏れた。袖を目元へ持っていったので、そこで初めて、伊織が泣いているのだと分かった。

「……うん」

 小さな返事だった。

 私は膝の上で手を開いた。伊織が泣いているとき、どうしたらいいのか分からなかった。いつも私のほうへ伸びてきた手は、今、伊織自身の目元を押さえていた。

「困らなくなったら、伊織にこんなに会いたいとは思わなくなるのかもって……それも、怖かった」

 袖の向こうで、伊織が動きを止めた。

「でも、できたことも、伊織に話したくなった。楽しかったことも。伊織なら何て言うかなって、考えてた」

 言いながら、目の奥が熱くなった。

「一人で行けた日も、帰りには、伊織に会いたかった」

 伊織が袖を下ろした。目元が赤かった。その顔を見て、もう一度、今度は小さく言った。

「……今日も、伊織に会いたかった」

 伊織は私を見たまま、頷いた。唇を結び直して、それでも堪えきれなかったように、涙が一粒落ちた。

 私たちは、少しの間黙っていた。やがて、伊織がぽつりと言った。

「中学のとき……千景が、明日も来る? って聞いてくれたの……覚えてる?」

 白い机が浮かんだ。ちぎったパンと、牛乳パック。食器を持って立ち上がった伊織。帰ってしまう前にと、慌てて声をかけた。

「……次の日、土曜日だった」

「そう。学校、休みなのにって」

「間違えたから、恥ずかしくて」

「だけど私は、嬉しかった」

 私は伊織を見た。

「最初、嫌じゃないのかなって思ってたんだよ。プリントは先生に頼まれたけど、給食持っていくのは、私が勝手にしてたことだし」

「嫌じゃなかった」

「うん。あの日、やっと分かった」

 そう言って、伊織が目元を拭った。

「それまでは、食べ終わると、また来てもいいのかなっていつも思ってた。千景、嫌でも言わなさそうだったから」

 私は、間違えた自分のことしか覚えていなかった。伊織が何と答えたかよりも、顔が熱くて、下を向いてしまったことを。

「だから月曜になったら、また来ようって思えた。私が給食持っていっても、迷惑じゃないんだって。千景も、私を待っててくれるんだって」

 伊織の口元が少し動いた。保健室の扉が開くのを、私はいつも待っていた。伊織は毎回、ためらわずに入ってきた。少なくとも、私にはそう見えていた。

 その扉の向こうで、伊織も私の言葉を思い出していたのだろうか。

「千景。……私だけじゃ、なかったんだ」

 伊織の目から、また涙が一粒落ちた。だけど今度は、すぐに拭わなかった。

「私も……千景に会いたかった」

 伊織は鞄から手を離し、ベンチの上へ置いた。触れたいと思った。今まで何度も、差し出してもらうのを待っていた手だった。

 指先を伸ばして、途中で止めた。伊織がこちらを見る。

「伊織……手、握ってもいい?」

 尋ねると、伊織は小さく頷いてくれた。指に触れてから、手のひらを重ねた。伊織の手は動かなくて、一瞬不安になった。それでも離さずにいると、指がゆっくり曲がって、私の手を握った。

「伊織。明日、お昼、一緒に食べたい。困ってることがあるからじゃなくて、……話したいことがあるから」

「うん」

「今日、まだ話せてないこと、いっぱいあって……伊織の話も聞きたい」

 伊織の顔を見て言ったけれど、途中で息が詰まった。こんなに話したかったのに、会えば何も言えなくなる。今日もそうなりかけた。だけどもう、分かってもらえるのを待つだけにはしたくなかった。

「伊織、私から……誘ってもいい?」

 伊織が頷いた。

「うん、千景。誘ってよ」

 その声で、目の奥が熱くなった。

「私も誘うから。一人でやりたいことがある日は、そう言って。でも、また別の日に会えるって……分かるように言ってほしい」

 私は何度も頷いた。

「言う。今日は一人で行くけど、明日は一緒に、とか」

「うん」

「……でも今日は、まだ伊織に一緒にいてほしい」

 伊織が空いた手で目元を拭った。

「私も、まだ帰りたくない」

 握った手に、少し力が入った。私も握り返した。公園の向こうで、自転車のベルが鳴った。子どもたちが呼ばれて帰っていく。ベンチの足元の影が、少しずつ長くなった。

 伊織が息を整える間、私は隣にいた。話したいことはまだあった。でも、今すぐ言葉で埋めなくてもよかった。手を離さずに待っていられた。

 繋いだ手の力が、少し緩んだころだった。伊織が小さく息を吐いた。

「千景、あのさ」

「……うん」

 返事をしてから、背筋が伸びた。伊織は私たちの手を一度見て、それから顔を上げた。

「好きって言ってくれたの、嬉しかった」

 指先に力が入りそうになって、こらえた。伊織は、まだ続きを言おうとしている。だから、最後まで聞かなければいけなかった。

「でも、私……今すぐ同じように言っていいのか、まだ分かんない」

 喉が狭くなった。分かんない。その言葉だけが、一度、頭の中で繰り返された。

「……うん」

「千景に会いたいし、一緒にいたい。さっき言ったことは、本当だよ」

 伊織は言葉を探すように、少し間を置いた。

「でも、それが千景と同じ好きなのか……ちゃんと考えたい」

 私は手元を見た。伊織は離していなかったし、私も、離したくなかった。

 嬉しかったという言葉だけを、何度でも聞き直したかった。その先も同じ意味であってほしいと、もう期待していた。けれど、握り返してくれた手を、返事の代わりにしてはいけない。伊織は今、分からないと伝えてくれている。

「待つよ」

 言うと、伊織の眉が少し下がった。

「……いいの?」

 本当は、今すぐ好きだと言ってほしかった。家に帰ってからも、明日の朝、駅へ向かうときも、今日の言葉を思い出して安心したかった。

「怖くないわけじゃ、ないけど」

 伊織の顔を見た。大丈夫と言ってしまえば、伊織を困らせずに済むかもしれない。でも、それではまた、私が黙ったところを伊織に考えさせてしまう。

「私も、いっぱい考えたから。伊織だけ、今ここで決めてっていうのは……」

 うまく続かなくて、一度息を吸った。

「ちゃんと、伊織の返事が聞きたい」

 伊織はしばらく私を見ていた。それから、ゆっくり頷いた。

「うん。考える」

「……うん」

「話してくれて、ありがとう」

 目を伏せた。嬉しいのか、泣きたいのか、自分でもよく分からなかった。伊織と繋いだ手の、親指の付け根が触れていた。今はその感触を、ただ覚えていたかった。

 夕方の風が吹いた。伊織が空いた手で、頬にかかった髪を払っていた。

「千景。私もさ、ちゃんとしてないとって思ってたよ」

「……何を?」

「千景が一人で頑張ってるから。私だけ前みたいに一緒にいたがったら、困らせるかなって。寂しいとか、言わないほうがいいんだと思ってた」

 伊織が手元へ目を落とした。私は、その横顔を見た。いつも先に歩いて、私を振り返ってくれた人だった。待っていてくれることに安心して、その間伊織がどんな気持ちなのか、私は聞こうとしなかった。

「言ってほしいよ。すぐにうまく返せないかもしれないけど……今日みたいに、変なこと言うかもしれないけど」

 そう言うと、伊織がこちらを向いた。私は繋いだ指を、少し握り直した。

「知らないままでいるのは……嫌だ」

 伊織は唇を結んで、それから、小さく頷いた。

「……うん」

「ちゃんとしてなくても、伊織に会いたいよ」

 今度は、言ったあとも目を逸らさなかった。伊織が笑おうとして、少しだけ困った顔になった。それを見ても、理由を急いで確かめたくはならなかった。

「それに私も……また一緒に来てって、伊織に言うと思う」

「言ってよ」

 返事が早くて、私の口元も緩んだ。

「うん」

 私は繋いだ手に、もう一方の手を添えた。何か約束を増やせば安心できる気もしたけれど、今日はもう、たくさん聞いてもらった。伊織の言葉も聞いた。

 隣に座ったまま、二人でしばらく何も言わずにいた。

*

 公園を出るとき、私たちは一度手を離した。伊織がリュックを背負い、私も鞄を持つ。空いた手をどこへ置けばいいのか分からず、鞄の紐に添えた。

 歩き始めても、手のひらに触れていた形が残っている気がした。もう一度繋ぎたいとは、まだ言えなかった。伊織も手を伸ばさなかったけれど、歩く速さは同じだった。

 いつもの帰り道へ戻ると、コンビニの明かりが見えた。自動ドアが開いて、冷たい空気が少し流れてきた。

「寄る?」

 私から聞くと、伊織がこちらを見た。

「時間、大丈夫?」

「うん。伊織は?」

「私も」

 二人で中へ入った。明るい店内では、さっきまでの顔を誰かに見られそうな気がした。けれど、レジの人は会計をしていて、お菓子の棚の前には誰もいなかった。

 伊織が、見たことのない袋を一つ手に取った。私はその横から覗き込む。

「これ、おいしいのかな。千景はどう思う?」

「しょっぱそう。喉渇くよ」

「じゃあ飲み物もいるね。買ってくか」

 軽い声に、思わず笑ってしまった。すると伊織がこちらを見て、同じように笑った。

 好きだと言ったあとにも、こんな話ができるのだと思った。何を言っても意識されて、気を遣われて、いつものようには話せなくなるかもしれない。言う前は、その先ばかり怖かった。

 伊織は袋を裏返して、何か確かめていた。私は隣で、棚の値札を見た。さっきまで泣いていた人と、今はお菓子の値段を見ている。そのことが、不思議なくらい嬉しかった。

「千景は何か買う?」

「まだ迷ってる」

「そっか」

 伊織は自分の袋を持ったまま、隣の棚へ目を向けた。急かさずにいてくれる。私はもう少し近くへ寄って、同じ棚を見た。

 私たちは、まだ恋人ではない。家に帰れば、きっとまた今日の言葉を思い返す。分からないと言われたところで不安になって、嬉しかったと言われたところへ戻るのだと思う。

 それでも、明日のお昼は一緒に食べる。伊織と決めた、その約束があった。

「これ、どうかな」

 気になった袋を指すと、伊織が覗き込んだ。

「それもしょっぱそうじゃん」

「……ほんとだ」

 二人で笑った。私はその袋を手に取った。伊織はまだ決めかねているようで、もう一つ、隣の商品へ手を伸ばしていた。

 私は急かさずに、その横で待っていた。