なんでもない、の続きを

 四月になっても、朝の駅前はまだ寒かった。

 カーディガンの袖から指先だけを出し、スマートフォンの画面をつける。七時四十二分。いつもより二分早い。改札の脇へ寄って、もう一度鞄のファスナーを開けた。

 提出するプリントはある。弁当も入っている。定期券も、鞄の内ポケットに入っている。それでも鞄の中のファイルに触れてから、ファスナーを閉めた。昨夜、机に並べて確かめたものばかりなのに、朝になると何かを忘れた気がした。

 改札の向こうでは、ホームへ下りる階段に人が途切れず流れている。一本早い電車にも、たぶん間に合う。私は改札の手前に立ったまま、スマートフォンを握り直した。

「千景、おはよう」

 そう言われて顔を上げるより先に、肩の力が抜けた。

「……おはよう、伊織」

 伊織は、いつもの黒いリュックを肩にかけていた。春休みに切ったという短い黒髪が、駅へ吹き込む風で少しだけ揺れる。耳が半分ほど見えている。寝癖はない。

 私は朝、鏡の前で何度も襟を直した。伊織はきっと、そんなことをしなくてもちゃんとしている。

「千景。今日、クラス発表だね」

「うん」

「同じだといいね」

 私は頷いた。大きく頷きそうになって、途中で顎を引く。同じがいい。そのためにできることがあるなら、何でもしたかった。もう決まっている紙の上の名前を、今からどうすることもできないと分かっていても。

 中学から高校までの四年間、伊織とは同じクラスになってばかりだった。去年も同じだった。朝は駅で会い、昼には机を向かい合わせて、帰りも予定が合えば一緒に帰る。何時に会おうと、毎日連絡しているわけではない。いつもの時間にここへ来れば、伊織がいる。今日は、伊織が来るまでの二分が長かった。

 二人で改札を通り、階段を下りた。電車に乗ると、並んで座れた。私は膝の上の鞄を抱え、窓に映った伊織の顔を見た。

「千景。もしクラスが離れたら、お昼どうしよっか」

「……別に、一人でも平気」

 聞かれたこととは違う答えになった。伊織がこちらを見る。

「ほんと?」

「だって、もう中学生じゃないし」

 言いながら、鞄の持ち手を握った。伊織はその手を見ずに、前へ向き直った。

「そっか。でも私は千景と食べたいな。離れても、昼は会えるよ。帰りも」

 電車が動き出す。膝が少し触れて、離れる。

「……うん」

 もう一度頷いた。だけど今度は、その頷きを小さくするのを忘れた。

*

 昇降口の掲示板の前は、人でいっぱいだった。新しいクラス分けの紙を見ながら、あちこちで声が上がる。人の肩の隙間から、三組の紙が見えた。水瀬千景。自分の名前を見つけて、その上と下を探す。もう一度、一番上から読む。榊原伊織の名前はなかった。

「千景は三組?」

「……うん」

「私、五組だ」

 伊織が指した紙にも、私の名前はない。当たり前のことを、目でもう一度確かめた。

「別れたね」

 私は返事の代わりに、掲示板から一歩下がった。後ろの人に肩がぶつかり、慌てて頭を下げる。「すみません」は、自分にも聞こえないくらい小さかった。

 伊織が横へ寄って、私が立てる場所を空けた。

「お昼、三組行くね」

「……来なくてもいいよ」

 言った途端に後悔した。伊織が五組の紙を見る。その一瞬に、続けなければと思った。

「だって伊織も、友達……できるかもしれないし」

「うん、千景もね。私が来たら困る?」

 私は首を横に振った。今度ははっきりと。

「じゃあ行く」

 伊織は笑って、階段のほうへ歩き出した。私もついていく。廊下の途中に三組の札があった。その前を通り過ぎかけて、伊織に呼ばれた。

「千景、ここでしょ。またあとでね」

「あ……うん」

 足を止めた。伊織が苦笑して、五組へ向かう。私は三組の扉の横に立ったまま、その背中を目で追っていた。

 一度だけ振り返った伊織に、手を上げようとした。けれど、ちょうど後ろから来た子が「通っていい?」と言い、私は慌てて身体を引いた。

「ごめんなさい」

「ううん」

 その子は笑って、教室へ入っていった。もう一度廊下を見ると、伊織の背中はもうなかった。

 席は窓側から二列目、後ろのほうだった。黒板の座席表を二回見てから、机に鞄を置く。周りでは、もう会話が始まっていた。去年のクラスの話。担任の話。春休みに何をしていたか。椅子を横へ向けて座っている人もいる。

 私は机の上に筆箱を置いた。端と平行になるように直す。まだ使わないと気づいたけれど、鞄へ戻すのも変な気がして、そのままにした。

「あ、水瀬さんだよね?」

 机の端を見つめていると、前の席の女の子が振り返った。

「私、佐伯真緒。去年選択科目一緒だったよね?」

「水瀬、千景です」

 言ってから、もう名前を呼ばれていたことに気づく。顔が熱くなった。

「うん。よろしくね」

「……よろしく」

 声は届いただろうか。真緒が笑ったので、私も口元を動かした。何か聞けばよかった。去年の先生のことでも、春休みのことでも。けれど真緒の向こうから別の子が声をかけ、真緒はそちらを向いた。

 私は筆箱のファスナーに触れた。そして開けずに、指を離した。

 始業式のあと、教室で新しい担任から説明があった。年間予定表。教科書販売の案内。プリントが何枚も前から回ってきて、自分の分を取って後ろに回す。だけど最後に回ってきた用紙は、二枚しかなかった。

 指先で端をずらして、もう一度数えた。やっぱり二枚。私の後ろには、まだ二人いる。振り返ると、後ろの席の子が手を出していた。私は二枚とも、その手に渡した。

「ありがと」

 その声に小さく頷いて、前を向く。真緒はもう黒板を見ていた。

「最後に配った用紙は、裏の下に保護者の署名をもらって。来週の月曜までな」

 先生が用紙を掲げた。さっき、私が後ろへ回したものだった。机の上には、それまでのプリントが重なっている。端を揃えてから、顔を上げた。先生は黒板に提出日を書いていた。

 今なら手を上げられる。口を開きかけたところで、前のほうの子が質問した。

「先生、これ兄弟いる場合も一人ずつですか」

「ああ、それぞれ出して」

 先生が答える。その間に、私は手を机へ戻した。一枚足りません。頭の中では言えていた。だけど、先生がこちらを向くのを待っていたら、次の説明が始まってしまった。

 真緒の背中を見る。肩を叩けばいい。一枚足りなかった、と言えばいい。だけど、説明を聞いているのを邪魔してしまう。

 ひと通りの説明が終わると、今度は椅子が一斉に動いた。トイレへ行く人、机を寄せる人。先生は出席簿を閉じ、前の扉へ向かっていた。

「……あの」

 その声は、椅子の音に消えた。先生が出ていく。私は立ち上がれなかった。黒板に残された提出日だけを、スマートフォンへ書き写した。だけど用紙は、ないままだった。

*

 昼休み、弁当を出しても蓋を開けられなかった。職員室へ行けば、きっともらえる。先生の名前もさっき聞いた。用紙が足りなかったと伝えるだけでいい。

「千景」

 名前を呼ばれて顔を上げると、伊織が弁当袋を持って教室の入り口に立っていた。その姿を見た瞬間、息が長く出た。

「……ほんとに来た」

「来るって言ったじゃん」

 伊織は近づいて、私の机を覗いた。広げたままのプリントと、その横の弁当箱を見る。

「お昼、まだ?」

「まだ」

 真緒は教室の前の方で、友達と話しているところだった。伊織が椅子を借りていいか尋ねると、「いいよ」と笑って譲ってくれた。私は真緒のほうを見て、小さく頭を下げた。

「三組、どう?」

 前に座った伊織に聞かれ、私は紙の端を指で押さえた。

「……一枚、ない。署名するやつ」

「プリント? 回ってこなかったの?」

「足りなくて。後ろに回したら、私の分……なくなった」

「先生に言った?」

 首を横に振る。伊織は「なんで」とは聞かなかった。弁当袋を机へ置いて、紙を一枚ずつ見た。

「うちにも同じの来たよ。職員室に予備あるんじゃない? あとで行く?」

 私は頷きかけて、止まった。職員室の扉を開けるところを想像すると、喉が狭くなる。

「……一緒に」

 そこで声が切れた。伊織が待っている。

「行って、ほしい」

「いいよ。食べてからね」

 伊織は自分の弁当を開けた。私はプリントをファイルにしまい、ようやく自分の弁当箱の蓋を開けた。伊織の弁当には卵焼き、ブロッコリー、小さなハンバーグ。いつものおかずが並んでいる。だけど卵焼きの端の方が、少し黒かった。

「伊織。それ……自分で作ったの?」

「うん。分かる?」

「焦げてる」

「そこ見ないでよ」

「見えるよ」

 そう言ってから、口元が緩んだ。伊織も笑う。

「弟に、炭じゃんって言われた」

「そこまでじゃない」

「でしょ。千景は分かってくれると思った」

「だって、茶色いところのほうが多いし」

「庇い方が微妙」

 笑ったら、朝から固かった頬が少し痛かった。伊織が卵焼きを一つ持ち上げる。

「千景、食べてみる?」

「……いいの?」

「味は普通。保証する」

 伊織に弁当の蓋に置いてもらい、食べてみる。甘い味がしたけれど、端だけほんのり苦い。

「おいしい」

 そう言うと、伊織が私を見た。

「ほんと? じゃあ、弟が悪いな」

「悪くないでしょ」

 また笑ってしまった。前の席の向こうで、真緒が一瞬こちらを見た。目が合うと微笑んで、そのまま友達との話へ戻っていく。私は箸を持ったまま、少し俯いた。でも、伊織が「千景の卵もおいしそう」と言ったので、弁当箱を前へ寄せた。

*

 職員室の前まで、伊織は一緒に来てくれた。

「千景、言えそう?」

 扉の横で聞かれた。私は頷いて、扉を開ける。先生たちの机が並んでいる。だけど結局誰に声をかければいいのか分からず、伊織のほうを見てしまった。伊織は少し待ってから、近くの先生に担任を呼んでもらった。

「どうした?」

 担任が出てきた。私は持ってきたプリントを差し出そうとしたけれど、足りないものはこの中にはないと気づいて、慌てて下げた。

「あの、一枚……」

 先生が耳を寄せる。

「プリント、足りなくて。最後に配ってたものが……」

「ああ、署名のやつか。悪かったな」

 先生はすぐに一枚持ってきた。私は受け取り、ありがとうございますと言ったつもりだった。頭を下げて廊下へ戻る。用紙を見ると紙の端に、指の跡がついていた。

「もらえたね」

「……うん、ありがと」

「戻ろ。もうすぐ予鈴」

 伊織は先に歩き出して、私はその隣へ急いだ。伊織がいなかったら、今日はもらえなかったかもしれない。そう思うと、安心したあとで少しだけ顔が熱くなった。

*

 放課後、伊織から『昇降口で』とメッセージが届いた。それを見て、ようやく今日が終わった気がした。鞄を持ち上げると、真緒が「水瀬さん、また明日」と声をかけてくれた。

「……また明日」

 返事はできた。だけど自分からは、まだ呼べなかった。

 昇降口で伊織に会って、今まで通り駅まで歩いた。道路脇の桜が、風に花びらを落としている。

「伊織……五組どうだった?」

「普通。だけど、隣の子がすごい喋る」

「伊織より?」

「私そんな喋る? 千景にだけじゃない?」

 私は足元を見た。靴の先を、薄い花びらが追い越していった。

「……知らない」

 伊織は笑った。駅へ着くころには、明日のことを考えていた。三組へ入るときは、また一人だ。真緒におはようと言えるだろうか。今日もらった紙には、帰ったら母に署名してもらわないといけない。

「千景。明日、卵もうちょっとうまく焼く」

「また作るの?」

「今日おいしいって言ったから。リベンジ」

 伊織は前を向いたまま言った。昼になれば、伊織は来てくれる。

 私は鞄の持ち手を握り直した。明日の朝も、ここで伊織に会える。帰りも、きっと一緒に帰れる。

「伊織、焦がさないでね」

「頑張る」

 私は今日変わってしまったものを、その約束の後ろへそっと押し込んだ。