後宮の影帝

 梅雨が明けた。
 後宮の庭に夏の陽が差し込み、白い百合が咲き乱れる頃、清良を取り巻く空気は、静かに、しかし確実に変わりつつあった。
 清良が戻って一ヶ月。その間に、後宮の水面下ではいくつもの動きがあった。女官の人事が静かに入れ替わり、帝への報告経路が整理され、妃たちへの物資の流れが精査された。どれも目立たない変化だったが、後宮の古株たちは肌で感じていた。何かが確実に変わり始めていると。
 綾乃もまた、その変化の中にいた。
 清良に呼ばれて話を聞くようになってから、綾乃は後宮を動く目が変わっていた。廊下での噂話に耳を澄ませ、女官たちの表情を読み、妃たちの動向を注意深く観察した。それは諜報などという大げさなものではなく、ただ、清良の力になりたいという気持ちから来る自然な行動だった。
 そしてある朝、綾乃は気づいてしまった。
 若宮が、麗妃の侍女と、誰にも見えない場所で密かに言葉を交わしているところを。
 場所は後宮の東外れにある古い蔵の裏。綾乃はたまたま、そこに迷い込んだ子猫を捕まえようとして、角を曲がったところで二人を見た。侍女は綾乃に気づいて顔を青くしたが、若宮は瞬時に笑みを浮かべ、
「こんなところでお会いするとは」
と飄々と言った。
 綾乃は何も聞かなかった。何も見なかったように振る舞った。しかし、胸の中では確信が固まっていた。
(若宮様は、麗妃様と通じている)
 清良が、「若宮には別の目的がある」と言っていたことを、綾乃は思い出した。その言葉の意味が、今ようやくはっきりした。

 その夜、綾乃は清良に全てを話した。
 清良は話を聞き終えると、しばらく黙っていた。それから、
「ご苦労だった」
と言った。その声音には、驚きがなかった。やはり、ある程度は予測していたのかもしれない。
「どうなさいますか」
と綾乃が聞くと、清良は、
「準備が整った」
とだけ答えた。

 それから三日後、後宮に異変が起きた。
 清良が、麗妃と若宮を帝の御前に召喚した。
 御前への呼び出しは前触れなく、早朝に行われた。後宮全体に張り詰めた緊張が漂い、女官たちは誰も廊下を歩こうとせず、部屋の奥で息を潜めていた。綾乃だけが、清良の側近の一人に呼ばれて、御前の間の外に控えていた。
 障子越しに、声が聞こえてきた。
 まず清良の声が、静かに、しかし揺るぎなく何かを述べた。次いで、麗妃の甲高い声が「言いがかりです」と叫んだ。若宮の声は聞こえなかった。沈黙の方が、雄弁だった。
 そして、帝の低い声が響いた。
 綾乃には、言葉の全てが聞き取れたわけではなかった。だが、清良が突きつけた証拠の重みは、障子の外まで伝わってきた。麗妃が女官たちを操り、帝への報告を改ざんしてきた証拠。若宮が麗妃と通じ、清良の動向を麗妃に流していた証拠。そして、綾乃への偽証が麗妃の指示によるものだった証拠。
 どれも、清良が一ヶ月かけて、丹念に積み上げてきたものだった。
 沈黙の後、帝の声が判決のように告げた。
 麗妃は後宮を去り、実家への蟄居を命じられた。若宮は清良の側近を解かれ、都の外への異動を命じられた。

 清良の表情は、いつも通りの無表情だった。しかし、綾乃にはその目の奥に、長い戦いを終えた者だけが持つ、疲労と安堵が混在しているように見えた。
 清良は綾乃に目を向け、短く言った。
「終わった」
 それだけだったが、綾乃にはその言葉の重さが十分にわかった。一ヶ月ではない。十年間、清良が積み上げてきたものが今日、一つの形になった。
「お疲れ様でございました」
 綾乃は深く頭を垂れた。清良はしばらく黙っていた。
「行くぞ」
 清良が歩き出した。綾乃はその後に続いた。

 後宮の庭に、夏の風が通り抜けた。
 清良は縁側に腰を下ろし、庭を眺めていた。百合の花が、風に揺れている。麗妃が去った後の後宮は、不思議なほど静かだった。あれほど張り詰めていた空気が、ふっと抜けたような、奇妙な軽さがある。
 綾乃は清良の傍らに控えていた。しばらく二人とも無言だったが、やがて清良がゆっくりと口を開いた。
「綾乃」
「はい」
「そなたに、言わなければならないことがある」
 その言葉に、綾乃は思わず清良の横顔を見た。いつもの無表情が、今日は少しだけ違って見えた。どこかに、迷っているような、珍しい色がある。
 清良は庭を見たまま、続けた。
「そなたを……側室に迎えたい」
 沈黙が落ちた。
 綾乃は、その言葉の意味を、一瞬うまく理解できなかった。それから、じわじわと意味が染み込んでくるにつれ、胸の中に複雑な感情が渦巻いた。
 嬉しい、という気持ちが確かにあった。清良がそれほど自分を大切に思ってくれているということへの、純粋な喜び。
 同時に、何か引っかかるものもあった。綾乃は少しの間、庭の白い百合を見つめた。風に揺れる花びらが、ゆらゆらと揺れている。それを見ながら、自分の胸の中を確かめた。
 清良のことが好きだ。それは、今やはっきりとわかっていた。弟への情でも、主君への忠義でも、もはやない。一人の人間として、清良のことが、好きだ。
 だからこそ。
「清良様」
 綾乃は、清良に向き直った。清良が初めて綾乃を真正面から見た。
「側室には、なれません」
 清良の目に、驚きが走った。それはこれまで見たことのない、清良の素直な表情だった。
「……なぜだ」
「側室とは、清良様の庇護を受ける立場です。守っていただく立場です。でも、私は……」
 綾乃は言葉を探した。胸の中にあるものを、正確に伝えたかった。
「私は、清良様の隣を、歩きたいのです。清良様に守っていただくのではなく、清良様の隣で、同じものを見て、同じことを考えて、時に支え、時に支えられる、そういう関係でありたい」
 清良は黙っていた。その目に、何かが揺れていた。
「側室という形では、それができません。私が清良様の庇護の下に入った瞬間、私たちの間には、主と臣の壁ができてしまいます。私はその壁の向こうから、清良様を見上げることしかできなくなる。それは……嫌です」
 最後の言葉は、少し震えた。綾乃は自分でも驚いた。これほどはっきりと、自分の気持ちを口にしたのは、初めてだった。
「対等な、伴侶として……共に歩みたいのです。清良様」
 沈黙が、長く続いた。
 庭の風が、百合の花を揺らした。遠くで、夏の鳥が鳴いた。
 やがて、清良が小さく笑った。
 それは、綾乃がずっと探していた笑顔だった。冷徹でも、計算高くもない。「影の帝」の仮面の下にある、あの十三歳の少年が持っていたような、柔らかくて、少しだけ照れくさそうな笑み。
「……本当に、昔から変わらないな」
「そうでしょうか」
「ああ。俺の提案を、こうもあっさり断るのはそなただけだ」
 清良は苦笑するように言った。それから、少しの間、庭を見た。
「対等な伴侶、か」
「はい」
「俺には……そういう関係を、うまく築けるかどうか、わからない」
 その言葉には、珍しく、率直な不安が滲んでいた。「影の帝」が初めて見せる、人間らしい弱さだった。綾乃の胸が、温かくなった。
「私も、わかりません」
と綾乃は答えた。
「でも、わからないまま、一緒に考えていけるのが、伴侶というものではないでしょうか」
 清良はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、綾乃の方へ向き直った。その目に、決意のような光が宿っていた。
「では」
 清良が、静かに言った。
「改めて、そなたを口説くことにしよう」
 綾乃は思わず目を丸くした。
「口説く、とは……?」
「そなたが言った通りだ。側室に迎えようとしたのは、俺の間違いだった。そなたはそういう形を望んでいない。ならば……」
 清良は、かすかに笑みを保ったまま、綾乃を見た。
「俺が、そなたに選んでもらえるよう、努力するしかない。女官の綾乃に、一人の男として、正面から向き合う。それで対等と言えるかどうかはわからないが」
 綾乃の胸が大きく鳴った。
「清良様……」
「まずは、名前を呼ばせてほしい。『綾乃』と」
「……今も、そう呼んでくださっています」
「いや、以前とは違う意味で」
 その一言の重さに、綾乃は言葉を失った。頬に、じわりと熱が上がってくるのを感じた。
「それから」
と清良は続けた。
「女官を辞める気があるなら、その後のことは、俺が考える。強制はしない。そなたが望むなら、女官のままでも構わない。だが、そなたが望むなら……俺の隣に、立ってほしい」
 綾乃はしばらく、清良の目を見つめた。
 その目に嘘はなかった。策略も計算もなかった。ただ、一人の男が一人の女を見る、真剣な目だった。
 綾乃は深く息を吸い込んだ。
「……謹んで」
 少しだけ、声が震えた。
「お受けいたします」
 清良の口元にまた、あの笑みが浮かんだ。今度は、もっと確かに、もっと温かく。
「では、これが始まりだ」

* * *

 秋が来た。
 後宮の庭に、金木犀の香りが漂い始めた頃、後宮はすっかり姿を変えていた。
 麗妃が去った後、清良は帝とともに後宮の改革を進めた。女官たちの人事制度が整えられ、妃たちへの物資の管理が厳正になり、これまで罷り通っていた陰湿ないじめや権力の横用が、次第に駆逐されていった。簡単ではなかった。清良への反発も当然あった。しかし、清良は一つひとつ丁寧に、そして時に容赦なく、膿を出し続けた。
 帝もまた、少しずつ変わっていた。弟の姿を間近で見て、優柔不断と言われた陛下が、初めて自分の言葉で判断を下す場面が増えていった。後宮の女官たちの間では、「陛下がお変わりになった」という声がそっと囁かれていた。
 若宮は都の外へ去った。去り際に若宮は綾乃に「俺の読み違いだった」と一言だけ言い残した。その表情には、悔しさとも諦めとも取れる、複雑な色があった。清良は若宮を追及することなく、ただ静かに送り出した。その理由を、清良は語らなかった。
 綾乃は女官を辞した。
 長年仕えた後宮を去ることは、思っていたより感慨深かった。最後の日、女官頭が、
「あなたは変な子だったけれど、随分立派になったわね」
と言いながら泣いた。綾乃も泣いた。十年間の日々が、走馬灯のように流れた。

 その夜、清良と二人で後宮の庭を歩いた。
 金木犀の香りの中、石畳の上を、二人並んで歩く。清良は相変わらず、ほとんど余計なことを喋らなかった。それでも以前とは違い、沈黙の中に棘がなかった。ただ、穏やかな静けさがあった。
「清良様」
「何だ」
「覚えていらっしゃいますか。十年前、この庭で清良様が蝶を追いかけていたこと」
 清良が、少しだけ足を止めた。
「……覚えている」
「あの時、私が声をかけたら、清良様は転んでしまって」
「転んでいない」
「転びかけていらっしゃいました」
「……転んでいない」
 綾乃は笑いをこらえながら、
「そうでございましたね」
と答えた。清良がわずかに口元を動かした。
「あの頃は、細かいことをよく覚えていたな」
「今も覚えています。清良様が縁側から落ちかけたことも、帝のご学問に遅刻なさったことも、梅干しが苦手で顔をしかめていらしたことも」
「……全部覚えているのか」
「はい」
と綾乃は答えた。
「清良様のことは、全部覚えています」
 清良がまた足を止めた。今度は振り返り、綾乃を見た。庭の燈籠の光の中で、その目が静かに綾乃を見つめていた。
「綾乃」
「はい」
「俺は……長い間、一人だった」
 その言葉は、静かだった。訴えるでも、嘆くでもなく、ただ事実として。
「辺境にいた十年。都に戻ってからの日々。誰かを信頼することも、誰かに心を開くことも、俺にはできなかった。できないようにしなければ、生き延びられなかった」
「清良様……」
「だが、そなたといる時だけは」
 清良は少し間を置いた。その目に、燈籠の光が揺れた。
「人間に戻れる気がした。そなたがいなければ……俺は、この後宮を変えることができたとしても、何か大切なものを失ったまま、終わっていたかもしれない」
 綾乃は、清良の目を真っすぐに見た。
「清良様が、大切なものを失わずにいられたなら……私も、ここにいた意味がありました」
「意味があった、で済ますつもりか」
「え?」
 清良が、かすかに眉を動かした。
「そなたがいなければ、この国は救えなかった。それだけ言っても足りないか」
 その言葉の意味を、綾乃はゆっくりと受け取った。足りない、という言葉の意味を。
「……足りません」
と綾乃は答えた。
「もっと、仰ってください」
 清良が一瞬、目を瞬かせた。それから、小さく、確かに笑った。
「強情な奴だ」
「清良様に言われたくはありません」
「……そうだな」
 清良はまた歩き出した。今度は、少しだけ綾乃に近い距離で。その手が、そっと綾乃の手に触れた。触れた、というよりも、重なった。ためらいながら、しかし確かな意志を持って。
 綾乃は手を引かなかった。
 二人はそのまま、金木犀の香りの中を歩き続けた。後宮の石畳が、燈籠の灯りにやわらかく照らされていた。遠くで、風が木の葉を鳴らした。
「清良様」
「何だ」
「これから、よろしくお願いいたします」
 清良は少しの間、黙っていた。
「ああ」
 短い返事だったが、その一言に、これまでの全てが込められているようだった。
 綾乃は微笑んだ。
 後宮の庭に、秋の夜風が吹き抜けていった。金木犀の香りが、二人の間を通り過ぎ、夜の空へと昇っていった。
 かつて腐敗と陰謀に満ちたこの場所に、今は静かな、新しい風が吹いていた。
 それはまだ、始まりに過ぎなかった。しかし始まりとは、いつも小さくて、静かで、そして何よりも確かなものだ。
 綾乃と清良の、新しい始まりだった。


< 了 >