後宮の影帝

 しとしととした雨が降り始めた夜だった。
 綾乃は清良に呼ばれ、またひとり、後宮の夜道を歩いていた。雨除けの傘を手に、足元を気にしながら渡殿を進む。こうして夜に清良のもとを訪ねるようになって、すでに半月が過ぎていた。
 はじめは戸惑いもあった。いくら昔馴染みとはいえ、女官が「影の帝」と呼ばれる男の居室へ夜ごと赴くことは、後宮の目には奇妙に映るだろう。事実、すれ違う女官の何人かが、あからさまに怪訝な顔をした。麗妃の件が落ち着いてなお、綾乃への視線はどこか値踏みするような色を帯びていた。
 しかし、綾乃は足を止めることができなかった。
 それは義務でも、命令でもなかった。ただ、清良のそばにいると、何かが少しずつ解けていくような感覚があった。氷のように冷たいあの表情の奥に、まだ自分の知っている清良がいると感じるたびに。

 障子を叩くと、「入れ」と短い返事があった。
 部屋に入ると、清良は机の前に座り、文書の束に目を通していた。燭台の灯りが、その横顔を照らしている。綾乃が礼をすると、清良は文書から目を離さずに「座れ」とだけ言った。
 綾乃は清良の斜め向かいに座り、彼の仕事が片付くのを待った。こういう時間も、最近では珍しくなくなっていた。清良が無言のまま仕事をし、綾乃がただそこにいる。言葉を交わすわけでもないのに、その沈黙は不思議と苦にならなかった。
 やがて、清良が筆を置き、一つ息をついた。
「今日は、そなたに話しておきたいことがある」
 その言葉の重さに、綾乃は姿勢を正した。
「かしこまりました」
 清良は少しの間、燭台の炎を見つめた。それから話し始めた。
「俺が都を離れたのは十年前だったな」
 清良の声は、いつもより低く、ゆっくりとしていた。
「そなたはおそらく父上、先の帝が俺を辺境へ追いやったのだと思っているだろう」
「……そのような噂は、耳にしておりました」
 清良は小さく頷いた。
「半分は正しい。だが、半分は違う」
 綾乃は黙って続きを待った。
「父上が俺を辺境に遣わしたのは、確かに兄上との争いを恐れてのことだった。しかし、俺はその命に従うことを、むしろ望んでいた」
「……望んで、いらしたのですか」
「ああ」
 清良の目が、過去を見るような色になった。
「あの頃の俺は、都にいることが苦しかった。父上は病がちで、政は側近に委ねられ、後宮では妃たちが覇権を争い、帝位を巡る暗闘が水面下で続いていた。兄上は、今の陛下は優しいお方だ。しかし、あの頃からすでに、難しい判断から目を逸らす癖があった」
 清良の声に苦みが滲んだ。
「この国はいったいどこへ向かうのか。何もできない自分が、たまらなく嫌だった」
 綾乃は、清良の横顔を見つめた。
 十年前、あの少年は確かに、おっとりした優しい弟だった。しかし、それは外から見た姿に過ぎなかったのかもしれない。その内側にこれほどの焦燥と葛藤があったとは、当時の綾乃にはうかがい知ることはできなかった。
「辺境へ発つ前日、俺はこの後宮の庭を一人で歩いた。覚えているか。あの日、俺に声をかけたことを」
 綾乃は覚えていた。清良が一人で梅の木の下に座っていて、綾乃が何気なく声をかけたのだった。
「明日からしばらく、お会いできなくなりますね」
と言ったら、清良は、
「姉上、泣いているのか」
と笑った。
「泣いていません」
と言い張ったが、目が赤かったのは自分でもわかっていた。
「覚えております」
と綾乃は答えた。
「清良様は、笑っていらっしゃいましたよ」
「泣くわけにはいかなかった」
 清良は少し間を置いた。
「そなたを泣かせてしまったことが恥ずかしかった」
 綾乃は、胸が小さく痛むのを感じた。あの頃の清良が、十三という年齢で、どれほど多くのものを抑えていたか。
「辺境は過酷だった」
 清良の声が変わった。感情を殺したような語り口になった。
「最初の冬で従者が二人死んだ。飢えと寒さで。従者たちは俺のせいで死んだようなものだ」
「清良様……」
「悲しんでいる暇はなかった。悲しめば、次に死ぬのは自分だったからだ。生き延びるために俺は変わるしかなかった。感情を外に見せれば足元を掬われる。迷えば、判断が遅れて人が死ぬ。そういう場所だった」
 綾乃は声が出なかった。十年間、この人がどれほどの重さの中で生きてきたか。その一端が見えた気がした。
「三年目に、初めての戦があった。辺境の賊が村を焼いた。俺は軍を動かし、賊を鎮めた。その時、俺は自分が動けば物事が変わるということを知った」
 清良の目に、かすかな光が宿った。後悔でも誇りでもなく、それよりもずっと複雑な何かが。
「その頃から、俺はある考えを持つようになった。この国を救えるのは、自分しかいないのではないかと」
 その言葉は、傲慢には聞こえなかった。それよりも、絶望の中から絞り出したような、切実な決意として響いた。
「陛下はお優しい方だが、決断はできない。側近たちは自分の利益を守ることしか考えていない。後宮は腐り続けている。誰かが変えなければ、この国は内側から崩れていく。そう気づいた時、俺は都に戻ることを決めた」

 清良は一度言葉を切り、立ち上がった。縁側の障子を開けると、夜雨の音が流れ込んできた。
「辺境での十年で俺は学んだ。政の在り方、軍の動かし方、人の心の読み方。だが、最も重要だったのは、『信頼できる人間を見極める目』だ」
 清良は、雨の降る庭を眺めながら言った。
「後宮に戻ってみて、すぐわかった。ここにいる者のほとんどは、俺を利用しようとしているか、俺を恐れているかのどちらかだ」
 綾乃は黙って聞いていた。
「若宮でさえ、そうだ」
「若宮が?」
「あいつは優秀だ。俺の意図を理解し、動いてくれる。だが、どこかに別の目的がある。まだ確証はないが、俺の勘がそう告げている」
 清良が振り返り、綾乃を見た。
「だから、俺はそなたを呼んだ」
 綾乃は思わず顔を上げた。
「そなただけが、俺に何も求めてこない。利用しようとも、怖れようともしない。ただそこにいる。十年前と変わらずに」
 その言葉は淡々としていたが、だからこそ、その重みが心に落ちた。綾乃は何と答えればいいかわからなかった。
「そなたと話していると、俺は人間に戻れる気がする」
 清良はそれだけ言うと、また庭の方へ視線を向けた。雨音が部屋を満たしていた。
 綾乃の胸に温かいものが広がった。それが何であるか、綾乃は言葉にする勇気がなかった。ただ、清良のそばにいることが、以前よりも違う意味を持ち始めていると感じていた。

 その翌日から、綾乃は後宮を観察するようになった。
 麗妃の女官たちが、力のない女官に仕事を押しつけ、失敗すれば責め立てる。妃たちへの贈り物の中から、上位の者が良い品をかすめ取る慣習がある。帝への報告が意図的に遅らされ、あるいは書き換えられている。それらは、後宮に長くいれば誰もが気づくことだったが、誰もが声を上げなかった。
 清良はそれを正そうとしている。たった一人で、「影の帝」という仮面を被りながら。
 綾乃がそう理解した時、清良の孤独の深さを本当の意味で感じた。改革というものは美しい言葉だ。実際には、多くの者の利益を損ない、多くの者の恨みを買う、血と泥の仕事だ。清良はそれを引き受けている。
(あの方は、この国のために自分を犠牲にしている)
 そう思った瞬間、綾乃の中で清良への感情が形を変えた気がした。弟への情とも主への忠義とも違う、もっと別の、まだ名前のつかない何かに。

 その夜も、清良の部屋を訪ねた。
 雨はすでに上がり、空には薄く雲がかかっていた。障子を叩くと、いつもより早く返事が返ってきた。中に入ると、清良は縁側に座り、夜空を見上げていた。文書も筆も手元にない。ただ、空を見ていた。
 その姿が、十年前の梅の木の下の少年に重なった。
「清良様」
「ああ」
「何をご覧になっているのですか」
「星だ」
 清良は短く答えた。綾乃は清良の少し後ろに座り、同じ方向を見上げた。雲の切れ間に、いくつかの星が見えた。
「辺境では、よく星を見た」
 清良が独り言のように言った。
「都よりも空が広くて、夜は星がよく見えた。寒い夜に星を数えながら、この国のことを考えた」
「何を考えていらしたのですか」
「いろいろだ」
と清良は言った。少し間を置いてから、
「そなたのことも」
と付け加えた。
 綾乃は息を呑んだ。
「私の……ことを?」
「ああ。元気でいるかと思った。相変わらず、向こう見ずなことをしていないかと」
 清良の口元に、かすかな動きがあった。笑みとも呼べぬ微かなもの。しかし、それはそこにあり、綾乃の記憶にもある、あの無邪気な笑顔の欠片であった。
 綾乃の胸に、ちりりと焼ける温かさがあった。
「向こう見ずとは、ひどいお言葉です」
と綾乃は苦笑した。
「私はいつも慎重に動いております」
「清良様の名前を、大声で叫ぶことを慎重と呼ぶなら、そうかもしれないな」
「あれは……反射的に」
「わかっている」
 清良はまた空を見上げた。その横顔には、束の間の安らぎが宿っていた。
(この顔だ)
 これが清良の本当の顔だと、綾乃は思った。
 冷徹でも、計算高くもない。ただ疲れて、ただ静かで、ただ正直な顔。この顔を見せてくれる場所が、今の清良にはここしかないのかもしれないと思った。
「清良様」
「何だ」
 綾乃は言葉を探した。それから、ゆっくりと口を開いた。
「私は清良様の本当の姿を知りたいと思っています」
 清良の目に驚きの色が浮かんだ。
「昨日から、清良様のお話を聞いて……辺境でのこと、この国への思い、後宮を変えようとするお気持ち。それらを聞いて、私は清良様のことをまだ何も知らなかったのだと思いました」
 綾乃は清良の目を見ながら続けた。
「影の帝も、昔の清良様も、どちらも本物だと思います。でも、私はその全てを知りたいのです。清良様が十年間、何を思い、何を決意し、何のためにここに戻ってきたのか。その全てを」
 静寂が落ちた。遠くで夜鳥が鳴いた。
 清良はしばらく綾乃を見つめていた。その目の奥に、複雑な光が揺れていた。やがて、清良は静かに息を吐いた。
「……昔から、そういう奴だったな」
「そういう奴、とは」
「ただそこにいるだけでは満足しない。踏み込もうとする」
 清良の声に咎める色はなかった。むしろ、どこか懐かしむ温かさがあった。
「清良様、私は……」
「わかった」
 清良は遮った。その目がゆっくりと綾乃に向き直る。
「では、そなただけに見せよう」
 後宮の夜に溶けていくその声は、綾乃の胸の奥まで、まっすぐに届いた。
「全てを見た上で、それでもそばにいてくれるというなら……それ以上望むものはない」
 綾乃は答えなかった。いや、答えられなかった。胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。
 清良が再び空を見上げた。雲が流れ、星が一つ、また一つと顔を出した。
 二人は並んで、しばらく夜空を眺めていた。言葉はなかった。しかし、その沈黙はこれまでよりもずっと近いところにあった。

 部屋を辞す間際、綾乃は振り返って清良を見た。清良はまだ縁側に座り、空を見ていた。その背中は、「影の帝」のそれではなく、ただ一人の人間の、少し丸くなった背中だった。
 綾乃は思い出していた。
(あの方は、ずっとそこにいた)
 あの夜、清良の居室を辞した後、廊下でふと振り返った時のことを。
 あの時、障子の向こうで清良が動いた気がして、もう一度見た。しかし、障子は閉まったままで、その向こうに何もなかった。
 今なら、あの時清良が何をしていたか、想像できる気がした。
(あの方は、ずっとそこにいた)
 綾乃にはまだ、はっきりとした言葉がなかった。ただ、胸の奥に灯った小さな炎が大きくなっていることだけは確かだった。
 夜の後宮を歩きながら、綾乃は空を見上げた。雲が晴れ、星が広がっていた。辺境の空はもっと広かったと、清良は言っていた。
(清良様は、あの広い夜空の下で、十年間一人でいた)
 その思いとともに、綾乃の胸に決意のようなものが芽生えた。まだそれが何に向かう決意なのかはわからない。
 清良がこの後宮を変えようとするなら、自分にも何かできることがあるはず。弟を見守るだけの「姉」でも、主君に仕えるだけの「女官」でもなく、もっと別の形で、清良のそばに立てるはず。
 それが何かがわかる日は、綾乃はそう遠くないような気がしていた。