後宮の空気は目に見えて変わっていた。それまでは、妃たちの派閥争いと女官たちの陰口が日常だった後宮に、張り詰めた空気が漂い始めていた。誰もが清良の動向を気にし、誰もが「影の帝」の目を意識し、不用意な言動を控えていた。
それほどまでに、清良の存在は後宮に重くのしかかっていた。
綾乃は相変わらず女官としての日々を送りながら、その変化を肌で感じていた。廊下ですれ違う女官たちの囁き声が以前とは違う。妃たちへの挨拶回りの空気が、以前とは違う。何もかもが、清良という名の石が投げ込まれた水面のように、波紋を広げていた。
あの夜の言葉を、綾乃は胸の奥にそっとしまっていた。
「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」
──この言葉の重みは、日を追うごとに大きくなっていった。
綾乃には清良の真意がまだ掴めていなかった。あの言葉は、ただの懐旧の情からくるものなのか。それとも、何か別の意味を持つのか。
考えながら渡殿を歩いていると、前方から麗妃付きの女官が一団で歩いてくるのが見えた。綾乃は無意識に身を固くした。
麗妃──後宮の第一人者と呼ばれるその人は、帝の寵愛を一身に受けてきた美貌の妃だった。二十八という年齢にして、後宮の女たちを束ねる強さを持ち、その手腕は帝すら一目置くほどだという。綾乃とは直接の接点はなかったが、階位も力も遥かに上位の麗妃が、女官一人に目を向けることなど、これまでになかった。
だが今日は違った。麗妃付きの女官の一人が、綾乃の前に立ち塞がった。
「お前が綾乃か」
「はい」
と綾乃が答えると、女官は値踏みするように綾乃を頭から足まで眺め回した。
「麗妃様がお呼びだ。今すぐ来るように」
断る選択肢などあるはずもなかった。
麗妃の居室は、後宮の中でも最も華やかな一画にあった。豪奢な几帳、贅を尽くした調度品、そして漂う白梅の香。すべてが、この妃の力を物語っていた。
几帳の向こうから現れた麗妃は、噂に違わぬ美しさだった。切れ長の目に薄く紅を差し、髪を高く結い上げ、濃い紫の小袖に黄金の刺繍が施された打掛をまとっている。その美しさには、棘のような冷たさが宿っていた。
「綾乃とやら」
麗妃は扇を半開きにしたまま、綾乃を見下ろすように言った。
「はい、麗妃様」
「清良様と、親しいそうね」
単刀直入な言葉に、綾乃は内心ひやりとした。しかし表情には出さず、
「十年前に、少しばかり面識があっただけにございます」
と答えた。
「面識」
と、麗妃は口の端に笑みを刷いた。
「それにしては、随分と大きな声でお名前を呼んでいたようだけれど」
「あれは、失礼をいたしました。思わず……」
「思わず、ね」
麗妃は扇を閉じ、綾乃をじっと見つめた。その視線に、獲物を見定めるような鋭さがある。
「いいこと、綾乃。清良様は今、この後宮のすべてを掌握なさろうとしている。その方のお側に近づくことは、火に近づくようなもの。女官風情が傷を負わぬよう、距離を置きなさい」
表向きは忠告の形をとっているが、それが警告であることは明白だった。綾乃は深く頭を下げ、
「お心遣い、ありがとうございます」
とだけ答えた。
麗妃は何も言わなかった。ただ、その目に宿る光が、綾乃に明確な意志を伝えていた。
(この方は、私を敵と見なしている)
居室を辞しながら綾乃はそう悟った。理由はわからない。しかし、麗妃が清良への接近を阻もうとしていることは疑いようがなかった。
それから三日後のことだった。
後宮に騒ぎが起きた。
「清良様に、毒が盛られた」
その知らせは、瞬く間に後宮全体に広まった。幸いにして清良は事前に気づき、口をつける前に毒入りの茶を遠ざけたという。問題は、誰がそれを仕掛けたかだった。
綾乃が自室で事の次第を聞いた時、胸に走ったのは恐怖ではなく、深い疑念だった。清良を毒殺しようとする者が、後宮に潜んでいる。しかし、綾乃には誰かの顔が浮かぶわけでもなかった。だから、若宮が部屋に現れた時、綾乃はまだ動揺の中にいた。
「綾乃様。清良様がお呼びです」
若宮の言葉は、いつものように穏やかだった。しかし、今日はその笑みの奥に、何か違うものが混じっているように感じた。
清良の居室に入ると、室内の空気が違っていた。普段よりも人の数が多い。清良の側近が数人、控えていた。そして清良自身は、いつも通りの無表情で、しかしその眼差しには、刃物のような鋭さが宿っていた。
「綾乃」
清良が静かに名を呼んだ。名前を呼ばれただけで、綾乃の背筋が伸びた。
「はい」
「昨日の夕刻、お前は茶室に立ち寄ったか」
唐突な問いに、綾乃は一瞬の間を置いた。後宮の厨に隣接した部屋だ。
「いいえ、昨日の夕刻は、帝のお文の整理をしておりました。茶室には参っておりません」
「そうか」
清良は短く答えた。その視線は、すでに綾乃から外れていた。
その時、部屋の外から足音が聞こえた。重々しく、しかし急いているような足音。障子が開き、現れたのは麗妃だった。
麗妃は部屋に入ると、清良に優雅に礼をした後、綾乃に視線を向けた。その目に、隠しきれない勝利の色があった。
「清良様、私の女官が直接見ておりました。昨日の夕刻、茶の間でこの女が、綾乃が茶の中に何かを入れておりました」
室内の空気が、張り詰めた。綾乃は頭の中が白くなるのを感じた。
(偽りだ)
それは明白だった。綾乃は昨日の夕刻、確かに別の場所にいた。文の整理を手伝っていた女官たちも、証人になれるはずだ。しかし、今この場で麗妃の言葉に真っ向から反論することは、後宮の権力構造の中では、あまりに無謀だった。
「麗妃の女官が、直接見たと」
清良が静かに繰り返した。
「はい。嘘偽りなく」
麗妃は毅然と答えた。その自信は、揺るがなかった。
清良の視線が、ゆっくりと綾乃に戻った。その瞳に、何が映っているのか、綾乃には読み取れなかった。
「綾乃。申し開きはあるか」
「私は、茶室には参っておりません。昨日の夕刻は、文の整理をしておりました。私が申すだけでは信じていただけないかもしれませんが、それが真実でございます」
綾乃は顔を上げたまま、まっすぐに清良の目を見て答えた。声が震えないよう、精一杯つとめた。
清良は長い間、綾乃を見つめていた。その視線は、冷たかった。初めて見る異物を観察するような、氷の眼差しだった。
やがて、清良は口を開いた。
「綾乃を処罰しろ」
「清良様……」
思わず声が漏れた。しかし、清良はもう綾乃を見ていなかった。
「下がれ。沙汰は追って知らせる」
麗妃の口元に、抑えきれぬ笑みが浮かぶ。
綾乃は膝が震えるのを感じた。しかし、倒れるわけにはいかない。深く礼をして、部屋を辞した。
廊下に出た瞬間、足元がぐらりと揺らいだ。柱に手をついて、なんとか体を支えた。
(清良様が、私を処罰しろと)
わかっていた。後宮では、力のない者が守られることなどない。たとえかつての縁があっても、清良が「影の帝」として振る舞う以上、一女官を庇うことなどしないのかもしれない。頭では理解できた。
しかし、心は追いついていなかった。
あの夜の言葉が耳の奥で響いた。
「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」
あの言葉は何だったのか。昔のままでいさせてほしいと言いながら、昔の清良なら、決してしなかったようなことをする。
綾乃は唇を噛み、廊下を歩き出した。泣いている場合ではない。まず、自分の潔白を証明しなければならない。
それから二日間、綾乃は自室に軟禁に近い状態に置かれた。他の女官たちは、腫れ物に触るような目で綾乃を見た。中には、あからさまに侮蔑の視線を向ける者もいた。麗妃の力が、いかに後宮に浸透しているかを、綾乃は身をもって知った。
軟禁の二日目の夜、思いがけない人物が訪ねてきた。
若宮だった。
綾乃は内心警戒を強めたが、若宮は声を落として言った。「あなたへの疑いは晴れます。もうすぐ」
「……どういう意味ですか」
若宮は答えの代わりに、一枚の薄い紙を差し出した。
「清良様からです」
綾乃は紙を手に取り、灯火に近づけた。
そこには、短い文が書かれていた。
「そなたを信じている。今しばらく耐えよ」
それだけだった。署名も、日付も、ない。しかし、筆跡は清良のものだと、綾乃には直感でわかった。
「清良様は、私の無実をご存じだったのですか」
若宮は微笑んだ。しかし、その笑みはどこか淡泊だった。
「詳しいことは私にもわかりかねます。ただ、清良様があなたを信じていらっしゃることだけは確かです」
綾乃は紙を胸に押し当て、目を閉じた。
(清良様……)
翌朝、麗妃の女官の偽証が発覚した。
証言した女官の話に細かな矛盾が複数あったこと。昨日の夕刻、綾乃が文の整理をしていた場所に複数の証人がいたこと。それらが清良の側近によって、丁寧に洗い出されていた。
麗妃は侮辱されたと言わんばかりに怒りを見せたが、証拠の前には抗う術もなかった。
綾乃への嫌疑は晴れた。
その日の夕刻、綾乃はもう一度、清良に呼ばれた。
今度は先日と違い、室内に二人だけだった。清良は縁側に腰を下ろし、暮れていく庭を眺めていた。その横顔には疲れがあった。
「清良様」
綾乃が声をかけると、清良は振り返らずに言った。
「二日間、辛い思いをさせたな」
「いいえ」
と綾乃は答えた。
「清良様の文を拝読して、耐えることができました」
清良は少しの間、黙っていた。庭に夕暮れが落ちていく。
「麗妃は、俺を試した」
静かな声だった。
「俺が、誰かを守るために動くかどうかを見極めようとした。だから、俺は動けなかった。あの場で庇えば、そなたを標的にし続けるだろう」
綾乃は清良の言葉を、一言も聞き漏らすまいとした。
「証拠があれば処罰しろと言ったのは、麗妃に自信を持たせるためだった。あの女が調子に乗れば、必ず綻びが出る。そう踏んでいた」
「では、最初から」
「ああ。そなたが無実であることは、わかっていた」
清良がようやく綾乃の方を見た。その目に、昼間の無表情はなかった。ただ、深い疲労と、どこか本人も気づいていないような何かが、静かに揺れていた。
「そなたを信じている。それは変わらない。だが、この後宮では、信じているだけでは人を守れない。冷徹に動かなければ、そなたがもっと深く傷つく」
綾乃はしばらく言葉が出なかった。清良の言葉の重みと、その言葉の裏にある意思の強さを、じっくりと受け止めていた。
「麗妃様は……なぜ、そこまで」
「後宮を支配したいからだ」
清良の声に、初めて低い怒りのようなものが滲んだ。
「陛下は優柔不断で、後宮のことに深く踏み込もうとなさらない。麗妃はその隙を突いて、女官たちを支配し、他の妃たちを押さえ、帝の寵愛を一身に集めて権力を握った。そして今、俺が戻ってきたことで、その均衡が崩れつつある」
「清良様が脅威になっていると」
「そういうことだ」
清良は再び庭に目を向けた。夕闇の中に、白い花がぽつりと咲いているのが見える。
「だが、麗妃の力は本物だ。下手に動けば、後宮全体を敵に回しかねない。だからこそ、俺は証拠を積み上げ、慎重に動く必要がある」
綾乃はその言葉を聞きながら、ある問いが頭に浮かんだ。それは、口にすることを躊躇うような問いだったが、今この瞬間、聞かずにはいられなかった。
「清良様……なぜ、私にそれを話してくださるのですか」
清良が、視線を戻した。その目が、綾乃の目と真正面からぶつかる。
「そなたに知っておいてほしいからだ」
答えはそれだけだった。しかし、その短い言葉の中に、言い表せないほどの意味が詰まっているような気がして、綾乃は何も言えなかった。
夕暮れが深くなり、後宮に夜が訪れようとしていた。遠くで女官が灯台に火を入れる音がした。綾乃は、清良の横顔をそっと見つめた。
「影の帝」と恐れられる男がここにいる。しかし、その男の横顔には、綾乃の知っているあの少年の、不思議な哀しさが重なって見えた。
(この方は、一人で全てを抱えてきたのだ)
その思いが、綾乃の胸に深く落ちた。後宮の腐敗を正そうとして一人で冷徹さを纏い、人を遠ざけながら、ただその目的のために動き続けてきた男。その孤独の深さが、ようやく綾乃には見え始めていた。
もしかしたら、「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」という言葉は、単なる懐旧でも、策略でもなく、長い孤独の中でこぼれ出た、正直な言葉だったのかもしれない。
綾乃はそう思いながら、清良の隣で、暮れていく後宮の庭を見つめていた。
それほどまでに、清良の存在は後宮に重くのしかかっていた。
綾乃は相変わらず女官としての日々を送りながら、その変化を肌で感じていた。廊下ですれ違う女官たちの囁き声が以前とは違う。妃たちへの挨拶回りの空気が、以前とは違う。何もかもが、清良という名の石が投げ込まれた水面のように、波紋を広げていた。
あの夜の言葉を、綾乃は胸の奥にそっとしまっていた。
「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」
──この言葉の重みは、日を追うごとに大きくなっていった。
綾乃には清良の真意がまだ掴めていなかった。あの言葉は、ただの懐旧の情からくるものなのか。それとも、何か別の意味を持つのか。
考えながら渡殿を歩いていると、前方から麗妃付きの女官が一団で歩いてくるのが見えた。綾乃は無意識に身を固くした。
麗妃──後宮の第一人者と呼ばれるその人は、帝の寵愛を一身に受けてきた美貌の妃だった。二十八という年齢にして、後宮の女たちを束ねる強さを持ち、その手腕は帝すら一目置くほどだという。綾乃とは直接の接点はなかったが、階位も力も遥かに上位の麗妃が、女官一人に目を向けることなど、これまでになかった。
だが今日は違った。麗妃付きの女官の一人が、綾乃の前に立ち塞がった。
「お前が綾乃か」
「はい」
と綾乃が答えると、女官は値踏みするように綾乃を頭から足まで眺め回した。
「麗妃様がお呼びだ。今すぐ来るように」
断る選択肢などあるはずもなかった。
麗妃の居室は、後宮の中でも最も華やかな一画にあった。豪奢な几帳、贅を尽くした調度品、そして漂う白梅の香。すべてが、この妃の力を物語っていた。
几帳の向こうから現れた麗妃は、噂に違わぬ美しさだった。切れ長の目に薄く紅を差し、髪を高く結い上げ、濃い紫の小袖に黄金の刺繍が施された打掛をまとっている。その美しさには、棘のような冷たさが宿っていた。
「綾乃とやら」
麗妃は扇を半開きにしたまま、綾乃を見下ろすように言った。
「はい、麗妃様」
「清良様と、親しいそうね」
単刀直入な言葉に、綾乃は内心ひやりとした。しかし表情には出さず、
「十年前に、少しばかり面識があっただけにございます」
と答えた。
「面識」
と、麗妃は口の端に笑みを刷いた。
「それにしては、随分と大きな声でお名前を呼んでいたようだけれど」
「あれは、失礼をいたしました。思わず……」
「思わず、ね」
麗妃は扇を閉じ、綾乃をじっと見つめた。その視線に、獲物を見定めるような鋭さがある。
「いいこと、綾乃。清良様は今、この後宮のすべてを掌握なさろうとしている。その方のお側に近づくことは、火に近づくようなもの。女官風情が傷を負わぬよう、距離を置きなさい」
表向きは忠告の形をとっているが、それが警告であることは明白だった。綾乃は深く頭を下げ、
「お心遣い、ありがとうございます」
とだけ答えた。
麗妃は何も言わなかった。ただ、その目に宿る光が、綾乃に明確な意志を伝えていた。
(この方は、私を敵と見なしている)
居室を辞しながら綾乃はそう悟った。理由はわからない。しかし、麗妃が清良への接近を阻もうとしていることは疑いようがなかった。
それから三日後のことだった。
後宮に騒ぎが起きた。
「清良様に、毒が盛られた」
その知らせは、瞬く間に後宮全体に広まった。幸いにして清良は事前に気づき、口をつける前に毒入りの茶を遠ざけたという。問題は、誰がそれを仕掛けたかだった。
綾乃が自室で事の次第を聞いた時、胸に走ったのは恐怖ではなく、深い疑念だった。清良を毒殺しようとする者が、後宮に潜んでいる。しかし、綾乃には誰かの顔が浮かぶわけでもなかった。だから、若宮が部屋に現れた時、綾乃はまだ動揺の中にいた。
「綾乃様。清良様がお呼びです」
若宮の言葉は、いつものように穏やかだった。しかし、今日はその笑みの奥に、何か違うものが混じっているように感じた。
清良の居室に入ると、室内の空気が違っていた。普段よりも人の数が多い。清良の側近が数人、控えていた。そして清良自身は、いつも通りの無表情で、しかしその眼差しには、刃物のような鋭さが宿っていた。
「綾乃」
清良が静かに名を呼んだ。名前を呼ばれただけで、綾乃の背筋が伸びた。
「はい」
「昨日の夕刻、お前は茶室に立ち寄ったか」
唐突な問いに、綾乃は一瞬の間を置いた。後宮の厨に隣接した部屋だ。
「いいえ、昨日の夕刻は、帝のお文の整理をしておりました。茶室には参っておりません」
「そうか」
清良は短く答えた。その視線は、すでに綾乃から外れていた。
その時、部屋の外から足音が聞こえた。重々しく、しかし急いているような足音。障子が開き、現れたのは麗妃だった。
麗妃は部屋に入ると、清良に優雅に礼をした後、綾乃に視線を向けた。その目に、隠しきれない勝利の色があった。
「清良様、私の女官が直接見ておりました。昨日の夕刻、茶の間でこの女が、綾乃が茶の中に何かを入れておりました」
室内の空気が、張り詰めた。綾乃は頭の中が白くなるのを感じた。
(偽りだ)
それは明白だった。綾乃は昨日の夕刻、確かに別の場所にいた。文の整理を手伝っていた女官たちも、証人になれるはずだ。しかし、今この場で麗妃の言葉に真っ向から反論することは、後宮の権力構造の中では、あまりに無謀だった。
「麗妃の女官が、直接見たと」
清良が静かに繰り返した。
「はい。嘘偽りなく」
麗妃は毅然と答えた。その自信は、揺るがなかった。
清良の視線が、ゆっくりと綾乃に戻った。その瞳に、何が映っているのか、綾乃には読み取れなかった。
「綾乃。申し開きはあるか」
「私は、茶室には参っておりません。昨日の夕刻は、文の整理をしておりました。私が申すだけでは信じていただけないかもしれませんが、それが真実でございます」
綾乃は顔を上げたまま、まっすぐに清良の目を見て答えた。声が震えないよう、精一杯つとめた。
清良は長い間、綾乃を見つめていた。その視線は、冷たかった。初めて見る異物を観察するような、氷の眼差しだった。
やがて、清良は口を開いた。
「綾乃を処罰しろ」
「清良様……」
思わず声が漏れた。しかし、清良はもう綾乃を見ていなかった。
「下がれ。沙汰は追って知らせる」
麗妃の口元に、抑えきれぬ笑みが浮かぶ。
綾乃は膝が震えるのを感じた。しかし、倒れるわけにはいかない。深く礼をして、部屋を辞した。
廊下に出た瞬間、足元がぐらりと揺らいだ。柱に手をついて、なんとか体を支えた。
(清良様が、私を処罰しろと)
わかっていた。後宮では、力のない者が守られることなどない。たとえかつての縁があっても、清良が「影の帝」として振る舞う以上、一女官を庇うことなどしないのかもしれない。頭では理解できた。
しかし、心は追いついていなかった。
あの夜の言葉が耳の奥で響いた。
「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」
あの言葉は何だったのか。昔のままでいさせてほしいと言いながら、昔の清良なら、決してしなかったようなことをする。
綾乃は唇を噛み、廊下を歩き出した。泣いている場合ではない。まず、自分の潔白を証明しなければならない。
それから二日間、綾乃は自室に軟禁に近い状態に置かれた。他の女官たちは、腫れ物に触るような目で綾乃を見た。中には、あからさまに侮蔑の視線を向ける者もいた。麗妃の力が、いかに後宮に浸透しているかを、綾乃は身をもって知った。
軟禁の二日目の夜、思いがけない人物が訪ねてきた。
若宮だった。
綾乃は内心警戒を強めたが、若宮は声を落として言った。「あなたへの疑いは晴れます。もうすぐ」
「……どういう意味ですか」
若宮は答えの代わりに、一枚の薄い紙を差し出した。
「清良様からです」
綾乃は紙を手に取り、灯火に近づけた。
そこには、短い文が書かれていた。
「そなたを信じている。今しばらく耐えよ」
それだけだった。署名も、日付も、ない。しかし、筆跡は清良のものだと、綾乃には直感でわかった。
「清良様は、私の無実をご存じだったのですか」
若宮は微笑んだ。しかし、その笑みはどこか淡泊だった。
「詳しいことは私にもわかりかねます。ただ、清良様があなたを信じていらっしゃることだけは確かです」
綾乃は紙を胸に押し当て、目を閉じた。
(清良様……)
翌朝、麗妃の女官の偽証が発覚した。
証言した女官の話に細かな矛盾が複数あったこと。昨日の夕刻、綾乃が文の整理をしていた場所に複数の証人がいたこと。それらが清良の側近によって、丁寧に洗い出されていた。
麗妃は侮辱されたと言わんばかりに怒りを見せたが、証拠の前には抗う術もなかった。
綾乃への嫌疑は晴れた。
その日の夕刻、綾乃はもう一度、清良に呼ばれた。
今度は先日と違い、室内に二人だけだった。清良は縁側に腰を下ろし、暮れていく庭を眺めていた。その横顔には疲れがあった。
「清良様」
綾乃が声をかけると、清良は振り返らずに言った。
「二日間、辛い思いをさせたな」
「いいえ」
と綾乃は答えた。
「清良様の文を拝読して、耐えることができました」
清良は少しの間、黙っていた。庭に夕暮れが落ちていく。
「麗妃は、俺を試した」
静かな声だった。
「俺が、誰かを守るために動くかどうかを見極めようとした。だから、俺は動けなかった。あの場で庇えば、そなたを標的にし続けるだろう」
綾乃は清良の言葉を、一言も聞き漏らすまいとした。
「証拠があれば処罰しろと言ったのは、麗妃に自信を持たせるためだった。あの女が調子に乗れば、必ず綻びが出る。そう踏んでいた」
「では、最初から」
「ああ。そなたが無実であることは、わかっていた」
清良がようやく綾乃の方を見た。その目に、昼間の無表情はなかった。ただ、深い疲労と、どこか本人も気づいていないような何かが、静かに揺れていた。
「そなたを信じている。それは変わらない。だが、この後宮では、信じているだけでは人を守れない。冷徹に動かなければ、そなたがもっと深く傷つく」
綾乃はしばらく言葉が出なかった。清良の言葉の重みと、その言葉の裏にある意思の強さを、じっくりと受け止めていた。
「麗妃様は……なぜ、そこまで」
「後宮を支配したいからだ」
清良の声に、初めて低い怒りのようなものが滲んだ。
「陛下は優柔不断で、後宮のことに深く踏み込もうとなさらない。麗妃はその隙を突いて、女官たちを支配し、他の妃たちを押さえ、帝の寵愛を一身に集めて権力を握った。そして今、俺が戻ってきたことで、その均衡が崩れつつある」
「清良様が脅威になっていると」
「そういうことだ」
清良は再び庭に目を向けた。夕闇の中に、白い花がぽつりと咲いているのが見える。
「だが、麗妃の力は本物だ。下手に動けば、後宮全体を敵に回しかねない。だからこそ、俺は証拠を積み上げ、慎重に動く必要がある」
綾乃はその言葉を聞きながら、ある問いが頭に浮かんだ。それは、口にすることを躊躇うような問いだったが、今この瞬間、聞かずにはいられなかった。
「清良様……なぜ、私にそれを話してくださるのですか」
清良が、視線を戻した。その目が、綾乃の目と真正面からぶつかる。
「そなたに知っておいてほしいからだ」
答えはそれだけだった。しかし、その短い言葉の中に、言い表せないほどの意味が詰まっているような気がして、綾乃は何も言えなかった。
夕暮れが深くなり、後宮に夜が訪れようとしていた。遠くで女官が灯台に火を入れる音がした。綾乃は、清良の横顔をそっと見つめた。
「影の帝」と恐れられる男がここにいる。しかし、その男の横顔には、綾乃の知っているあの少年の、不思議な哀しさが重なって見えた。
(この方は、一人で全てを抱えてきたのだ)
その思いが、綾乃の胸に深く落ちた。後宮の腐敗を正そうとして一人で冷徹さを纏い、人を遠ざけながら、ただその目的のために動き続けてきた男。その孤独の深さが、ようやく綾乃には見え始めていた。
もしかしたら、「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」という言葉は、単なる懐旧でも、策略でもなく、長い孤独の中でこぼれ出た、正直な言葉だったのかもしれない。
綾乃はそう思いながら、清良の隣で、暮れていく後宮の庭を見つめていた。

