後宮の影帝

 春とはいえ、まだ肌寒さの残る朝だった。瑞穂国(みずほのくに)の後宮、その東の渡殿を綾乃(あやの)は足早に歩いていた。手には帝への献上品である硯箱を抱え、裾を乱さぬよう気を配りながらも、頭の中では今朝方耳にした噂が渦を巻いていた。

「清良(きよら)様が、都にお戻りになるそうよ」
 女官頭のふくよかな声が耳の奥に残っていた。
 清良──帝の異母弟にして、十年前に辺境の地へと遣わされたあの人。
 綾乃は思わず足を止め、庭に咲き始めた山桜を見上げた。綾乃は後宮で帝への文書や献上品の取り次ぎを担う中堅女官として勤め上げてきた。十年前のあの日も、こんな風に桜が咲いていた気がする。綾乃は今年二十五になる。

 十年前のこと。
 十五で後宮に上がったばかりの綾乃に、十三だった清良は、この庭で独り、蝶を追いかけていた。
「お前は誰だ」
 あの時、清良は人見知りをするように綾乃にそう尋ねた。今思えば無邪気なものだった。綾乃が「新参の女官にございます」と答えると、清良は照れくさそうに笑い、「では、姉のように呼んでもよいか」と言った。

 それから十年近く、綾乃は清良を弟のように可愛がってきた。清良が病で臥せった時は看病をし、母君を亡くした時はそばで泣いた。彼が学問に励む姿をいつも陰から見守っていた。
 清良の傍らには、「若宮」と呼ばれる青年侍従が控えていた。皇族ではなく、清良が辺境から連れてきた腹心であったが、その聡明さから「若君の宮」を縮めて「若宮」と呼ばれていた。
 清良は帝の器を持ちながらも玉座を望まぬ、おっとりとした優しい若君だった。
 それが十年前、突如として辺境の守りを命じられ、都を離れた。理由は誰も知らない。ただ、当時の帝──今の陛下の父君──が、異母兄弟の争いを恐れたのではないかと囁かれていた。

 月日は流れた。
 清良は二十三になり、今日、都へ戻ってくるという。
「綾乃様、何をぼんやりしていらっしゃるのですか。帝がお待ちですよ」
 後輩女官の声に、綾乃は我に返った。
「今、参ります」
 硯箱を抱え直し、綾乃は再び渡殿を歩き出した。しかし、胸の内では、あの日の桜が散り続けていた。

 その日の夕刻、後宮全体が奇妙な緊張に包まれていた。清良が正式に参内し、後宮を通って帝への挨拶に向かうという知らせが回ったからだ。女官たちは廊下の隅々にまで並び、遠目にその姿を一目見ようと押し合っていた。
「影の帝がお戻りになるんですって」
「し、静かに。声が届いたらどうするの」
 綾乃の前を歩く若い女官二人が、囁き交わしていた。
「影の帝」──その言葉に、綾乃は違和感を覚えた。清良に、そのような二つ名がついているとは知らなかった。十年という歳月が、あの優しかった少年をどれほど変えてしまったというのだろうか。
「あの方は、辺境で数々の戦を制し、謀反を三度も未然に防いだのですって。しかも、その手段が容赦ないと評判で……。逆らう者は、身分の上下を問わず容赦なく排除なさるとか」
「怖いこと。でも、それだけの功があれば、陛下もむげにはできないでしょうね」
 噂話を聞きながら、綾乃の胸に小さな不安が兆した。まさか、あの清良が──と思う一方で、十年という時間の重みを、綾乃は改めて感じていた。人は変わる。まして、あれほど過酷な辺境の地で、命のやり取りをする日々を過ごしていたのなら。

 やがて、渡殿の向こうから一団の足音が聞こえてきた。先頭を歩くのは、黒の束帯に身を包んだ長身の男。歩みは静かでありながら、あたりの空気を圧するような重みがある。女官たちが一斉に頭を垂れる中、綾乃だけが思わず顔を上げてしまった。
 その顔立ちは、確かに面影がある。切れ長の目、涼やかな眉。しかしそこに浮かぶ表情は、綾乃の記憶にあるものとはまるで違っていた。感情の読めない、刃を思わせる鋭さを湛えた眼差し。かつて蝶を追いかけて無邪気に笑っていた少年の姿は、どこにも見当たらない。
 綾乃は思わず声を上げていた。
「清良様!」
 辺りの空気が凍りついた。女官たちが息を呑む音が聞こえる。清良の足が止まり、その視線がゆっくりと綾乃に向けられた。
 一瞬、綾乃は懐かしさに胸が熱くなるのを感じた。あの目だ。あの人だ。十年前、姉のように慕ってくれたあの清良が、目の前にいる。
 しかし、返ってきた声は、氷片のように冷たかった。
「誰だ」
 その一言が、渡殿の空気をさらに凍らせた。綾乃は言葉を失った。
「誰だ、と聞いている」
 清良は繰り返した。感情の欠片も窺えぬ声音だった。傍らに控えていた若い側近──後に若宮(わかみや)と知れる男が、慌てて耳打ちする。
「清良様、こちらは中堅女官の綾乃と申す者にございます。十年前、清良様がまだ都におられた頃、親しくしていた女官かと」
 清良の目に、一瞬何かがよぎった気がした。しかし、それもすぐに消え、彼は静かに言った。
「そうか」
 それだけ言うと、清良は再び歩き出した。従者たちがその後に続く。綾乃はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく背中を見つめることしかできなかった。
 周囲の女官たちの視線が、痛いほど突き刺さる。誰もが「無礼者め」と言わんばかりの目で綾乃を見ていた。中には、憐れむような視線を寄越す者もいた。
「綾乃様、大丈夫ですか」
 先ほどの若い女官が、心配そうに駆け寄ってきた。綾乃は無理に笑みを作り、大丈夫と答えたが、内心では動揺していた。
(あの清良様が……なぜ)
 あの優しかった少年は、どこへ消えてしまったのだろう。十年という歳月が、人をここまで変えてしまうものなのだろうか。それとも──綾乃の脳裏に、ふとよぎるものがあった。清良は本当に、綾乃のことを忘れてしまったのだろうか。
 いや、そんなはずはない。あれほど懐いてくれていたあの子が、たった十年で、すべてを忘れるはずがない。
 だが、あの冷たい眼差しを思い出すと、その確信も揺らいでしまう。

 その夜、綾乃は自室で一人、灯火の下で考え込んでいた。昼間の出来事が、何度も頭の中で再生される。あの「誰だ」という一言。あの冷たい眼差し。
(気のせいかもしれない。十年ぶりだから、私のことなど覚えていないのも当然)
 そう自分に言い聞かせても、胸の奥にわだかまる違和感は消えなかった。あの一瞬、清良の目に浮かんだもの──あれは何だったのだろう。憎しみでも、無関心でもない、もっと複雑な何か。
 考え込んでいると、廊下に足音が聞こえた。控えめな戸を叩く音に、綾乃は顔を上げる。
「綾乃様、失礼いたします」
 入ってきたのは若宮──昼間、清良の傍らにいた側近だった。整った顔立ちに、如才ない笑みを浮かべている。しかしその笑みの奥に、綾乃はどこか計算高いものを感じ取った。
「清良様は、日が暮れてからずっと、綾乃様をお呼びになるべきか迷っておいでのようでした。ですが、お呼びすることに決めたようでございます」
「……私を、ですか」
 綾乃は思わず問い返した。昼間のあの態度を思えば、清良が自分を呼び出す理由など見当もつかない。むしろ、無礼を働いたことへの処罰かもしれないと、綾乃の胸に不安がよぎった。
「はい。今すぐに、清良様のお部屋へ」
 若宮の言葉には有無を言わせぬ響きがあった。綾乃は覚悟を決めて立ち上がり、身なりを整えると、若宮の後に続いて夜の後宮を歩いた。
 清良の居室は、後宮の最奥、かつて空き殿舎だった一角にあつらえられていた。まだ新しい畳の匂いが残る部屋の奥、燭台の灯りの中に、清良は一人座していた。
「清良様、綾乃様をお連れいたしました」
 若宮がそう告げると、清良は小さく頷いた。
「下がってよい」
 若宮が部屋を辞すと、部屋の中には清良と綾乃、二人だけが残された。沈黙が重くのしかかる。綾乃は膝をつき、深く頭を垂れた。
「清良様。昼間は無礼な真似をいたしまして、申し訳ございませんでした」
 自分から先に謝罪の言葉を口にした。処罰を受けるならば、それも仕方がないと覚悟していた。しかし、返ってきたのは意外な沈黙だった。長い、長い沈黙。
 やがて、清良がゆっくりと口を開いた。
「顔を上げよ」
 その声音は、昼間の冷たさとは、どこか違って聞こえた。綾乃は恐る恐る顔を上げる。燭台の灯りに照らされた清良の顔には、昼間見たあの氷のような無表情が、まだ張り付いていた。しかし、その目の奥に、何か揺らめくものがあるのを、綾乃は見た気がした。
「そなたは……変わっていないな」
 その一言に、綾乃は息を呑んだ。
「清良様……」
「昼間のことは、許せ。人前で、そなたと親しいことを見せるわけにはいかなかった」
 清良の声は静かだったが、その言葉の意味を、綾乃はすぐには理解できなかった。
「どういう、意味でございましょうか」
 清良は少しの間、燭台の灯りを見つめていた。その横顔に、ふと昔の面影が重なる。綾乃の胸がかすかに疼いた。
「この後宮は、腐っていると聞いている」
 唐突な言葉だった。
「妃たちは権勢を競い合い、女官たちは互いを陥れ、陛下はそれを見て見ぬふりをなさるとのこと。俺が都に戻ったのは、それを正すためだ」
「正す……」
「そのために、俺は誰にも心を許すわけにはいかない。表向きは、誰よりも冷徹で、誰よりも計算高い男でいなければならん。そうでなければ、この腐った後宮では、生き残ることすらできぬ」
 綾乃は言葉を失ったまま、清良の話に耳を傾けていた。十年前のあの優しかった少年が、辺境でどれほどの経験を積み、どれほどの覚悟を固めてきたのか。その一端が、垣間見えた気がした。
「だが……」
 清良の視線が、ゆっくりと綾乃に向けられた。その目に、昼間には見えなかった、あの懐かしい温かさが、ほんの一瞬だけ宿った。
「そなたの前でだけは、昔のままでいさせてほしい」
 その言葉に、綾乃の胸が大きく波打った。
「昔の、まま……?」
「ああ。誰の前でも、俺は『影の帝』でいなければならぬ。だが、そなたの前でだけは……昔の、あの頃の俺でいさせてくれるか」
 その声には、懇願にも似た響きがあった。綾乃はしばし言葉を失った後、静かに頷いた。
「はい……もちろんでございます、清良様」
 清良の口元に、わずかに昔の笑みの名残のようなものが浮かんだ。それはあまりに一瞬のことで、綾乃自身、見間違いだったのではないかと後で思い返すほどだった。
「今夜のことは誰にも話すな。この後宮には、耳も目も無数にある。そなたを危険な目に遭わせたくはない」
「かしこまりました」
 綾乃は深く頭を垂れた。部屋を辞す間際、もう一度だけ振り返ると、清良は再びあの氷のような無表情に戻っていた。しかし、綾乃の胸には、先ほどの一瞬の温かさが、確かに刻まれていた。

(清良様は、変わっていない。ただ、変わらざるを得なかっただけなのだ)
 夜の後宮を戻りながら、綾乃はそう思った。しかし、同時に一抹の不安も残った。「影の帝」と恐れられるほどの冷徹さを身につけた清良が、これから何をしようとしているのか。そして、綾乃自身が、その渦の中にどう巻き込まれていくのだろうか。
 頭上には、朧月がかかっていた。十年前と変わらぬ、後宮の夜空だった。だが、そこに広がる景色は、もはや綾乃が知っていたものとは、大きく違うものになっていた。