ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】


 あれから一年近く。
 武蔵君とは今でも仲がいい。
 浪人を経て、この春、念願だった大学へ進学。
  弁護士を目指している。
 髪型や服にはあまり頓着がなかったので、大学入学前には僕が髪を切り、服選びまで手伝った。

 そんな武蔵君から、ちょうどメッセージが届いた。

〈エディ君、先日はありがとう。 髪も服もすごく気に入ってる。それで報告なんだけど、実は最近、人生初の彼女ができました!  今度ぜひ紹介させてください!〉
「え、マジ?」
 思わず声が出た。

 あの武蔵君に彼女。
 先を越された悔しさは少しあるけれど、それ以上に嬉しい。
〈おめでとう!  他の誰でもない、武蔵君自身が掴んだご縁だから大事にしてね。 僕も会ってみたい。 いつかWデートできたらいいね〉
 送信。

 そこで、僕は本来の目的を思い出した。
「そうだ。彼女……」
 あの日。
 彼女は何を持っていた?

 花。
 薔薇。
 鮮やかな青色の――。

「そうだ」
 あの青い薔薇。

「もしかしたら……」


 あの花屋へ行けば。
 会えるかもしれない。
 たったそれだけの可能性なのに。
 胸が熱くなる。

 会いたい。
 もう一度会って、確かめたい。
 あの日から消えないこの気持ちが――
 ただの憧れなのか。
 それとも。
 恋なのか。


 気づけば、僕は走り出していた。
 練習用ウィッグの入った重いボストンバッグを肩に掛けたまま。

   *

「はぁ……はぁ……」
 角を曲がる。

 『ロゼッタ』。
 看板が見えた。

「見つけた……」

 でも。
 僕は店の前まで行くことができなかった。

「うっ……」
 胸に手を当てる。
 走り過ぎた。
 幼い頃に大きな心臓の手術を受け、今は日常生活にほとんど支障はない。
 それでも、激しい運動は今も苦手だ。

「……無茶したな」
 息を整える。

 三十歩。
 あとそれくらい進めば、店に着く。
 なのに。
 急に怖くなった。

 彼女がいたら、何を言えばいい?
 覚えてくれているだろうか。
 そもそも。
 汗だくで息を切らして現れるなんて、格好悪すぎる。
「何してるんだろうな、僕」

 会いたい。
 でも。
 今日はやめよう。
「……次こそ」
 自分に言い聞かせ、僕は踵を返した。

   *

 美山駅に着く頃には、空が少しずつ青く沈み始めていた。
 自転車置き場からママチャリを引き出し、ボストンバッグを籠へ乗せる。
 青を見ると、あの子を思い出す。
 あの日、腕いっぱいに抱えていた薔薇。
 これが、いわゆる恋の病なのだろうか。
 夕陽を背に、自宅へ向かう。
 僕の家は三階建てで、玄関までは階段ではなく緩やかなスロープになっている。
 父が、病弱だった僕のためにそう設計したらしい。
 結局、僕がこの家で車椅子を使ったことは一度もない。

「オオ、エディ。おかえりなさいネ」
「ただいま、母さん」
「今日はオカアサン、ハンバーグ作りマシタ」
「ありがとう」
 母はフランス人だ。
 音楽一家に生まれ、若い頃はハープ奏者として活動していた。
 父がフランスを訪れた時、一目惚れして猛アタック。
 結局、母は家族の反対を押し切り、父について日本へ来てしまったらしい。
 恋をすると一直線。
 そういうところだけは、父に似たくないと思っていたけれど。
 ……もう手遅れかもしれない。

「エディ。オトウサン、もえる」
「え?」
「オトウサン、もえる」
 相変わらず母の日本語は、時々謎だ。
「あとで父さんに聞いて」
 僕は二階へ上がり、自室のドアを開けた。

「うわッ」
「ぎゃッ」
 妹が半裸で、鏡の前に立っていた。

「何してるんだよ、エリサ!」
「兄貴、今日早くない?」
「いいから服着て」
「今度、水着特集の撮影あるんだよ。変な肉ついてないかチェックしてただけ」
「それ、自分の部屋でやってくれない?」
「兄貴の鏡の方が全身映るから便利なんだよね」
 要するに。
 置くには邪魔だけど、使うには便利だからそのままにしておけということらしい。
「終わったら出てって」
「えー」
「えー、じゃない」
 半ば強引に追い出した直後。
 ベッドの上に、見慣れないものを見つける。
「……な」
「あー、ごめんごめん」
 エリサが戻ってきた。
「ブラ忘れた」
「……」
 こいつは。

「パリコレとかだと、モデルなんて着替えまくりだから、いちいち気にしてらんないんだって」
「ここはパリでもコレクション会場でもない」
「細かいなあ」
「最低限の恥じらいは持ってくれ。頼むから」

 何で兄の僕が頼まなきゃいけないんだ。
 エリサを追い出し、今度こそ鍵を閉めた。
 外で何か喚いている。

 知らない。
 僕はベッドに倒れ込んだ。

「……一人暮らし、しようかな」
 本気でそう思った。