ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

 思えば、私はいつから花に関わる仕事をしたいと思うようになったのだろう。

 花屋で働くパパの影響で、幼い頃から花は大好きだった。
 中学生の時に「フラワーデザイナー」という職業を知り、それからは迷わなかった。
 花に関わる仕事がしたい。
 それだけは、ずっと変わらない私の夢だった。
 だから高校も園芸科を選び、卒業後は実家から通える東堂文化大学への進学を決めた。

 そして進路が決まったあと、高校生活最後の課題として与えられた卒業制作。
 私は迷わず、ずっと作ってみたかったものを選んだ。

 ウェディングブーケ。

 恋愛経験なんて一度もない。
 彼氏だっていない。
 それでもいつか、自分が結婚する日が来たなら――その日のブーケは、自分の手で作りたいと思っていた。

 人生の節目を、大好きな花で飾る。
 そんな仕事を、これからもずっと続けていけたらいい。

「恋、か……」
 さっきのママとの会話を思い出す。
 誰かを好きになるなんて、今の私にはまだ想像もつかない。
 恋は突然訪れる――なんて聞くけれど。
「私の場合、そもそも男性を見なさすぎて……」
 そこまで呟いて。
 ふと、一人の人が頭に浮かんだ。
「あ……」
 そういえば。
「……いた、かも」

 名前も知らない。
 ほんの数分しか話していない。
 なのに、どうして今まで忘れていたのだろう。
「――あの人」
 そう。
 あれは、大学の合格通知を受け取った翌日のことだった。

   ☆

〈若葉、合格おめでと!〉
 ケータイの画面に、梨歩からのメッセージ。
〈ありがとう。これでやっと一段落できるわ〉
〈お疲れ~。今ね、お母さんが持ってきてくれたマカロン食べてるんだけど、一緒にどう?〉
 重病患者とは思えない食欲だ。
〈行きたいけど、卒業制作がまだ終わってなくて。また今度ね〉
〈そっか。じゃあ若葉の分も食べとく。卒業制作頑張れ~〉

「結局食べるのね……」
 苦笑しながら画面を閉じる。

「さて。やりますか」

 机の上に広げたのは、花材とワイヤー。
 卒業制作に選んだウェディングブーケだ。
 最初は基本のラウンド型。
 カサブランカを中心に、グリーンのアジサイとガーベラを合わせる予定だった。
「よし……」
 慎重にワイヤーを締める。
 その瞬間。

「……あっ!」
 カサブランカの花首が落ちた。
「うそぉ……」
 慌てて修復を試みる。
「これなら……」
 ひらひらひら。

 花弁まで散った。

「ご、ごめんね……!」
 花が好きだからこそ、こういう瞬間は胸が痛む。
 練習とはいえ、生きている花だ。
 それを自分の未熟さで傷めてしまう。

「……向いてないのかな、私」
 一瞬だけ弱気になる。
 でも。
 ここで諦めるわけにはいかない。
 何度失敗しても、作れるようになりたいから。


 悪戦苦闘すること二時間。

 ワイヤーが外れたり、配色が思ったようにまとまらなかったり、指先を何度も刺したり。
 そしてついに、学校でもらった花材まで心許なくなった。

「……買い足そう」
 財布を確認する。

「どうせなら――」
 少しだけ迷って。
「本当に使いたい花を、使ってみようかな」
 そう思った瞬間、気持ちは決まった。

 私はバッグを手に取り、バイト先のアートフラワーショップ『ロゼッタ』へ向かった。

   *

「あら、若葉ちゃん」
 店先でコサージュを作っていた店主の佐伯さんが、顔を上げる。
「こんにちは」
「卒業制作は順調?」
「それが……失敗続きで。花材が足りなくなっちゃって」
 『ロゼッタ』は、アーティフィシャルフラワーやプリザーブドフラワーを中心に扱う、フラワーアレンジメント専門店だ。
 ブライダルや記念日のオーダーも受けていて、プロのデザイナーや講師もよく訪れる。
 私にとっては、第二の家みたいな場所だった。
 店内を見渡しながら、ブーケに使えそうな花を探す。

 そして、薔薇のコーナーで足が止まった。

 鮮やかなロイヤルブルー。
 淡い青紫。
 白い花弁を染めた着色薔薇。
 さまざまな“青”が並んでいる。
「春なら、もっといろいろあるんだけどね」
 佐伯さんが言った。
「特に青い薔薇は、今の時期なかなかね」
「そうですよね……」

 青い薔薇。
 その花に惹かれるようになったのは、佐伯さんからこんな話を聞いたのがきっかけだった。
「薔薇には、もともと青い色素がないでしょう。だから昔は、青い薔薇なんて“不可能”の象徴だったの」
 けれど。
 世界中の育種家たちが、何度も挑戦を重ねた。
「だから今では、“不可能を可能にする”――そんな意味でも語られるようになったのよ」
 その言葉を聞いた瞬間、私は青い薔薇に夢中になった。
 そして。
 数ある青系の薔薇の中で、私が一目で心を奪われた花がある。

 “ブルーヘヴン”。

 昨年の春、佐伯さんが本物を見せてくれた。
 鮮やかな青ではない。
 グレーを含んだ、淡いシルバーブルー。
 限りなく白に近いのに、どんな青よりも奥深い。
 控えめなのに、不思議なくらい目を引く花だった。
(今は枝だけなのが残念だけど……)
 私はしばらく薔薇を眺めたあと、決めた。

「……これにします」
「青でまとめるの?」
「はい」
 当初予定していた白とグリーンのブーケはやめた。
 ロイヤルブルーの薔薇。
 淡い青。
 白い薔薇。
 かすみ草とブルースター。
 気づけば、青ばかり選んでいた。

(……ちょっと買いすぎたかも)
 財布を覗く。
「あら。素敵な色合わせね」
「卒業制作に使おうと思って。でも、ちょっと贅沢しすぎましたかね」
「いいじゃない」
 佐伯さんは笑った。
「作りたいものを作った方が、きっといい作品になるわ。それくらい思いを込めてもらえたら、花だって喜ぶでしょうし」
 丁寧に包装を済ませると、佐伯さんは言った。
「はい。全部で二千円」
「え?」
 明らかに安い。

「佐伯さん、これ一本だけでも結構しますよね?」
「店主命令。二千円」
「でも――」
「その代わり、完成したら見せてちょうだい」
 にっこり笑われてしまえば、もう何も言えない。

「……ありがとうございます!」
 今度こそ絶対に完成させる。
 そう心に決めて、私は店を出た。

   *

 腕の中いっぱいの花。
 しかも、大好きな青。
(あぁ……幸せ)
 嬉しくて仕方がなかった。
 だから。
 完全に、前を見ていなかった。

「――っ!」
 突然、視界が暗くなった。

 何かにぶつかった直後、私はそのまま舗道へ尻もちをついた。
「痛っ……!」
「あ、ごめん!」
 男の人の声。

「あの……大丈夫?」
 私はゆっくり顔を上げた。

 まず見えたのは、黒いレザーシューズ。
 細身の黒いパンツ。
 モスグリーンのマフラー。
 黒いロングコート。
 そして――ブロンドの髪。

 年齢は、私とそう変わらないように見えた。
 白い肌。
 少し長めの前髪。
 その隙間から覗いた瞳に、息を呑む。

 鮮やかな、翡翠色。

「……」
 目が離せなかった。

 彼は、私と視線の高さが合うところまで腰を落とした。
「立てる?」
 男性にしては少し高い、ハスキーな声。
 それなのに、不思議なくらい澄んでいる。

 どこか懐かしいような。
 初めて聞いたはずなのに、胸の奥に残る声だった。

「す、すみません。私、その……浮かれてて……」
 思わず正直に答えると、彼が吹き出した。
「浮かれてたって……自分で言っちゃうんだ」
「……」
「あはは。面白い子だね」
 そんなに笑わなくてもいいのに。
 恥ずかしくなって俯くと、彼の視線が私の腕の中へ落ちた。
「その薔薇、綺麗だね」
「あ……」
「青い薔薇なんて初めて見た」
「これは着色した薔薇なんです。白い花に、色をつけた水を吸わせてあって……」
「へえ」
 彼は少し嬉しそうに花を見つめる。

「花、好きなの?」
「はい。昔から」
「もしかして、その道を目指してる?」
「……はい。まだ勉強中ですけど」
 すると彼は、何の迷いもなく笑った。
「素敵な夢だね」
 そして。

「叶うといいね」
 差し出された手。
 私は、その手を取った。
 細くて長い指。
 なのに、思っていたより大きくて。
 温かい。
「ありがとうございます……」
 立ち上がったあとも、しばらく鼓動がおさまらなかった。

(何、これ……)

 冬なのに、顔が熱い。
 呼吸まで少し苦しい。
 全身に心臓があるみたいに、どくどくと脈打っている。
 やがて彼の手が離れた。

「それじゃ。今度は前、ちゃんと見てね」
「は、はい……」
 彼は軽く片手を上げ、そのまま歩き去っていった。
 私は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。

   ☆

「……あの人」
 数か月前の出来事を、今になって鮮明に思い出す。
 名前も知らない。
 どこに住んでいるのかも知らない。
 ほんの数分話しただけ。
 なのに。

「もう一度……会いたいな」
 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 これが恋なのかどうかなんて、まだわからない。
 ただ。
 もし、奇跡というものがあるのなら。
 もう一度だけ。

(あの人に、会えますように)

 窓を開ける。

 ひんやりとした夜風が、熱を持った頬を撫でていった。