ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

「うう、寒いっ」
 病院から帰った私は、コートを着たままリビングのファンヒーターの前に丸まった。
 唸るような送風音と一緒に、もふぁん、と熱風が吹きつける。
「はぁ、生き返る……」

「若葉、せめてコート脱ぎなさい。傷むわよ」
 台所からママの声。
「あとちょっとだけ。外、歯がガチガチいうくらい寒かったんだから」
 ソファーの毛布を頭から被る。
「あら。そんな格好したらパンツ丸見えよ」
「え!?」
 反射的に飛び起きた。

「あら、動けるじゃない」
「……はめたわね」
「その勢いで着替えちゃいなさい」
 相変わらず、人を動かすのがうまい。

「はいはい」
 コートを脱ぎ、ニットワンピースに手をかけたところで、背後から妙な視線を感じた。

「何? ママ」
 振り向くと、ママがじっとこちらを見ている。
「若葉」
「何?」
「今、恋してるの?」
「……は?」
「彼氏は? 好きな人は?」
「いないけど」
「本当に?」
「本当に」
 唐突すぎる。

「残念だけど、今まで一度もいたことないわ。私はママみたいにモテないの」
「なんだぁ、つまんない。娘の恋バナ聞いてみたいのに」
 ママは心底残念そうに肩を落とした。

「ちなみにママが若葉の歳の頃には、もうパパと付き合ってたわよ」
「はいはい」
「待ってるだけじゃ恋は始まらないのよ」
「だから、待ってる相手すらいないって言ってるでしょ」 「せっかく大学生になるんだから、一人くらい彼氏連れてきなさいよ」
「ママと一緒にしないで。私には私のペースがあるの」
 そう返すと、ママは何がおかしいのか笑った。

「強くなったわねぇ、若葉」
「誰のせいだと思ってるのよ」
 それでもママは楽しそうに、昔の話を始めた。

 美容専門学校に通う少し前。
  台風の日、バイト帰りに立ち往生していたママを、当時大学生だったパパが車で送ってくれた。
 それが二人の出会いだったらしい。
「少女漫画みたいね」
「でしょ?」
「台風の日に自転車でバイト行ったママの根性の方が気になるけど」
「そこじゃないのよ」
 そこから付き合い始めて。
 やがて、パパが大好きだった花時計の前でプロポーズされた。
「『これから先もずっと、君と同じ時間を生きていきたい。僕と結婚してください』って」
 そこまで話したところで、ママの声が震えた。
「……あぁ、やだ。思い出したら泣けてきた」
「え」
 本当に涙を浮かべている。
「ママが二十六の時に若葉が生まれてね。パパなんて、赤ちゃんのために自分で作った花束持ちながら、子どもみたいに泣いてたのよ」
「へえ……」
「あ、若葉を最初に抱っこしたのもパパ」
「そうなの?」
「そのまま『可愛い、可愛い』って顔中チューしてた。分娩も吸引、パパからも吸引。出生早々忙しかったわね」
「何その情報」
 思わず笑った。
 でも。
 ママは、まだ泣いていた。

「若葉が生まれた日、本当に幸せだったの」
 その言葉を聞いた瞬間。
 ずっと胸に引っかかっていた疑問が、口から零れた。

「じゃあ――どうして別れちゃったのよ」
「…………」
 言ってから後悔した。
「ごめん。今のは……」
「いいの」
 ママは、小さく笑った。

 私はパパが大好きだった。

 花の名前も。
 花言葉も。
 育て方も。
 私に教えてくれたのは、いつもパパだった。

 だから私は、花が好きになった。

 一方で、ママは厳しかった。
 幼い頃から勉強のこと、生活のこと、何をするにも細かく口を出された。
 パパとママが喧嘩する時は、決まって私のことだった。

 カーテンの中。
 布団の中。
 押入れの中。

 二人の声が聞こえなくなるのを、耳を塞いで待った夜を覚えている。

 小学校五年生の頃には、勉強の邪魔になるからと、気に入っていた長い髪を首元まで切られた。
 その時、ずっと抑えていたものが初めて爆発した。

「ママなんて大嫌い!」

 あの日から、少しずつ私は変わった。
 ちょうどその頃、梨歩と出会った。

『自己主張は、したもの勝ち』

 梨歩はそう言った。
 今思えば、あの子と出会ったからこそ、私は自分の言葉で「嫌だ」と言えるようになったのかもしれない。

 ママの言うことがすべて正しい。
 良い子でさえいればいい。
 そんなふうに思っていた私は、もういない。

「ごめんね、若葉」
 不意にママが言った。
「ママ、さっきから勝手なことばっかり言ってるわね」
「……知ってる」
「そう……」
 あからさまに落ち込む。
 仕方なく、私は訊いた。
「ねえ。今日ずっとパパの話してるけど……何かあったの?」
 ママが黙る。

「言いたくないなら――」
「再婚、してたんだって」
「え?」
 耳を疑った。
「パパが?」
 ママは頷いた。
「もともと、若葉が高校を卒業するまでは養育費を払うって約束だったの。ずっと一度も滞らなかった。でも、この三月で若葉が卒業したでしょう。それでパパから連絡が来て……」
 そこで初めて告げられたらしい。

「十年前に再婚してたんだって」
 ママが笑う。
 泣いているような笑顔だった。
「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれたっていいのにね」
「……大事なことだから、言えなかったんじゃない?」
 口ではそう言いながら、私も動揺していた。
 パパは、別れても私のパパだ。
 当たり前のことなのに、心のどこかではずっと――
 私だけのパパでいてほしかった。
「子どももいるのよ。男の子が二人。一人は今の奥さんの連れ子みたいだけど」
「……弟が二人」
 知らなかった。
 そして正直、知りたくなかった。

 パパは離婚したあとも、養育費だけでなく、私とママの誕生日には花を贈ってくれていた。
 そして毎年、秋になると決まって届く種があった。

 勿忘草(わすれなぐさ)。
 今年もまた、小さな水色の花を咲かせている。

――私を忘れないで。
 ずっと、そういう意味だと思っていた。
 離れていても家族を想っているという、パパなりのメッセージなのだと。

 でも。
 再婚したと知った今では、その花さえ少し違って見える。
 パパにも、もう別の人生がある。
 私たちにも、私たちの人生がある。

「もう、いいじゃない」
 自分自身にも言い聞かせるように、私は言った。
「パパには、今の幸せがあるんだから」
「……でも、何か悔しいわ」
「ダメよ。そんなふうに思ったら」
 ママは昔から、私に何でも教えようとする。
 けれど私はもう、ママが思っているほど子どもじゃない。

 良い子でいることが、生きる術。
 そう信じていた子ども時代は、もう終わる。
 私とママは親子だけれど。
 私の人生と、ママの人生は別のものだ。
 血が繋がっていたって、私の人生は私のもの。
「ママこそ、恋愛した方がいいわ」
「え?」
「もうパパを待たなくていいじゃない」

 きっとママは、ずっと後悔していた。
 勢いで結婚して。
 ぶつかって。
 勢いのまま別れて。
 もしかしたらいつか、またやり直せるかもしれない。
 そんな期待を、心のどこかに残していたのだろう。
 でも、パパにはもう新しい家族がいる。
 過去には戻れない。
 だったら。

「……私がいるわ」
「え?」
「ママには、私がいるじゃない」

 どうか、パパを憎まないで。
 どうか、過去だけを見て生きないで。
 私もきっと、これから自分の人生を歩いていくから。

「……そうね」
 ママは涙を拭って笑った。

「ママには、若葉がいる」
 その笑顔は、さっきより少しだけ軽く見えた。