ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

 私の夢は、フラワーデザイナーになること。
 そして梨歩の夢は――歌手になることだ。

 幼い頃から思い描いていたその夢を叶えるため、梨歩は中学卒業後、私たちの学年でただ一人、高校へは進学しなかった。
 ドーナツショップ『マスド芹山店』でアルバイトをしながら音楽活動を続け、カバー曲だけでなくオリジナル曲も作るようになった。
 そして半年前の秋、念願だったストリートデビューを果たした。
 ところが、それから三か月後――。

   ☆

 忘れもしない。
 私の大学入試を三日後に控えた夜、梨歩は救急搬送された。
 一命は取り留めたものの、そのまま入院。
 大好きな歌を歌うこともできなくなり、日に日に塞ぎ込んでいった。
「これならもう……いっそ、死んだ方がマシよ……」
 そんな梨歩を見るのが辛くて、私は学校帰りに何度も病院へ通った。
 好きなお菓子。
 雑誌。
 いろんなアーティストの音源。
 思いつくものは何でも持っていった。
 けれど――。

「若葉。あたし、ただ普通に……今までどおり歌いたいだけなんだよ」

 その願いだけは、私にはどうすることもできなかった。
 何をしても、何もしてあげられない。
 そのことが悔しかった。
 大学入試を控えていた私まで、気持ちが押し潰されそうになった。
 思えば高校入試の時も、梨歩は一か月前に緊急搬送されている。
 その時、私は初めて彼女の病気を知った。
 生まれた時から病を抱えていたというのに、それまで一度も、そんな素振りを感じたことはなかった。
 昔から梨歩は――太陽みたいな子だった。

   ☆

 梨歩がキャビネットからノートパソコンを取り出した。
「あれ、パソコン持ってきてたの?」
「うん。朝日兄ちゃんのお古が壊れちゃってさ。昨日、お母さんにスペア持ってきてもらった」
 梨歩には八歳離れた双子の兄がいる。
 朝日さんは小児科医を目指す研修医。
 夕日さんは高校の体育教師だ。

 梨歩は音楽サイト“MIX JAM”を開いた。
「あ、EDENだ!」
「えでん?」
「今、業界で話題になってるの。とんでもない新人が出てきたって」
「この人?」
「バンドらしいよ。でも顔も年齢も非公開。ヴォーカルが男か女かもわかんないの」
「そんなに?」
「聴けばわかるって」
 梨歩が、新曲“Over the World”を再生した。

 小さなクリック音。
 緩やかなピアノに、柔らかなハープの音が重なる。
 真っ白で無機質だった病室に、透明な水滴を落としたように音が広がっていった。

    君がいて 僕がいて
    世界が次第に色づいて

「あぁ……やっぱり好き。この声」
 梨歩が目を閉じる。
 確かに、不思議な声だった。

 少しハスキーなのに透明感がある。
 高く、繊細で――それなのに、時折はっとするほど力強い。
    幸せな時を刻む日も
    終わり告げる鐘が響く日も

「この人、表現力すごいのよ。消えそうなくらい静かに歌ったかと思えば、サビで一気に声を張るの。一曲の中に、いろんな感情がある」

 梨歩は歌に合わせて、そっとメロディーを口ずさんだ。
 初めて聴く曲なのに、驚くほど正確に音を拾っている。

「いいなぁ。この次の音が来そうって思ったところに、ぴったり来る感じ。たまんない」
 私は、そんな梨歩を見ているのが好きだった。

 張りのある、少し高めの声。
 はきはきとした話し方。
 聴いているだけで、こっちまで元気になる。
「あたし、よく『抑揚がない』って言われるんだけどね」
「そうなの?」
「うん。だから、このヴォーカルみたいに歌えるようになりたい」
 三か月前まで、
――死んだ方がマシ。
 そう言っていた人と同じとは思えない。
 EDENを知ってから、梨歩は少しずつ元の梨歩に戻っていった。
 検査の合間に発声練習をしては、
「病人なんだから寝てなさい」
 と看護師さんに怒られ、
「寝ながらだと歌いにくいじゃん」
 と反論するくらいには。

 正直、少しだけ悔しい。
 私が何をしても取り戻せなかった梨歩の笑顔を、EDENはいとも簡単に取り戻してしまったから。

「ねえ、若葉」
「何?」
「ありがとう」
「……いきなり何よ」
「だって、若葉の一番大事な時期だったのに。ほとんど毎日来てくれたじゃん」
「当然でしょう」
「高校の友達との付き合いだってあったでしょ?」
「事情はちゃんと話してるから。梨歩が気にすることじゃないわよ」
 梨歩が、少しだけ俯いた。

「大学生になっても……あたしと仲良くしてくれる?」
 思いがけない言葉だった。
「当たり前じゃない」
 私は即答した。
「私たち、これからもずっと友達よ」
「……良かった」
 梨歩が安堵したように笑った。
「あたし、高校行ってないでしょ。若葉には高校で友達ができて、その次は大学でまた新しい友達ができる。そうやって、いつかあたしとは疎遠になるのかなって思ったら……ちょっと怖くなって」