ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

――すべての始まりは、去年の十二月だった。

 大学入試に卒業制作。
 ただでさえ余裕のない毎日を送っていた、その矢先。
 親友の梨歩が倒れ、救急搬送された。
 一命は取り留めたものの、そのまま入院。
 この三か月、私は不安と恐怖に苛まれ、正直、生きた心地がしなかった。

 それでも昨日、私は高校を卒業した。
 ケータイの画面には、最後の制服姿。
 同じ園芸科だった響ちゃんはアパレル会社へ。アスみんは幼稚園の先生を目指して地元の短大へ進む。
 みんな、それぞれの夢を抱えて、それぞれの道を行く。
 いつかそんな日が来ることはわかっていた。
 けれど、いざ迎えてみると、思っていたよりずっと寂しい。
 高校に入った頃の私は、一度選んだ道は最後まで変えずに進むものだと思っていた。
 でも、この三年間で知った。
 夢は、変わってもいい。
 違うと思ったら、引き返してもいい。
 もう一度、自分で選び直せばいいのだ。
 そういう意味では、私も少しは大人になれたのかもしれない。

 開け放った窓から、まだ冷たさの残る春の風が入り込んでくる。
 午後三時。
 私は窓を閉め、卒業アルバムを抱えてバッグを手にした。
「あら、若葉。出かけるの?」
 ママがリビングから顔を出す。
「うん、梨(り)歩(ほ)のとこ」
「そう。あまり遅くならないようにね」
「わかった。行ってきます」

    *
 病院へ向かう途中、昨日まで通っていた高校の前を通った。
 少しだけ、校門の中へ入る。
 私服でここに立つのは初めてだった。
 たった一日しか経っていないのに、校舎が昨日より小さく見える。
 制服を脱いだだけで、こんなにも景色が違うなんて。
 校庭の隅には、創立記念に植えられた大きな桜の樹。
 まだ固い蕾が、春を待つように風に揺れている。
 花はすごい。
 誰に教わるわけでもないのに、自分が咲く季節を知っている。
 そうやって、毎年私たちに季節を教えてくれる。
 私は少しだけ立ち止まり、昨日までの自分に別れを告げた。
「じゃあね」
 誰もいない校庭にチャイムが響く。
 そして私は、学び舎(や)を後にした。

    ☆

 数か月前。
『第五十六回 東堂(とうどう)文化大学 造形学部 園芸学科 特別推薦入試会場』
 受験番号、10025。
 一段、また一段。
 三階へ向かう階段を上るたび、胸の鼓動が大きくなった。
(ダメダメ。弱気になっちゃ)
 この大学に行くと決めたのは、私自身だ。
 高校からもらった推薦枠。
 絶対に、このチャンスをつかむ。
「はい、次の方。どうぞ」
「は、はい!」
 コン、コン――。
(……あ。二回はトイレだ)
 慌てて三回目を付け足す。

「失礼いたします」
 目の前には三人の面接官。
「では山口さん。あなたが本学を志望した理由を教えてください」
「はい」
 余計なことは考えない。
 伝えたいことだけを、まっすぐに。

「幼い頃から花が大好きで、将来は花と関わる仕事に就きたいと考えております」
 声が震えそうになる。
 それでも、私は続けた。
「貴学には、資格取得対策講座や店舗実習など、実践を通して学べる機会が多くあります。四年間の学びを大切にし、幅広い分野で活躍できるフラワーデザイナーを目指したいと思います」
 最後だけ少し声が裏返った。
(やった……)
 恥ずかしい。
 でも、もう止まれない。

「専門学校という選択肢はありませんでしたか?」
「はい。選択肢の一つではありました。しかし、専門分野だけでなく一般教養も学び、より広い視野を身につけたいと考え、大学進学を選びました」
 行きたい。
 ここで学びたい。
 それだけは、誰にも譲れない。
「では最後に。あなたは将来、どんな大人になりたいですか?」
 私は一呼吸置いた。
 そして、答えた。

「――人の幸せを、心から祝福できる大人になりたいです」
    ☆

 信号が青に変わる。
 私は横断歩道を渡り、山野井総合病院のエントランスをくぐった。
 待合室を抜け、売店を過ぎる。
 エレベーターで四階へ。

 四〇六号室。
「あった」
 プレートに記された名前を確認する。
 桜ヶ丘(さくらがおか)梨歩(りほ)。
 私は病室の扉を開けた。
「こんにち――」
「あ、若葉!」
 ベッドの上から、梨歩が大きく手を振った。
 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

「梨歩、遅くなってごめん」
「そうだよぉ。待ちくたびれちゃった」
 そう言った直後、梨歩はにっと笑う。
「若葉。高校卒業、おめでとう」
「ありがとう。ほら、約束してた卒アル」
「わ、見たい見たい!」
 梨歩は私の手から卒業アルバムを受け取ると、さっそくケースから取り出した。
「あ、若葉見っけ」
「あんまり見ないでよ」
「相変わらず写真写り悪いね」
「だから見せたくなかったのに」
「いいじゃん。実物の方がいいってことなんだから」
「はいはい」
 こんなふうに憎まれ口を叩いている梨歩を見ていると、三か月前に命の危険さえあったことが嘘みたいだ。

 私は持ってきた袋に手を伸ばす。
「あ、そうだ。これ」
「何?」
 取り出したのは、オレンジ色のガーベラを束ねた小さなブーケ。
「わ、可愛い!」
 梨歩は一瞬で目を輝かせた。
「梨歩、オレンジ好きでしょ?」
「さっすが若葉。よーくわかってらっしゃる!」
「当然」
 真っ白な病室の中で、鮮やかなオレンジが小さな太陽みたいに見えた。
 私は、この色が梨歩によく似合うと思う。
 どれだけ辛くても、どれだけ落ち込んでも。
 最後にはまた、誰かを照らすように笑うから。