ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

 ケータイの送信ボタンすら、なかなか押せそうにない。
 そんな些細なことさえ、今は満足にできそうになかった。
 あたし、いつからこんなに臆病になっちゃったの?

「……とりあえず、今日はもう休みなさい。若葉ちゃんたちには、私からもう一度話しておくから」
 お母さんはそう言い残し、病室を出ていった。
「……」
 一人残されたあたし。

 布団から顔を出し、天井を仰ぐ。
 狭い空間。
 何から何まで、真っ白な空間。
 暗闇よりも深い、虚無感。

 もし“永遠”があるとするなら、こんなに虚しい時間を過ごしている今のあたしにとって、それは拷問でしかない。
 それならいっそ、死んでしまった方が遥かに楽だとさえ思った。
「このまま……死んじゃえばよかったんだ……」

 死を覚悟したわけじゃない。
 死ぬのが怖くて仕方なかったはずなのに。
 今は、生きる気力すら危うくなっている。
 本当に、これがあたしなの?
「……」

 枕元に置かれた、涼ちゃんからのプレゼント。
 これが最後になるなんて、思ってもみなかった。
「涼ちゃん……」
 どうして。

 どうして。

 水彩と繊細な色鉛筆で描かれたあたしの頬に、ぱたぱたと音を立てて涙が落ちる。

 ――涼平は、先月……亡くなりました。

 あまりにも突然だった。
 あたしは呑気に、 「どうしてお見舞いの一言も言ってくれないの」なんて文句を言おうと、電話をかけたところだった。
 タイミングがいいのか悪いのか。
 電話に出たのは、彼のお姉さんだった。

 面識なんてないはずなのに、彼女はあたしが誰なのか知っていた。
「ごめんなさい……ッ」
 嗚咽する彼女の声に、あたしは訝しんだ。

「あの、涼ちゃんは……?」

 そして、あの言葉。
 何て残酷な時間なんだろう。

 あたし、声も出なかった。
 電話越しに聞こえてくる、お姉さんの嗚咽まじりの言葉。

 どういうこと?
 帰省中に交通事故に遭って、休学することになったっていうのも最近知ったばかりなのに。

 そしたら今度は病気が見つかって。
 しかも、もう末期だったって?

 あたし、一緒にいて全然気付かなかったの?

 あたしの、せい?

 涼ちゃんは、あたしのせいで……?

 もっと早く気付いてあげていたら……。

 いまだに信じられない。

 受け入れがたい現実。

 それでも、お姉さんの言葉の中には、涼ちゃんの強い思いが溢れていた。

 まるで、あたしをなだめるように。
 お姉さんの声を借りて、涼ちゃんの思いが伝わってきた。

 ――梨歩を失いたくない。

 ――梨歩を泣かせたくない。

 ――心配をかけたくない。

 ――生きていてほしい。

 ――だから、自分がいなくなることは、すぐには言わないでほしい。

 ――せめて、梨歩の誕生日が過ぎるまでは。

 ――それまでに自分がいなくなってしまったとしても、悲しい誕生日にならないように。


 そんな小細工までして。
 涼ちゃんは、あたしより先に空へ逝っちゃった。
 そんな大事なこと、どうして言ってくれなかったの?
 そう言いたかった。

 でも、あたしの病状を知った上での決断だったんだと思うと、何も言えなかった。

 でも。
 ひどいよ。
 あたしに直接言わないまま、こんなにも早くいなくなっちゃうなんて。

 ひどい。
 ひどすぎるよ。

 その時だった。
 あり得ないはずのことが起こった。



 もう二度と聞こえないはずの声。
「涼……ちゃん?」
 もう二度と会えないはずの彼。


――ごめん。
「涼ちゃん!」
 亡くなったはずの涼ちゃんが。
 涼ちゃんが、いる。

――ちゃんと、言えなくて。
 ほんと、そう。
 口下手もいいところだよ。
 回りくどいところも。  はっきりしないところも。
「どうして、言ってくれなかったの?」

――ごめん。
 わかってる。
 あたしに心配をかけたくなかったんでしょ。

――梨歩。
 涼ちゃんの躰が、透けている。
「涼ちゃん、あたし……」

――梨歩のせいじゃないから。
「え?」

――俺がこうなったのは……梨歩のせいじゃない。
「……」

――言ったら、梨歩は自分のせいだって思うだろうから。だから、姉貴に頼んで――
「だからって、そんなことしなくても……」

――ごめん。
 涼ちゃん、さっきから謝ってばっかり。
 謝るのは、あたしの方なのに。
「ごめんね、あたし……。涼ちゃんに甘えすぎてた。いつも黙って、あたしのやることなすこと見守ってくれてたのに」

――それは、俺がそういう梨歩の姿を見てるのが好きだったから。
 涼ちゃん。
 そういうのは、生きてる時に言ってほしかったよ。
 寡黙でシャイなのは知ってたけど。
 こうして改めて言葉で聞くと、あたし、涼ちゃんのこと全然わかってなかったんだなって思った。
「あ、そうだ。プレゼント、ありがとう」

――ああ。無事に手元に届いたみたいでよかったよ。
「まったく……。お見舞いの一言もないから、死んでるんじゃないかって思ってたら……」

――ごめん。本当に死んでしまって。
「冗談でも笑えないよ、それ」

――ごめん。さすがにシャレにもならないよな。
 さっきよりも、涼ちゃんの躰が透けて見える。
 いつになく饒舌なのは、もう時間がないってことなのかな。

――梨歩。もう時間がないから、手短に言うよ。
「え?」
 やっぱり。
 そうだよね。
 こうして会えること自体、奇跡みたいなものなんだし。
 たとえ、これが夢だったとしても。


――今を、生きろ。
 まっすぐにあたしを見つめて、涼ちゃんは言った。

――夢は必ず叶う。諦めない限り。
「涼ちゃん……」

――もうそばにいてやれないのは心残りだけど。俺はいつも、梨歩のこと……応援してるから。
「あたしの、夢……」

――歌手になるんだろ?
「……うん」

――なれるよ、梨歩なら。
 涼ちゃんの手が、あたしの髪を撫でるように伸びて。
 けれど、その指先は触れることなく、するりと抜けていった。
「あたし……生きる」

――ああ。
「叶えたい夢があるんだもの。だから、あたしまだ……」
 死ねない。
 死にたくない。
 でも、涼ちゃんは……。

――俺の分まで、生きて。
 志半ばで命が潰えることほど、無念なことはないはずなのに。

――心のままに、生き……て。
「涼ちゃん!」
 すうっと光の粒が舞う。
 涼ちゃんの姿が、泡みたいに弾けて消えていく。

――梨歩に出逢えて……良かっ……た……
「涼ちゃん! 涼ちゃん!」
 行かないで。
 もっと、そばにいて。

 涼ちゃん。

 涼ちゃん。

 声にならない声で、あたしは何度も彼の名前を叫んだ。

「涼……ちゃん……」