ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

 若葉ちゃんと付き合い始めてから、初めてのデートの日を迎えた。
 付き合う前より緊張するのは、何故だろう。
「……これでいいかな」
 鏡の前で、今日何度目かわからない服装チェック。
 格好つけること自体が格好悪い――そう思っていたはずなのに、好きな人には少しくらい格好いいと思われたい。
 恋をすると、こうなるものなのだろうか。

「いいんじゃない?」
「うわッ!」
 鏡越しにエリサと目が合った。
「急に入って来るなよ!」
「ねえ、女に会うの?」
「いいから出てって」
「ちゃんとオシャレなパンツ穿いていきなよ。赤とか」
「余計なお世話だ」
 何を期待しているんだ、こいつは。
「兄貴、緊張してチビるなよ」
「チビらない」
「漏らすなよ」
「同じ意味だから!」
 相変わらず調子が狂う。
「その子、可愛い?」
「……可愛いよ」
「へぇ~」
 エリサがにやりと笑った。
「兄貴、マジじゃん」
「うるさい」
 これ以上付き合っていたら、何を聞き出されるかわからない。
「ほら、今日撮影あるんだろ?」
「あ。やば」
 エリサが時計を見た。
「じゃ、行ってきまーす」
「はいはい」
 嵐が去った。

「……やれやれ」
 僕も急いで家を出た。

   *

 母から譲り受ける予定の淡いパステルグリーンの軽自動車を走らせる。
 助手席には、まだ誰もいない。
「選曲は……これでいいか」
 デートのBGM。
 少し迷って、EDENの曲を入れた。

 自分の曲を自分のデートで流すというのも妙な話だけれど――若葉ちゃんが知らなければ、それでいい。
 それに。
 彼女がどんな音楽を好きなのか、知るきっかけにもなる。

 僕は恋愛初心者だ。
 格好よくエスコートする自信なんてない。
 でも。
 知らないことなら、これから知っていけばいい。
 その時間まで含めて、きっと恋愛なのだろう。

   *

 待ち合わせ場所の花見公園前。
 前方から、若葉ちゃんが歩いてくる。
 風に揺れるペパーミント色のシフォンワンピース。
(……可愛い)
 思わず見惚れた。

「お待たせしました」
「全然。僕も今来たところ」
 助手席のドアを開ける。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「狭い車でごめんね」
「いえ。可愛い車ですね」
「ああ、これ母さんのなんだ。買ったくせに『ニホンノ車コワイネ』って全然乗らなくなって。近々僕がもらう予定」
「お母さん、外国の方なんでしたっけ?」
「フランス人。日本に来てもう長いけど、今でも時々すごい日本語使うよ」
 若葉ちゃんが笑った。

 車を走らせる。
 何を話そうか、あれこれ考えていたはずなのに。
 実際に二人きりになると、不思議なくらい自然に会話が続いた。
 その時。
「あ。この曲……」
「知ってる?」
「EDENですよね」
 思わず横目で彼女を見る。

「私の友達が、ものすごく好きなんです」
「へえ」
「私は音楽に詳しくないんですけど……この人の声、すごく素敵だと思います」
「声?」
「はい。少しハスキーなのに透明感があって。それにものすごく高い声で、一瞬女性なのかなって思うくらい」
 心臓が変な跳ね方をした。

「……そう?」
「友達は、そこが神秘的でいいって。正体不明なのも含めて、すごく憧れてるみたいです」
 何だろう。
 自分のことなのに、面と向かって褒められると妙に照れる。
「そう言ってもらえると……嬉しいな」
「え?」
「あ、いや」
 危ない。

「その友達とは、よく遊ぶの?」
 若葉ちゃんの表情が少し曇った。
「遊びたいんですけどね。今、入院してるんです」
「そうなんだ……」
「去年の十二月に持病が悪化して、救急搬送されて。そのままずっと」
「ごめん。不躾だったね」
「いえ。今は結構元気ですから」
 そう言って笑ったものの、その笑顔には少し影があった。
「病気自体は重いんですけど……歌手を目指してるんです」
「歌手?」
「はい。高校には進学しないで、中学を卒業してからずっと音楽活動してて。ドーナツ屋でアルバイトしながら、楽器を買うお金とかライブの費用を貯めて」
「すごいね」
「私も少しだけ協力して、一緒に貯めてるんですけど。やっとこれからって時に倒れちゃって」
「……そっか」
 僕は少し考えてから言った。

「叶うといいね。その子の夢」
「はい」
「きっと叶うよ」
 何の根拠もない。
 でも。
 そうであってほしいと思った。

「今はEDENの歌詞公募に応募するって、張り切って作詞してます」
「本当に?」
「絶対選ばれるんだって、ものすごい勢いで」
 思わず笑った。
「じゃあ、応援しないとな」
「はい」
「あ。それより――」
「何ですか?」
「若葉ちゃん、その子の夢のために一緒にお金貯めてるんだよね?」
「まあ……少しだけですけど」
「やっぱり、すごいよ」
「え?」
「人の夢を、自分のことみたいに応援できるって」
 若葉ちゃんが照れたように視線を逸らす。
「ますます好きになっちゃうな」
「もう……やめてくださいって」
「やめない」
 そんなやり取りをしているうちに、あっという間に一時間が経った。

   *

 今日は県外の植物園へ向かう予定だ。
 途中で休憩を挟み、再び車に乗り込む。
「若葉ちゃん」
「はい」
「それ」
「え?」
「敬語」
「あ……」
「今日から禁止ね」
「ええっ」
「恋人なのに、いつまでも敬語だとちょっと寂しい」
 若葉ちゃんが困ったように笑った。

「……じゃあ、頑張る」
「うん。それ」
「何?」
「今のいい」
「もう……」
 こういう些細な変化が、どうしようもなく嬉しい。
 僕は笑いながらエンジンをかけた。

「あと三十分くらい走ったら、お昼にしようか」
「うん」
 少しずつ。
 二人の距離が近づいていく。
 それが、心地よかった。

   *

「そうだ、若葉ちゃん」
「何?」
「今度、僕の友達とダブルデートしない?」
「ダブルデート?」
 見るからに緊張している。

「前に話した武蔵君。大学で法律を勉強してて、弁護士目指してる友達」
「その人にも彼女さんいるの?」
「最近できたんだって。若葉ちゃんと同じ大学一年生らしいよ」
「そうなんだ……」
「無理なら全然いいんだけど」
 しばらく考えたあと、若葉ちゃんが頷いた。
「会ってみたい、かも」
「本当?」
「うん」
「じゃあ聞いてみる」
 ちょうど安全に停められる場所を見つけ、僕は車を停めた。
 武蔵君に電話をかける。

〈もしもし〉
「武蔵君。今大丈夫?」
〈大丈夫だよ。もしかして例の件?〉
「そう。今度の水曜日どう?」
〈僕はいいよ。玲美ちゃんも一緒にいるけど――〉
〈行く行く~!〉
 電話の向こうから、明るい女性の声が飛んできた。
「それ、彼女さん?」
〈うん。槙野玲美ちゃん〉
〈初めまして~!〉
 若葉ちゃんへケータイを向ける。
「若葉ちゃん、僕の彼女」
「えっ」
〈わあ、若葉ちゃん? 初めまして!〉
「あ……初めまして。山口若葉です」
〈玲美でいいよ~。同じ一年生だし、会えるの楽しみにしてるね〉
「う、うん。私も」
 緊張しながらも、ちゃんと答えている。
 何だか嬉しかった。
「じゃあ、水曜の十六時。僕の専門学校前で」
〈了解〉
〈楽しみにしてるね~!〉
 通話を終える。

「ありがとう。勝手に話進めちゃったけど大丈夫だった?」
「うん。二人とも、いい人そう」
「武蔵君は本当にいい奴だよ」
「じゃあ楽しみにしてる」
 若葉ちゃんが笑った。
 その直後だった。

〈ピロロロ……〉
 彼女のケータイが鳴る。
「ちょっと出てもいい?」
「もちろん」
 画面を確認した若葉ちゃんが電話に出る。

「もしもし……あ、おばさん。どうしたの?」
 最初はいつも通りだった。
 けれど。
 少しずつ、若葉ちゃんの表情が消えていく。

「……え?」
 声まで変わった。
「……うん」
 僕は何も言えないまま、彼女の横顔を見る。
「……わかった。ありがとう」
 通話が終わった。

「若葉ちゃん?」
 俯いたまま、動かない。
「どうしたの?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「私……行かなきゃ」
 震えている。
「梨歩が……」
 名前を口にした途端、声が詰まった。
「友達が……危篤、だって……」
「……」
「だから、行かなきゃ……!」
 泣き出しそうになりながら、若葉ちゃんは続ける。
「ごめんなさい……。せっかく今日、連れてきてくれたのに。武蔵さんたちとも約束までしてくれたのに……」
「若葉ちゃん」
 僕は彼女を抱きしめた。

「謝らなくていい」
「でも……」
「いいんだよ」
 腕の中で、小さく震えている。
「大丈夫」
 何が大丈夫なのか、自分でもわからない。
 それでも今は、そう言うしかなかった。
「きっと、大丈夫だから」
「う……っ」
 若葉ちゃんが僕の胸元で泣いた。
 今日は彼女を笑わせたかった。
 楽しい一日にしたかった。
 でも。
 そんなことは、もうどうでもいい。

「行こう」
「え?」
「その子のところへ」
「でも……」
「どこの病院?」
 迷っている時間はない。
 若葉ちゃんが涙を拭う。

「山野井総合病院……」
「……え?」
 一瞬、耳を疑った。
「山野井総合病院まで、お願い」

 その名前。
 忘れるはずがない。
 僕が幼い頃、長い時間を過ごした病院。
 心臓の手術を受けた――あの場所だ。

 まさか。
 若葉ちゃんの親友が入院しているのも、そこなのか。
「わかった」
 エンジンをかける。

 行き先変更。
 植物園とは反対方向へ。
 山野井総合病院へ向かって、車を走らせた。
(間に合ってくれ)

 名前も知らない。
 顔すら知らない。
 それでも。
 若葉ちゃんがこんなに大切にしている人なら――。
(どうか)
 ハンドルを握る手に、自然と力が入った。

 彼女に、これ以上の悲しみを与えないで。