ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】

 若葉ちゃんと奇跡みたいな再会をして、一週間が過ぎた。

 未だに信じられない。
 あれから僕たちは、毎日のように連絡を取り合っている。
 一度、二人きりで夕食にも行った。
 もちろん、ロゼさんたちには秘密だ。

   ☆

 再会した、あの日。
 彼女の名前が「若葉ちゃん」だと知った直後。
「あの……もしよかったら」
 ロゼさんとジェームズさんがカウンターへ戻った隙を見て、僕はケータイを取り出した。
 自分でも驚くくらい緊張した。
「連絡先、交換しない?」

 少しだけ間があって。
「……はい」
 その返事だけで、今日という日を一生忘れない気がした。

   ☆

 そして今日は、二度目のデート。
 若葉ちゃんの講義が終わる時間に大学まで迎えに行き、そのまま車を走らせて、郊外の港町まで来ていた。
 本当なら。
 海を一望できる展望カフェで、夕陽を眺める予定だった。
 なのに。
(……リサーチ不足)

 まさかの補修工事中。
 テラスの正面には足場と仮囲い。
 肝心の夕陽がほとんど見えない。

(こんなことある?)

 しかも今日は、少しくらい格好いいところを見せたかったのに。

 こうなったら。

「外、散歩しない?」
「はい」
 会計を済ませ、僕たちは外へ出た。

 丘のように広がる芝生。
 その先には海。
 さらに、転落防止のフェンス近くに小さな鐘がある。

 恋愛成就の鐘。
 風で自然に鳴った音を聞ければ、その恋は叶う――。
 そんな噂があるらしい。

(雑誌、読んどいてよかった)
 僕は少し先を急ぎたい気持ちを抑えて、若葉ちゃんの歩幅に合わせた。

 夕陽が海を染めている。
 オレンジ色の光が、白く、赤く、雲間から揺れながら水面へ落ちていく。
「あの……」
 先に口を開いたのは、若葉ちゃんだった。

「私、未だに信じられなくて」
「何が?」
「エディさんと、こうして一緒にいること」
「ああ」
 僕も笑った。

「それは僕も同じだよ」
「不思議な感じですね」
 潮風が、彼女の長い髪を揺らした。
 夕陽を受けた黒髪が、やわらかく光る。
「髪、すごくきれいだね」
 気づけば、手を伸ばしていた。

「え……あ、ありがとうございます」
 若葉ちゃんが、はにかむように笑う。
「ごめん。勝手に触っちゃって」
「い、いいえ」
 その反応まで可愛くて。
 もっと話していたくなる。

「そういえばさ。初めて会った日のこと、覚えてる?」
「はい」
「すごく嬉しそうな顔してたよね。何かいいことあったの?」
 若葉ちゃんが、少し気まずそうに視線を逸らした。

「あれは、その……卒業制作のウェディングブーケに使う花を買いに行った帰りだったんです」
「ああ。それであんなに花持ってたんだ」
「はい。ちょっと失敗しちゃって。材料を買い足しに行ったら、思ったより安くしてもらえて……」
「それで、前も見えなくなるくらい浮かれてた?」
「……はい」
 俯いてしまった。
 やっぱり可愛い。

「でも」
「え?」
「そのおかげで、君と出会えた」
 若葉ちゃんが顔を上げた。

「僕にとっては、あの日からずっと忘れられない出来事だったんだ」
「……」
「実は一度、君に会いたくて、青い薔薇を手掛かりにあの花屋まで行ったこともある」
「え!?」
「でも、店の前まで行って怖気づいて帰った」
 若葉ちゃんが目を丸くする。

 引かれただろうか。
 でも。
 格好つけるより、本当のことを知ってほしかった。
 いいところだけ見せて、あとで幻滅されるくらいなら。
 最初から全部知ってほしい。

 情けないところも。
 臆病なところも。
 
 それでも、変わらない気持ちがひとつある。

「君が、好きだ」
 ようやく言えた。

 ずっと伝えたかった言葉。

 返事なんて、もらえなくてもいい。
 それでも。
 好きになれたこと自体が嬉しかった。
 君みたいな人に出会えたことが。
 ただ、それだけで――。


「私も…………好き」


 耳を疑った。

「え?」

「私も、ずっと……あなたに会いたかった」
 若葉ちゃんの頬を、涙が伝った。

「若葉ちゃん……」

 風向きが変わる。

 彼女が、僕の方へ向き直った。
 夕陽を受けた黒髪が、風に揺れている。

「私、恋なんてしないと思ってた」
 ゆっくりと、彼女は話し始めた。

「誰かを本気で好きになるなんて、私にはないと思ってた。どんなに好きになっても、いつか終わる時が来るんだって……ずっと、ママを見てそう思ってたの」

 静かな波の音。

「怖かったんです。誰かを好きになって、その人が大切になって……いつか終わる日が来るのが」
 潤んだ瞳が、僕をまっすぐ見ている。

「だったら最初から好きにならなければ、傷つかなくて済むって」
 きっと彼女が怖かったのは、恋そのものじゃない。
 大切な人を失うことだったんだ。

「でも、今は――」
 その声には、もう迷いがなかった。

「たとえどんな終わりが来ても……エディさんのそばにいたい」
 その瞬間。

 僕は、若葉ちゃんを抱きしめた。

「……っ」
 驚いたように、彼女の身体が少し揺れる。

「あの……エディさん?」
 もう無理だった。
 これ以上、言葉だけで抑えていられない。

「ごめん」
「え?」
「終わらせない」
 そう言って。

 僕は、彼女に口づけた。

 触れるだけの、短いキス。

 若葉ちゃんの唇が、小さく震えている。
 一度離れようとした時。
 ほんの僅かに。
 彼女の方からも、触れるような感触が返ってきた。

「……」
 胸の奥が、熱くなる。
 もっと強く抱きしめたくなる。
 でも。

 大切にしたい。
 何よりも。

「若葉ちゃん」
「……はい」
「これからは、僕が君のそばにいる」
 水平線へ、夕陽が沈んでいく。

 空が少しずつ、紺碧へ変わっていく。

「僕じゃ頼りないかもしれない。でも、君を悲しませるようなことは絶対にしない」
 その時。

 どこからか、鐘の音が響いた。
 風に揺られた、恋愛成就の鐘。
 高鳴る鼓動と重なる。

「だから――」
 僕は、彼女の目を見た。

「僕と、付き合ってくれないか」
「……はい」

 僕らの始まりを告げる鐘。
 それは、君からの“YES”のサインみたいだった。

「大切にするよ」

 今はまだ、“愛してる”なんて言葉は早い気がする。
 だから。

 今は、たくさんの“好き”を伝えていこう。

「ありがとう、エディさん……」

 そう言って笑った若葉ちゃんは。

 今日まで見た誰よりも――
 綺麗だった。