ブルーヘヴンの彼方に【改稿版】


「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
 あれから一年あまり。
 何だかんだで、僕はまだここにいる。

「エディ。六番テーブルにロゼスペシャルお願いね」
「はい」
 ロゼスペシャル。
 薔薇とピーチの香りを合わせた、店の看板メニューだ。
 名前はともかく、味は悔しいくらいにいい。
「お待たせいたしました。ロゼスペシャルでございます」
「ありがとうござ――」
「あ」
 声が重なった。
 顔を上げた客と、目が合う。

「……君は」
「こ、こんにちは」
 彼女だ。

 数か月前。
 青い薔薇を抱えていた――あの女の子。
(嘘だろ)

 これが、運命なのか。
 僕は今、この上ないくらいの高揚感に、どうにかなってしまいそうだった。

 あれだけ探して。
 花屋の前まで行って。
 結局怖気づいて帰ったのに。
 向こうから、僕のいる店へ来た。
「……まいったな」
「え?」
「いや。まさか、こんなところで会うと思わなくて」
 しかも。
 よりによってロゼさんとジェームズさんのいる職場で。
 嬉しい。
 嬉しいけれど。
 ものすごく恥ずかしい。

「ここ、よく来るの?」
「最近見つけたんです。私のバイト先と同じ名前のお店だったから、親近感を覚えて。大学も近いのでお昼休みとか講義のあとに」
「大学?」
「はい」
「じゃあ……一年生?」
「先月、高校を卒業したばかりです」
 あの時は、まだ高校生だったのか。
「今、十八?」
「はい。来月で十九になります」
 思わぬ情報が、次々に入ってくる。
 しかも、今バイト先と同じ名前って言った?
 それって、まさか――。

 僕の脳内が急に忙しくなる。
 僕は仕事中だということも忘れかけていた。
「じゃあ、これからも会うことあるかもね」
「そうですね」
 彼女が、ふわりと笑った。
 ……まずい。
 それだけで、明日からのバイトが楽しみになってしまう。
 もっと話したい。
 できることなら。
 仕事じゃないところで、二人きりで。

「僕は美山からこっちの専門学校まで通ってて――」
「エディィィィ!」
「……」
 店の奥から、聞き慣れた声が響いた。
「いつまでお客様口説いてんのよ! 七番テーブル待ってるわよぉ!」
「口説いてません!」
 店中の視線が集まった。
(最悪だ)
 恐る恐る彼女を見る。

「ふふっ」
 口元を押さえて笑っている。
「……笑わないでよ」
「ご、ごめんなさい。でも……仲がいいんですね」
「どこを見たらそうなるの」
 思わず本音が出た。
「エディ~。八番テーブルにケーキセットお願~い」
「はいはい!」
 仕方なくカウンターへ戻る。

 するとすぐ、ロゼさんが寄ってきた。
「ちょっと。あの子、エディの何なのよ」
「何でもないよ」
「嘘。姐さまの目は誤魔化せないわ」
「仕事してください」
「ほら、やっぱり何かある!」
「……うるさいな」
「何々? スキャンダル?」
 ジェームズさんまで首を突っ込んでくる。
「お客さんに手を出したの? やだぁ、不潔~」
「出してません!」
 本当に。
 この二人を誰か止めてほしい。
「エディ。早く八番テーブル」
「はい!」
 僕はケーキセットを持って逃げた。

   *

 ようやく一仕事終えた頃。
 彼女がレジの前に立っていた。

「あ、ごちそうさまでした」
「ありがとう。また来てね」
「はい」
「じゃあねぇ、若葉ちゃん」
 ロゼさんが手を振った。
「……え?」
 思わず振り向く。
「あら。彼女の名前よ。知らなかったの?」

 くっ。
 先を越された。

「あの!」
 彼女を呼び止める。
「はい?」
「僕……まだちゃんと名乗ってなかったなと思って」
「あ……そういえば」
 少しだけ笑う。
 僕は彼女を見つめた。

「僕は、神城エディ」
 彼女も、まっすぐ僕を見る。
「私は、山口若葉です」
 そして。
「よろしくお願いします」
 よろしく。

 そんな言葉をもらっただけで。
 君とのこれからを、期待してしまう。

 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
 名前を知った。
 それだけなのに。
 数か月前のあの日より、君がずっと近くなった気がした。
 これが――
 君と僕の時間(こい)の始まりなら。

 どんなに幸せだろう。