千の蕾

「あれ?新九郎が鑿なんて持ってる」

 佐吉も視線を向ける。隼人は、いつの間にか手にした鑿を見下ろした。
「無意識でした。木を見ると……なぜか触りたくなって」
 佐吉は黙ってその様子を見つめている。

 お春は首をかしげた。
「前は、おじさんに怒られてばっかりだったのに。鑿を持つと、すぐ木を割っちゃって。だから『もう大工なんて嫌だ』って、よく逃げ回ってたじゃない」

 隼人は思わず佐吉を見る。佐吉は苦笑しながら腕を組んだ。
「その通りだ。木より畑の方が向いてるんじゃないかと、何度思ったことか」
 そう言われても、隼人は笑うしかなかった。新九郎のことを、何も知らないのだから。

 佐吉が不意に、試すような低い声で口を開いた。
「……新九郎。その鑿を持ったまま、そこの木を少し削ってみろ」

 隼人は一瞬だけ息をのんだ。佐吉の視線は、もはや父親のものではない。技術の底を見極めようとする『職人の目』だった。

 隼人は手の中の鑿を見つめた。
「……俺が、ですか」
「思い出せんでも構わん。気の向くままに削ってみろ」

 隼人は作業台へ近づいた。
 端材を手に取る。軽く木目を眺め、鑿を添えた。

 トン――。金槌は使わず、手首の押し出しだけで刃を進める。スッ。絹のようになめらかに、薄く削れた木が、くるりと丸まって落ちた。

 もう一度。スッ。スッ。鑿は木目に逆らうことなく、吸い込まれるように滑っていく。

 隼人は夢中になっていた。休日、自宅で木彫りをしていた頃と全く同じ感覚だった。どこを削れば木が生きるのか。どこへ刃を入れれば割れないのか。考えるより先に、身体が動いていた。

 数分後。隼人はそっと鑿を置く。
「……こんな感じでしょうか」
 
 佐吉は黙って木片を受け取った。じっと眺める。無骨な指先で削り跡をなぞる。一度。二度。三度。何も言わない。

 お春が不思議そうに覗き込む。
「どうしたの?」
 佐吉は木片から目を離さなかった。
「……おかしい」
「え?」
「こんな削り方、新九郎にはできん」

 お春は思わず笑った。
「そんなの当たり前じゃない。さっきも言ったでしょ?新九郎は、木を削るの下手なんだから」

 佐吉は首を横に振る。
「いや……そういう話じゃない」
 佐吉はゆっくりと顔を上げ、射抜くような目で隼人を見つめた。
「力任せじゃない。木目を見て刃を入れておる。しかも無駄がない」

(まずい……)無意識に、いつもの癖で鑿を扱っていた。

 佐吉は木片を手にしたまま、削り跡を確かめている。
「新九郎。これをどこで覚えた」
「……分かりません。手が勝手に」

 佐吉は目を上げた。
「記憶を失っても、手には残るということか」

 隼人は答えられなかった。
「……だが、わしの知るお前の手ではない」

 佐吉は静かに木片を作業台へ戻し、鑿を受け取って丁寧に並べる。
「今日はもう、それでいい。」
「ありがとうございます」

 佐吉の横顔には、まだ深い戸惑いが残っていた。お春は不安そうに隼人の顔をのぞき込む。

「本当に、何も覚えてないの?」
「……はい」
「私と遊んだことも? 清太兄ちゃんと、三人で遊んだことも?」
 隼人は静かに首を横へ振った。
「ごめんなさい」
 お春は少しだけ肩を落とした。
「そうなんだ……」

 しばらく沈黙が流れる。やがて、お春は無理に明るい笑顔を作った。
「また明日来るね。あんまり無理しちゃ駄目だからね!」
 そう言い残し、帰っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、隼人は小さく息を吐く。佐吉も、お春が見えなくなるまで黙って立っていた。

「優しい娘だ」
 ぽつりと佐吉が言う。
「昔から、お前のことを弟みたいに気に掛けておる」

 隼人は静かにうなずく。知らない人たちなのに、みんな新九郎を心配してくれている。その温かさが、かえって偽物の胸を締めつけた。

 佐吉は空を見上げた。夕焼けが少しずつ山の向こうへ沈んでいく。

「新九郎」
「はい」
「明日は城へ行く」
 隼人は思わず顔を上げた。
「城……ですか」
「ああ。仕事が途中のままだ。わし一人でも構わんが、一度お前も来い」
 それは、この世界へ来て初めて耳にする、大きな未知の場所だった。
「何も思い出せなくても構わん」

 佐吉は、夕焼けから視線を戻し、穏やかな口調で続けた。
「見慣れた景色を見れば、何か心が動くかもしれん。職人の技を見るだけでもいい」

 隼人は一瞬だけ迷った。外へ出れば多くの人と関わり、自分が偽物だとバレる危険も高まる。

 だが、この見知らぬ世界を知り、生き抜く術を探すには、外へ出るしかない。
「……分かりました」

 佐吉は満足そうにうなずいた。
「日の出とともに出る。遅れるなよ」
「はい」

 その時、ぐぅぅ、と佐吉の腹が小さく鳴った。二人は顔を見合わせる。佐吉は照れくさそうに無骨な頭を掻いて笑った。
「話ばかりしておったな。飯にするか」

 囲炉裏には、温め直された鉄鍋が掛けられた。湯気とともに、素朴な味噌の香りが部屋いっぱいに立ちのぼる。

 佐吉は麦の混ざった飯をよそい、隼人の前へ静かに置いた。
「食え」
「……いただきます」
 二人は向かい合って箸を取る。囲炉裏の火が赤々と揺れ、パチパチと薪がはぜる音だけが静かに響いていく。

 佐吉は多くを語らなかった。隼人もまた、偽物である罪悪感から気の利いた言葉が見つからなかった。

 それでも、不思議と気まずさはなかった。熱い味噌汁をすすり、炊き立ての飯を口へ運ぶ。東京のコンビニ弁当にはない、五臓六腑に染み渡るような、質素だがどこかひどく温かい夕飯だった。

 食事を終えると、佐吉は食器を重ねながら口を開いた。
「井戸の水は冷たいが、顔でも洗えば少しはさっぱりする。そのあとは休め。明日は朝が早い」
「はい」

 隼人は立ち上がり、深く頭を下げた。
 外へ出ると、昼間とは違う肌寒い夜風が頬をなでる。釣瓶で汲み上げた井戸水で顔を洗うと、身を切るような冷たさが、一日の疲労と混乱を少しだけ洗い流してくれるようだった。