これから自分は、この新九郎という人物として生きていかなければならないのか。その重い現実が、じわじわと胸にのしかかってきた。
隼人は襖を静かに閉め、ゆっくりと腰を下ろす。肺の底から、大きく息を吐き出した。
「……何なんだよ、本当に」
誰もいない部屋で、小さくつぶやく。現実感がまったくなかった。
昨日まで東京で営業の仕事をし、美香と別れた。そのはずなのに、今は見知らぬ時代の村で「新九郎」と呼ばれている。
隼人は震える手でポケットを探った。スマートフォン。革財布。社員証。どれも、そのまま残っている。すがるような思いで、スマートフォンの電源を入れた。画面は点いた。時刻も昨日から確かに進んでいる。だが――。
「圏外……」
画面の右上には、無情にもその文字だけが表示されていた。
美香へ電話を掛けようとしても、繋がることはない。メッセージを送ることもできない。
隼人は静かに画面を閉じた。もう元の世界へ帰れないのか。そんな考えが頭をよぎり、胸がギリギリと締めつけられる。
「……帰れるよな」
自分に言い聞かせるように口にしてみる。しかし、自分の声はひどく弱々しく響いただけだった。
「記憶を失ったわけじゃない。最初から、何も知らないんだ……」
誰にも言えない本音だった。だから隼人は決めていた。新九郎として生きる。少なくとも、この世界で生き延びる方法が見つかるまでは。
隼人はゆっくりとスーツのジャケットを脱いだ。泥にまみれたネクタイを外し、ワイシャツを畳む。この世界で唯一、自分が元の世界から持ってきた証だった。
しばらく見つめたあと、丁寧に畳んで木箱の中へしまう。社員証も財布も、スマートフォン、腕時計も一緒に底へ沈めた。
佐吉から渡された着物へ袖を通す。ざらりとした麻の布の感触は、スーツとはまるで違った。
和装には慣れていない。だが、帯を腰に回した時、高校時代の剣道場を思い出した。袴の紐を締めていた頃の感覚を頼りに、帯を結んでいく。
思っていたほど、手は迷わなかった。
隼人は深く息を吐き、襖を開けて居間を抜け、庭へ足を運んだ。
夕暮れの風が心地よい。縁側に座っていた佐吉が、着物姿の隼人を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「……お前、一人で着たのか」
隼人は不思議そうにうなずく。
「はい。何かおかしいですか?」
佐吉は信じられないというように、隼人の帯の結び目をじっと見つめた。
「いや……お前は昔から、着替えだけはひどく不器用だった。いつもわしや、お春が手伝ってやっていたというのに。見事な手際だ」
隼人は言葉に詰まる。
佐吉は少しだけ目を細め、隼人の顔を射抜くように見つめた。
「……顔は新九郎だ。だが、髪も服も、身のこなしまで別人みたいだな」
隼人は、胸がどくりと鳴って何も答えられなかった。佐吉も、それ以上は深く聞かなかった。
隼人は目を逸らすように、作業場へと視線を向けた。削りかけの木材から新しい木の香りが漂っている。
思わず足が止まった。木を見ると、不思議と心が落ち着く。作業台の上には、一本の鑿(のみ)と鉋(かんな)が置かれている。
隼人はそっと鑿を手に取った。重さを確かめるように握る。この世界で初めて触れる鑿なのに、手に吸い付くような感覚がある。
「……」
その時だった。
「新九郎!」
門の方から、快活な女性の声が響いた。
隼人が振り返ると、門の前に二十代前半ほどの女性が立っていた。
素朴な着物に身を包み、髪を後ろで簡素にまとめている。華やかさこそないものの、柔らかな目元には親しみやすさがあり、どこか面倒見のよさそうな雰囲気をまとっていた。
袖口からのぞく手首には、麻で編まれた細い守り紐が巻かれている。生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸が細く編み込まれ、編み目は少し不揃いだった。長く身につけているのか、色もところどころ褪せている。
隼人の顔を見るなり、彼女はぱっと花が咲いたように笑い、駆け寄ろうとした。
だが――短く切られた髪と、見慣れない着物姿の隼人を見て、その足がぴたりと止まった。
「……え?」
表情から、すっと笑顔が消える。
「新九郎……なの?」
女性は隼人を見つめたまま立ち尽くしていた。その瞳には、まるで知らない人を見るような戸惑いが浮かんでいる。
隼人はどう返せばいいのか分からず、小さく頭を下げた。
「……すみません」
彼女は首をかしげる。
「え?」
「申し訳ないんですが……あなたのことを思い出せないんです」
女性の表情が、一瞬にして曇った。
「どういうこと……?」
彼女はショックで言葉を失った。
その時、縁側から佐吉が声を掛けた。
「おお、お春か」
彼女――お春は慌てて佐吉へ向き直る。
「佐吉さん! 新九郎が変なんです!」
佐吉は静かにうなずいた。
「ああ。与助から聞いた。昔のことをすっかり思い出せんらしい」
お春は信じられないというように、再び隼人を見る。
「私のことも……?」
隼人は申し訳なさに耐えきれず、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
お春はぎゅっと唇を噛みしめる。それでも隼人を困らせまいとするように、少しだけ明るい声を作った。
「私は、お春。隣の家に住んでるの。小さい頃から、毎日のように一緒に遊んでたんだよ」
隼人はうなずいた。
「教えてくれて、ありがとう」
お春は少し寂しそうに、力なく笑った。
「そんな他人行儀な言い方する新九郎、初めて」
その時、お春の視線がふと隼人の手元に落ちた。
「……あれ?」
「どうしました?」
お春は隼人の手首をじっと見つめている。
「新九郎、守り紐は?」
「……守り紐?」
「これ」
お春は袖を少しまくり、自分の手首を見せた。
そこには、先ほど見えた少し不格好な麻の守り紐が巻かれている。
「昔、私が作ったんだよ」
隼人はお春の手首を見つめた。生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸。
森で倒れていた男の手首にも、よく似た紐が巻かれていた。
「新九郎、いつもつけてたのに……」
「……覚えてないんだ」
「どこかで、なくしちゃったのかな」
隼人は答えられなかった。
あの男が死んでいることを、お春はまだ知らない。
気まずい沈黙を紛らわせるように、お春は作業台の上へ目を向けた。
隼人は襖を静かに閉め、ゆっくりと腰を下ろす。肺の底から、大きく息を吐き出した。
「……何なんだよ、本当に」
誰もいない部屋で、小さくつぶやく。現実感がまったくなかった。
昨日まで東京で営業の仕事をし、美香と別れた。そのはずなのに、今は見知らぬ時代の村で「新九郎」と呼ばれている。
隼人は震える手でポケットを探った。スマートフォン。革財布。社員証。どれも、そのまま残っている。すがるような思いで、スマートフォンの電源を入れた。画面は点いた。時刻も昨日から確かに進んでいる。だが――。
「圏外……」
画面の右上には、無情にもその文字だけが表示されていた。
美香へ電話を掛けようとしても、繋がることはない。メッセージを送ることもできない。
隼人は静かに画面を閉じた。もう元の世界へ帰れないのか。そんな考えが頭をよぎり、胸がギリギリと締めつけられる。
「……帰れるよな」
自分に言い聞かせるように口にしてみる。しかし、自分の声はひどく弱々しく響いただけだった。
「記憶を失ったわけじゃない。最初から、何も知らないんだ……」
誰にも言えない本音だった。だから隼人は決めていた。新九郎として生きる。少なくとも、この世界で生き延びる方法が見つかるまでは。
隼人はゆっくりとスーツのジャケットを脱いだ。泥にまみれたネクタイを外し、ワイシャツを畳む。この世界で唯一、自分が元の世界から持ってきた証だった。
しばらく見つめたあと、丁寧に畳んで木箱の中へしまう。社員証も財布も、スマートフォン、腕時計も一緒に底へ沈めた。
佐吉から渡された着物へ袖を通す。ざらりとした麻の布の感触は、スーツとはまるで違った。
和装には慣れていない。だが、帯を腰に回した時、高校時代の剣道場を思い出した。袴の紐を締めていた頃の感覚を頼りに、帯を結んでいく。
思っていたほど、手は迷わなかった。
隼人は深く息を吐き、襖を開けて居間を抜け、庭へ足を運んだ。
夕暮れの風が心地よい。縁側に座っていた佐吉が、着物姿の隼人を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「……お前、一人で着たのか」
隼人は不思議そうにうなずく。
「はい。何かおかしいですか?」
佐吉は信じられないというように、隼人の帯の結び目をじっと見つめた。
「いや……お前は昔から、着替えだけはひどく不器用だった。いつもわしや、お春が手伝ってやっていたというのに。見事な手際だ」
隼人は言葉に詰まる。
佐吉は少しだけ目を細め、隼人の顔を射抜くように見つめた。
「……顔は新九郎だ。だが、髪も服も、身のこなしまで別人みたいだな」
隼人は、胸がどくりと鳴って何も答えられなかった。佐吉も、それ以上は深く聞かなかった。
隼人は目を逸らすように、作業場へと視線を向けた。削りかけの木材から新しい木の香りが漂っている。
思わず足が止まった。木を見ると、不思議と心が落ち着く。作業台の上には、一本の鑿(のみ)と鉋(かんな)が置かれている。
隼人はそっと鑿を手に取った。重さを確かめるように握る。この世界で初めて触れる鑿なのに、手に吸い付くような感覚がある。
「……」
その時だった。
「新九郎!」
門の方から、快活な女性の声が響いた。
隼人が振り返ると、門の前に二十代前半ほどの女性が立っていた。
素朴な着物に身を包み、髪を後ろで簡素にまとめている。華やかさこそないものの、柔らかな目元には親しみやすさがあり、どこか面倒見のよさそうな雰囲気をまとっていた。
袖口からのぞく手首には、麻で編まれた細い守り紐が巻かれている。生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸が細く編み込まれ、編み目は少し不揃いだった。長く身につけているのか、色もところどころ褪せている。
隼人の顔を見るなり、彼女はぱっと花が咲いたように笑い、駆け寄ろうとした。
だが――短く切られた髪と、見慣れない着物姿の隼人を見て、その足がぴたりと止まった。
「……え?」
表情から、すっと笑顔が消える。
「新九郎……なの?」
女性は隼人を見つめたまま立ち尽くしていた。その瞳には、まるで知らない人を見るような戸惑いが浮かんでいる。
隼人はどう返せばいいのか分からず、小さく頭を下げた。
「……すみません」
彼女は首をかしげる。
「え?」
「申し訳ないんですが……あなたのことを思い出せないんです」
女性の表情が、一瞬にして曇った。
「どういうこと……?」
彼女はショックで言葉を失った。
その時、縁側から佐吉が声を掛けた。
「おお、お春か」
彼女――お春は慌てて佐吉へ向き直る。
「佐吉さん! 新九郎が変なんです!」
佐吉は静かにうなずいた。
「ああ。与助から聞いた。昔のことをすっかり思い出せんらしい」
お春は信じられないというように、再び隼人を見る。
「私のことも……?」
隼人は申し訳なさに耐えきれず、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
お春はぎゅっと唇を噛みしめる。それでも隼人を困らせまいとするように、少しだけ明るい声を作った。
「私は、お春。隣の家に住んでるの。小さい頃から、毎日のように一緒に遊んでたんだよ」
隼人はうなずいた。
「教えてくれて、ありがとう」
お春は少し寂しそうに、力なく笑った。
「そんな他人行儀な言い方する新九郎、初めて」
その時、お春の視線がふと隼人の手元に落ちた。
「……あれ?」
「どうしました?」
お春は隼人の手首をじっと見つめている。
「新九郎、守り紐は?」
「……守り紐?」
「これ」
お春は袖を少しまくり、自分の手首を見せた。
そこには、先ほど見えた少し不格好な麻の守り紐が巻かれている。
「昔、私が作ったんだよ」
隼人はお春の手首を見つめた。生成りの麻に、藍、紅、若草色の糸。
森で倒れていた男の手首にも、よく似た紐が巻かれていた。
「新九郎、いつもつけてたのに……」
「……覚えてないんだ」
「どこかで、なくしちゃったのかな」
隼人は答えられなかった。
あの男が死んでいることを、お春はまだ知らない。
気まずい沈黙を紛らわせるように、お春は作業台の上へ目を向けた。

