千の蕾

 藍色の作業着の腰には使い込まれた鉋(かんな)が差してあり、前掛けには新しい木屑がべったりと付着している。一目で、長年木と向き合ってきた熟練の職人だと分かる凄みがあった。

 男は鋭い眼光で、まず与助を射抜いた。
「与助。何を騒いでおる」
 与助は少し身をすくませ、隼人へ視線を送った。

「親父さん……。川の近くで、新九郎に会ったんだ」
 男――新九郎の父親である佐吉は、ゆっくりと視線を動かし、隼人を捉えた。
「……新九郎」
 佐吉は、地響きを立てるような重い足取りでゆっくりと近づいてくる。しかし、隼人の数歩手前で、その足がピタリと止まった。頭から足元まで、隼人の異様な姿を鋭くねめ回し、深く眉をひそめる。

「……その姿は、何だ」

 隼人は、思わず自分の着ているスーツをギュッと握りしめた。
 佐吉は隼人の足元へ目を落とした。
「その着物も、履き物も……どこで手に入れた」

 視線が上がり、短く刈り揃えられた隼人の髪で止まった。
「髪まで切り落としたのか」
 責めるような、それでいてひどく狼狽しているような声だった。
 隼人は乾いた唇を舐め、言葉に詰まる。

「……分かりません」
「何?」
「森で目が覚めた時には、この姿でした」

 男の眉間のシワがさらに深くなり、表情が険しく強張る。
「どういうことだ」
「何も思い出せないんです」
 隼人は苦しそうに額へ手を当てた。
「昔のことも、人の顔も……自分がどうしてこうなったのかも、何も分かりません」

 重い沈黙が落ちた。与助が、たまらず横から口を挟む。

「俺のことも分からなかったんだ。だから、ひとまず村まで連れて来た」

 男は太い腕を組み、射抜くような目でしばらく隼人を無言で見つめていた。やがて、深く、長く息を吐き出す。

「……家へ来い。ここで立ち話することじゃねぇ」

 そう言うと、男は踵を返し、背を向けて歩き出した。

 周囲の村人たちは、道を開けながらも、なお隼人の奇妙な服装を好奇と警戒の入り混じった目でねめ回している。

「どこの異国の服だ……」
「見たこともねぇ真っ黒な布地だ」
「髪まであんなに短くして……」

 ヒソヒソとしたざわめきを背中に受けながら、隼人は与助とともに男の広くて分厚い背中を追った。
 土埃の舞う道を歩く。道の両脇には年季の入った木造の家々が並び、庭先で洗濯をしている女たちも、畑で鍬を振るう男たちも、みな手を止めて隼人を凝視した。
「おい、あれ新九郎じゃねぇか?」
「その格好はなんだ……」
 誰もが口々に不思議そうにつぶやく。隼人はただ、頭を下げて歩くことしかできなかった。

 やがて、一軒の家の前で男が立ち止まった。

 豪邸というわけではない。だが、柱や梁は隙間なく精巧に組まれており、家そのものから凛とした木の香りが漂っていた。広い庭には切り出されたばかりの木材が整然と並んでいる。

 奥の作業台の上には、大小さまざまな鉋(かんな)や鑿(のみ)が手入れの行き届いた状態で静かに置かれていた。

 隼人は、思わずその光景に目を奪われた。
 木を扱う仕事――。休日になればワンルームの部屋で時間を忘れて木彫りに没頭していた自分にとって、その道具たちと木屑の匂いは、得体の知れない時代で初めて見つけた「懐かしい拠り所」のように感じられた。

「入れ」

 男が重みのある木の引き戸を開ける。隼人は一礼し、家へ足を踏み入れた。薄暗い土間を上がると、質素だが塵一つない座敷が広がっていた。男は静かに腰を下ろす。

「お前も座れ」
 
 隼人は言われるままに正座をした。与助も隣へ座る。
 しばらく、誰も口を開かなかった。家を包む静寂の中、囲炉裏の火だけが小さく揺れている。

 やがて、男が重い口を開いた。

「もう一度聞く。本当に、何も思い出せんのか」

 隼人は静かにうなずいた。
「はい。目が覚めた時には森に倒れていました。どうしてあそこにいたのかも、この姿になった理由も分かりません」

 男の鋭い視線が隼人を捉える。隼人は絶対に視線を逸らさなかった。
 見つめ合うこと数十秒。やがて男は、少しだけ肩の力を抜き、小さく息を吐いた。

「……そうか」

 そして、先ほどまでの厳しい職人の顔から、少しだけ表情を和らげた。
「わしは、佐吉だ。お前の父親だ」
 隼人は、一瞬だけ息をのんだ。目の前に座る、この大きくて無骨な男が、新九郎の父。
  
 隼人は、畳に額がこすれるほど深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。父さんのことも、思い出すことができません」

 佐吉は、どこか諦めたように悲しそうに目を閉じた。
「謝るな。思い出せんものは仕方あるまい」

 その言葉が、隼人の胸をギリギリと締め上げた。本当は、思い出せないのではない。最初から何も知らないのだ。目の前の男が愛し、帰りを待っていた本当の『新九郎』は、もうこの世にいない。

 その残酷な事実を知っているのは自分だけだった。しかし、それを口にすることはできない。

 部屋には、再び重く静かな空気が流れた。やがて佐吉は、庭の方へゆっくりと目を向けた。

「今日は、城の仕事だった」

 隼人もつられるように庭へ目を向けた。作業台の周りには、削りかけの美しい柱が並んでいる。

「わしは城大工だ。代々、この仕事を受け継いできた。お前も幼い頃から、よくわしの後をついて来たもんだ。城へ行くのは好きだったな」

 隼人は何も答えられない。知らない話だからだ。
 佐吉は少し苦笑した。

「だが、木を削るのはからっきしだった。鑿を持たせれば刃が曲がる。鉋を掛けさせれば逆目に入って削り過ぎる。柱一本、まともに仕上げられん。職人には向いておらんのかもしれんと、何度も思ったよ。……それでも、お前は毎日わしの後をついて来た。頭から木屑だらけになりながら、『もう一回やる』と言ってな」

 隼人の胸の奥が熱くなった。目の前の父親は、不器用な息子を本当に大切に思っていたのだ。
 佐吉は立ち上がると、居間の隅にあるつづらから一着の着物を取り出し、隼人の前へ差し出した。

「その妙な格好のままでは落ち着かんだろうからな。これを着ろ」
「……ありがとうございます」

 隼人は両手で受け取る。
「少し大きいかもしれんが、お前が昔から着ていた物だ。お前の部屋は、その奥だ。」

 隼人は一礼すると、着物を抱え、ゆっくりと奥の部屋へ向かった。
 古い襖を開けると、小さな和室が現れる。畳の上に敷かれた質素な布団。壁際には古びた木箱。窓からは、夕暮れの赤い光が差し込んでいた。  
 ここが、『新九郎』の部屋。隼人は部屋の中央に立ったまま、静かに周囲を見渡した。