千の蕾

 ――そして、翌朝。

 自分と同じ顔をした死体を目撃し、謎の男たちから逃れた隼人は、川辺で美香からのメッセージを見つめていた。

 その時だった。
 背後の草むらがガサリと揺れ、人の気配がした。

「……新九郎?」

 信じられないものを見るような、震える声だった。

 隼人が弾かれたように振り返ると、二十代前半ほどの青年が立ち尽くしていた。
日に焼けた肌に、粗末な麻の着物。手には猟師が持つような短い槍を握っている。
青年は隼人の顔を見るなり目を見開き、槍を取り落としそうになった。

「お、お前……」

 しばらく言葉を失ったまま隼人を見つめる。
 やがて、確かめるように口を開いた。

「お前……本当に、新九郎なのか?」
「……え?」

 隼人は何も答えられず、ただ青年を見つめ返した。
 青年の視線が、ゆっくりと隼人の顔から下へ移っていく。
 そして、全身を覆う見慣れない服装に気づいた瞬間、その表情が驚きから困惑へと変わった。

「……何だ、その格好は」

 隼人は思わず自分の身体を見下ろした。仕立てのいい濃紺のスーツ。
 シルクのネクタイ。磨き上げられた革靴。左腕には、金属の光沢を放つ腕時計。
 現代の東京ではごくありふれた営業マンの格好も、この鬱蒼とした森の中、麻の着物をまとった青年の前では、あまりにも異質だった。

 青年は隼人の姿をまじまじと眺める。
「着物はどうした。それに髪まで……ずいぶん短くなってるじゃねぇか」

 隼人は返す言葉が見つからなかった。
 自分でも、なぜこんな場所にいるのか分からない。
 ましてや、『別の時代から来た』などと話したところで、信じてもらえるはずがない。

「……悪い」

 隼人はとっさに額へ手を当て、苦しげに目を伏せた。

「目が覚めた時には、この格好だったんだ」
「何?」
「何も思い出せないんだ」

 青年の表情がこわばる。

 隼人は続けた。
「自分が誰なのかも……どうしてここにいるのかも、何も」

 青年は黙ったまま、隼人の顔をじっと見つめた。

 嘘を探るような、それでいてひどく心配そうな視線だった。やがて、彼は深く、長く息を吐いた。

「俺のことも、分からねぇか」

 隼人は、申し訳なさを込めて静かに首を横へ振った。

「……すまない」
 青年は少し考え込み、やがて口を開いた。

「俺は与助。小さい頃、親父とこの町へ来た。それからずっと一緒に育った。……幼なじみだ」

 隼人はその名前を確かめるように、口の中で小さく繰り返した。
「与助……」
 しかし、何も浮かんでこない。

 隼人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「名前を聞いても、やっぱり何も思い出せないんだ」

 与助は一瞬だけ黙り込み、困ったように頭をかいた。
「そうか……」
 その声には、戸惑いと心配が入り混じっていた。

 川のせせらぎの中、与助は隼人の服に目を留めた。
「その生地……城の殿様でも、こんなものは着てねぇぞ」
「……そうなのか」
「どこで手に入れた?」
「覚えてない」

 与助は隼人をしばらく見つめ、それ以上は尋ねなかった。
 与助は何かを深く考え込むように視線を落とし、やがて顔を上げた。

「……とにかく村へ戻ろう。親父さんなら、何か分かるかもしれねぇ」

 そう言って、与助は来た道を歩き出した。隼人も静かに、その後を追った。

*

 与助は前を歩きながら、何度も何度も不審そうに振り返った。そのたびに、彼の視線は隼人の衣服に釘付けになる。

「やっぱり変だ……」
 与助が前を向いたまま小さくつぶやく。
「そんな滑らかな布、城のお殿様だって着てねぇぞ」

 隼人は、首を絞めるように感じていた胸元のネクタイにそっと手をやる。
「俺にも分からない。気がついたら、この格好だった」

 与助は、足元の落ち葉を踏む革靴を指差した。
「その履き物も変だ。木でも藁でもねぇ。獣の皮か?」

 隼人は苦笑するしかなかった。
「これも……覚えてない」

 与助が隼人の左腕を指差した。
「その銀色の輪っかは何だ? 中で針が動いてるぞ」

 隼人は腕時計に目を落とした。秒針は何事もなかったかのように動き続けている。
「……覚えてない」

 与助はまだ何か聞きたそうだったが、隼人の顔を見ると、それ以上は口にしなかった。

「まあ、思い出せねぇなら仕方ねぇか」
 
二人は獣道を抜け、さらに歩き続ける。しばらくすると木々が途切れ、ふいに視界が開けた。

 木々の向こうに、茅葺き屋根の家々が現れた。家々からは炊事の煙が立ちのぼり、畑では村人たちが鍬を振るっている。あぜ道を裸足の子どもたちが駆け抜けた。土と煙、家畜の匂い。そのどれもが、隼人の知る日本とは違っていた。

 村の入り口へ足を踏み入れた途端、薪を背負った一人の老人が声を掛けてきた。
「おう、新九郎じゃねぇか」
 隼人は立ち止まり、老人の皺深い顔を見つめた。当然、誰なのか全く分からない。愛想笑いもできず黙り込んでいると、老人が怪訝そうに首をかしげた。
「どうした?気でも触れたか?」

 隼人が助けを求めるように与助を見ると、与助はわざとらしく大げさなため息をつき、老人のそばへ歩み寄った。

「じいさん。さっき川でこいつに会ったんだけどよ、何だか様子がおかしいんだ」
「様子が?」
「ああ」

 与助は親指で隼人を指し示した。
「俺のことも分からねぇ。人の顔を見ても、自分が誰だかさえ思い出せねぇみてぇなんだ」
 老人は目をひん剥いて隼人をまじまじと見つめた。
「本当か、新九郎」
 隼人は申し訳なさそうに、深く頭を下げた。
「……すみません。本当に、何も思い出せないんです」

 老人はしばらく言葉を失っていたが、やがてその視線は隼人の『顔』から『衣服』へと移っていった。
「それに……何だ、その妙ちきりんな格好は」
 老人の驚いた声を聞きつけ、井戸端にいた女たちや、畑仕事の手を休めた男たちがわらわらと集まってきた。
「着物じゃないよ。あんな真っ黒な布、見たことない」
「髪まであんなに短く刈り上げて……」
「あの足の履き物、ピカピカ光ってるぞ」

 村人たちは隼人を遠巻きに囲み、口々に不思議そうな、そして警戒するような声を上げた。無数の奇異の目に晒され、隼人はただ黙って立ち尽くすしかなかった。

 与助が村人たちへ向き直り、庇うように声を張り上げた。
「本人にも分からねぇらしい。森で目が覚めたら、この姿だったって言うんだ。昔のことも、人のことも、何にも思い出せねぇんだとよ」

 村人たちは顔を見合わせ、ヒソヒソとささやき交わす。
「そんな馬鹿なことが……」
「山の神にでも化かされたんじゃねぇか?」
「いや、狐狸の類か、何か悪いモノに憑かれたんだべ……」
 不安と猜疑心が入り交じったざわめきが、波のように広がっていく。

 その時だった。
「――何を騒いでおる」

 家々の奥から、低く、しかし腹の底に響くような力強い男の声が轟いた。ざわめきがピタリと止む。人だかりが、左右へ割れていった。
 そこに立っていたのは、一人の初老の男だった。五十代半ばほどだろうか。丸太のように太い腕、深く刻まれた眉間のシワ、日に焼けた顔に、節くれ立った無骨で巨大な両手。