千の蕾

 いつもなら、無心になって木に向かえば気持ちが落ち着く。だが今日は、ノミを握る気力さえ湧いてこなかった。

 隼人はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、まだ美香からの着信とメッセージが残っている。しばらく見つめたあと、長押しして完全に電源を切った。ブツン、と小さな振動とともに画面が漆黒に沈む。

「これでいい……」

 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 だが、部屋が静かになればなるほど、美香の泣き顔が鮮明に浮かんでくる。
 隼人は立ち上がると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。普段なら一本飲むかどうかだったが、その夜は違った。

 一本目をほとんど味わうこともなく飲み干し、続けて二本目を開ける。
 喉を通る冷たい酒にも、胸の奥に居座る痛みを消すことはできなかった。

 ふと、棚の奥に置かれた煙草が目に入った。
 以前吸っていたものだった。美香に身体のことを心配され、やめてからは一度も手を伸ばしていない。

 隼人はしばらく煙草を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
「……今日くらい、いいか」

 一本取り出し、火をつけた。久しぶりに吸い込んだ煙は、思っていたよりずっと苦かった。喉が軽くむせる。
 それでも隼人は、胸の奥に溜まったものを吐き出すように、ゆっくりと煙を吐いた。一本を吸い終える頃には、酒もだいぶ回っていた。

 部屋の明かりを落とし、隼人はそのままベッドへ身体を投げ出した。
 窓の外では、秋の夜風が少し強くなり、街路樹をざわざわと揺らしていた。
 目を閉じると、公園で泣く美香の姿が浮かんだ。

「隼人!」

 呼び止める声が、まだ耳に残っている。

 隼人は寝返りを打った。あの時、振り返っていれば、何かが変わったのだろうか。答えの出ないまま、酒と疲労に沈められるように意識が遠のいていった。

 隼人は最後に一度だけ、誰に届くわけでもない言葉を小さく口にした。
「……幸せに、なってくれ」
 その掠れたつぶやきを最後に、隼人は深い眠りへと落ちていった。