翌日の夜。
公園にはすでに人影はなく、冷たい月明かりだけが石畳を照らしていた。
隼人は待ち合わせの時刻より三十分も早く着き、あの日のベンチに座っていた。
ポケットの中で固く握りしめた手には、じっとりと汗がにじんでいる。
何度も考えた。昨日の夜も。仕事中も。今日、この公園へ向かう最中でも。それでも、出した答えは変わらなかった。
美香には、自分なんかより確実に幸せにできる人がいる。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
「待った?」
聞き慣れた声だった。
隼人が振り向く。美香が少し息を切らしながら歩いてくる。
彼女が着ていたのは、夜の闇にふわりと浮かぶような真っ白なワンピースだった。いつもより少しだけおめかしをし、頬をほんのりと上気させている。
「ううん」
「また嘘」
「……少しだけ」
「やっぱり」
美香は隼人の隣へ、少しだけ距離を詰めて座った。
静まり返った夜の公園。風が木々を揺らす音だけが響いている。
美香は膝の上で両手を重ね、もじもじと指先を弄りながら、そっと隼人の横顔を見つめた。
「話って……?」
小首を傾げる彼女の瞳には、ほんの少しの緊張と、隠しきれない柔らかな期待のようなものが淡く滲んでいた。
隼人は視線を自分の膝に落としたまま、小さく息を吐く。
喉が干からびたように乾く。言葉が出ない。美香が何を期待しているのか、今の隼人には分からない。
ただ、こんなにも無防備に微笑む彼女に、これから一番残酷な言葉を突きつけなければならないという事実だけが、隼人の胸をギリギリと締め上げていた。
今ならまだ間に合う。やっぱり何でもない、と笑えば終わる。
そう思った。それでも、このままでは美香の時間を奪ってしまう。
隼人は膝の上で拳をきつく握り締めた。
「……別れよう」
夜風が、ぴたりと止まったような気がした。ふわりと微笑んでいた美香の頬から、スッと血の気が引いていくのが分かった。
美香は隼人の横顔を見つめたまま、凍りついたように何も言わない。
やがて、震えを押し殺したような、小さな口が開いた。
「それは、あなたが決めることじゃない」
その一言は、ひどく静かだった。怒っているわけでもない。泣き叫んでいるわけでもない。
だからこそ、隼人の胸に深く、鋭く突き刺さった。
隼人は顔を上げられなかった。
「私、一人で付き合ってたの?」
「……違う」
「じゃあ、一人で終わらせないで」
美香の声が、微かに震え始めていた。
「理由を教えて」
隼人は何度も言葉を探した。父親への引け目も、将来への不安も、本当のことを話せば美香は受け止めてくれるだろう。それが分かっていながら、隼人は最後まで、自分の弱さを見せることができなかった。
「……俺じゃ、美香を幸せにできない」
美香はゆっくりと首を横に振った。
「それ、誰が決めたの?」
「……」
「お父さん?」
「違う」
「じゃあ誰?」
隼人は答えられなかった。美香は真っ直ぐに隼人を見つめていた。
その瞳から、ついに大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私は、隼人と一緒にいたい」
「……」
「お金や仕事の肩書きだけで幸せが決まるなら、私、最初からあなたを好きになってない」
涙声でぶつけられたその言葉に、隼人はきつく唇を噛んだ。胸が張り裂けそうだった。
今すぐ「ごめん」と言って、その震える小さな肩を強く抱きしめたかった。
それでも、一番言いたかったその言葉だけは無理やり飲み込んだ。今ここで優しくすれば、彼女はまた親との間で苦しむことになる。
「……ごめん」
たった三文字。それだけを残して、隼人はベンチから立ち上がった。
「隼人!」
美香の声に、足が止まりかけた。それでも隼人は歩き出した。背後から嗚咽が聞こえた。一度も振り返らなかった。
*
公園を出た隼人は、あてもなく夜の街を歩き続けていた。駅前のスクランブル交差点。赤信号で立ち止まる。
行き交う人たちは、談笑する仕事帰りの会社員や、身を寄せ合うカップル、塾帰りの高校生。誰もが、それぞれの明日へ繋がる当たり前の日常を過ごしている。
その中で、自分だけが世界から切り離され、時間から取り残されたような気がした。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。画面には――『星野美香』の文字。
隼人は立ち尽くした。手の中で、着信を知らせる震えが鳴り続ける。指を伸ばしかける。だが、その手をゆっくりと下ろした。
やがて呼び出し音が止まる。数秒後、また鳴る。隼人は目を閉じた。それでも、応答ボタンを押すことはできなかった。
やがて着信は完全に途切れた。画面には「不在着信 二件」。その冷たい文字を見ているだけで、首を絞められているように息が苦しくなる。
しばらくすると、一通のメッセージが届いた。
『ちゃんと話そう。お願い。』
たったそれだけだった。
隼人は返信画面を開く。何度も文字を打っては消した。
『ごめん。』――違う。
『少し時間をくれ。』――これも違う。
『忘れてくれ。』――どの言葉も、彼女を傷つける刃でしかない。
結局、何も送れなかった。スマートフォンの画面を閉じ、深いポケットの底へしまう。
そのまま駅とは反対方向へ歩き始めた。
気づけば、よく一人で訪れる川沿いの遊歩道まで来ていた。
夜風が水面を揺らし、川面に映る街灯の光が幾重にも波打っている。隼人は冷たい手すりにもたれかかり、大きく、長く息を吐いた。
「これで……よかったんだ」
誰に言うでもなく、漆黒の川面に向かってつぶやく。そう思い込まなければ、自分自身が壊れてしまいそうだった。
ポケットの中で、スマートフォンがもう一度短く震える。しかし、今度は画面を見ることすらしなかった。
重い足取りでアパートへ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。
玄関のドアを開けると、ひんやりと静まり返った部屋が隼人を迎えた。
ベッドの端へ腰を下ろす。
机の上には、昨夜彫り損ねた木彫りの鳥が、翼を歪ませたまま転がっていた。

