千の蕾

「ああ」

 隼人も手を振り返した。美香は何度か振り返りながら駅へ向かって歩いていく。

 その後ろ姿が人混みに溶け込んで見えなくなるまで、隼人はその場を動かなかった。

 ようやく歩き出した頃には、駅前の街灯がチカチカと点灯し始めていた。帰り道、見慣れた商店街を抜ける。八百屋の店先では威勢のいい声が響き、焼き鳥屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。

 いつもなら、美香と二人で寄り道をしていた店ばかりだった。

 自然と足が止まりそうになる。しかし今日は、どこへも寄らずにそのまま通り過ぎた。アパートへ戻り、重い鉄の扉を開けると、ひんやりとした静けさだけが迎えてくれた。ワンルームの小さな部屋。

 壁には、自分で彫った木彫りの動物たちがいくつか飾られている。休日になると時間を忘れて木と向き合う――それが、隼人の唯一と言っていい趣味であり、心を無にできる逃げ場でもあった。

 玄関の靴箱の上に鍵を放り出し、スーツの上着を脱ぐ。ネクタイを緩めると、肺の底から泥のように重い息が漏れた。

 冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、一気に流し込む。喉の渇きは癒えたはずなのに、胸の奥に居座る硬いつかえは全く消えてくれない。

 机に置いたスマートフォンが、短く震えた。画面に浮かび上がったのは、美香からのメッセージ。

『今日はありがとう😊』

 たった短い一文。それだけなのに、画面を見つめたまま、返信を打とうとする指が宙で止まった。何度も文字を打ち込んでは、消す。

『こちらこそ。』 ――違う。他人行儀すぎる。
『また近いうちに会おう。』 ――それも違う。

 迷った末に、隼人が打ち込んだのは、ひどく無難で冷たい言葉だった。
『お疲れさま。ゆっくり休んで。』
 送信ボタンを押す。すぐに「既読」の文字がついた。

 しかし、画面をどれだけ見つめても、そこから返信の吹き出しが浮かび上がることはなかった。彼女がどんな顔でこの味気ない文字を見つめているか、想像するだけで胸が痛む。

 隼人はスマートフォンを伏せるように置き、逃げるように木彫りの道具箱を開いた。ノミを手に取り、彫りかけの小さな木片へ刃を当てる。

 カッ。カッ。静まり返ったワンルームに、小気味よい音が響く。ほのかな木の香りが鼻をくすぐる。

 だが今日は、いつものように無心になれなかった。
 ノミを動かすたび、美香の笑顔が浮かんだ。手元が狂い、刃先が木肌を深く抉った。

「……だめだ」

 隼人はノミを置いた。削りすぎた部分は、もう元には戻らない。

 しばらく木片を見つめていたが、それ以上、刃を入れる気にはなれなかった。
 その代わりに浮かんでくるのは、美香の隣に、自分ではない『父親が認めた絶対的な安心感を持つ男』が立って笑っている光景だった。

 胸がギリギリと締めつけられる。それでも、その相手のほうが美香を、そして彼女の家族を確実に幸せにできるのなら――。

 俺は、身を引くべきだ。

 隼人は部屋の明かりを乱暴に消し、ベッドへ倒れ込んだ。
 暗い天井を見つめながら固く目を閉じても、眠気は一向に訪れない。明日も仕事だ。眠らなければ。そう自分に言い聞かせるほどに、神経は冴え渡っていく。

 窓の外では、秋の風がゆっくりと街路樹を揺らしていた。その乾いた葉の音だけが、孤独な夜の部屋に小さく響いていた。

* 

 翌朝、隼人はほとんど眠れないまま出勤の支度をした。
 玄関を出る前、机の上の木彫りに目が止まる。
 昨夜、刃を深く入れすぎた小さな鳥。歪んだ翼は、まだそのままだった。

 満員電車の中で、スマートフォンが震えた。
『今日もお仕事頑張ってね😊』
 美香からだった。
 隼人はしばらく画面を見つめ、『ありがとう。』とだけ返した。

 仕事中も、昨日の公園で見た美香の笑顔が頭から離れなかった。

 そして夜。
 営業車を返し、会社を出た隼人は、ようやく決心した。
 美香の未来を、自分の迷いで縛ってはいけない。

 隼人はポケットからスマートフォンを取り出した。連絡先の一番上にある「星野 美香」の名前を見つめる。

 数秒、親指は動かなかった。だが、意を決して静かに通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
 耳元に響いたのは、いつもの優しく、少し弾んだ声。

 隼人は肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「美香。明日の夜……この間の公園で会えないかな」
「うん、いいよ」
「話したいことが、あるんだ」

 電話越しに、一瞬の沈黙が落ちた。
「……分かった」
 返ってきた美香の声は、どこか少しだけ、弾んでいるようにも聞こえた。