駅前の喧騒から切り離されたような小さな公園には、冷え込み始めた風が吹き抜けていた。色づいた葉が乾いた音を立てて石畳を転がっていく。
辻本隼人は、冷えきったベンチに腰を下ろしたまま、茜色に沈みゆく空を見上げていた。
待ち合わせの時刻まで、あと十分。早く着きすぎたせいか、公園にはまだ人がまばらだった。芝生の広場では、小さな男の子が父親とキャッチボールをしている。ボールを落とすたび、父親は笑いながら駆け寄り、息子の頭を優しく撫でた。
なんてことのない、ありふれた休日の光景。それなのに、見ているだけで隼人の胸はぎゅっと締めつけられた。
あれは、安定した生活があってこそ手に入る『未来』だ。自分には、あんなふうに笑い合える明日を彼女に約束できるのだろうか。
「待った?」
聞き慣れた、少し弾んだ声。
隼人が振り向くと、星野美香が小さく息を弾ませながら立っていた。
白いブラウスに、風に揺れる紺色のスカート。頬をほんのり赤らめて微笑むその姿は、三年前に初めて出会ったあの日のままだった。
「いや、今来たところだよ」
「嘘」
美香はふふっと笑い、隼人の隣にちょこんと腰を下ろした。
「隼人は、絶対に待ち合わせの十分前には来るもん」
「ばれてたか」
二人は顔を見合わせて笑った。
だが、笑い声が途切れると、いつものように次の言葉が続かなかった。
隼人は美香の横顔を見た。彼女もまた、何かを言い出せずにいるようだった。
美香は膝の上で両手をきゅっと握り合わせ、何度か躊躇うように視線を落とした。
「……ねえ」
「うん」
「この間、お父さんに食事に誘われたんだけど……」
美香は言葉を濁し、きつく唇を噛んだ。
「お店に行ったら、知らない人が座ってたの」
隼人の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。それでも、表情だけは必死に平坦を保つ。
「……お見合い、させられたんだな」
美香は辛そうにうなずき、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめた。
「隼人とお付き合いしてるって、お父さんには何度も言ったのに……。『一度会うだけでいいから』って、騙し討ちみたいに会わせられたの。……その人、お医者さんだった」
「……そっか」
「ごめんなさい。私、すぐに帰りたかったけど、相手の方もいる手前、どうしても席を立てなくて……」
必死に弁解する美香の声が、微かに震えていた。
隼人は黙ってうなずいた。彼女の父親である星野宗孝が、どれほど美香を大切に思っているか、隼人もよく知っている。
自分の娘が付き合っている相手は、将来の保証もない一介の営業マン。交際を知った上で、あえて医者を引き合わせた父親の意図は明白だった。
『君では、娘を幸せにすることはできない』――父親からの、無言の宣告だった。
宗孝を責めることはできなかった。
娘の将来を案じる父親の気持ちも、分からなくはない。
それでも、美香の気持ちを無視してまで医者を引き合わせたことには、腹が立った。
だが、その怒りを父親にぶつける資格が、今の自分にあるのだろうか。
「ごめんね」
美香が、消え入りそうな声で言った。
「せっかく会えたのに……こんな話、聞きたくなかったよね」
隼人はゆっくりと首を横に振る。
「謝ることじゃないよ」
平静を装ったつもりだったが、自分の声が情けないほどかすれていることに気づいた。
冷たい風が吹き抜け、二人の足元を落ち葉がカサカサと横切っていく。
美香が、すがるような瞳で隼人の横顔を見つめていた。それは、言葉を待つ目だった。
『大丈夫だ。次はお父さんに、俺からちゃんと挨拶に行く』
『誰が何と言おうと、俺がお前を幸せにする』
そんな、当たり前の、男として頼もしい一言を。
しかし、隼人の喉は干からびたように張り付き、何一つ言葉を紡げなかった。
営業の仕事にはやりがいを感じている。生活に困っているわけでもない。
それでも――目の前の小さな肩を抱き寄せ、「絶対に美香を幸せにする」と胸を張って言えるほどの自信が、いまの隼人にはなかった。
答えのない沈黙を埋めるように、遠くから子どもたちの無邪気な笑い声だけが、茜色の空に虚しく響いていた。
重苦しい空気の中、美香は静かに空を見上げた。茜色が少しずつ、夜の気配に侵食され始めている。
「最近ね、お父さん……」
隼人は黙って耳を傾けた。
「『若いうちに結婚した方がいい』って、毎日のように言うの」
「……そうか」
「私が断ってたから、お父さん、相手がいることも何も言わずにご飯に誘ってきて。父と二人だと思って行ったら、お医者さんと会わされた……」
美香は力なく、困ったような苦笑いを浮かべた。
「私ね……」
言葉が震え、ぴたりと止まった。
隼人が横顔を見ると、美香は泣き出しそうなのを必死にこらえ、何かを伝えようとしていた。
「本当は、この話を隼人にするか迷った」
「……」
「でも、隠したままなのは嫌だったから」
その真っ直ぐな想いが、今の隼人には鋭い刃のように胸に突き刺さる。隼人は、鉛のように重い首を動かし、小さくうなずいた。
「話してくれて、ありがとう」
美香は少しだけ、ほっとしたように笑った。
「そう言ってくれると思った」
その笑顔が、隼人には苦しかった。
美香は待っている。自分が父親と向き合い、二人の未来を選ぶ日を。それが分かっていながら、隼人には何も約束できなかった。それなのに、自分は彼女の未来に胸を張ることができない。
隼人は、子どもたちが遊んでいた広場へ目を向けた。
先ほどキャッチボールをしていた親子が、今度はベンチに並んで座り、水筒の水を飲んでいる。父親が笑いながら息子の汗ばんだ頭を優しく撫でる。その何気ない光景が、今の隼人にはひどく残酷に胸に刺さる。
美香と結婚したら、いつか自分たちにもあんな日が来るのだろうか。隣で笑う美香と、その手を握る小さな子ども。
想像しただけで胸が温かくなった。だが、その未来を守り抜く自信はなかった。
営業の仕事は決して悪くない。だが、医師のような絶対的な安定も、社会的な安心感もない。
将来、子どもが生まれたとき。美香に苦労をかけるかもしれない。彼女の父親に、ずっと心配をかけ続けるかもしれない。その不安の種が、ここ数日、隼人の中で黒々と大きくなっていた。
美香が、下から覗き込むように隼人の顔を見た。
「どうしたの? 隼人、今日元気ないね」
「……そんなことないよ」
「嘘」
美香は少し得意げに笑って、隼人の顔を覗き込んだ。
「約三年……ううん、細かく言うと、二年と九ヶ月付き合ってるんだから、それくらい分かるよ」
隼人は少し驚いたように美香を見た。
「そんなに正確に数えてたのか」
「当たり前でしょ。あと三ヶ月で、丸三年なんだから」
屈託のない美香の笑顔に、隼人の胸がズキリと痛んだ。
彼女は、俺たちがこの先もずっと一緒にいると信じて疑っていない。
(俺は……このまま美香の隣にいていい人間じゃないんだ)
――美香には、もっと安心できる、幸せになれる未来がある。だったら、その未来の邪魔をしてはいけない。
夕日が山の向こうへ沈みかけていた。隣では、美香が変わらず笑っている。その笑顔を守るために、自分は離れなければならない。隼人は、そう思い込もうとしていた。長く伸びた二人の影が、石畳の上に並んでいた。
公園を出るころには、空はすっかり群青色へと変わっていた。
「じゃあ、またね」
駅の改札前。美香はいつもと変わらない笑顔で手を振る。
辻本隼人は、冷えきったベンチに腰を下ろしたまま、茜色に沈みゆく空を見上げていた。
待ち合わせの時刻まで、あと十分。早く着きすぎたせいか、公園にはまだ人がまばらだった。芝生の広場では、小さな男の子が父親とキャッチボールをしている。ボールを落とすたび、父親は笑いながら駆け寄り、息子の頭を優しく撫でた。
なんてことのない、ありふれた休日の光景。それなのに、見ているだけで隼人の胸はぎゅっと締めつけられた。
あれは、安定した生活があってこそ手に入る『未来』だ。自分には、あんなふうに笑い合える明日を彼女に約束できるのだろうか。
「待った?」
聞き慣れた、少し弾んだ声。
隼人が振り向くと、星野美香が小さく息を弾ませながら立っていた。
白いブラウスに、風に揺れる紺色のスカート。頬をほんのり赤らめて微笑むその姿は、三年前に初めて出会ったあの日のままだった。
「いや、今来たところだよ」
「嘘」
美香はふふっと笑い、隼人の隣にちょこんと腰を下ろした。
「隼人は、絶対に待ち合わせの十分前には来るもん」
「ばれてたか」
二人は顔を見合わせて笑った。
だが、笑い声が途切れると、いつものように次の言葉が続かなかった。
隼人は美香の横顔を見た。彼女もまた、何かを言い出せずにいるようだった。
美香は膝の上で両手をきゅっと握り合わせ、何度か躊躇うように視線を落とした。
「……ねえ」
「うん」
「この間、お父さんに食事に誘われたんだけど……」
美香は言葉を濁し、きつく唇を噛んだ。
「お店に行ったら、知らない人が座ってたの」
隼人の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。それでも、表情だけは必死に平坦を保つ。
「……お見合い、させられたんだな」
美香は辛そうにうなずき、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめた。
「隼人とお付き合いしてるって、お父さんには何度も言ったのに……。『一度会うだけでいいから』って、騙し討ちみたいに会わせられたの。……その人、お医者さんだった」
「……そっか」
「ごめんなさい。私、すぐに帰りたかったけど、相手の方もいる手前、どうしても席を立てなくて……」
必死に弁解する美香の声が、微かに震えていた。
隼人は黙ってうなずいた。彼女の父親である星野宗孝が、どれほど美香を大切に思っているか、隼人もよく知っている。
自分の娘が付き合っている相手は、将来の保証もない一介の営業マン。交際を知った上で、あえて医者を引き合わせた父親の意図は明白だった。
『君では、娘を幸せにすることはできない』――父親からの、無言の宣告だった。
宗孝を責めることはできなかった。
娘の将来を案じる父親の気持ちも、分からなくはない。
それでも、美香の気持ちを無視してまで医者を引き合わせたことには、腹が立った。
だが、その怒りを父親にぶつける資格が、今の自分にあるのだろうか。
「ごめんね」
美香が、消え入りそうな声で言った。
「せっかく会えたのに……こんな話、聞きたくなかったよね」
隼人はゆっくりと首を横に振る。
「謝ることじゃないよ」
平静を装ったつもりだったが、自分の声が情けないほどかすれていることに気づいた。
冷たい風が吹き抜け、二人の足元を落ち葉がカサカサと横切っていく。
美香が、すがるような瞳で隼人の横顔を見つめていた。それは、言葉を待つ目だった。
『大丈夫だ。次はお父さんに、俺からちゃんと挨拶に行く』
『誰が何と言おうと、俺がお前を幸せにする』
そんな、当たり前の、男として頼もしい一言を。
しかし、隼人の喉は干からびたように張り付き、何一つ言葉を紡げなかった。
営業の仕事にはやりがいを感じている。生活に困っているわけでもない。
それでも――目の前の小さな肩を抱き寄せ、「絶対に美香を幸せにする」と胸を張って言えるほどの自信が、いまの隼人にはなかった。
答えのない沈黙を埋めるように、遠くから子どもたちの無邪気な笑い声だけが、茜色の空に虚しく響いていた。
重苦しい空気の中、美香は静かに空を見上げた。茜色が少しずつ、夜の気配に侵食され始めている。
「最近ね、お父さん……」
隼人は黙って耳を傾けた。
「『若いうちに結婚した方がいい』って、毎日のように言うの」
「……そうか」
「私が断ってたから、お父さん、相手がいることも何も言わずにご飯に誘ってきて。父と二人だと思って行ったら、お医者さんと会わされた……」
美香は力なく、困ったような苦笑いを浮かべた。
「私ね……」
言葉が震え、ぴたりと止まった。
隼人が横顔を見ると、美香は泣き出しそうなのを必死にこらえ、何かを伝えようとしていた。
「本当は、この話を隼人にするか迷った」
「……」
「でも、隠したままなのは嫌だったから」
その真っ直ぐな想いが、今の隼人には鋭い刃のように胸に突き刺さる。隼人は、鉛のように重い首を動かし、小さくうなずいた。
「話してくれて、ありがとう」
美香は少しだけ、ほっとしたように笑った。
「そう言ってくれると思った」
その笑顔が、隼人には苦しかった。
美香は待っている。自分が父親と向き合い、二人の未来を選ぶ日を。それが分かっていながら、隼人には何も約束できなかった。それなのに、自分は彼女の未来に胸を張ることができない。
隼人は、子どもたちが遊んでいた広場へ目を向けた。
先ほどキャッチボールをしていた親子が、今度はベンチに並んで座り、水筒の水を飲んでいる。父親が笑いながら息子の汗ばんだ頭を優しく撫でる。その何気ない光景が、今の隼人にはひどく残酷に胸に刺さる。
美香と結婚したら、いつか自分たちにもあんな日が来るのだろうか。隣で笑う美香と、その手を握る小さな子ども。
想像しただけで胸が温かくなった。だが、その未来を守り抜く自信はなかった。
営業の仕事は決して悪くない。だが、医師のような絶対的な安定も、社会的な安心感もない。
将来、子どもが生まれたとき。美香に苦労をかけるかもしれない。彼女の父親に、ずっと心配をかけ続けるかもしれない。その不安の種が、ここ数日、隼人の中で黒々と大きくなっていた。
美香が、下から覗き込むように隼人の顔を見た。
「どうしたの? 隼人、今日元気ないね」
「……そんなことないよ」
「嘘」
美香は少し得意げに笑って、隼人の顔を覗き込んだ。
「約三年……ううん、細かく言うと、二年と九ヶ月付き合ってるんだから、それくらい分かるよ」
隼人は少し驚いたように美香を見た。
「そんなに正確に数えてたのか」
「当たり前でしょ。あと三ヶ月で、丸三年なんだから」
屈託のない美香の笑顔に、隼人の胸がズキリと痛んだ。
彼女は、俺たちがこの先もずっと一緒にいると信じて疑っていない。
(俺は……このまま美香の隣にいていい人間じゃないんだ)
――美香には、もっと安心できる、幸せになれる未来がある。だったら、その未来の邪魔をしてはいけない。
夕日が山の向こうへ沈みかけていた。隣では、美香が変わらず笑っている。その笑顔を守るために、自分は離れなければならない。隼人は、そう思い込もうとしていた。長く伸びた二人の影が、石畳の上に並んでいた。
公園を出るころには、空はすっかり群青色へと変わっていた。
「じゃあ、またね」
駅の改札前。美香はいつもと変わらない笑顔で手を振る。

