だが、廊下の柱の陰では――伊兵衛が、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで、隼人の後ろ姿を見つめていた。
城の裏門を後にし、佐吉と並んで歩き始めた、その時だった。
「――待て」
背後から低く響いた重い声に、二人はビクリとして足を止める。
振り返ると、伊兵衛がゆっくりと歩み寄ってきた。その氷のように冷たく鋭い眼差しは、佐吉ではなく、隼人だけを真っ直ぐに見据えている。佐吉は顔色を変え、慌てて深く頭を下げた。
「伊兵衛殿。何か……」
伊兵衛は、佐吉を完全に無視し、隼人を睨みつけた。
「記憶を失ったとは聞いた。だが、それを理由に、姫様へ馴れ馴れしく口を利くことが許されると思うな」
隼人は息を呑み、言葉を詰まらせる。
「……」
部屋の襖越しに、千代姫とタメ口で話していたのを聞かれていたのだ。
佐吉が、隼人を庇うように一歩前へ出る。
「申し訳ございません!」
額が地面につくほど深く頭を下げた。
「記憶を失っておりますゆえ、身の程や礼儀まで分からなくなってしまったようでございます。どうか、今回ばかりはお許しください」
だが、伊兵衛は表情一つ変えなかった。
「謝って済む話ではない。姫様はこの一条家の姫君。平民が敬語を使わぬなど、決してあってはならぬ。他の家臣の耳に入れば、打ち首になってもおかしくない大罪だ」
そう言うと、伊兵衛は近くで警護に立っていた足軽へ視線を向けた。
「おい。木刀を二本持ってこい」
「はっ!」
足軽は慌てて城門の詰め所へ駆け出していく。
隼人は、嫌な予感に佐吉を見る。
「父さん……」
「何も言うな」
佐吉の顔は、血の気が引き青ざめていた。
ほどなくして、足軽が二本の木刀を抱えて戻ってくる。伊兵衛は一本を受け取り、もう一本を無造作に隼人へ放った。
隼人は反射的に、飛んできた木刀の柄を右手でしっかりと受け止める。
その時だった。
「待って!」
背後から、澄んだ声が響く。千代姫が、着物の裾を押さえながら必死に駆け寄ってきた。
「伊兵衛、やめて!悪いのは私!私が、昔みたいに話してってお願いしたの!」
伊兵衛は静かに頭を下げる。
「姫様。これは姫様のお咎めではございません。平民が姫様へ敬語を使わぬことなど、決してあってはならぬこと。護衛である私が見過ごすわけにはまいりません」
「でも……!」
千代姫がなおも止めようとする。伊兵衛は、無情にも隼人へ木刀の切っ先を向けた。
「安心しろ、殺しはせぬ。少々痛い思いをしてもらい、身分の違いというものを、その身体で覚えてもらうだけだ」
そう言って、伊兵衛は隼人の右手へ視線を落とす。
「……その掌」
隼人は眉をひそめた。
「え?」
「その手の内のタコを見れば分かる。それは大工の鑿(のみ)で作ったタコではない。長年、木刀を握り続けた者の手だ」
佐吉も思わず、信じられないものを見るように隼人の手を見た。
「そんな……。新九郎、お前にそんなタコは……」
伊兵衛は腰を落とし、木刀を正眼に構えた。
「剣の心得があるなら、一戦くらいできるだろう。……構えろ」
隼人は、ゆっくりと木刀を握り直す。その瞬間、高校時代に剣道以来だが、不思議と手にしっくりと馴染んだ。まるで昨日まで、毎日のように道場で握り続けてきたかのように。
「始めるぞ」
次の瞬間。ドンッ、と地面が鳴り、伊兵衛が一気に間合いを詰めた。
袈裟斬りの鋭い一撃。
隼人は反射的に身を捻る。木刀が鼻先を風切り音とともに掠めた。
「避けたか」
伊兵衛は休むことなくさらに踏み込む。横薙ぎ。突き。逆袈裟。隼人は必死に避け、受け流し続ける。
だが、力の差は歴然だった。重い。一撃受けるごとに腕が痺れ、虎口が裂けそうになる。
そして――。カァンッ!!乾いた音が響き、隼人の木刀が大きく弾き飛ばされた。木刀は宙を舞い、数歩先の地面へ転がる。
伊兵衛は追撃せず、冷たく見下ろして言った。
「拾え。まだ終わりではない」
伊兵衛が一歩、前へ出る。
その時だった。
「伊兵衛様!」
佐吉の声が響いた。
隼人が振り向く。
佐吉が、たまらず二人の間へ進み出ていた。深く頭を下げる。
「もう……もう勘弁してください」
「佐吉!」
「無礼を働いたことは、私からもお詫びいたします。ですが、新九郎は記憶を失ったばかりでございます」
佐吉は頭を上げない。
「どうか、これ以上は……」
伊兵衛の表情は変わらなかった。
「退け」
「ですが――」
「退けと言っている」
それでも佐吉は動かなかった。
「新九郎は剣で生きている者ではございません。ただの大工の倅です」
隼人の胸が、わずかに揺れた。
「罰が必要だというのでしたら、父親である私にも責がございます。どうか、これ以上こいつを――」
「邪魔だ」
伊兵衛が佐吉の肩を腕で強く払いのけた。
「うっ……!」
佐吉の身体が大きくよろめく。踏ん張ろうとした足がもつれ、そのまま地面へ倒れ込んだ。隼人の息が止まった。
「――っ」
目の前で、佐吉が土に手をついている。その光景を見た瞬間だった。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
――わしは、佐吉だ。お前の父親だ。初めて会った日に、そう言った。何も思い出せないと謝った自分に、――謝るな。思い出せんものは仕方あるまい。そう言ってくれた。
見知らぬ自分に着物を渡した。黙って飯をよそい、――食え。
ただ、それだけ言った。
そして、つい先ほども。伊兵衛に責められた自分を庇い、――何も言うな。そう言って、真っ先に頭を下げた。
本当の父親じゃない。佐吉の息子は、自分ではない。そんなことは、分かっている。ずっと分かっていた。
それなのに――。倒れた佐吉を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。
(……この人に)
隼人の足が動いた。
(これ以上、手を出すな)
考えるより先だった。地面へ転がった木刀へ駆け寄り、右手で拾い上げる。その時、すぐそばに落ちていた、腕ほどの長さの真っ直ぐな枝が目に入った。左手が、それを掴んだ。
伊兵衛の視線が、隼人の左手へ移った。
「……その枝で、わしの太刀を受けるつもりか」
「やってみなければ、分かりません」
隼人は右手の木刀を構え、左手の枝を低く保った。
伊兵衛が目を細める。
「ならば、見せてみろ」
再び地を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、渾身の力で木刀を真っ直ぐに振り下ろす。その瞬間だった。
隼人の左手が、鞭のように動く。短い木の枝が、振り下ろされる伊兵衛の木刀の側面に下から触れ、その軌道をわずかに、だが決定的に逸らした。
「なっ――!」
伊兵衛の目が驚愕に見開かれる。と同時に。ガラ空きになった伊兵衛の胴へ向けて、隼人の右手の木刀が一直線に伸びた。
バシィッ!!
乾いた打撃音が、静まり返った辺りに響き渡る。伊兵衛は、顔をしかめて二歩、三歩と後退した。静寂。誰も言葉を発しない。
「……伊兵衛様に、一撃を」
誰かが呟いた。
足軽たちの間にどよめきが広がる。
だが、伊兵衛は声を上げることもなく、木刀を握ったまま隼人を見据えていた。
佐吉も、腰を抜かしたように呆然と隼人を見つめていた。
「新九郎……」
千代姫も思わず一歩前へ出る。
「……新九郎」
その瞳には、驚きと、そして隠しきれない喜びが入り混じっていた。
「いつの間に……そんなに強く……」
その時だった。
「――やめんか」
低く、底冷えするような威厳ある声が響いた。
どよめいていたざわめきが、水を打ったように一瞬で止む。その声を聞いた瞬間、伊兵衛はピタリと動きを止め、静かに木刀を下ろした。
「……主膳(しゅぜん)様」
周囲を取り囲んでいた足軽たちも、慌てて一斉に平伏する。
城の裏門を後にし、佐吉と並んで歩き始めた、その時だった。
「――待て」
背後から低く響いた重い声に、二人はビクリとして足を止める。
振り返ると、伊兵衛がゆっくりと歩み寄ってきた。その氷のように冷たく鋭い眼差しは、佐吉ではなく、隼人だけを真っ直ぐに見据えている。佐吉は顔色を変え、慌てて深く頭を下げた。
「伊兵衛殿。何か……」
伊兵衛は、佐吉を完全に無視し、隼人を睨みつけた。
「記憶を失ったとは聞いた。だが、それを理由に、姫様へ馴れ馴れしく口を利くことが許されると思うな」
隼人は息を呑み、言葉を詰まらせる。
「……」
部屋の襖越しに、千代姫とタメ口で話していたのを聞かれていたのだ。
佐吉が、隼人を庇うように一歩前へ出る。
「申し訳ございません!」
額が地面につくほど深く頭を下げた。
「記憶を失っておりますゆえ、身の程や礼儀まで分からなくなってしまったようでございます。どうか、今回ばかりはお許しください」
だが、伊兵衛は表情一つ変えなかった。
「謝って済む話ではない。姫様はこの一条家の姫君。平民が敬語を使わぬなど、決してあってはならぬ。他の家臣の耳に入れば、打ち首になってもおかしくない大罪だ」
そう言うと、伊兵衛は近くで警護に立っていた足軽へ視線を向けた。
「おい。木刀を二本持ってこい」
「はっ!」
足軽は慌てて城門の詰め所へ駆け出していく。
隼人は、嫌な予感に佐吉を見る。
「父さん……」
「何も言うな」
佐吉の顔は、血の気が引き青ざめていた。
ほどなくして、足軽が二本の木刀を抱えて戻ってくる。伊兵衛は一本を受け取り、もう一本を無造作に隼人へ放った。
隼人は反射的に、飛んできた木刀の柄を右手でしっかりと受け止める。
その時だった。
「待って!」
背後から、澄んだ声が響く。千代姫が、着物の裾を押さえながら必死に駆け寄ってきた。
「伊兵衛、やめて!悪いのは私!私が、昔みたいに話してってお願いしたの!」
伊兵衛は静かに頭を下げる。
「姫様。これは姫様のお咎めではございません。平民が姫様へ敬語を使わぬことなど、決してあってはならぬこと。護衛である私が見過ごすわけにはまいりません」
「でも……!」
千代姫がなおも止めようとする。伊兵衛は、無情にも隼人へ木刀の切っ先を向けた。
「安心しろ、殺しはせぬ。少々痛い思いをしてもらい、身分の違いというものを、その身体で覚えてもらうだけだ」
そう言って、伊兵衛は隼人の右手へ視線を落とす。
「……その掌」
隼人は眉をひそめた。
「え?」
「その手の内のタコを見れば分かる。それは大工の鑿(のみ)で作ったタコではない。長年、木刀を握り続けた者の手だ」
佐吉も思わず、信じられないものを見るように隼人の手を見た。
「そんな……。新九郎、お前にそんなタコは……」
伊兵衛は腰を落とし、木刀を正眼に構えた。
「剣の心得があるなら、一戦くらいできるだろう。……構えろ」
隼人は、ゆっくりと木刀を握り直す。その瞬間、高校時代に剣道以来だが、不思議と手にしっくりと馴染んだ。まるで昨日まで、毎日のように道場で握り続けてきたかのように。
「始めるぞ」
次の瞬間。ドンッ、と地面が鳴り、伊兵衛が一気に間合いを詰めた。
袈裟斬りの鋭い一撃。
隼人は反射的に身を捻る。木刀が鼻先を風切り音とともに掠めた。
「避けたか」
伊兵衛は休むことなくさらに踏み込む。横薙ぎ。突き。逆袈裟。隼人は必死に避け、受け流し続ける。
だが、力の差は歴然だった。重い。一撃受けるごとに腕が痺れ、虎口が裂けそうになる。
そして――。カァンッ!!乾いた音が響き、隼人の木刀が大きく弾き飛ばされた。木刀は宙を舞い、数歩先の地面へ転がる。
伊兵衛は追撃せず、冷たく見下ろして言った。
「拾え。まだ終わりではない」
伊兵衛が一歩、前へ出る。
その時だった。
「伊兵衛様!」
佐吉の声が響いた。
隼人が振り向く。
佐吉が、たまらず二人の間へ進み出ていた。深く頭を下げる。
「もう……もう勘弁してください」
「佐吉!」
「無礼を働いたことは、私からもお詫びいたします。ですが、新九郎は記憶を失ったばかりでございます」
佐吉は頭を上げない。
「どうか、これ以上は……」
伊兵衛の表情は変わらなかった。
「退け」
「ですが――」
「退けと言っている」
それでも佐吉は動かなかった。
「新九郎は剣で生きている者ではございません。ただの大工の倅です」
隼人の胸が、わずかに揺れた。
「罰が必要だというのでしたら、父親である私にも責がございます。どうか、これ以上こいつを――」
「邪魔だ」
伊兵衛が佐吉の肩を腕で強く払いのけた。
「うっ……!」
佐吉の身体が大きくよろめく。踏ん張ろうとした足がもつれ、そのまま地面へ倒れ込んだ。隼人の息が止まった。
「――っ」
目の前で、佐吉が土に手をついている。その光景を見た瞬間だった。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
――わしは、佐吉だ。お前の父親だ。初めて会った日に、そう言った。何も思い出せないと謝った自分に、――謝るな。思い出せんものは仕方あるまい。そう言ってくれた。
見知らぬ自分に着物を渡した。黙って飯をよそい、――食え。
ただ、それだけ言った。
そして、つい先ほども。伊兵衛に責められた自分を庇い、――何も言うな。そう言って、真っ先に頭を下げた。
本当の父親じゃない。佐吉の息子は、自分ではない。そんなことは、分かっている。ずっと分かっていた。
それなのに――。倒れた佐吉を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。
(……この人に)
隼人の足が動いた。
(これ以上、手を出すな)
考えるより先だった。地面へ転がった木刀へ駆け寄り、右手で拾い上げる。その時、すぐそばに落ちていた、腕ほどの長さの真っ直ぐな枝が目に入った。左手が、それを掴んだ。
伊兵衛の視線が、隼人の左手へ移った。
「……その枝で、わしの太刀を受けるつもりか」
「やってみなければ、分かりません」
隼人は右手の木刀を構え、左手の枝を低く保った。
伊兵衛が目を細める。
「ならば、見せてみろ」
再び地を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、渾身の力で木刀を真っ直ぐに振り下ろす。その瞬間だった。
隼人の左手が、鞭のように動く。短い木の枝が、振り下ろされる伊兵衛の木刀の側面に下から触れ、その軌道をわずかに、だが決定的に逸らした。
「なっ――!」
伊兵衛の目が驚愕に見開かれる。と同時に。ガラ空きになった伊兵衛の胴へ向けて、隼人の右手の木刀が一直線に伸びた。
バシィッ!!
乾いた打撃音が、静まり返った辺りに響き渡る。伊兵衛は、顔をしかめて二歩、三歩と後退した。静寂。誰も言葉を発しない。
「……伊兵衛様に、一撃を」
誰かが呟いた。
足軽たちの間にどよめきが広がる。
だが、伊兵衛は声を上げることもなく、木刀を握ったまま隼人を見据えていた。
佐吉も、腰を抜かしたように呆然と隼人を見つめていた。
「新九郎……」
千代姫も思わず一歩前へ出る。
「……新九郎」
その瞳には、驚きと、そして隠しきれない喜びが入り混じっていた。
「いつの間に……そんなに強く……」
その時だった。
「――やめんか」
低く、底冷えするような威厳ある声が響いた。
どよめいていたざわめきが、水を打ったように一瞬で止む。その声を聞いた瞬間、伊兵衛はピタリと動きを止め、静かに木刀を下ろした。
「……主膳(しゅぜん)様」
周囲を取り囲んでいた足軽たちも、慌てて一斉に平伏する。

