千代姫は目を細め、とびきりの笑顔を見せた。
「だから、その約束を思い出すたびに笑っちゃうの。でも……」
ふっと、その笑みが柔らかなものに変わる。
「私は、すごく嬉しかった。新九郎は弱くても、不器用でも、本気で私を守ろうとしてくれてたから」
千代姫は少しだけ視線を落とした。
「あの木のお守り、今でも大事に持ってるよ。私の宝物なの」
隼人は驚いて千代姫を見る。
「まだ持ってるの?」
「もちろん」
千代姫は当然だと言わんばかりに頷いた。
「子どもの頃にもらったものだけど、ずっと大切にしてる」
「……見てみたいな」
何気なく言っただけだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、千代姫がぴたりと動きを止めた。
「ん?」
そして、何かを思い出したように頬がほんのりと赤くなる。
「……だめ」
「え?」
「見せない」
千代姫は隼人から視線を逸らした。
「なんで?」
「なんでも」
「宝物なんだろ?」
「だからって、見せなきゃいけないわけじゃないもん」
そう言い切ると、千代姫は誤魔化すように悪戯っぽく笑った。
「それに、新九郎は何も覚えてないんでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「だったら、自分で思い出したら見せてあげる」
「そんなの、いつになるか分からないじゃん」
「じゃあ、それまでお預け」
千代姫は楽しそうに笑った。その無邪気な表情を見て、隼人も困ったように笑う。
「厳しいな、姫様は」
「あっ、今は二人だけなんだから、姫様は禁止」
「……そうだった」
隼人は苦笑する。
「じゃあ、千代。少しくらい見せてくれてもいいだろ?」
「だーめ」
千代姫は楽しそうに首を横に振った。
「思い出したらね」
「分かったよ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。やがて千代姫は、改めて隼人の顔を見つめる。
「だから、今の新九郎は不思議」
「不思議?」
「うん。記憶はなくなっちゃったのに、やっぱり昔の新九郎みたいなんだもん」
隼人は返す言葉が見つからなかった。
自分は新九郎ではない。
昔の約束をしたのも、不格好なお守りを作ったのも、自分ではないのだ。その事実が、小骨のように胸の奥に引っ掛かる。
けれど、目の前で嬉しそうに笑う千代姫を見ると、その残酷な事実を口にすることはどうしてもできなかった。
隼人は千代姫の横顔を見つめた。
昔の新九郎は、本当にこの姫を守ろうとしていたのだろう。弱くても、不器用で、ただの木の塊しか作れなくても。その純粋な想いだけは、きっと本物だったのだ。
「……いいやつだったんだな」
ぽつりと、他人のことのように呟く。
一瞬の沈黙。
すると、千代姫がぷっと吹き出した。
「あははっ!」
隼人はきょとんとする。
「え?何?」
千代姫はお腹を押さえ、涙目になりながら笑っている。
「だって……あははっ!それ、自分で言った言葉なのに。昔もね、『俺がちよを守る!』って、すっごく必死な顔で言ってたんだから。なのに今は、『いいやつだったんだな』って……あははっ、なんだか変!」
隼人もようやく自分の発言の滑稽さに気づき、苦笑した。
「あ……そういうことか。ごめん、本人だった」
「ふふっ」
千代姫は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、優しく微笑んだ。
「やっぱり今の新九郎、面白い。その話し方のほうが好きだな。昔の新九郎が帰ってきたみたい」
隼人は照れくさそうに頭をかく。
「そっか」
その時だった。コン、コン。襖の外から控えめな音が響いた。
「姫様」
侍女・志乃の声だった。千代姫は、一瞬にして表情を引き締めた。先ほどまで隼人に向けていた無邪気な少女の笑顔は完全に消え去り、凛とした威厳のある『城の姫』の顔へと見事に戻っていた。
「入りなさい」
襖が静かに開く。志乃は深々と頭を下げた。
「玄庵先生がお見えになりました」
千代姫は、低い落ち着いた声で頷く。
「こちらへお通しして」
「かしこまりました」
志乃が再び頭を下げて部屋を後にした。
襖が閉まった瞬間、隼人は思わず感心したように息を吐く。
(さっきまで別人みたいだったのに……)
そんな隼人の呆気にとられた視線に気づいたのか、千代姫は侍女の足音が遠ざかるのを確認すると、隼人に向かって小さく舌を出した。
「疲れるんだよ、あれ」
隼人はたまらず吹き出した。
「いまの、聞かれたら怒られるぞ」
「だから、新九郎にしか言わないの」
悪戯っぽく笑う千代姫。
その時、再び襖が開いた。
「失礼いたします」
白髪交じりの老人と佐吉も、静かに部屋へ入ってくる。玄庵の年は六十を過ぎているだろうか。質素な身なりながら、その立ち居振る舞いには長年多くの命を診てきた者だけが持つ、泰然とした落ち着きがあった。城付きの医師・玄庵である。
玄庵はまず、千代姫へ深く一礼した。
「姫様。急なお呼び立てにもかかわらず、お待たせいたしました」
「お気になさらず。来ていただいて感謝します」
玄庵は穏やかに微笑むと、ゆっくりと隼人へ視線を向けた。
「この方が……新九郎殿ですかな」
その目は、どこまでも深い慈愛に満ちて優しかった。だが同時に、医師特有の鋭さも宿していた。隼人は自然と背筋を伸ばした。
隼人は促されるまま、玄庵の前へ静かに座った。玄庵は、隼人の顔をじっと見つめる。
「まずは、お顔をよく見せてくだされ」
「あ、はい」
隼人は少し緊張しながら、玄庵の前へ膝を進めた。玄庵は隼人の額や瞳孔の動きを観察し、首を軽く傾ける。
「どこか痛むところは?」
「いえ……体は、どこも痛くありません」
「頭を強く打った覚えは?」
隼人はゆっくりと首を横に振る。
「気づいたら森で倒れていました。それ以前のことは……何も、思い出せません」
玄庵は、ゆっくりと手を離した。
「脈にも乱れはなく、熱もない。身体そのものには異常は見られませぬ」
佐吉は安堵したように、大きな息を吐く。
「では、新九郎は……」
「記憶を失っていること以外は、問題ないでしょう。ただし、無理に思い出そうとしてはなりませぬ。かえって心身に負担をかける場合もございます」
玄庵は、深く慈愛に満ちた目で隼人を見つめた。
「慣れ親しんだ場所で、ご家族と普段どおりに過ごすことです。何かをきっかけに、ふと記憶が戻るやもしれません。焦ることはありませぬ」
「……ありがとうございます」
隼人が深く頭を下げると、玄庵は静かに頷いた。佐吉も、額を畳に擦り付けるように深々と頭を下げる。
「玄庵先生、誠にありがとうございました」
「礼には及びませぬ」
玄庵が席を立つと、千代姫は隼人へ歩み寄った。
「新九郎。今日はもう家へ戻って、ゆっくり休んで」
人前だからだろう。先ほどまでの、幼馴染とじゃれ合うような無邪気な声ではなく、姫らしい落ち着いた声に戻っていた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
隼人も、千代姫の立場に合わせるように恭しく頭を下げる。
千代姫は、一瞬だけつまらなそうに不満な顔をした。けれど、佐吉や玄庵、そして襖の外には伊兵衛がいることを思い出したのか、すぐに凛とした表情へ戻った。
「佐吉、新九郎のことを頼みましたよ」
「はっ。必ず」
佐吉は深く頭を下げた。
「新九郎、行くぞ」
「はい」
隼人が立ち上がる。
部屋を出る直前、振り返ると、千代姫はまだこちらを見ていた。目が合った瞬間、千代姫は誰にも気づかれないよう、袖の下で小さく手を振った。
隼人もわずかに笑い、小さく頷いた。佐吉とともに廊下を歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、千代姫は懐かしそうに微笑んでいた。
「だから、その約束を思い出すたびに笑っちゃうの。でも……」
ふっと、その笑みが柔らかなものに変わる。
「私は、すごく嬉しかった。新九郎は弱くても、不器用でも、本気で私を守ろうとしてくれてたから」
千代姫は少しだけ視線を落とした。
「あの木のお守り、今でも大事に持ってるよ。私の宝物なの」
隼人は驚いて千代姫を見る。
「まだ持ってるの?」
「もちろん」
千代姫は当然だと言わんばかりに頷いた。
「子どもの頃にもらったものだけど、ずっと大切にしてる」
「……見てみたいな」
何気なく言っただけだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、千代姫がぴたりと動きを止めた。
「ん?」
そして、何かを思い出したように頬がほんのりと赤くなる。
「……だめ」
「え?」
「見せない」
千代姫は隼人から視線を逸らした。
「なんで?」
「なんでも」
「宝物なんだろ?」
「だからって、見せなきゃいけないわけじゃないもん」
そう言い切ると、千代姫は誤魔化すように悪戯っぽく笑った。
「それに、新九郎は何も覚えてないんでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「だったら、自分で思い出したら見せてあげる」
「そんなの、いつになるか分からないじゃん」
「じゃあ、それまでお預け」
千代姫は楽しそうに笑った。その無邪気な表情を見て、隼人も困ったように笑う。
「厳しいな、姫様は」
「あっ、今は二人だけなんだから、姫様は禁止」
「……そうだった」
隼人は苦笑する。
「じゃあ、千代。少しくらい見せてくれてもいいだろ?」
「だーめ」
千代姫は楽しそうに首を横に振った。
「思い出したらね」
「分かったよ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。やがて千代姫は、改めて隼人の顔を見つめる。
「だから、今の新九郎は不思議」
「不思議?」
「うん。記憶はなくなっちゃったのに、やっぱり昔の新九郎みたいなんだもん」
隼人は返す言葉が見つからなかった。
自分は新九郎ではない。
昔の約束をしたのも、不格好なお守りを作ったのも、自分ではないのだ。その事実が、小骨のように胸の奥に引っ掛かる。
けれど、目の前で嬉しそうに笑う千代姫を見ると、その残酷な事実を口にすることはどうしてもできなかった。
隼人は千代姫の横顔を見つめた。
昔の新九郎は、本当にこの姫を守ろうとしていたのだろう。弱くても、不器用で、ただの木の塊しか作れなくても。その純粋な想いだけは、きっと本物だったのだ。
「……いいやつだったんだな」
ぽつりと、他人のことのように呟く。
一瞬の沈黙。
すると、千代姫がぷっと吹き出した。
「あははっ!」
隼人はきょとんとする。
「え?何?」
千代姫はお腹を押さえ、涙目になりながら笑っている。
「だって……あははっ!それ、自分で言った言葉なのに。昔もね、『俺がちよを守る!』って、すっごく必死な顔で言ってたんだから。なのに今は、『いいやつだったんだな』って……あははっ、なんだか変!」
隼人もようやく自分の発言の滑稽さに気づき、苦笑した。
「あ……そういうことか。ごめん、本人だった」
「ふふっ」
千代姫は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、優しく微笑んだ。
「やっぱり今の新九郎、面白い。その話し方のほうが好きだな。昔の新九郎が帰ってきたみたい」
隼人は照れくさそうに頭をかく。
「そっか」
その時だった。コン、コン。襖の外から控えめな音が響いた。
「姫様」
侍女・志乃の声だった。千代姫は、一瞬にして表情を引き締めた。先ほどまで隼人に向けていた無邪気な少女の笑顔は完全に消え去り、凛とした威厳のある『城の姫』の顔へと見事に戻っていた。
「入りなさい」
襖が静かに開く。志乃は深々と頭を下げた。
「玄庵先生がお見えになりました」
千代姫は、低い落ち着いた声で頷く。
「こちらへお通しして」
「かしこまりました」
志乃が再び頭を下げて部屋を後にした。
襖が閉まった瞬間、隼人は思わず感心したように息を吐く。
(さっきまで別人みたいだったのに……)
そんな隼人の呆気にとられた視線に気づいたのか、千代姫は侍女の足音が遠ざかるのを確認すると、隼人に向かって小さく舌を出した。
「疲れるんだよ、あれ」
隼人はたまらず吹き出した。
「いまの、聞かれたら怒られるぞ」
「だから、新九郎にしか言わないの」
悪戯っぽく笑う千代姫。
その時、再び襖が開いた。
「失礼いたします」
白髪交じりの老人と佐吉も、静かに部屋へ入ってくる。玄庵の年は六十を過ぎているだろうか。質素な身なりながら、その立ち居振る舞いには長年多くの命を診てきた者だけが持つ、泰然とした落ち着きがあった。城付きの医師・玄庵である。
玄庵はまず、千代姫へ深く一礼した。
「姫様。急なお呼び立てにもかかわらず、お待たせいたしました」
「お気になさらず。来ていただいて感謝します」
玄庵は穏やかに微笑むと、ゆっくりと隼人へ視線を向けた。
「この方が……新九郎殿ですかな」
その目は、どこまでも深い慈愛に満ちて優しかった。だが同時に、医師特有の鋭さも宿していた。隼人は自然と背筋を伸ばした。
隼人は促されるまま、玄庵の前へ静かに座った。玄庵は、隼人の顔をじっと見つめる。
「まずは、お顔をよく見せてくだされ」
「あ、はい」
隼人は少し緊張しながら、玄庵の前へ膝を進めた。玄庵は隼人の額や瞳孔の動きを観察し、首を軽く傾ける。
「どこか痛むところは?」
「いえ……体は、どこも痛くありません」
「頭を強く打った覚えは?」
隼人はゆっくりと首を横に振る。
「気づいたら森で倒れていました。それ以前のことは……何も、思い出せません」
玄庵は、ゆっくりと手を離した。
「脈にも乱れはなく、熱もない。身体そのものには異常は見られませぬ」
佐吉は安堵したように、大きな息を吐く。
「では、新九郎は……」
「記憶を失っていること以外は、問題ないでしょう。ただし、無理に思い出そうとしてはなりませぬ。かえって心身に負担をかける場合もございます」
玄庵は、深く慈愛に満ちた目で隼人を見つめた。
「慣れ親しんだ場所で、ご家族と普段どおりに過ごすことです。何かをきっかけに、ふと記憶が戻るやもしれません。焦ることはありませぬ」
「……ありがとうございます」
隼人が深く頭を下げると、玄庵は静かに頷いた。佐吉も、額を畳に擦り付けるように深々と頭を下げる。
「玄庵先生、誠にありがとうございました」
「礼には及びませぬ」
玄庵が席を立つと、千代姫は隼人へ歩み寄った。
「新九郎。今日はもう家へ戻って、ゆっくり休んで」
人前だからだろう。先ほどまでの、幼馴染とじゃれ合うような無邪気な声ではなく、姫らしい落ち着いた声に戻っていた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
隼人も、千代姫の立場に合わせるように恭しく頭を下げる。
千代姫は、一瞬だけつまらなそうに不満な顔をした。けれど、佐吉や玄庵、そして襖の外には伊兵衛がいることを思い出したのか、すぐに凛とした表情へ戻った。
「佐吉、新九郎のことを頼みましたよ」
「はっ。必ず」
佐吉は深く頭を下げた。
「新九郎、行くぞ」
「はい」
隼人が立ち上がる。
部屋を出る直前、振り返ると、千代姫はまだこちらを見ていた。目が合った瞬間、千代姫は誰にも気づかれないよう、袖の下で小さく手を振った。
隼人もわずかに笑い、小さく頷いた。佐吉とともに廊下を歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、千代姫は懐かしそうに微笑んでいた。

