伊兵衛はなおも不満げに口元を歪めたが、主君の絶対の命令に逆らうことはできず、やがて深く一礼した。
「……承知いたしました」
佐吉も、ほっとしたように頭を下げる。
「ありがとうございます!」
千代姫はパッと花が咲いたように嬉しそうに微笑み、隼人の方へ振り返った。
「新九郎、こっちよ」
隼人は状況が飲み込めず戸惑いながらも、小さく頷き、千代姫の艶やかな背中の後を歩き出した。
案内されたのは、美しく手入れされた庭園を望む、静かな和室だった。ほどなくして侍女の志乃がお盆を運び、湯気の立つ茶を二人の前に置く。
「姫様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、志乃」
侍女は一礼すると、静かに部屋を出ていく。襖が閉まる音が、部屋に小さく響いた。
――ピシャリ。
その瞬間だった。千代姫は、ふっと肩の力を抜き、くるりと隼人の方を向いた。そして、それまでの気品ある姫君の顔をかなぐり捨て、いたずらっぽく、無邪気に笑った。
「ねぇ、新九郎」
「……え?」
「そんなに固くならなくていいってば」
さっきまで廊下で見せていた、凛とした姫の姿とはまるで別人だった。隼人は思わず目を丸くする。
「えっ……でも……」
千代姫は、くすくすと声を立てて笑う。
「人前では『城の姫』なんだから、ああしてるだけ。ここにはもう、小言を言う佐吉も、怖い伊兵衛もいないんだから」
千代姫は両手を後ろで組み、少しだけ体を隼人の方へ傾けた。
「ねえ、新九郎。昔みたいに話してよ。二人だけの時くらい」
「……敬語なしで?」
「そう。昔は千代って呼んでくれたでしょ」
「……分かったよ、千代」
千代姫は一瞬目を丸くし、それからゆっくりと微笑んだ。
「そう。それでいいの」
「名前を呼んだだけだろ」
「その一言を、ずっと待ってたの」
そう言うと、千代姫は嬉しさを隠しきれない様子で、畳の上を少しだけにじり寄り、隼人の顔を覗き込んだ。
「大きくなって、あなたが城に出入りするようになってからは、ずっと『千代姫様』『です』『ます』ばかりだったし……」
千代姫は少しだけ唇を尖らせた。
「何度『昔みたいに話して』ってお願いしても、『もう子どもではありませんから。伊兵衛殿に叱られます』って、いっつも笑ってごまかされちゃって……」
そこで千代姫は、ふっと頬を膨らませた。
「それに、急にお城にも来なくなったでしょ?」
「え?」
「だから私……」
千代姫は隼人を横目でちらりと見た。
「新九郎、私のこと嫌いになったんじゃないかって思ってたんだから」
拗ねたような声だった。
本気で怒っているわけではないのだろう。けれど、膨らませた頬と尖らせた唇は、姫というより年頃の娘そのものだった。
「いや、それは――」
隼人は反射的に否定しかけて、はっと口を閉ざした。
(……そうだった。俺は何も覚えていないことになってるんだった)
「……ごめん。やっぱり、覚えてないんだ」
千代姫は一瞬きょとんとしたあと、自分でもおかしくなったのか、小さく吹き出した。
「あ……そうだったね」
「ごめん」
「ふふっ。新九郎が悪いわけじゃないでしょ」
そう言うと、千代姫はすぐにまた満面の笑顔へ戻った。
「だから……なんだか、すっごく嬉しい!」
その笑顔は、さっきまで城の廊下で見せていた、手の届かない気品ある姫のものではなかった。
幼い頃の幼馴染と話す、ただ一人の女の子の笑顔だった。
その裏表のない笑顔を見た瞬間、隼人もつられて、自然と笑みがこぼれてしまった。
「そんなに嬉しいの?」
千代姫は何度も、ちぎれんばかりに頷いた。
「うんっ!」
声まで弾んでいた。
「だって、昔の新九郎に戻ったみたいなんだもん」
そう言うと、千代姫は少しだけ声を落とし、今度は心配そうに隼人を見つめた。
「ねぇ……本当に、何も覚えてない?」
「……うん」
「私のことも?」
「ごめん」
隼人が嘘をつく罪悪感から申し訳なさそうに頭を掻くと、千代姫は一瞬だけ、傷ついたような寂しそうな顔をした。
だが、その表情はすぐに、太陽のような明るい笑顔へと変わる。
「そっか」
「……怒らないの?」
「じゃあ、また仲良くなればいいだけだね!」
その言葉に、隼人は思わず目を見開いた。
「え?」
「だって、一から友達になればいいだけでしょ?」
千代姫は、当たり前のように笑う。
「思い出せないなら、今からまた新しい思い出を作ればいい」
その無邪気な、すべてを包み込むような笑顔に、隼人は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。――美香も、こんなふうに笑っていたな。
ふと、昨夜見た夢の記憶がよぎる。だが、目の前にいるのは美香ではない。着物を着た、城の姫様だ。それでも、その真っ直ぐな優しさは、孤独な異世界に放り出された隼人にとって、どこかひどく懐かしく、救われるような温かさがあった。
千代姫は、急に何かを思い出したように悪戯っぽく笑った。
「あっ、そうだ。新九郎、子どもの頃の約束、覚えてる?」
隼人は苦笑しながら、首を横に振る。
「だから、何も覚えてないってば」
「あっ……そうだった」
千代姫は自分の額を指先で軽くこつんと叩き、照れくさそうに笑った。
「つい、昔の新九郎と話してる気分になっちゃった」
そう言って笑う姿は、気高い城の姫というより、年相応の無邪気な娘そのものだった。
隼人もつられて笑う。
「ごめん。せっかくの約束なのに」
千代姫は首を横に振った。
「謝らなくていいよ。思い出せないんだから、仕方ないもん」
そう言うと、千代姫は冷めかけた湯飲みを手に取り、一口だけ口をつけた。
「でもね。私、あの約束を一日も忘れたことないよ」
その声が少しだけ真剣なものに変わり、隼人も自然と表情を改めた。
「そんなに大事な約束だったの?」
千代姫は少し照れくさそうに笑う。
「うん。新九郎が言い出したことだから」
「俺が?」
「そう」
千代姫は、手入れされた庭の木々へ懐かしそうに目を向けた。
「私が泣いてたら、新九郎が木を削って、小さなお守りを作ってくれたの」
そこまで話すと、千代姫は思い出し笑いをするように口元を押さえ、くすくすと肩を震わせた。
「でもね。新九郎は本当に大工の息子かってくらい不器用だったから……お守りだって得意げに渡してくれたけど、どう見てもただの乱雑な木の塊だったの」
隼人は思わず吹き出した。
「ただの木の塊って……」
「本当だもん! 何の形にもなってない、ただのボコボコした木切れ。しかも作ってる途中で小刀で指を切っちゃって、半泣きになりながら渡してくるんだもん」
千代姫は楽しそうに笑う。
「それを見たら、なんだかおかしくなっちゃって。泣いてたことなんて忘れちゃった」
隼人は、キャンプ場で美香に隠した木彫りを思い出した。自分は失敗を恐れて、見せようとしなかった。だが新九郎は、指を切ってまで作り、千代姫に渡した。隼人は何も言わず、千代姫の話の続きを待った。
「でね。そのボコボコの木のお守りを両手で渡しながら、新九郎が言ったの」
千代姫は愛おしそうに笑った。
「『俺がちよを守る!』って。すっごく格好つけて言ってくれたんだよ」
隼人は、自分の中にはない記憶に少し照れくささを覚えながら笑う。
「へぇ……そんなこと言ってたんだ」
「うん」
千代姫は何度も頷いた。
「でもね」
「うん?」
「新九郎、力は弱いし、剣術なんて足軽の子よりもずっと弱かった。木の枝でチャンバラしても、私に負けるくらいだったんだから」
「……えっ?」
「本当、本当!」
千代姫は肩を震わせながら声を立てて笑った。
「『守る』なんて言うくせに、木登りから落ちそうになったり、犬に吠えられたりして、いっつも私が助けてたの」
その無邪気な笑顔に、隼人もたまらずつられて笑ってしまう。
「それじゃ、全然守れてないじゃん」
「でしょ?」
「……承知いたしました」
佐吉も、ほっとしたように頭を下げる。
「ありがとうございます!」
千代姫はパッと花が咲いたように嬉しそうに微笑み、隼人の方へ振り返った。
「新九郎、こっちよ」
隼人は状況が飲み込めず戸惑いながらも、小さく頷き、千代姫の艶やかな背中の後を歩き出した。
案内されたのは、美しく手入れされた庭園を望む、静かな和室だった。ほどなくして侍女の志乃がお盆を運び、湯気の立つ茶を二人の前に置く。
「姫様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、志乃」
侍女は一礼すると、静かに部屋を出ていく。襖が閉まる音が、部屋に小さく響いた。
――ピシャリ。
その瞬間だった。千代姫は、ふっと肩の力を抜き、くるりと隼人の方を向いた。そして、それまでの気品ある姫君の顔をかなぐり捨て、いたずらっぽく、無邪気に笑った。
「ねぇ、新九郎」
「……え?」
「そんなに固くならなくていいってば」
さっきまで廊下で見せていた、凛とした姫の姿とはまるで別人だった。隼人は思わず目を丸くする。
「えっ……でも……」
千代姫は、くすくすと声を立てて笑う。
「人前では『城の姫』なんだから、ああしてるだけ。ここにはもう、小言を言う佐吉も、怖い伊兵衛もいないんだから」
千代姫は両手を後ろで組み、少しだけ体を隼人の方へ傾けた。
「ねえ、新九郎。昔みたいに話してよ。二人だけの時くらい」
「……敬語なしで?」
「そう。昔は千代って呼んでくれたでしょ」
「……分かったよ、千代」
千代姫は一瞬目を丸くし、それからゆっくりと微笑んだ。
「そう。それでいいの」
「名前を呼んだだけだろ」
「その一言を、ずっと待ってたの」
そう言うと、千代姫は嬉しさを隠しきれない様子で、畳の上を少しだけにじり寄り、隼人の顔を覗き込んだ。
「大きくなって、あなたが城に出入りするようになってからは、ずっと『千代姫様』『です』『ます』ばかりだったし……」
千代姫は少しだけ唇を尖らせた。
「何度『昔みたいに話して』ってお願いしても、『もう子どもではありませんから。伊兵衛殿に叱られます』って、いっつも笑ってごまかされちゃって……」
そこで千代姫は、ふっと頬を膨らませた。
「それに、急にお城にも来なくなったでしょ?」
「え?」
「だから私……」
千代姫は隼人を横目でちらりと見た。
「新九郎、私のこと嫌いになったんじゃないかって思ってたんだから」
拗ねたような声だった。
本気で怒っているわけではないのだろう。けれど、膨らませた頬と尖らせた唇は、姫というより年頃の娘そのものだった。
「いや、それは――」
隼人は反射的に否定しかけて、はっと口を閉ざした。
(……そうだった。俺は何も覚えていないことになってるんだった)
「……ごめん。やっぱり、覚えてないんだ」
千代姫は一瞬きょとんとしたあと、自分でもおかしくなったのか、小さく吹き出した。
「あ……そうだったね」
「ごめん」
「ふふっ。新九郎が悪いわけじゃないでしょ」
そう言うと、千代姫はすぐにまた満面の笑顔へ戻った。
「だから……なんだか、すっごく嬉しい!」
その笑顔は、さっきまで城の廊下で見せていた、手の届かない気品ある姫のものではなかった。
幼い頃の幼馴染と話す、ただ一人の女の子の笑顔だった。
その裏表のない笑顔を見た瞬間、隼人もつられて、自然と笑みがこぼれてしまった。
「そんなに嬉しいの?」
千代姫は何度も、ちぎれんばかりに頷いた。
「うんっ!」
声まで弾んでいた。
「だって、昔の新九郎に戻ったみたいなんだもん」
そう言うと、千代姫は少しだけ声を落とし、今度は心配そうに隼人を見つめた。
「ねぇ……本当に、何も覚えてない?」
「……うん」
「私のことも?」
「ごめん」
隼人が嘘をつく罪悪感から申し訳なさそうに頭を掻くと、千代姫は一瞬だけ、傷ついたような寂しそうな顔をした。
だが、その表情はすぐに、太陽のような明るい笑顔へと変わる。
「そっか」
「……怒らないの?」
「じゃあ、また仲良くなればいいだけだね!」
その言葉に、隼人は思わず目を見開いた。
「え?」
「だって、一から友達になればいいだけでしょ?」
千代姫は、当たり前のように笑う。
「思い出せないなら、今からまた新しい思い出を作ればいい」
その無邪気な、すべてを包み込むような笑顔に、隼人は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。――美香も、こんなふうに笑っていたな。
ふと、昨夜見た夢の記憶がよぎる。だが、目の前にいるのは美香ではない。着物を着た、城の姫様だ。それでも、その真っ直ぐな優しさは、孤独な異世界に放り出された隼人にとって、どこかひどく懐かしく、救われるような温かさがあった。
千代姫は、急に何かを思い出したように悪戯っぽく笑った。
「あっ、そうだ。新九郎、子どもの頃の約束、覚えてる?」
隼人は苦笑しながら、首を横に振る。
「だから、何も覚えてないってば」
「あっ……そうだった」
千代姫は自分の額を指先で軽くこつんと叩き、照れくさそうに笑った。
「つい、昔の新九郎と話してる気分になっちゃった」
そう言って笑う姿は、気高い城の姫というより、年相応の無邪気な娘そのものだった。
隼人もつられて笑う。
「ごめん。せっかくの約束なのに」
千代姫は首を横に振った。
「謝らなくていいよ。思い出せないんだから、仕方ないもん」
そう言うと、千代姫は冷めかけた湯飲みを手に取り、一口だけ口をつけた。
「でもね。私、あの約束を一日も忘れたことないよ」
その声が少しだけ真剣なものに変わり、隼人も自然と表情を改めた。
「そんなに大事な約束だったの?」
千代姫は少し照れくさそうに笑う。
「うん。新九郎が言い出したことだから」
「俺が?」
「そう」
千代姫は、手入れされた庭の木々へ懐かしそうに目を向けた。
「私が泣いてたら、新九郎が木を削って、小さなお守りを作ってくれたの」
そこまで話すと、千代姫は思い出し笑いをするように口元を押さえ、くすくすと肩を震わせた。
「でもね。新九郎は本当に大工の息子かってくらい不器用だったから……お守りだって得意げに渡してくれたけど、どう見てもただの乱雑な木の塊だったの」
隼人は思わず吹き出した。
「ただの木の塊って……」
「本当だもん! 何の形にもなってない、ただのボコボコした木切れ。しかも作ってる途中で小刀で指を切っちゃって、半泣きになりながら渡してくるんだもん」
千代姫は楽しそうに笑う。
「それを見たら、なんだかおかしくなっちゃって。泣いてたことなんて忘れちゃった」
隼人は、キャンプ場で美香に隠した木彫りを思い出した。自分は失敗を恐れて、見せようとしなかった。だが新九郎は、指を切ってまで作り、千代姫に渡した。隼人は何も言わず、千代姫の話の続きを待った。
「でね。そのボコボコの木のお守りを両手で渡しながら、新九郎が言ったの」
千代姫は愛おしそうに笑った。
「『俺がちよを守る!』って。すっごく格好つけて言ってくれたんだよ」
隼人は、自分の中にはない記憶に少し照れくささを覚えながら笑う。
「へぇ……そんなこと言ってたんだ」
「うん」
千代姫は何度も頷いた。
「でもね」
「うん?」
「新九郎、力は弱いし、剣術なんて足軽の子よりもずっと弱かった。木の枝でチャンバラしても、私に負けるくらいだったんだから」
「……えっ?」
「本当、本当!」
千代姫は肩を震わせながら声を立てて笑った。
「『守る』なんて言うくせに、木登りから落ちそうになったり、犬に吠えられたりして、いっつも私が助けてたの」
その無邪気な笑顔に、隼人もたまらずつられて笑ってしまう。
「それじゃ、全然守れてないじゃん」
「でしょ?」

