優しげな目元。微笑んだ時の小さな口元。髪型も着物もまったく違う。それなのに、その女性は美香と驚くほどよく似ていた。
昨夜の夢が、まだ覚めていないのかと思った。
「……美香」
気づけば、その名前が口からこぼれ落ちていた。女性は、その声に驚いたようにピタリと足を止める。
「え……?」
その時だった。
「新九郎!」
佐吉の鋭い声が、耳元で弾けた。
「何をしておる!頭を下げんか!」
隼人はハッと我に返る。
「あ……」
慌てて、周囲の大工たちと同じように深く頭を下げる。
佐吉も土下座に近いほど深く頭を下げたまま、震える声で口を開いた。
「千代姫様、誠に申し訳ございません。実は息子は、事故により記憶を失ってしまいました」
千代姫と呼ばれた女性は、思わず息を呑んだ。
「記憶を……?」
「はい。村の者の顔も、これまでの出来事も、何一つ思い出せぬのでございます。そのため、このような無礼を働いてしまいました。どうか、どうかお許しください」
千代姫は、頭を下げる隼人を見つめたまま、小さく首を横へ振った。
「謝る必要はありません」
その声には、平民の無礼を責める色など微塵もなかった。
あるのは、ただ純粋な心配だけだった。
「佐吉」
「はい」
「お医者様には診ていただいたのですか」
佐吉は静かに首を横へ振る。
「……いえ、まだ診ていただいておりません」
その答えを聞くと、千代姫はすぐに後ろを控えていた侍女へ振り返った。
「志乃」
「はい、姫様」
「すぐに城下の玄庵(げんあん)先生のもとへ使いを出してください。新九郎を診ていただけるよう、私からお願いしているとお伝えください」
「かしこまりました」
侍女のお松が深く一礼すると、小走りで廊下の奥へ消えていった。
隼人は、その様子を呆然と見つめていた。初めて会ったはずの自分を、ここまで真剣に気遣ってくれる。
いや――違う。この千代姫にとって自分は、初めて会う相手ではない。『新九郎』なのだ。だからこそ、その美しい瞳には、隠しきれない安堵と深い心配が浮かんでいた。
佐吉は慌てて両手をつき、額が床に擦りつくほど深く頭を下げる。
「姫様、そのようなお気遣いはなさらないでくださいませ!大工の倅一人のために、殿のお抱えの医師をお呼びするなど、とても受けられる恩ではございません」
隼人も思わず佐吉を見た。この時代では、それほどまでに身分の差が大きいのだと改めて痛感する。
だが、千代姫は穏やかな笑みを崩さなかった。
「佐吉。新九郎は、私にとっても大切な村の者です。困っている人を見過ごすことはできません」
その時だった。
「姫様」
低く、よく通る声が廊下に響いた。
一人の武士が、音もなく静かに歩み出た。
隼人は思わず視線を向ける。鍛え上げられた分厚い体躯に、隙の全くない立ち姿。鋭い眼光は一瞬だけ刃のように隼人を射抜くと、すぐに千代姫へ向けられた。
千代姫の護衛――伊兵衛である。
伊兵衛は深く一礼すると、感情を交えない落ち着いた口調で言った。
「恐れながら、姫様。それはいけません。玄庵先生は、殿・一条義貴様のお抱えの医師にございます。一介の大工の倅のためにお呼び立てすることは、前例がございません」
佐吉も再び頭を下げる。
「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます。姫様、お気持ちだけで十分でございます」
しかし、千代姫は二人を見渡し、静かに、しかしきっぱりと首を横へ振った。
「前例がないのであれば、私が最初になればよいだけです」
「ですが……」
伊兵衛が言葉を続けようとした瞬間、千代姫は優しく微笑んだ。
「伊兵衛。私は新九郎が苦しんでいる姿を見過ごしたくありません。もし記憶を取り戻すきっかけになるのであれば、玄庵先生に診ていただく価値は十分にあります」
伊兵衛は口を閉ざした。
だが、隼人から視線を外そうとはしなかった。
何かを確かめようとしている。
(……この人は、俺を疑っている)
隼人は気づかぬふりをして、目を伏せた。
その時だった。
「――何を騒いでいる」
廊下の奥から、静かで、しかし重低音のように響く声が落ちた。
その一言だけで、その場の空気が一瞬で氷点下まで張り詰める。佐吉はサッと顔色を変え、慌てて平伏した。
「殿!」
伊兵衛もその場に膝をつき、深く頭を下げる。
「お騒がせてしてしまい、申し訳ございません」
隼人だけが状況を理解できず、一人立ち尽くしていた。佐吉が小声で、悲鳴のように言う。
「新九郎、頭を下げろ!」
隼人は慌てて膝をつき、深く頭を下げた。
ゆっくりと、威厳に満ちた足音が近づく。隼人の前で止まったその人物こそ、この藩を治める当主――一条義貴だった。年の頃は五十前後。着物に派手さはない。しかし、その静かな佇まいだけで、周囲のすべてを支配する絶対的な威厳が漂っていた。
「千代、どうした」
義貴は、父親としての穏やかな口調で娘に尋ねる。
千代姫は一歩前へ出ると、深く頭を下げた。
「新九郎が記憶を失っております。玄庵先生に診ていただきたく、お呼びしようとしておりました」
義貴は、平伏する隼人へ静かに視線を向けた。
その眼差しは穏やかなままだった。怒っているのか、哀れんでいるのか、何を考えているのか、表情からはまったく読み取れない。
「そうか」
短く頷くと、義貴は佐吉へ目を向けた。
「記憶を失ったというのは、まことか」
「はい」
佐吉は頭を下げたまま、震える声で答える。
「村の者も皆、以前の新九郎とはまるで別人のようだと申しております」
義貴は静かにうなずいた。
「玄庵に診せよ」
伊兵衛が顔を上げた。
「殿。お抱えの医師を大工の倅に……」
「医師の務めに、身分の上下はあるまい」
伊兵衛は言葉を飲み込み、頭を下げた。
「……承知いたしました」
千代姫はほっとしたように微笑み、義貴へ頭を下げる。
「ありがとうございます、お父様」
義貴は娘へ優しく頷くと、再び隼人へ視線を向けた。
その眼差しは、相変わらず穏やかだった。だが隼人は、ほんの一瞬だけ、背筋を這い上がるような薄ら寒いものを感じ、胸の奥がざわつくのを感じた。
義貴は隼人から静かに視線を外すと、佐吉へ向き直った。
「佐吉、玄庵が来るまで、新九郎は城に留め置け」
義貴は、低いがよく通る声で佐吉に命じた。
「無理に記憶を戻そうとはするな。まずは、この若者の身体を休ませよ」
「ははっ」
佐吉は額を床に擦り付け、深く頭を下げた。
義貴はそれだけ告げると、表情を変えることなく踵を返そうとする。
その背後から、千代姫が小さく声をかけた。
「お父様」
義貴は足を止め、静かに振り返る。
「どうした」
千代姫は一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。それと……玄庵先生がお見えになるまで、私、新九郎と二人きりで話がしたいのです」
その言葉に、平伏していた佐吉が弾かれたように顔を上げた。
「姫様!それは……」
佐吉が言い終える前に、伊兵衛が一歩前へ出る。
「殿。お許しなされませ」
伊兵衛の鋭い声が、冷たい刃のように廊下に響いた。
「いかに幼い頃からの顔見知りとはいえ、姫様と平民の男を密室で二人きりにするなど、護衛として絶対に見過ごすわけにはまいりません」
佐吉も、青ざめた顔で再び頭を下げる。
「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます。姫様、そのようなお気遣いをいただくだけで、新九郎には身に余る光栄にございます」
しかし、千代姫は引かなかった。
「新九郎は、何も思い出せないと言っていました」
真っ直ぐな、射抜くような瞳で父を見つめる。
「幼い頃から一緒に遊んだ私と話せば、何か思い出すきっかけになるかもしれない。……お願いです、お父様」
義貴はしばらく、何も言わずに娘を見つめ返していた。やがて、小さく、ゆっくりと頷く。
「……よかろう」
伊兵衛が、信じられないというように顔を上げる。
「殿!」
義貴は伊兵衛を制するように、静かに続けた。
「部屋の外には、伊兵衛、お前と佐吉が控えよ。襖一つ隔てた場所であれば、何かあればすぐに駆けつけられるはずだ」
昨夜の夢が、まだ覚めていないのかと思った。
「……美香」
気づけば、その名前が口からこぼれ落ちていた。女性は、その声に驚いたようにピタリと足を止める。
「え……?」
その時だった。
「新九郎!」
佐吉の鋭い声が、耳元で弾けた。
「何をしておる!頭を下げんか!」
隼人はハッと我に返る。
「あ……」
慌てて、周囲の大工たちと同じように深く頭を下げる。
佐吉も土下座に近いほど深く頭を下げたまま、震える声で口を開いた。
「千代姫様、誠に申し訳ございません。実は息子は、事故により記憶を失ってしまいました」
千代姫と呼ばれた女性は、思わず息を呑んだ。
「記憶を……?」
「はい。村の者の顔も、これまでの出来事も、何一つ思い出せぬのでございます。そのため、このような無礼を働いてしまいました。どうか、どうかお許しください」
千代姫は、頭を下げる隼人を見つめたまま、小さく首を横へ振った。
「謝る必要はありません」
その声には、平民の無礼を責める色など微塵もなかった。
あるのは、ただ純粋な心配だけだった。
「佐吉」
「はい」
「お医者様には診ていただいたのですか」
佐吉は静かに首を横へ振る。
「……いえ、まだ診ていただいておりません」
その答えを聞くと、千代姫はすぐに後ろを控えていた侍女へ振り返った。
「志乃」
「はい、姫様」
「すぐに城下の玄庵(げんあん)先生のもとへ使いを出してください。新九郎を診ていただけるよう、私からお願いしているとお伝えください」
「かしこまりました」
侍女のお松が深く一礼すると、小走りで廊下の奥へ消えていった。
隼人は、その様子を呆然と見つめていた。初めて会ったはずの自分を、ここまで真剣に気遣ってくれる。
いや――違う。この千代姫にとって自分は、初めて会う相手ではない。『新九郎』なのだ。だからこそ、その美しい瞳には、隠しきれない安堵と深い心配が浮かんでいた。
佐吉は慌てて両手をつき、額が床に擦りつくほど深く頭を下げる。
「姫様、そのようなお気遣いはなさらないでくださいませ!大工の倅一人のために、殿のお抱えの医師をお呼びするなど、とても受けられる恩ではございません」
隼人も思わず佐吉を見た。この時代では、それほどまでに身分の差が大きいのだと改めて痛感する。
だが、千代姫は穏やかな笑みを崩さなかった。
「佐吉。新九郎は、私にとっても大切な村の者です。困っている人を見過ごすことはできません」
その時だった。
「姫様」
低く、よく通る声が廊下に響いた。
一人の武士が、音もなく静かに歩み出た。
隼人は思わず視線を向ける。鍛え上げられた分厚い体躯に、隙の全くない立ち姿。鋭い眼光は一瞬だけ刃のように隼人を射抜くと、すぐに千代姫へ向けられた。
千代姫の護衛――伊兵衛である。
伊兵衛は深く一礼すると、感情を交えない落ち着いた口調で言った。
「恐れながら、姫様。それはいけません。玄庵先生は、殿・一条義貴様のお抱えの医師にございます。一介の大工の倅のためにお呼び立てすることは、前例がございません」
佐吉も再び頭を下げる。
「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます。姫様、お気持ちだけで十分でございます」
しかし、千代姫は二人を見渡し、静かに、しかしきっぱりと首を横へ振った。
「前例がないのであれば、私が最初になればよいだけです」
「ですが……」
伊兵衛が言葉を続けようとした瞬間、千代姫は優しく微笑んだ。
「伊兵衛。私は新九郎が苦しんでいる姿を見過ごしたくありません。もし記憶を取り戻すきっかけになるのであれば、玄庵先生に診ていただく価値は十分にあります」
伊兵衛は口を閉ざした。
だが、隼人から視線を外そうとはしなかった。
何かを確かめようとしている。
(……この人は、俺を疑っている)
隼人は気づかぬふりをして、目を伏せた。
その時だった。
「――何を騒いでいる」
廊下の奥から、静かで、しかし重低音のように響く声が落ちた。
その一言だけで、その場の空気が一瞬で氷点下まで張り詰める。佐吉はサッと顔色を変え、慌てて平伏した。
「殿!」
伊兵衛もその場に膝をつき、深く頭を下げる。
「お騒がせてしてしまい、申し訳ございません」
隼人だけが状況を理解できず、一人立ち尽くしていた。佐吉が小声で、悲鳴のように言う。
「新九郎、頭を下げろ!」
隼人は慌てて膝をつき、深く頭を下げた。
ゆっくりと、威厳に満ちた足音が近づく。隼人の前で止まったその人物こそ、この藩を治める当主――一条義貴だった。年の頃は五十前後。着物に派手さはない。しかし、その静かな佇まいだけで、周囲のすべてを支配する絶対的な威厳が漂っていた。
「千代、どうした」
義貴は、父親としての穏やかな口調で娘に尋ねる。
千代姫は一歩前へ出ると、深く頭を下げた。
「新九郎が記憶を失っております。玄庵先生に診ていただきたく、お呼びしようとしておりました」
義貴は、平伏する隼人へ静かに視線を向けた。
その眼差しは穏やかなままだった。怒っているのか、哀れんでいるのか、何を考えているのか、表情からはまったく読み取れない。
「そうか」
短く頷くと、義貴は佐吉へ目を向けた。
「記憶を失ったというのは、まことか」
「はい」
佐吉は頭を下げたまま、震える声で答える。
「村の者も皆、以前の新九郎とはまるで別人のようだと申しております」
義貴は静かにうなずいた。
「玄庵に診せよ」
伊兵衛が顔を上げた。
「殿。お抱えの医師を大工の倅に……」
「医師の務めに、身分の上下はあるまい」
伊兵衛は言葉を飲み込み、頭を下げた。
「……承知いたしました」
千代姫はほっとしたように微笑み、義貴へ頭を下げる。
「ありがとうございます、お父様」
義貴は娘へ優しく頷くと、再び隼人へ視線を向けた。
その眼差しは、相変わらず穏やかだった。だが隼人は、ほんの一瞬だけ、背筋を這い上がるような薄ら寒いものを感じ、胸の奥がざわつくのを感じた。
義貴は隼人から静かに視線を外すと、佐吉へ向き直った。
「佐吉、玄庵が来るまで、新九郎は城に留め置け」
義貴は、低いがよく通る声で佐吉に命じた。
「無理に記憶を戻そうとはするな。まずは、この若者の身体を休ませよ」
「ははっ」
佐吉は額を床に擦り付け、深く頭を下げた。
義貴はそれだけ告げると、表情を変えることなく踵を返そうとする。
その背後から、千代姫が小さく声をかけた。
「お父様」
義貴は足を止め、静かに振り返る。
「どうした」
千代姫は一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。それと……玄庵先生がお見えになるまで、私、新九郎と二人きりで話がしたいのです」
その言葉に、平伏していた佐吉が弾かれたように顔を上げた。
「姫様!それは……」
佐吉が言い終える前に、伊兵衛が一歩前へ出る。
「殿。お許しなされませ」
伊兵衛の鋭い声が、冷たい刃のように廊下に響いた。
「いかに幼い頃からの顔見知りとはいえ、姫様と平民の男を密室で二人きりにするなど、護衛として絶対に見過ごすわけにはまいりません」
佐吉も、青ざめた顔で再び頭を下げる。
「伊兵衛殿のおっしゃるとおりにございます。姫様、そのようなお気遣いをいただくだけで、新九郎には身に余る光栄にございます」
しかし、千代姫は引かなかった。
「新九郎は、何も思い出せないと言っていました」
真っ直ぐな、射抜くような瞳で父を見つめる。
「幼い頃から一緒に遊んだ私と話せば、何か思い出すきっかけになるかもしれない。……お願いです、お父様」
義貴はしばらく、何も言わずに娘を見つめ返していた。やがて、小さく、ゆっくりと頷く。
「……よかろう」
伊兵衛が、信じられないというように顔を上げる。
「殿!」
義貴は伊兵衛を制するように、静かに続けた。
「部屋の外には、伊兵衛、お前と佐吉が控えよ。襖一つ隔てた場所であれば、何かあればすぐに駆けつけられるはずだ」

