障子を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬をなでた。
庭には朝露が光り、草花が静かに揺れている。昨日より早い朝だからだろう、村はまだ静かで、名も知らぬ鳥のさえずりだけが高く響いていた。囲炉裏の間では、佐吉が手際よく鉄鍋を火にかけている。
「起きたか」
「はい」
「顔を洗ってこい。飯にする」
隼人は庭へ出ると、釣瓶で井戸から桶を引き上げた。
身を切るように冷たい水で顔を洗う。眠気と、過去への未練が一気に吹き飛んだ。
ふと、桶の水面に映る自分の顔を見る。そこに映っているのは、間違いなく『辻本隼人』の顔だった。
それなのに、この世界では皆が自分を『新九郎』と呼ぶ。
「……まだ、信じられないな」
小さくつぶやき、桶を元へ戻した。
家へ戻ると、佐吉がすでに朝飯を並べていた。湯気の立つ味噌汁、麦の混ざった炊きたての飯、焼き魚に香の物。豪華ではないが、不思議と心が落ち着く温かい朝食だった。
「座れ」
「はい。……いただきます」
二人は静かに箸を取る。しばらくは食器の触れ合う音だけが、囲炉裏の間に響いていた。やがて、佐吉が口を開く。
「今日は天気もいい。城仕事にはちょうどいい日だ」
隼人はうなずいた。
「城までは、ここから遠いんですか」
「歩いて一刻(約二時間)ほどだ。昔は、お前も毎日のようについて来ておったがな」
佐吉はそこで、ふと思い出したように眉を寄せた。
「……もっとも、ここしばらくは、なぜか城へ行きたがらなくなっておったが」
「城へ?」
「ああ。理由を聞いても、何も言わんかった」
隼人は返す言葉が見つからず、ただ小さくうなずいた。
佐吉はそれ以上、昔の話をすることはなかった。
食事を終えると、佐吉は立ち上がり、大きな木製の道具箱を肩に担いだ。中には、手入れの行き届いた鑿や鉋が整然と収められていた。
「行くぞ」
「はい」
隼人は草履を履き、佐吉の広く分厚い背中に続いて家を出た。
朝日に照らされた村は、少しずつ活気を帯び始めていた。畑へ向かう男たち、薪を背負う老人、井戸端で話す女たち。村人たちは隼人の姿を見ると、安堵したような、しかし少し不思議そうな笑顔を向けた。
「新九郎、具合はもういいのか」
「無理はするなよ。親父さんに迷惑かけんなよ」
隼人はそのたびに、作り笑いを浮かべて頭を下げる。
「ありがとうございます」
誰の名前も分からない。昨日のお春のように、皆が自分を『かつての新九郎』だと思って温かい言葉を掛けてくれる。
その温もりが、偽物である隼人の胸を少しずつ締め付けた。
佐吉は振り返ることなく、黙々と歩き続ける。その先には、この世界で初めて訪れる『城』が待っていた。
村を抜けると、道はなだらかな坂を上り始めた。朝日を浴びた木々が風に揺れ、鳥たちが枝から枝へ飛び移っていく。
佐吉は熟練の職人らしく、一定の歩幅を全く崩さない。背中に背負った道具箱が、歩調に合わせてカチャ、カチャと心地よい音を立てる。隼人も黙ってその後を追った。
長い坂を上り切ったところで、隼人は足を止めた。
朝日を受けた巨大な石垣が山肌に連なり、その上に白い城壁が浮かび上がっている。幾重もの瓦屋根。そのさらに奥には、天を突くような天守がそびえていた。
「……すごい」
隼人はしばらく、その場から動けなかった。
「驚いたか」
佐吉が振り返り、少しだけ誇らしげに笑った。
「……はい。こんなに巨大だとは思いませんでした」
「わしも、親父に連れられて初めて見た時は、口を開けたままじゃった」
佐吉は懐かしそうに目を細め、そして少しだけ寂しそうに付け加えた。
「だが、お前は子どもの頃から見慣れておる景色のはずだがな」
隼人は苦笑いするしかなかった。
「そう……なんですね」
二人は再び歩き始める。
城へ近づくにつれ、道を行く人の姿も少しずつ増えていった。荷を運ぶ農民や商人、槍を肩に担いで巡回する足軽たちが、せわしなく二人の横を通り過ぎていく。
「佐吉さん!」
前から威勢のいい声が飛んだ。
太い材木を肩に担いだ男が、満面の笑みで大きく手を振っている。
「今日は新九郎も一緒か!」
「ああ」
佐吉は短く、無骨に答えた。
男は隼人へ人懐っこい笑顔を向ける。
「新九郎、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「はい」
隼人は軽く頭を下げた。
男は隼人の肩をぽんと叩いた。
「早く一人前の大工になって、親父さんを楽させてやれよ! 佐吉さんも、いつまでも若くねぇんだからな!」
「余計なお世話だ」
佐吉はぶっきらぼうに返したが、男は気にした様子もなく笑った。
隼人も曖昧に笑いながら、もう一度頭を下げた。
「……頑張ります」
男は手を振り、そのまま仲間たちと歩き去っていった。
隼人はその背中を見送りながら、佐吉に言った。
「みんな、父さんを慕ってるんですね」
佐吉は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「長く同じ仕事をしておれば、嫌でも顔見知りが増える。それだけの話だ」
やがて二人は、城下町の入り口である巨大な木戸へたどり着いた。
鋭い眼光の門番の武士が、行き交う人々を厳しく見つめている。腰には立派な刀。周囲には、張り詰めたような凛とした空気が漂っていた。
隼人は思わず背筋を伸ばした。
ここから先が、この国の中心。新九郎が育ち、自分がこれから足を踏み入れる、新たな世界だ。
門番は佐吉の顔を見るなり、少しだけ表情を緩めてうなずいた。
「朝早くからご苦労。今日も頼むぞ」
「承知しております」
佐吉は軽く頭を下げ、そのまま堂々と門をくぐる。
隼人も緊張しながら、その後に続いた。門を越えた瞬間、空気が一変した。村とは比べものにならないほどの人の波が、隼人の目の前に広がっていた。
店先には野菜や魚が所狭しと並び、焼きたての団子の香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
反物を広げて声を張り上げる商人。荷車を押して走り回る若者。色鮮やかな着物姿の女たち。その間を、鎧姿の武士たちが足早に通り抜けていく。
あちこちから威勢のいい声が飛び交い、町全体が生き物のように動いていた。
隼人は思わず辺りを見回した。
「……すごい」
時代劇のテーマパークではない。本当に、この時代の人々がここで泣き、笑い、生活している。目に映る何もかもが、隼人にはむせ返るほど新鮮で、生々しかった。佐吉は、落ち着きなく辺りを見回す隼人の様子を見て、小さく笑った。
「何も思い出せんでも、不思議なもんじゃろ」
「はい。見たことがない景色ばかりです」
思わず本音が漏れた。佐吉は、記憶を失っているせいで新鮮に見えるのだと思ったのか、それ以上は深く聞かなかった。
二人は城下町の賑やかな大通りを歩いていく。やがて商人の姿が減り、代わって威儀を正した武士の姿が目立ち始めた。
立派な白壁の武家屋敷が立ち並び、道もチリ一つなくきれいに整えられている。城の威容が、いよいよ目の前に迫っていた。
さらに進むと、巨大な石垣が目の前に迫った。その高さに、隼人は思わず首を痛めるほど見上げる。
「高い……」
石一つ一つが人の背丈ほどもあり、何百、何千という巨石が隙間なく積み上げられている。現代の重機もない時代に、どうやってこれほどの物を造り上げたのか、想像もつかない。
佐吉は石垣の脇にある、なだらかな坂道へ足を向けた。
「わしらは裏手から入る。表は殿様や家臣方が通る道じゃ」
坂を上ると、城内へ続く裏の木戸が見えてきた。そこでは、数人の大工たちが集まって談笑していた。
「あっ、佐吉さん!」
一人の男が手を振る。
「待ってましたよ。……おっ今日は久しぶりに、新九郎も一緒ですか」
「ああ」
佐吉は静かに答えた。
「少し様子を見させる」
男は隼人を見て、安堵したように人の良さそうな笑みを浮かべる。
「元気そうでよかった。無理はするなよ」
隼人は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その時だった。城の奥の渡り廊下から、どこか慌ただしい、衣擦れの音が近づいてきた。
廊下の向こうで、足早に歩いていた侍女たちが一斉に立ち止まり、深く頭を下げる。大工たちもピタリと作業や談笑の手を止め、自然と姿勢を正して道を開けた。
隼人は何が起きたのか分からず、その方向へ視線を向ける。廊下の奥から、一人の若い女性が静かに姿を現そうとしていた。
白を基調とした、目を見張るほど上品な絹の着物。風に揺れる艶やかな黒髪。凛とした美しい立ち姿の中に、どこか春の日差しのような柔らかな優しさを感じさせる。
隼人は息を呑んだ。
(……美香?)
庭には朝露が光り、草花が静かに揺れている。昨日より早い朝だからだろう、村はまだ静かで、名も知らぬ鳥のさえずりだけが高く響いていた。囲炉裏の間では、佐吉が手際よく鉄鍋を火にかけている。
「起きたか」
「はい」
「顔を洗ってこい。飯にする」
隼人は庭へ出ると、釣瓶で井戸から桶を引き上げた。
身を切るように冷たい水で顔を洗う。眠気と、過去への未練が一気に吹き飛んだ。
ふと、桶の水面に映る自分の顔を見る。そこに映っているのは、間違いなく『辻本隼人』の顔だった。
それなのに、この世界では皆が自分を『新九郎』と呼ぶ。
「……まだ、信じられないな」
小さくつぶやき、桶を元へ戻した。
家へ戻ると、佐吉がすでに朝飯を並べていた。湯気の立つ味噌汁、麦の混ざった炊きたての飯、焼き魚に香の物。豪華ではないが、不思議と心が落ち着く温かい朝食だった。
「座れ」
「はい。……いただきます」
二人は静かに箸を取る。しばらくは食器の触れ合う音だけが、囲炉裏の間に響いていた。やがて、佐吉が口を開く。
「今日は天気もいい。城仕事にはちょうどいい日だ」
隼人はうなずいた。
「城までは、ここから遠いんですか」
「歩いて一刻(約二時間)ほどだ。昔は、お前も毎日のようについて来ておったがな」
佐吉はそこで、ふと思い出したように眉を寄せた。
「……もっとも、ここしばらくは、なぜか城へ行きたがらなくなっておったが」
「城へ?」
「ああ。理由を聞いても、何も言わんかった」
隼人は返す言葉が見つからず、ただ小さくうなずいた。
佐吉はそれ以上、昔の話をすることはなかった。
食事を終えると、佐吉は立ち上がり、大きな木製の道具箱を肩に担いだ。中には、手入れの行き届いた鑿や鉋が整然と収められていた。
「行くぞ」
「はい」
隼人は草履を履き、佐吉の広く分厚い背中に続いて家を出た。
朝日に照らされた村は、少しずつ活気を帯び始めていた。畑へ向かう男たち、薪を背負う老人、井戸端で話す女たち。村人たちは隼人の姿を見ると、安堵したような、しかし少し不思議そうな笑顔を向けた。
「新九郎、具合はもういいのか」
「無理はするなよ。親父さんに迷惑かけんなよ」
隼人はそのたびに、作り笑いを浮かべて頭を下げる。
「ありがとうございます」
誰の名前も分からない。昨日のお春のように、皆が自分を『かつての新九郎』だと思って温かい言葉を掛けてくれる。
その温もりが、偽物である隼人の胸を少しずつ締め付けた。
佐吉は振り返ることなく、黙々と歩き続ける。その先には、この世界で初めて訪れる『城』が待っていた。
村を抜けると、道はなだらかな坂を上り始めた。朝日を浴びた木々が風に揺れ、鳥たちが枝から枝へ飛び移っていく。
佐吉は熟練の職人らしく、一定の歩幅を全く崩さない。背中に背負った道具箱が、歩調に合わせてカチャ、カチャと心地よい音を立てる。隼人も黙ってその後を追った。
長い坂を上り切ったところで、隼人は足を止めた。
朝日を受けた巨大な石垣が山肌に連なり、その上に白い城壁が浮かび上がっている。幾重もの瓦屋根。そのさらに奥には、天を突くような天守がそびえていた。
「……すごい」
隼人はしばらく、その場から動けなかった。
「驚いたか」
佐吉が振り返り、少しだけ誇らしげに笑った。
「……はい。こんなに巨大だとは思いませんでした」
「わしも、親父に連れられて初めて見た時は、口を開けたままじゃった」
佐吉は懐かしそうに目を細め、そして少しだけ寂しそうに付け加えた。
「だが、お前は子どもの頃から見慣れておる景色のはずだがな」
隼人は苦笑いするしかなかった。
「そう……なんですね」
二人は再び歩き始める。
城へ近づくにつれ、道を行く人の姿も少しずつ増えていった。荷を運ぶ農民や商人、槍を肩に担いで巡回する足軽たちが、せわしなく二人の横を通り過ぎていく。
「佐吉さん!」
前から威勢のいい声が飛んだ。
太い材木を肩に担いだ男が、満面の笑みで大きく手を振っている。
「今日は新九郎も一緒か!」
「ああ」
佐吉は短く、無骨に答えた。
男は隼人へ人懐っこい笑顔を向ける。
「新九郎、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「はい」
隼人は軽く頭を下げた。
男は隼人の肩をぽんと叩いた。
「早く一人前の大工になって、親父さんを楽させてやれよ! 佐吉さんも、いつまでも若くねぇんだからな!」
「余計なお世話だ」
佐吉はぶっきらぼうに返したが、男は気にした様子もなく笑った。
隼人も曖昧に笑いながら、もう一度頭を下げた。
「……頑張ります」
男は手を振り、そのまま仲間たちと歩き去っていった。
隼人はその背中を見送りながら、佐吉に言った。
「みんな、父さんを慕ってるんですね」
佐吉は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「長く同じ仕事をしておれば、嫌でも顔見知りが増える。それだけの話だ」
やがて二人は、城下町の入り口である巨大な木戸へたどり着いた。
鋭い眼光の門番の武士が、行き交う人々を厳しく見つめている。腰には立派な刀。周囲には、張り詰めたような凛とした空気が漂っていた。
隼人は思わず背筋を伸ばした。
ここから先が、この国の中心。新九郎が育ち、自分がこれから足を踏み入れる、新たな世界だ。
門番は佐吉の顔を見るなり、少しだけ表情を緩めてうなずいた。
「朝早くからご苦労。今日も頼むぞ」
「承知しております」
佐吉は軽く頭を下げ、そのまま堂々と門をくぐる。
隼人も緊張しながら、その後に続いた。門を越えた瞬間、空気が一変した。村とは比べものにならないほどの人の波が、隼人の目の前に広がっていた。
店先には野菜や魚が所狭しと並び、焼きたての団子の香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
反物を広げて声を張り上げる商人。荷車を押して走り回る若者。色鮮やかな着物姿の女たち。その間を、鎧姿の武士たちが足早に通り抜けていく。
あちこちから威勢のいい声が飛び交い、町全体が生き物のように動いていた。
隼人は思わず辺りを見回した。
「……すごい」
時代劇のテーマパークではない。本当に、この時代の人々がここで泣き、笑い、生活している。目に映る何もかもが、隼人にはむせ返るほど新鮮で、生々しかった。佐吉は、落ち着きなく辺りを見回す隼人の様子を見て、小さく笑った。
「何も思い出せんでも、不思議なもんじゃろ」
「はい。見たことがない景色ばかりです」
思わず本音が漏れた。佐吉は、記憶を失っているせいで新鮮に見えるのだと思ったのか、それ以上は深く聞かなかった。
二人は城下町の賑やかな大通りを歩いていく。やがて商人の姿が減り、代わって威儀を正した武士の姿が目立ち始めた。
立派な白壁の武家屋敷が立ち並び、道もチリ一つなくきれいに整えられている。城の威容が、いよいよ目の前に迫っていた。
さらに進むと、巨大な石垣が目の前に迫った。その高さに、隼人は思わず首を痛めるほど見上げる。
「高い……」
石一つ一つが人の背丈ほどもあり、何百、何千という巨石が隙間なく積み上げられている。現代の重機もない時代に、どうやってこれほどの物を造り上げたのか、想像もつかない。
佐吉は石垣の脇にある、なだらかな坂道へ足を向けた。
「わしらは裏手から入る。表は殿様や家臣方が通る道じゃ」
坂を上ると、城内へ続く裏の木戸が見えてきた。そこでは、数人の大工たちが集まって談笑していた。
「あっ、佐吉さん!」
一人の男が手を振る。
「待ってましたよ。……おっ今日は久しぶりに、新九郎も一緒ですか」
「ああ」
佐吉は静かに答えた。
「少し様子を見させる」
男は隼人を見て、安堵したように人の良さそうな笑みを浮かべる。
「元気そうでよかった。無理はするなよ」
隼人は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その時だった。城の奥の渡り廊下から、どこか慌ただしい、衣擦れの音が近づいてきた。
廊下の向こうで、足早に歩いていた侍女たちが一斉に立ち止まり、深く頭を下げる。大工たちもピタリと作業や談笑の手を止め、自然と姿勢を正して道を開けた。
隼人は何が起きたのか分からず、その方向へ視線を向ける。廊下の奥から、一人の若い女性が静かに姿を現そうとしていた。
白を基調とした、目を見張るほど上品な絹の着物。風に揺れる艶やかな黒髪。凛とした美しい立ち姿の中に、どこか春の日差しのような柔らかな優しさを感じさせる。
隼人は息を呑んだ。
(……美香?)

