千の蕾

 顔を拭い、ふと夜空を見上げる。隼人は息を呑んだ。そこには、現代の東京では絶対に見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの満天の星が広がっていた。

「……明日は、城か」

  静かにつぶやく。期待よりも、不安の方がずっと大きい。それでも、この世界で生きていく以上、一歩ずつ前へ進むしかない。

 隼人は部屋へ戻ると、敷かれた布団へ横になった。秋虫の音だけが、静寂の夜に響いている。

 目を閉じると、真っ暗な視界の裏側に、昨日別れたばかりの美香の、無理に作った笑顔がふと浮かんだ。

「……元気にしてるかな」

 誰に届くわけでもない言葉を小さくつぶやく。隼人はそのまま静かに意識を手放し、この世界で迎える最初の夜の闇に身を委ねた。

*

 その夜、隼人は夢を見た。

 むせ返るような緑の匂いと蝉時雨。大学時代の友人たちと訪れた、夏の川辺のキャンプ場だった。

 川原では、数人の友人が膝まで水に浸かり、しぶきを上げながら騒いでいる。
「隼人も来いよ!」
 遠くから手を振る声に、隼人は片手を上げて答えた。
「あとで行く」

 隼人は川辺から少し離れた木陰の岩場に腰を下ろし、手元へ視線を落としていた。小さな木片に、小刀で細かな細工を施している。

「またやってる」
 背後から足音がして、隼人が振り返る。美香が、呆れたような、けれど嬉しそうな笑顔で立っていた。

「みんな川で遊んでるよ」
「分かってる」
「せっかくキャンプに来たのに」
「これがキリのいいところまで終わったら行くよ」
「さっきも同じこと言ってた」

 美香は呆れ顔のまま、隼人の隣に身を寄せるようにして腰を下ろした。ほのかに甘いシャンプーの香りがした。

「そんなに楽しい?」
「ああ」
「ふうん」

 美香は興味深そうに、隼人の手元を覗き込んできた。
「何を作ってるの?」
 隼人はハッとして、手の中の木彫りを隠すようにギュッと握り込んだ。

「まだ秘密だ」
「えー、なんで?」
「不格好で、失敗するかもしれないから」
「失敗しても笑わないよ」
「美香は絶対笑うだろ」
「笑わないってば」

 戯れ合う二人の声に、涼やかな川の音が重なる。

 やがて、友人の一人が遠くから叫んだ。
「飯の準備するぞー!」
 美香は立ち上がり、ポンとズボンの砂を払う。
「ほら、行こう」
「先に行っててくれ」
「またそれ」

 美香は小さく笑い、みんなのところへ小走りで戻っていった。

 隼人はその後ろ姿を見送ったあと、そっと手のひらを開き、彫りかけの小さな木片を見つめた。

 夢の中の隼人は、それが何になるのかを知っていたはずなのに、今の隼人には、どうしてもその形がぼやけて見えなかった。

 隼人はしばらく木片を見つめたあと、そっとポケットへしまった。

 夜。キャンプ場の中央に、大きな火が焚かれた。

 炎を囲み、友人たちは肉を頬張り、酒を飲み、くだらない昔話で盛り上がった。
 誰かが失敗談を話すたび、大きな笑い声が夜の森へ吸い込まれていく。やがて、火の勢いが少し落ち着いた頃、一人が大きくあくびをした。

「そろそろ戻るか。明日も早いしな」
 友人たちは次々と立ち上がり、ランタンを持って宿泊棟へ戻っていく。
「隼人たちも早く来いよ」
「ああ」
 最後の一人が手を振り、暗い道の向こうへ消える。

 残ったのは、燃え残った薪の爆ぜる音と、隼人、そして美香の二人だけになった。
火の粉が、夜空へ舞い上がっては消えていく。

 さっきまでの喧騒が嘘のように、急に静かな時間が訪れた。隼人は足元の薪を拾い、一本、炎の中へ投げ入れた。
「急に静かになったな」
「うん」

 美香は、揺らめく炎をじっと見つめていた。いつもの明るい表情ではない。何かを迷っているように、両手を膝の上で固く組んでいる。

「どうした?」

 隼人が尋ねると、美香は小さく、けれど決意を秘めたように息を吸い込んだ。

「隼人ってさ」
「うん」
「……好きな人、いる?」

 突然の質問だった。隼人は戸惑い、美香の横顔を見る。

「どうしたんだよ、急に」
「いいから」

 美香は顔を上げず、炎を見つめたまま言った。
「いるの?」
「……いないけど」

(本当はいる。目の前にいるお前だ。だが、そんなこと素直に言えるはずがなかった)

「本当に?」
「ああ」

 美香は少しだけ笑った。けれど、組まれた手は白くなるほど強く握りしめられていた。

「じゃあ……」

 言葉が震え、ぴたりと止まる。

 炎がぱちり、と高く音を立てた。隼人は何も言わず、彼女の次の言葉を待った。やがて、美香はゆっくりと顔を上げた。

「私じゃ、だめ?」

 隼人は息を呑んだ。

 美香の頬は、炎の照り返しのせいだけではなく、林檎のように赤く染まっていた。

「私、隼人のことが好き」

 風が吹き、炎が大きく揺れる。

「ずっと前から、好きだった」
 美香は真っ直ぐに、逃げずに隼人の目を見つめていた。
「だから……私と付き合ってほしい」
 隼人は、しばらく何も言えなかった。胸の奥が、炎よりも熱く燃え上がっていくのが分かった。

 やがて、抑えきれない喜びを誤魔化すように頭を掻き、照れくさそうに小さく笑った。

「……さっきの、嘘ついてごめん」
「え?」
「実は俺も、本当はずっと美香のことが好きだったんだ」
 美香の目が、驚いたように大きく開かれる。
「本当?」
「ああ」
 美香はまだ信じきれないように隼人を見つめ、それから少しだけ目を細めた。
「……それ、他の子にも言ってるんじゃないの?」
 いたずらっぽく笑う。
「言ってないよ」
「本当に?」
「今度は本当だよ」

 美香の表情に、じんわりと、花が咲くように笑顔が広がっていった。
 炎の向こうで微笑む、その世界で一番美しい笑顔だけが、隼人の脳裏に鮮やかに焼き付いている。

 隼人もつられて笑った。
 あの夜から、二人の時間は始まったのだ。

 だが、炎の向こうの美香は、いつの間にか笑っていなかった。
「隼人」
「……どうした?」
「死ぬまで、一緒にいたかった」
 隼人は手を伸ばした。その瞬間、炎が大きく燃え上がった。

 美香の姿が見えなくなった。
「美香!」
 隼人は、ハッと息を呑んで目を覚ました。

 見慣れない、古びた木の天井があった。暗い和室。窓の外から聞こえる秋虫の鳴き声。

 胸が激しく上下している。
 隼人は、薄暗い部屋の中でしばらく動けなかった。
 あれは夢ではない。本当にあった、何よりも大切な記憶だ。

 美香が自分を選んでくれた夜。それなのに自分は、勝手な理由をつけて彼女を手放そうとした。

「……俺は、何をしてるんだ」

 小さくつぶやき、布団の中で拳をきつく握る。
 ――帰りたい。美香に会いたい。もう一度、自分の口から本当の気持ちを伝えたい。そう思った途端、あの夜の決断が胸に引っかかった。

 もし帰れたとして、自分は何を言うつもりなのだろう。別れを撤回すれば、美香を幸せにできると約束できるのか。隼人は答えを出せないまま、暗い天井を見上げた。
「あの日から、全部始まったんだよな……」

 付き合い始めてから、美香はいつも隣で笑ってくれた。嬉しいことがあれば一緒に喜び、仕事で辛いことがあれば誰よりも心配してくれた。

 自分にはもったいないほど、優しくて強い人だった。
 だからこそ――。隼人はゆっくりと目を閉じる。
『俺じゃ、お前を幸せにできない』

 美香が父親に医者と会わされた話を聞いた日、どうしても拭えなかったその思いが、今も黒い影のように付き纏う。

 安定した仕事。将来への不安がない生活。美香の父親が娘に望んだ、当然の未来。
しがない営業マンの自分には、そのどれも確約してやれない。
 好きだからこそ、身を引くしかなかった。あの公園での別れは、逃げではなく、美香の幸せを願った自分なりの最後の誠意だったはずだ。
「だから……あれでよかったんだ」
 そう強がりをつぶやくと、胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。それでも、夢の中で見た美香の笑顔は、まぶたの裏から決して消えなかった。

「幸せに、なれよ……」

 静寂に包まれた部屋で、その一言だけが空しく響いた。

 その時、障子の向こうから佐吉の低い声が聞こえてきた。
「新九郎、起きておるか」
 隼人は、過去の感傷から一気に現実へ引き戻される。
「はい」
「支度をしろ。今日は城へ向かう」
「……分かりました」

 隼人は布団から立ち上がる。

 美香との思い出を胸の奥の木箱にしまい込むように、深く、長く息を吸い込んだ。
今の自分は、この世界で『新九郎』として生きている。

 まずは、この理不尽な世界を知らなければ、元の世界へ帰る方法すら見つけられない。隼人は、昨日手際よく着付けた着物に再び袖を通し、帯を締めると、静かに障子へ手を伸ばした。