千の蕾

 鼻を突くのは、むせ返るような青葉と、湿った腐葉土の匂いだった。聞き慣れない、名も知らぬ鳥の鋭いさえずりが鼓膜を叩く。

「……ん」

 重いまぶたを開く。見慣れたワンルームの天井はなかった。頭上を覆う巨大な木々。その枝葉の隙間から、青空が覗いていた。

 背中にはベッドのスプリングではなく、ゴツゴツとした木の根と冷たい土の感触がある。

「……ここ、どこだ?」

 思考がひどく鈍い。跳ね起きるように上体を起こし、辺りを見回す。
 見覚えのない森だった。湿った土の匂いが鼻をつき、遠くで鳥が鳴いている。

 辻本隼人は、慌てて自分の身体を見下ろした。着の身着のままでアパートのベッドに倒れ込んだ、昨夜の姿のままだった。仕立てのいい濃紺のスーツに、首を締め付けるシルクのネクタイ。
 足元には、昨日一日歩き回って少し土埃を被っただけの、黒い本革のビジネスシューズ。左腕には、金属の光沢を放つ腕時計がチクタクと正確なリズムを刻んでいる。

 深い緑に包まれたこの大自然の中で、自分の姿はあまりにも異質で、ひどく不気味に浮き上がっていた。

「誰かいるのか!」

 森の奥へ向かって叫ぶ。返ってきたのは、驚いた鳥がバサバサと飛び立つ羽音と、自分の声の虚しいこだまだけだった。

 ポケットを探る。スマートフォンも、財布も、社員証も残っている。昨夜、電源を切ったことを思い出し、電源ボタンを長押しする。しばらくして画面が立ち上がった。だが、スマホの画面には無情にも『圏外』の文字だけが表示されていた。
 
 拉致されて山に捨てられたのか? いや、それにしては衣服に乱れがない。

 隼人が警戒しながら、細い獣道のような未舗装の道を数歩進んだ、その時だった。

「……え?」

 十メートルほど先の巨木の根元。そこに、人がうつ伏せに倒れていた。若い男だった。だが、隼人の足はその服装を見てピタリと止まった。

 藍染の粗末な野良着。手首や足首には脚絆が巻かれ、帯には使い込まれた鉈のような刃物が差してある。

 そして足元は、泥にまみれた草鞋だった。時代劇のセットでしか見たことのないような、古い時代の装い。現代の日本で、こんな格好をして山に入る人間がいるだろうか。

「あの……大丈夫ですか!」

 隼人は小走りで駆け寄り、男の肩へ手を掛けた。ゆっくりと身体を仰向けにひっくり返した、その瞬間――。

「……っ!」

 隼人は弾かれたように手を離し、尻餅をついた。
 呼吸が止まった。男の顔は――自分だった。

 いや、鏡の反射ではない。無造作に伸びた長い髪も、着ている麻の着物もまるで違う。

 それなのに、目元も、鼻筋も、顎の輪郭も、自分と見分けがつかないほど完全に一致している。左の手首には、泥に汚れた細い麻の編み紐が巻かれていた。生成りの麻に、色褪せた藍、紅、若草色の糸がわずかに混じっている。

「なんだよ……これ」

 震える手を伸ばし、男の首筋へそっと触れる。氷のように冷たい。脈は、ない。すでに完全に息絶えていた。
 ありえない。目の前で死んでいるのは、間違いなく自分の顔をした男だった。

 頭の芯が激しく混乱する。夢なのか。極度のストレスが見せている幻覚なのか。必死に理性をかき集めようとした、その時だった。

「この辺りだ!」
「急げ!新九郎を探せ!」

 遠くから、荒々しい男たちの声が響いた。草や枝を踏み折る足音が、複数、こちらへ向かってどんどん近づいてくる。

 隼人は反射的に、目の前で倒れている『自分と同じ顔をした男』を見た。
 ――新九郎?それが、この男の名前なのか?
 考えている暇はなかった。隼人は革靴で腐葉土を蹴り、近くにあった大木の陰へ飛び込んで息を潜めた。

 直後、草を踏みしめる重い足音が、すぐそこまで迫ってきた。木陰からそっと覗き見ると、柄の悪い四人の男たちが周囲を警戒しながら立ち止まっていた。

「他に誰かいた形跡は?」
「ありません」
「ならいい」

 年長らしき男が、低く冷たい声で指示を出す。

「余計なことは話すな。この件はこれで終わりだ」

 四人は手際よく遺体を布で包み、竹で組まれた担架へ乗せた。誰一人、男の顔を見ようともしない。まるで、最初からこうなることを知っていたかのようだった。

 隼人は木の陰で息を殺し、口を手で覆いながらその異様な光景を見つめていた。心臓の音が、自分でもうるさいほどに早鐘を打っている。

 やがて男たちは遺体を担ぎ、森の奥へと足早に姿を消していった。
 足音が完全に聞こえなくなるまで、隼人は一歩も動けなかった。

「……何なんだよ、あれ」

 ガタガタと震える唇から、小さくつぶやきが漏れる。
 何一つ理解できない。だが、本能が激しい警鐘を鳴らしていた。
 ――ここにいてはいけない。ここは、自分の知る安全な世界ではない。

 隼人は慎重に木陰から抜け出すと、男たちが消えたのとは反対の方向へ向かって、転がるように歩き始めた。

 どれくらい歩いただろうか。不意に木々が途切れ、視界が開けた。小さな川が姿を現す。澄んだ水が苔むした岩に当たり、静かな音を立てて流れていた。

 隼人は崩れ落ちるように川辺にしゃがみ込むと、両手で水をすくい、顔を何度も洗った。身を切るように冷たい水が、火照った頬と混乱する頭を少しだけ冷やしていく。

「落ち着け……」

 濡れた顔をスーツの袖で乱暴に拭い、隼人は震える手で再びポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面を点灯させる。時刻は、自分がアパートで眠りについた翌朝の時間を指している。そして画面の右上には、無情にも『圏外』の文字。だが、隼人の視線は画面の中央に釘付けになった。

『ちゃんと話そう。お願い。』画面に残された、一件のメッセージ通知。
 差出人は、「星野美香」。その四文字を見た瞬間、隼人の胸をギリギリと締め上げるような痛みが襲った。

 時間感覚がおかしくなっている。自分がこんな得体の知れない森に迷い込んだのは事実だ。だが、あの別れは間違いなく「昨日」の出来事だったのだ。

 現代に遡る――秋の夕暮れは、残酷なほど人を素直にさせる。