Boundary & Mind-心の境界線-創造主-


秋の午後、神代家の玄関に元気な声が響いた。

「ただいまー!」

小さな靴音を響かせながら、四歳のルルが玄関へ飛び込んでくる。青紫色の長い髪には赤茶色のベレー帽。黒いニットにブラウンのチェック柄ワンピースを合わせ、小さなバッグを肩から下げていた。

公園でたっぷり遊んできたというのに、その足取りには疲れがまったく感じられない。

「ルル、走るなって」

後ろから声をかけたのは、十四歳の神代和真――カズマだった。

黒髪の襟足には銀色の髪が混じり、緑色の瞳には少し呆れたような表情が浮かんでいる。灰色のパーカーを羽織った少年は、ルルが脱ぎ散らかした靴を揃えながらため息をついた。

「さっきも公園で転びそうになっただろ」

「ころんでないよ?」

「転びそうになったって言ってんの」

「カズマおにぃ、しんぱいしょう!」

「……誰のせいだよ」

カズマが苦笑すると、ルルは得意げに胸を張った。

「ルル、いっぱいあそんだもん!」

「知ってる。ずっと一緒にいたからな」

「えへへ!」

ルルは嬉しそうに笑い、そのままリビングへ向かった。

カズマも靴を脱ぎ、後を追う。

特に変わったことのない休日。

少なくとも、家へ帰ってきたばかりのカズマは、そう思っていた。

◇

「ぱぱー! ただいまー!」

ルルがリビングへ駆け込むと、和春がソファから顔を上げた。

「おお、おかえり。楽しかったか?」

「うん!」

ルルは和春の膝へ飛びついた。

「すべりだいと、ぶらんこと、あとね、ねこさんがいたの!」

「猫もいたのか」

「うん! ふわふわだった!」

「そりゃよかったな」

和春が頭を撫でると、ルルは嬉しそうに笑った。

「ルル、おかえりなさい」

愛華が柔らかく声をかける。

「お外は寒くありませんでしたか?」

「だいじょうぶ! いっぱいはしったから!」

「ふふっ。元気ですね」

真綾も笑顔で手を振った。

「ルル、おかえり! そのお洋服、今日も可愛いね!」

「まーやママ!」

ルルはくるりと回り、チェック柄のスカートを広げてみせた。

「かわいい?」

「うん、すっごく似合ってる!」

「えへへ!」

瑠璃も静かに微笑んだ。

「……楽しそうね」

「るりママ! こんどいっしょにこうえんいこう?」

「そうね。静かなところなら付き合うわ」

「じゃあ、ぶらんこ!」

「……それは静かなのかしら」

瑠璃が小さく首を傾げると、真綾が笑った。

その隣では、リリアがルルを興味深そうに眺めていた。

「ふむ。随分と機嫌がよいのう」

「あっ! リリア!」

ルルが顔を輝かせる。

「ふふっ。元気そうじゃな」

「うん!」

ルルは笑顔で頷いたが、すぐにテーブルの上のお菓子を見つけた。

「あっ! おかし!」

「ルル、まずは手を洗ってきましょうね」

愛華が立ち上がる。

「はーい!」

ルルは素直に返事をし、愛華とともに洗面所へ向かった。

入れ替わるように、カズマがリビングへ入ってきた。

「……ただいま」

「おかえり、カズマ」

和春が笑う。

「ルルの相手、大変だったろ」

「まあね。ずっと走ってたし」

「お疲れさん」

「……別に」

カズマは肩をすくめた。

そして、リビングを見渡す。

「……あれ?」

「ん?」

「ねぇねは?」

和春が顔を上げた。

「ハルカか?」

「うん。あと、姉ちゃんも」

「研究室だぞ」

「……また研究?」

「ああ。今日はちょっと面白い客が来ててな」

「……客?」

カズマが眉を上げる。

「誰?」

「別の世界から来た――」

「まあ、いいや。俺、ねぇねたちのところ行ってくる」

和春が説明を終える前に、カズマは踵を返した。

「おい、最後まで聞けよ」

「後で聞く!」

そう言い残し、カズマは廊下へ消えていった。

「…………」

和春は少しだけ口を開けたまま、扉を見つめた。

真綾が吹き出す。

「あははっ! 相変わらずだね!」

「……あいつ、人の話を最後まで聞かねえな」

和春が苦笑する。

「それだけハルカたちに会いたかったんじゃない?」

「まあ、そうだろうな」

真綾は楽しそうに笑った。

「本当にお姉ちゃん大好きだよね、カズマって」

「昔からだからな」

和春は頷いた。

しかし、次の瞬間、何かを思い出したように顔を上げた。

「……あ」

「ん?」

「……そういや、はるたの説明してねえ」

真綾が目を丸くした。

そして、ゆっくりと笑い始める。

「……あははっ」

「……笑うなよ」

「いや、だって!」

真綾は肩を震わせた。

「カズマが、知らない男と仲良くしてるハルカたちを見たら……」

「……ああ」

和春は額に手を当てた。

「面倒なことになりそうだな」

そのとき、ソファの向こうから楽しそうな声が響いた。

「ふふっ。実に愉快なことになりそうじゃのう」

リリアだった。

和春が顔を向ける。

「……お前、何か知ってるのか?」

「いや、まだ何も起きておらぬぞ」

「……まだ?」

「ふははは!」

リリアは満足そうに笑った。

和春は深いため息をついた。

「……今日はもう、勘弁してくれよ」

だが、研究室では、すでに新たな騒動の準備が整いつつあった。

◇

神代家の研究室。

先ほどまでカプセルの破片が散乱していた室内は、すっかり片づけられていた。

危険な試作品は保管庫へ移され、作業台の上には小型の映像処理装置が置かれている。

青白い光をまとったハリネズミ型AI、ヘッジが、その周囲をゆっくりと浮遊していた。

「ねぇね、出力はそこまでにしてくださいね」

のどかが端末の表示を確認しながら声をかけた。

「えー! もう少し上げた方が綺麗になると思うんだけど」

「先ほども同じことを言っていましたよね?」

「……うっ」

ハルカが言葉に詰まる。

はるたは、そのやり取りを横で聞きながら苦笑した。

「……のどかの言うとおりだな。今日はこれ以上、爆発に巻き込まれたくねえ」

「だから、今回は爆発しないって!」

「さっきも似たようなこと言ってただろ!」

「ううっ……」

ハルカが頬を膨らませた。

のどかはそんな姉を見て、小さく笑った。

「ねぇね、今回は投影位置の補正が目的です。出力を上げる必要はありませんよ」

「……わかった」

ハルカは素直に頷いた。

研究の知識も技術も、のどかは十分に理解している。

しかし、彼女の役割は単に姉の研究を手伝うことだけではなかった。

ハルカは優れた発明家だが、好奇心が強すぎるあまり、時として危険性よりも可能性へ意識を向けてしまうことがある。

そのときに必要なのが、のどかの冷静な判断だった。

面白いから試す。

できそうだから動かす。

そうしたハルカの勢いを、必要なところで止める。

二人は、互いの能力を補い合う姉妹だった。

「ヘッジ、現在の状態は?」

のどかが尋ねた。

「投影位置の補正処理は安定しています。周辺機器への異常な負荷も確認されておりません」

「ありがとうございます」

のどかは頷いた。

ハルカが端末を操作する。

「じゃあ、最後の調整するよ!」

「はい。補正値だけ変更してくださいね」

「わかってるって!」

はるたも画面を覗き込んだ。

「……ああ、ここか」

「そう! さっき話してた部分!」

ハルカは嬉しそうに頷いた。

「映像処理の負荷を分散したから、同じ出力でも補正範囲を広げられるようになったんだ!」

「なるほどな。それなら無理に性能を引き上げなくても済むわけか」

「そういうこと!」

のどかも表示を確認する。

「ねぇね、補正が安定しました」

「……本当!?」

「はい。基準範囲内に収まっています」

ハルカは慌てて画面へ顔を近づけた。

そして。

「…………」

数秒の沈黙。

「……できた」

小さな声が漏れた。

はるたが顔を上げる。

「……ん?」

ハルカの瞳が輝いた。

「……できた!!」

次の瞬間。

「やったああああ!!」

研究室中に歓声が響いた。

「成功だよ! はるた!!」

「おお! すげえな!」

はるたも思わず笑顔になった。

「補正が綺麗に収まってる!」

「でしょ!? でしょ!?」

ハルカは満面の笑みを浮かべた。

「はるたが処理の分散について話してくれたおかげだよ!」

「いや、実際に調整して組み上げたのはハルカだろ。俺は考え方を話しただけだよ」

「でも、それがよかったんだって!」

ハルカは嬉しそうに笑った。

そして、その喜びが抑えきれなくなったのだろう。

「ありがとう、はるた!!」

勢いよく駆け寄り、そのまま抱きついた。

「うおっ!?」

はるたが思わずよろめく。

「お、おい! ハルカ!?」

「えへへ! やったね!」

ハルカは満面の笑みを浮かべていた。

研究が成功したことが嬉しくて、目の前にいるはるたへ、その喜びをそのままぶつけている。

先ほどリビングで無意識に抱きついてしまったことなど、完全に忘れているようだった。

「……ねぇね」

のどかが苦笑する。

「喜ぶのはいいですけど、はるたさんが倒れてしまいますよ」

「……あっ!」

ハルカは慌てて腕をほどいた。

「ご、ごめん!」

「……いや、大丈夫だけどさ」

はるたは苦笑した。

「お前、本当に嬉しいとすぐ飛びつくんだな」

「……えへへ」

ハルカは少し恥ずかしそうに笑った。

そのときだった。

「…………ねぇね?」

研究室の入り口から、低い声が響いた。

◇

カズマは、目の前の光景を理解できずにいた。

研究室へ入ろうとした瞬間、大好きな姉が知らない男に抱きついていた。

しかも、満面の笑みで。

「…………」

ゆっくりと視線を動かす。

そこには、もう一人の姉であるのどかの姿もあった。

のどかは、見知らぬ男のすぐ近くに立っている。

二人とも、まったく警戒していない。

むしろ、心から楽しそうだった。

(……何だ、これ)

カズマの目が細くなる。

ハルカが抱きついていた相手は、黒髪の青年だった。

自分より年上。

見覚えのない顔。

少なくとも、これまで神代家で見たことのない人物だった。

(……誰だよ、あいつ)

カズマにとって、ハルカとのどかは特別な存在だった。

幼い頃から、二人はいつも近くにいてくれた。

ハルカは明るく、何でも思いついたことを形にしてしまう天才だった。時には危なっかしい発明をして、家族全員を巻き込むこともある。

のどかは落ち着いていて、何か困ったことがあれば、いつも丁寧に話を聞いてくれた。

二人とも、大切な姉だった。

そして、その二人が今、知らない男と楽しそうにしている。

しかも、距離が近い。

近すぎる。

(……なんだよ、あの距離)

カズマは無言のまま、研究室へ一歩踏み込んだ。

「……ねぇね」

ハルカが振り返る。

「あっ! カズマ!」

表情がぱっと明るくなる。

「おかえり!」

「……ただいま」

カズマは短く答えた。

のどかも顔を上げる。

「カズマ、おかえりなさい」

「……うん。ただいま、姉ちゃん」

いつもなら、それだけで嬉しくなる。

しかし、今日は違った。

カズマは、ゆっくりとはるたを指さした。

「……誰?」

ハルカは笑顔で答えた。

「あっ、この人はね、はるた!」

「…………」

「今日、研究室に来たんだよ!」

「……へえ」

カズマは短く答えた。

はるたは軽く会釈する。

「……どうも。はるたです」

「…………」

カズマは返事をしなかった。

その視線は、はるたから離れない。

ハルカが不思議そうに首を傾げる。

「……カズマ?」

「……ねぇね」

「ん?」

「……その人と、どういう関係?」

「どういう関係って……研究仲間かな!」

「……研究仲間」

カズマはその言葉を繰り返した。

のどかも穏やかに微笑む。

「はるたさんは、私たちの研究に協力してくださっているんですよ」

「……そうなんだ」

カズマは頷いた。

しかし、表情はまったく変わらなかった。

(……研究仲間、ね)

それだけで、あんなに自然に抱きつくものなのだろうか。

少なくとも、今までのハルカは違った。

カズマは、そう思った。

そして、静かにはるたを見つめる。

(……確かめてやる)

その瞬間、カズマは未来視を使った。

◇

視界が変わった。

目の前に広がる現在。

そこから、無数の可能性が枝分かれしていく。

人が何を選び、どう行動するのか。

その選択によって、未来は変わる。

カズマの未来視は、そうした可能性の断片を捉える能力だった。

もちろん、すべての未来を完全に見通せるわけではない。

可能性は無数にあり、一つの結果が必ず訪れるとも限らない。

それでも、目の前にいる人物の少し先の行動を探ることは、普段なら難しくない。

少なくとも、何も見えないということは珍しかった。

(……さて)

カズマは、はるたへ意識を向けた。

この男は、これから何をするのか。

ハルカとのどかに、何か危険なことをするつもりはないのか。

その可能性を確かめようとした。

しかし――。

(……え?)

視界が揺らいだ。

無数に広がっていた未来の枝が、はるたへ意識を向けた瞬間、不自然に途切れた。

(……何だ、これ)

カズマはもう一度、意識を集中した。

ほんの数秒先。

はるたが次に何をするのか。

それだけでいい。

しかし。

見えない。

(……嘘だろ)

さらに意識を深く沈める。

いつもなら、さまざまな可能性が浮かび上がるはずだった。

相手が動く未来。

話し始める未来。

こちらへ視線を向ける未来。

だが、はるたに関わる未来だけが捉えられない。

それどころか、無理に覗こうとすると、何かに弾き返されるような感覚があった。

(……なんで?)

カズマは息を呑んだ。

未来が不確定だから見えないのではない。

可能性が多すぎるから、判断できないのでもない。

まるで、最初から覗くことを許されていないかのようだった。

(……おかしい)

試しに、カズマはハルカへ意識を向けた。

姉が笑っている。

端末へ手を伸ばそうとしている。

いくつかの未来が、いつもどおり浮かび上がった。

次に、のどか。

彼女が画面を確認する未来。

ハルカを止める未来。

こちらへ声をかける未来。

それらも見える。

だが、その中ではるたが関わろうとした瞬間、可能性の輪郭が崩れてしまう。

(……こいつだけ?)

カズマは、もう一度はるたを見た。

未来が見えない。

能力が通用しない。

しかも、その理由がまったくわからない。

(……何者なんだよ)

背筋に冷たいものが走った。

カズマは、ゆっくりと現実の視界へ意識を戻した。

◇

「……カズマ?」

ハルカが不思議そうに声をかけた。

「……ん?」

「どうしたの? 急に黙っちゃって」

「……別に」

カズマは短く答えた。

しかし、その視線ははるたから離れなかった。

はるたは少し困ったように笑う。

「……えっと、カズマでいいのか?」

「……うん」

「よろしくな」

「…………」

カズマは返事をしなかった。

代わりに、ゆっくりと尋ねる。

「……あんた、何者?」

「……え?」

はるたが目を瞬かせる。

「いや、だから……はるただけど」

「そういうことじゃない」

カズマの声が少し低くなる。

「どこから来たの?」

はるたは一瞬、言葉を選んだ。

「……別の世界から、かな」

「……別の世界?」

「まあ、説明すると長いんだけどな」

「……ふーん」

カズマは、さらに目を細めた。

(……別の世界)

父親の和春から、詳しい説明を聞く前に部屋を出てしまった。

だから、はるたがどのような事情で現れたのか、カズマはまだ知らない。

だが、未来視が弾かれた事実と、別の世界から来たという説明が、頭の中で結びついていく。

(……それが原因なのか?)

わからない。

ただ、普通ではないことだけは確かだった。

「……ねぇね」

カズマが声をかける。

「ん?」

「その人、本当に信用できるの?」

ハルカは不思議そうに首を傾げた。

「うん!」

即答だった。

「……なんで?」

「だって、すっごくいい人だよ?」

「……今日会ったばっかりでしょ?」

「うん!」

「……それで信用するの?」

ハルカは少し考えた。

「……うーん」

そして、にっこりと笑った。

「なんか、安心するんだよね!」

「…………」

カズマが固まった。

のどかも静かに頷いた。

「私も、はるたさんとは自然にお話しできるんです」

「……姉ちゃんまで?」

「はい」

のどかは微笑んだ。

「もちろん、何も知らずに信用しているわけではありませんよ。でも、少なくとも私たちに危害を加えようとしている様子はありません」

「…………」

カズマは黙った。

その言葉は理解できる。

しかし、自分には未来が見えない。

相手がこれから何をするのか、確かめることができない。

それが、どうしても引っかかっていた。

「……ねぇね」

カズマは、ゆっくりと口を開いた。

「……ん?」

「その人から、ちょっと離れて」

「……え?」

ハルカが目を瞬かせる。

「なんで?」

「……近いから」

「……そう?」

ハルカは、自分とはるたの距離を見た。

そして、首を傾げる。

「……普通じゃない?」

「普通じゃないよ!」

カズマが思わず声を上げた。

「ねぇね、さっき抱きついてたじゃん!」

「……あっ」

ハルカが、ようやく思い出したように頬を赤くした。

「そ、それは研究が成功して嬉しかったから!」

「だからって!」

「もう! カズマは心配しすぎ!」

ハルカが頬を膨らませる。

のどかも小さくため息をついた。

「カズマ。私たちも、自分で判断できますよ」

「……わかってるよ」

「でしたら、はるたさんに失礼なことを言うのはやめましょうね」

「…………」

カズマは口を閉じた。

しかし、その表情は晴れなかった。

◇

「……なあ、カズマ」

はるたが静かに声をかけた。

「……何?」

「俺、別にお前の姉ちゃんたちに変なことするつもりはねえよ」

「……本当に?」

「ああ」

「……信用できない」

はるたは苦笑した。

「……初対面でそこまで警戒されると、さすがに傷つくんだけどな」

ハルカが吹き出した。

「あははっ! カズマ、何それ!」

「笑い事じゃないよ、ねぇね!」

「だって、はるたはいい人だよ?」

「……それ、さっきも聞いた!」

「じゃあ、わかってるじゃん!」

「そうじゃなくて!」

のどかも口元を押さえて笑っていた。

「……カズマ、落ち着いてください」

「姉ちゃんまで笑わないでよ!」

カズマは頭を抱えた。

その様子を見て、はるたは小さく笑った。

(……ああ、なるほどな)

姉たちが大好きなのだろう。

だから、見知らぬ男が近づくことを面白く思わない。

それ自体は、理解できる。

しかし。

(……それだけじゃなさそうだな)

カズマの視線には、単なる嫉妬とは違うものがあった。

警戒。

疑念。

そして、何かを確かめようとするような鋭さ。

はるたは、その視線に少しだけ引っかかるものを感じた。

(……未来視か?)

カズマが未来視の能力を持っていることは知っている。

だが、実際にその能力を使ったのかどうかまではわからない。

ましてや、何を見ようとしたのかも。

だから、余計なことは言わなかった。

「……まあ、カズマ」

はるたは穏やかに笑った。

「今すぐ信用してくれなくてもいいよ」

「……え?」

カズマが顔を上げる。

「今日会ったばかりの相手なんだから、警戒するのは普通だろ」

「…………」

「俺だって、知らない奴が突然家に来たら、まず何者なのか考えるしな」

カズマは黙って聞いていた。

「だから、これから俺が何をするか見て、自分で判断すればいい」

その言葉に、カズマは少しだけ目を見開いた。

「……いいの?」

「ああ」

はるたは頷いた。

「信用って、無理やりさせるもんじゃないだろ」

「…………」

カズマは、しばらくはるたを見つめていた。

そして、小さく答えた。

「……わかった」

だが、警戒心が消えたわけではない。

むしろ、先ほどよりも深く考えるようになっていた。

(……やっぱり、変だ)

未来が見えない。

能力が弾かれる。

それなのに、目の前の男は普通に笑っている。

姉たちも、自然に接している。

(……何なんだよ、こいつ)

カズマは、その疑問を胸の奥にしまい込んだ。

◇

「……カズマ」

そのとき、ヘッジが静かに声をかけた。

小さなハリネズミ型のホログラムが、カズマの前へ浮かんでくる。

「現在、はるたによる危険行為は確認されておりません」

「……ヘッジ」

カズマが顔を向ける。

「それはわかってる」

「では、何を警戒しているのでしょうか?」

「…………」

カズマは答えなかった。

未来視が通用しない。

その事実を、今ここで話すべきなのか判断できなかったからだ。

ヘッジは少しだけ首を傾げた。

「……カズマ?」

「……別に」

カズマは短く答えた。

「ちょっと気になるだけ」

「承知しました」

ヘッジはそれ以上追及しなかった。

のどかが、そんな弟を静かに見つめていた。

「……カズマ」

「……何?」

「何か心配なことがあるなら、ちゃんと話してくださいね」

「…………」

カズマは少しだけ目を逸らした。

「……うん」

のどかは無理に聞き出そうとはしなかった。

ただ、弟の表情が普段と違うことには気づいていた。

◇

「……さて!」

ハルカが、ぱんっと手を叩いた。

「じゃあ、研究の続きしよう!」

「……まだやるのか?」

はるたが苦笑する。

「当たり前だよ!」

ハルカは胸を張った。

「せっかく映像処理装置が完成したんだから、次はもっといろいろ試したい!」

「……おい、ちょっと待て」

はるたが眉を上げる。

「また出力を上げるとか言わないよな?」

「えっ?」

ハルカが目を瞬かせた。

「……ダメ?」

「ダメだろ!」

「ねぇね」

のどかが静かに口を開いた。

「今日はここまでにしましょう」

「えー!?」

「これ以上の調整は、明日以降に回した方がいいと思います」

「でも!」

「ねぇね」

のどかは、柔らかく微笑んだ。

「先ほどのカプセル事故、忘れていませんよね?」

「…………」

ハルカの動きが止まった。

「……はい」

「安全確認をしたうえで、次の実験を考えましょう」

「……はーい」

ハルカは少しだけ肩を落とした。

はるたが、その様子を見て小さく笑う。

「……のどかがいて助かったな」

「……そうですね」

のどかも微笑んだ。

「ねぇねは、興味を持つとすぐ試したくなってしまうので」

「だって、面白いんだもん!」

ハルカが頬を膨らませる。

「ふふっ。知っていますよ」

のどかは柔らかく答えた。

「だからこそ、危険なことは私が止めます」

その言葉に、はるたは小さく頷いた。

(……なるほどな)

ハルカが新しいものを生み出す。

のどかが、その可能性と危険性を見極める。

二人は、単に仲のいい姉妹というだけではない。

互いの能力を補い合う関係だった。

「……いいコンビだな」

はるたが呟いた。

「……え?」

ハルカが顔を上げる。

「いや、二人ともすごいなって」

「えへへ!」

ハルカが嬉しそうに笑った。

のどかも少し照れたように微笑む。

その様子を、カズマは黙って見ていた。

(……また、ねぇねが笑ってる)

見知らぬ男の言葉に、姉が嬉しそうにしている。

本来なら、それだけで警戒心が強まるはずだった。

だが、はるたの言葉には、確かに姉たちを尊重する気持ちが感じられた。

それが、かえってカズマを困惑させていた。

(……悪い奴には、見えないんだけどな)

しかし、未来は見えない。

その一点だけが、どうしても消えなかった。

◇

その頃、リビングでは。

「……ふははは!」

突然、リリアが声を上げて笑い始めた。

和春が顔を向ける。

「……なんだよ、また」

「いや、面白いのう」

「……何が?」

リリアは研究室の方角へ視線を向けた。

「主の息子も、なかなか愉快な性格をしておるようじゃ」

「……カズマか?」

「うむ」

リリアは満足そうに頷いた。

「姉を思う心は、実に強いようじゃな」

和春は少し考えた。

そして、小さく苦笑する。

「……ああ。はるたを見たんだな」

「ふふっ」

リリアは何も答えなかった。

しかし、その笑みが答えのようなものだった。

真綾が楽しそうに笑う。

「あははっ! やっぱり! 絶対警戒すると思ったんだよね!」

愛華も微笑んだ。

「カズマはハルカとのどかが大好きですからね」

「……まあな」

和春は頷いた。

「ただ、あいつは感情だけで動くわけじゃねえからな」

その言葉に、リリアの金色の瞳がわずかに細くなった。

「……ほう?」

「ん?」

「いや、何でもないぞ」

リリアは楽しそうに笑った。

和春は、その反応を少し不思議に思った。

しかし、深く追及することはしなかった。

そのとき、ルルが和春の膝へ戻ってきた。

「ぱぱ!」

「ん?」

「ルル、ねぇねのところいきたい!」

「……ああ、そうだったな」

和春は小さく笑った。

「じゃあ、そろそろ様子を見に行くか」

「やった!」

ルルが嬉しそうに両手を上げる。

その様子を見て、真綾も立ち上がった。

「じゃあ、私も行こうかな。カズマがどんな顔してるか気になるし!」

「……お前、完全に面白がってるだろ」

「えへへ。ちょっとだけ!」

愛華も微笑みながら立ち上がった。

「では、私も一緒に行きますね」

瑠璃は静かにカップを置いた。

「……また騒がしくなりそうね」

「まあ、いつものことだろ」

和春が笑う。

しかし、リリアだけはソファに座ったまま、金色の瞳を細めていた。

(……ふむ)

カズマが未来視を使ったこと。

そして、はるたの未来を捉えられなかったこと。

それは、リリアにとっても興味深い出来事だった。

(……なるほどのう)

世界の可能性を覗く力。

その力が、世界の外から訪れた存在に対して、どのように作用するのか。

少なくとも、カズマにとっては初めて経験する異常だったのだろう。

(……ふふっ)

リリアは小さく笑った。

(これは、ますます面白くなってきたのう)

◇

研究室では、ようやく一段落した作業台の周囲に、四人が集まっていた。

ハルカは完成した映像処理装置の記録を確認し、のどかは安全設定を再点検している。

はるたは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

そして、カズマは。

「…………」

相変わらず、はるたを見ていた。

「……なあ、カズマ」

はるたが声をかける。

「……何?」

「そんなに見られると、さすがに落ち着かないんだけど」

「……別に」

「いや、別にって顔じゃねえだろ」

カズマは少し考えた。

そして、小さく口を開いた。

「……一つ、聞いていい?」

「ん?」

「……あんた、本当に別の世界から来たの?」

はるたは頷いた。

「ああ」

「……元の世界に帰るの?」

「そのつもりだよ」

「……いつ?」

「それがわからないから、今調べてるんだ」

「…………」

カズマは黙った。

そして、ゆっくりと尋ねた。

「……じゃあ、それまではここにいるの?」

はるたは少し考えた。

「……どうだろうな。まだ何も決まってないし」

「……そう」

カズマは短く答えた。

その表情には、複雑な感情が浮かんでいた。

姉たちに近づいてほしくない。

だが、今すぐ出ていけとも言えない。

目の前の男が、何か悪いことをしたわけではないからだ。

それでも、未来が見えないという異常だけは消えなかった。

(……何者なんだよ、本当に)

そのとき。

「……カズマ!」

ハルカが元気よく声をかけた。

「ん?」

「これ見て!」

ハルカは完成した装置を指さした。

「今日、はるたと一緒に考えて完成したんだよ!」

「……へえ」

カズマが近づく。

画面には、複雑な処理結果が表示されていた。

「……すごいの?」

「すっごいんだよ!」

ハルカは目を輝かせた。

「これで映像の補正がもっと自然になるの!」

「……そうなんだ」

カズマは装置を見つめた。

詳しい仕組みはわからない。

しかし、ハルカが嬉しそうに話していることだけは、よくわかった。

「……ねぇね、すごいね」

カズマが小さく笑った。

その言葉に、ハルカの表情がぱっと明るくなる。

「えへへ! ありがと!」

そして、いつものようにカズマの頭を撫でた。

「カズマは優しいね!」

「……別に」

カズマは少しだけ頬を赤くした。

のどかも微笑んだ。

「カズマ、私たちの研究に興味があるなら、今度ゆっくり説明しますよ」

「……うん」

カズマは小さく頷いた。

「姉ちゃんが教えてくれるなら、聞く」

「ふふっ。わかりました」

その様子を見て、はるたは小さく笑った。

(……本当に、姉ちゃん大好きなんだな)

しかし、その直後。

ハルカが再びはるたへ顔を向けた。

「ねえ、はるた!」

「ん?」

「明日は別の装置も見せるね!」

「……ああ。爆発しない奴ならな」

「もう! まだ言うの!?」

ハルカが笑いながら、自然にはるたのすぐ隣へ寄る。

「…………」

カズマの表情が変わった。

「……ねぇね」

「ん?」

「……やっぱり近い」

「えー!?」

ハルカが思わず声を上げた。

のどかがくすくすと笑う。

「カズマ、またですか?」

「だって!」

はるたは深いため息をついた。

「……俺、今日ずっと疑われてる気がするんだけど」

ヘッジが静かに口を開いた。

「カズマ。現在、はるたによる不適切な行動は確認されておりません」

「ヘッジ! それはわかってるって!」

「では、警戒を続ける理由について、追加の説明をお願いします」

「……それは!」

カズマは言葉に詰まった。

ハルカとのどかが、また笑い始める。

はるたも苦笑していた。

しかし、カズマだけは笑えなかった。

未来が見えない。

その異常は、まだ何も解決していない。

そして、目の前の青年は――。

何も知らないような顔で、姉たちと楽しそうに話している。

(……絶対、何かある)

カズマは静かに拳を握った。

その疑問が、いつかどのような答えへつながるのか。

今の彼には、まだわからない。

ただ一つ。

目の前の青年に関わる未来だけは、どうしても見えなかった。