Boundary & Mind-心の境界線-創造主-


「ふふっ。さて、次は何をして遊ぼうかのう」

「遊ぶな!!」

はるたの声がリビングに響き、リリアは満足そうに笑った。

先ほどまで少し緊張していた空気も、いつの間にか和らいでいた。愛華が淹れたコーヒーの香りが漂う中、和春はソファに腰掛け、目の前の来訪者を興味深そうに眺めている。

はるたもようやく落ち着きを取り戻していた。

もっとも、ルミナスの上空から落とされた恐怖は、そう簡単に忘れられるものではない。リリアが笑うたびに嫌な予感がするのだから、しばらくは彼女の近くにいたくなかった。

「……とりあえず、しばらくリリアには近づかねえ」

「なんじゃ。つれないのう」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「ふははは!」

リリアは相変わらず楽しそうだった。

その様子を見て、真綾が小さく笑う。

「なんか、二人とも仲いいね」

「どこがですか!?」

はるたが即座に反論した。

「さっき殺されかけたんですよ、俺!」

「死んでおらぬじゃろう?」

「そういう問題じゃねえ!」

そのやり取りに、和春も思わず笑った。

「まあ、リリアにそこまで言える奴は珍しいな」

「言いたくもなりますよ……」

はるたは疲れたように肩を落とす。

そんな彼を眺めながら、ハルカが何かを思い出したように顔を上げた。

「あっ!」

全員の視線が集まる。

「そうだ! はるた!」

「……ん?」

ハルカの瞳が輝いた。

「じゃあ、研究行こう!」

「……え?」

はるたが聞き返すより早く、ハルカはソファから立ち上がった。

そして、満面の笑みを浮かべながら彼のもとへ駆け寄る。

「さっきの続き! まだいっぱい話したいことあるんだよ!」

「お、おう……」

「ねっ! 行こう!」

次の瞬間。

ハルカは、はるたにぎゅっと抱きついた。

「…………」

はるたの動きが止まった。

そして、リビング全体が静まり返った。

◇

最初に反応したのは真綾だった。

「…………え?」

手にしていたコーヒーカップを、思わず持ち直す。

愛華も赤い瞳をわずかに見開いた。

瑠璃は無言のまま、ハルカへ視線を向ける。

和春に至っては、珍しく言葉を失っていた。

「…………」

その一方で、当のハルカはまったく気にしていない。

はるたに抱きついたまま、楽しそうに研究の話を続けている。

「ねえねえ! さっき話してた次元収納の制御なんだけどさ、まだ見せてない装置があるんだよ! 絶対はるたも気に入ると思う!」

「……あ、ああ」

はるたは戸惑いながら答えた。

突然抱きつかれたことも驚きだったが、それ以上に周囲の反応が気になった。

(……待て)

視線を動かす。

和春がこちらを見ている。

愛華も、真綾も、瑠璃も。

全員が、妙に静かだった。

(……なんだ、この空気)

はるたは恐る恐る口を開いた。

「……あの、ハルカ?」

「ん?」

「ちょっと離れようか?」

「え? なんで?」

「……いや、なんでって」

本当にわかっていない。

ハルカは不思議そうに首を傾げていた。

その反応を見て、和春がようやく口を開いた。

「……ハルカ」

「なあに、ぱぱ?」

「お前、何してる?」

「え? 研究の話!」

「……いや、そっちじゃなくて」

和春は、はるたに抱きついている娘を指さした。

「その腕」

「……腕?」

ハルカは自分の腕を見下ろした。

はるたの身体に、しっかりと回されている。

「…………」

数秒の沈黙。

「……あれ?」

ようやく気づいたらしい。

しかし、すぐに離れるのかと思いきや、ハルカは不思議そうに瞬きをした。

「……なんで私、抱きついてるんだろ?」

「それをこっちが聞きたいんだよ!」

和春が思わず叫んだ。

◇

「……ちょっと待って」

真綾が口元を押さえた。

「ハルカが……男の人に抱きついた?」

「……そうですね」

愛華が静かに答える。

その声は普段どおり柔らかかったが、表情には明らかな驚きが浮かんでいた。

「しかも、自分でも気づいていなかったみたいです」

「……珍しいわね」

瑠璃が呟く。

彼女もまた、ハルカの様子を興味深そうに見つめていた。

神代春華。

優れた頭脳を持つ発明家であり、好奇心の強い少女。

人との交流を嫌う性格ではない。むしろ、興味を持ったことには積極的で、誰とでも気軽に話せる明るさがある。

しかし、男性に対しては少し事情が違った。

研究以外のことで男性に興味を示すことは少なく、必要以上に距離を縮めることもほとんどない。

ましてや、初対面の男性に自分から抱きつくなど、家族の誰も見たことがなかった。

例外は、父親の和春だった。

「……ハルカ」

和春が静かに尋ねた。

「ん?」

「そいつとは、今日会ったばかりなんだよな?」

「うん!」

「……そうか」

和春は腕を組んだ。

その視線は、はるたではなく、娘へ向いていた。

ハルカはようやく腕をほどいたものの、今度は当然のようにはるたの隣へ立っている。

しかも距離が近い。

肩が触れるほど近くにいても、まったく気にする様子がなかった。

「……ハルカ」

愛華が柔らかく声をかける。

「はるたさん、少し困っていますよ?」

「えっ!?」

ハルカが慌てて顔を上げた。

「ご、ごめん! 嫌だった?」

「いや、嫌ってわけじゃないけど……びっくりした」

はるたは苦笑した。

「俺も、いきなりだったからさ」

「そ、そっか……」

ハルカは少し恥ずかしそうに笑った。

「なんか、自然にやっちゃった」

真綾が目を丸くする。

「……自然に?」

「うん」

ハルカは頷いた。

「なんでだろ? 別に変な意味じゃないんだけど……」

言いながら、彼女は自分でも不思議そうな顔をしていた。

和春は、その様子をじっと見ていた。

(……なるほどな)

何かを思いついたようだったが、まだ口にはしなかった。

◇

「ねぇね」

そのとき、のどかが静かに声をかけた。

「……ん?」

「研究室へ行くのなら、私もご一緒します」

「もちろん!」

ハルカが笑顔で答える。

のどかは、はるたの隣へ歩み寄った。

「はるたさん。先ほどのお話、私も気になっていたんです」

「……ああ。次元収納の話か?」

「はい。こちらの世界と元の世界では、同じ原理でも実現方法が異なる可能性がありますよね」

「そうだな。比較できれば、何かわかるかもしれない」

「でしたら、私もお手伝いしたいです」

のどかは柔らかく微笑んだ。

そして、はるたの腕時計型デバイスへ視線を落とした。

「それと、レインさんの投影方式についても、もう少し詳しく伺いたいです」

「ああ、それならレイン本人に聞いた方が早いな」

「はい!」

のどかが嬉しそうに頷く。

そのまま彼女は、はるたのすぐ隣へ並んだ。

距離が近い。

ハルカほどではないものの、初対面の男性に対して取る距離としては、少しばかり近すぎるように見えた。

「…………」

和春が目を細めた。

(……のどかもか)

愛華も、その変化に気づいたらしい。

彼女は何も言わず、二人の娘を見比べていた。

普段ののどかは、丁寧で落ち着いた少女だ。誰に対しても礼儀正しく、相手との距離感を自然に調整できる。

それなのに、はるたの隣では不思議なほど無防備だった。

もちろん、相手を信用しているからなのだろう。

しかし、それにしても早い。

今日出会ったばかりの相手なのだから。

「……和春」

愛華が小さく声をかける。

「ああ」

和春は短く答えた。

それだけで、互いが同じ違和感に気づいていることは伝わった。

真綾が二人を見て、楽しそうに笑う。

「……なんか、面白いことになってない?」

「そうですね」

愛華も微笑んだ。

「少なくとも、普段の二人とは少し違います」

瑠璃が静かに頷く。

「……警戒していないのね」

「そうだな」

和春は腕を組んだまま答えた。

「それも、妙なほどに」

◇

一方、リリアは――。

先ほどから、ほとんど何も言わずにその光景を眺めていた。

玉座の間ではあれほど騒がしく笑っていた彼女が、今はソファに腰掛けたまま、静かに金色の瞳を細めている。

しかし、その口元には確かな笑みが浮かんでいた。

(……ふむ)

リリアは、はるたを見つめた。

そして、和春へ視線を移す。

(……なるほどのう)

彼女は、はるたの血から記憶を読み取っている。

それゆえに、ほかの者たちが知らない事実を知っていた。

はるたと神代和春。

二人は、同じ経験を積んできたわけではない。

生きてきた環境も、出会った人間も、選んできた道も違う。

しかし、その根底にある性格や思考のあり方には、驚くほど多くの共通点が存在していた。

そして、ハルカとのどかは、父親である和春を誰よりも信頼している。

二人にとって和春は、幼い頃から自分たちの好奇心を受け止め、どんな疑問にも向き合い、理解できるまで言葉を尽くしてくれた存在だった。

難しいことを聞いても、笑わない。

わからないことを尋ねても、面倒がらない。

失敗しても、頭ごなしに否定しない。

自分たちが何に興味を持ち、何を知りたがっているのかを、自然に理解してくれる。

そして、安心して甘えられる相手でもある。

ハルカとのどかにとって、その距離感は特別なものだった。

しかし、目の前のはるたは――。

(……ふふっ)

リリアは小さく笑った。

性格も思考も、和春にあまりにもよく似ている。

研究の話をすれば、興味を持って聞く。

疑問を投げかければ、一緒に考える。

知識をひけらかすことなく、相手の考えを尊重する。

そして、何より。

二人が普段、父親に対して感じている安心感を、はるたにも無意識のうちに感じているのだろう。

だから、距離が近い。

極端なほどに。

ハルカが抱きついたのも、相手を男性として意識したからではない。

父親に甘えるときと同じ感覚で、自然に身体が動いてしまった。

のどかも同じだった。

本人たちは、おそらく気づいていない。

目の前にいる青年の何が、自分たちをこれほど安心させているのか。

そして、その理由を知る者は、今この場ではリリアだけだった。

(……なんとも面白いものじゃ)

リリアの金色の瞳が、楽しそうに輝く。

(本人たちは、まるで気づいておらぬ)

すべてを知ってしまえば、今の関係は変わってしまうだろう。

少なくとも、自然な距離感ではいられなくなる可能性がある。

ならば、今は黙って見ている方が面白い。

(……これは、しばらく楽しめそうじゃのう)

リリアは満足そうに微笑み、コーヒーへ口をつけた。

◇

「……なあ、はるた」

和春が声をかけた。

「……はい?」

「一つ聞いてもいいか?」

「……何でしょう?」

和春はハルカとのどかへ視線を向けた。

「お前、うちの娘たちと随分仲良くなったみたいだな」

「……ああ」

はるたは苦笑した。

「そうですね。俺も驚いてます」

「……ほう?」

「研究の話をしてたら、いつの間にかって感じで」

和春は静かに頷いた。

「そうか」

そして、娘たちへ視線を戻した。

「……ハルカ」

「ん?」

「お前、俺以外の男に抱きついたことあったか?」

「……え?」

ハルカは一瞬考えた。

「……ない、かな?」

「だろうな」

和春は苦笑した。

「少なくとも、俺は見たことねえぞ」

「……そうだね」

ハルカは少し恥ずかしそうに笑った。

和春は続ける。

「じゃあ、なんで今はそうした?」

「……うーん」

ハルカは考え込んだ。

しかし、すぐに首を傾げる。

「……わかんない」

「……わかんねえのか」

「うん。でも、なんか……」

ハルカははるたを見た。

そして、少しだけ笑った。

「……安心するんだよね」

その言葉に、和春の目がわずかに細くなった。

「……安心?」

「うん」

ハルカは頷いた。

「研究の話してても、変に気を遣わなくていいし。なんか、ぱぱと話してるときみたいな感じ」

「…………」

和春は黙った。

真綾が目を丸くする。

「……和春と?」

「うん!」

ハルカは当然のように答えた。

「もちろん、ぱぱとは違うんだけどね。でも、なんか似てるの」

のどかも小さく頷いた。

「……私も、少しわかります」

「のどかも?」

和春が尋ねる。

「はい。はるたさんとお話ししていると、自然に言葉が出てくるんです。初めてお会いした方なのに、不思議と緊張しなくて」

のどかは柔らかく微笑んだ。

「ぱぱとお話ししているときに、少し似ています」

その場に、静かな沈黙が流れた。

和春は、ゆっくりとはるたを見た。

「…………」

はるたも、その視線を受け止めた。

(……そりゃ、そうなるか)

心の中で小さく呟く。

しかし、その理由を口にするわけにはいかない。

「……なんか、すみません」

はるたは苦笑した。

「いや、謝ることじゃねえよ」

和春は小さく笑った。

「むしろ、こいつらがそこまで安心する相手ってのは珍しいからな」

「……そうなんですか?」

「ああ」

和春は頷いた。

「ハルカは好奇心が強いけど、誰にでも甘えるわけじゃねえ。のどかだって、相手との距離感はちゃんと考える」

そして、少しだけ口元を上げた。

「……だから、正直驚いた」

はるたは小さく笑った。

「……俺もです」

その答えに、和春も笑った。

◇

「……まあ、いいんじゃない?」

真綾が明るく声を上げた。

「ハルカものどかも、はるたのことが気に入ったんでしょ?」

「うん!」

ハルカが即答した。

「……そうですね」

のどかも頷く。

真綾は楽しそうに笑った。

「だったら、仲良くすればいいじゃん。悪いことじゃないんだし」

「……そうだな」

和春も頷いた。

ただ、その表情にはまだ少しだけ考え込むような様子が残っていた。

愛華が柔らかく微笑む。

「和春。あまり考えすぎなくてもいいと思いますよ」

「……そうか?」

「ええ。本人たちが安心しているのなら、それも一つの答えです」

和春は小さく笑った。

「……そうだな」

瑠璃も静かに口を開いた。

「……理由がわからなくても、居心地がいい相手はいるものよ」

「……瑠璃が言うと、説得力あるな」

和春が笑う。

「別に褒められるようなことは言っていないわ」

瑠璃は淡々と答えた。

その様子に、真綾がまた笑った。

◇

「……じゃあ!」

ハルカが再び声を上げた。

「研究行こう!」

「……まだその話続いてたのか」

はるたが苦笑する。

「当たり前だよ!」

ハルカは目を輝かせた。

「まだまだ話したいことあるんだもん!」

のどかも頷く。

「私も、もう少し詳しく伺いたいです」

「……わかった、わかった」

はるたは小さく笑った。

「じゃあ、行くか」

「やった!」

ハルカが嬉しそうに声を上げる。

そして、また自然にはるたの腕へ手を伸ばしかけた。

「…………」

その瞬間。

和春、愛華、真綾の視線が集まった。

「……あ」

ハルカが気づいた。

そして、慌てて手を引っ込める。

「……えへへ」

真綾が吹き出した。

「あははっ! もう癖になってるじゃん!」

「ち、違うよ!」

ハルカが頬を赤くする。

「なんか、自然に動いちゃうんだって!」

和春は苦笑した。

「……まあ、今はいいけどな」

「ぱぱ?」

「ただ、相手が驚くようなことは、ちゃんと考えてからやれよ」

「……はーい」

ハルカは少し恥ずかしそうに頷いた。

はるたは、その様子を見て小さく笑った。

(……やっぱり、親子だな)

その隣で、レインも柔らかく微笑んでいた。

「はるた。随分と懐かれましたね」

「……そうみたいだな」

「ふふっ。よかったですね」

「……まあな」

はるたは小さく頷いた。

目の前にいるハルカとのどか。

二人が自分に安心感を抱いてくれていることは、素直に嬉しかった。

しかし、その理由を知っているからこそ、少しだけ複雑な気持ちにもなる。

彼女たちは、今ここで自分自身の意思によって接している。

それを、特別な意味づけで変えてしまうつもりはなかった。

「……じゃあ、行こうか」

はるたが笑う。

「うん!」

「はい!」

ハルカとのどかが、嬉しそうに答えた。

三人はレインとともに、研究室へ向かおうとした。

その後ろ姿を、和春は静かに見送っていた。

「…………」

愛華が隣へ寄る。

「……和春?」

「ん?」

「まだ気になりますか?」

和春は少しだけ考えた。

そして、小さく笑った。

「……ああ」

「どのあたりが?」

「全部だな」

愛華がくすりと笑う。

「欲張りですね」

「そうか?」

「ええ」

和春は、研究室へ向かう二人の娘と、はるたの背中を見つめた。

「……ただ、一つだけわかったことがある」

「……何ですか?」

「少なくとも、あいつは娘たちにとって、居心地のいい相手らしい」

愛華は静かに頷いた。

「……そうですね」

和春は小さく笑った。

「なら、今はそれで十分だろ」

その言葉に、愛華も柔らかく微笑んだ。

一方。

リリアは、そのやり取りを眺めながら、満足そうにコーヒーを飲んでいた。

(……ふふっ)

金色の瞳が、楽しそうに細められる。

(やはり、主らは面白い)

知らないからこそ生まれる関係がある。

知らないままだからこそ、自然に近づける距離もある。

そして、その理由を知ったとき、どんな答えに辿り着くのか。

それは、まだ誰にもわからない。

リリアは、何も言わなかった。

ただ、静かに笑っていた。