Boundary & Mind-心の境界線-創造主-

紅き結界の内側では、悪魔が何度も魔力を放っていた。

しかし、深紅の壁には傷一つつかない。

リリアは、その様子をしばらく眺めていた。

「……ふむ」

「……どうした?」

はるたが尋ねる。

「少々、騒がしいのう」

「そりゃ、お前に閉じ込められてるからな」

「じゃが、いつまでも付き合う義理はない」

リリアは、静かに悪魔へ視線を向けた。

その瞬間、金色の瞳が冷たく輝いた。

先ほどまでの悪戯好きな少女の笑みが、すっと消える。

「……終わりじゃ」

小さな声だった。

リリアが指先を軽く動かす。

ただ、それだけだった。

結界の内側に、無数の深紅の光が走った。

悪魔は何かを察したように翼を広げ、逃げようとする。

しかし、すでに遅かった。

空間そのものが、紅い光によって閉ざされている。

逃げ場など、どこにも存在しない。

次の瞬間。

深紅の光が、悪魔の身体を貫いた。

「――――ッ!!」

声にならない叫びが、結界の内側で響いた。

巨大な身体が一瞬で崩れ、赤黒い魔力が霧散していく。

それは戦闘と呼ぶには、あまりにも一方的だった。

悪魔が反撃する余地も、抵抗する時間もない。

ほんの一瞬。

Sランク、伯爵級の悪魔は、跡形もなく消滅した。

「…………」

はるたは、呆然とその光景を見つめていた。

「……終わったぞ」

リリアが何事もなかったように告げる。

はるたは、ゆっくりと彼女へ顔を向けた。

「…………は?」

「終わったと言うた」

「……いや、早くね?」

「伯爵級じゃからのう」

「いやいや、だからって……!」

リリアは小首を傾げた。

「もっと派手なものが見たかったのか?」

「そういう意味じゃねえよ!」

はるたは思わず叫んだ。

悪魔の危険度はSランク。

普通なら、現地部隊が慎重に対処しなければならない相手だ。

それをリリアは、ほとんど指先一つで消し去った。

圧倒的という言葉でも足りないほどの力の差だった。

「……本当に、とんでもねえな」

はるたが呟く。

リリアは満足そうに微笑んだ。

「ふふっ。我を誰だと思っておる?」

はるたは少しだけ考えた。

そして、真顔で答えた。

「……退屈嫌いのわがまま真祖」

「そこは素直に褒めぬか!」

「褒めたら調子に乗るだろ」

「ふははは!」

リリアの笑い声が、再び上空へ響いた。

紅き結界は役目を終え、静かに消えていく。

赤い光が無数の粒子となって散り、空には元の青さが戻った。

境界を突破した悪魔は消え、周囲の空間にも異常は残っていない。

ルミナスが警戒していた事態は、あっけなく収束した。

しかし、はるたにとっての災難は、まだ終わっていなかった。

◇

「……なあ、リリア」

「なんじゃ?」

「悪魔は倒したんだよな?」

「うむ。跡形もなく消し去ったぞ」

「……じゃあ、そろそろ帰ろうぜ」

はるたは、リリアにしがみついたまま懇願した。

「できれば今度は、地面のある場所に頼む」

リリアは、そんな彼を見上げると、にっこりと微笑んだ。

「ふむ。そうじゃのう。そろそろ帰るとするか」

「……やっとか」

はるたは安堵の息を吐いた。

長かった。

いや、実際にはそれほど時間は経っていないのかもしれない。

しかし、地上から遥か離れた上空で、吸血鬼の真祖に命を預け続ける時間は、彼にとって何時間にも感じられた。

「まったく……もう二度と空中に連れてくるなよ」

「ふふっ。善処しよう」

「それ絶対しないやつだろ……」

リリアは楽しそうに笑った。

そして、ふと。

「……おっと」

彼女の手が滑った。

正確には、滑らせた。

「…………え?」

はるたの身体が、リリアから離れた。

一瞬、何が起きたのかわからなかった。

目の前にいた少女が、すっと遠ざかっていく。

いや、違う。

自分が落ちている。

「…………」

理解した瞬間、全身から血の気が引いた。

「うわああああああああああ!!」

絶叫とともに、はるたの身体が真っ逆さまに落下していく。

「リリアぁぁぁぁ!!」

必死に手を伸ばす。

しかし、指先に触れるものは何もない。

凄まじい風圧が全身を叩き、衣服が激しくはためいた。

地上の景色が視界の中で大きくなっていく。

「お前ぇぇぇ!! 絶対わざとだろぉぉぉ!!」

遥か上空では、リリアが楽しそうに笑っていた。

「ふはははは! すまぬ、手が滑った!」

「嘘つけぇぇぇぇ!!」

レインが慌てて声を上げた。

「リリアさん!! はるたが落ちています!!」

「見ればわかるぞ」

「そういう問題ではありません!!」

「ふふっ。案ずるな」

リリアは悠然と指先を動かした。

その瞬間。

落下するはるたの真下で、空間が裂けた。

黒紫色の亀裂が一気に広がり、彼の身体を飲み込んでいく。

「うわああああああ――!!」

次の瞬間、視界が反転した。

青空が消え、重厚な天井と豪華な装飾が目に飛び込んでくる。

「――あああああっ!?」

はるたは、ルミナスの玉座の間へ転移していた。

落下の勢いは空間を抜けた瞬間に消え、身体は床のすぐ上でふわりと静止する。

そして、すとん、と床に降ろされた。

「…………」

はるたは、その場にへたり込んだ。

手をつく。

床がある。

ちゃんと硬い。

動かない。

「……床だ」

震える声が漏れた。

「……床がある……」

その直後、目の前の空間が再び裂けた。

そこから、黒と深紅のドレスをまとったリリアが悠然と姿を現す。

「ふむ。無事に戻れたのう」

「…………」

はるたは無言で彼女を見上げた。

リリアは満面の笑みを浮かべる。

「楽しかったじゃろ?」

「…………」

数秒の沈黙。

そして。

「楽しいわけあるかぁぁぁぁぁぁ!!」

怒声が玉座の間に響き渡った。

リリアは腹を抱えて笑い始める。

「ふはははは!! 主の顔! あのときの顔は傑作じゃったぞ!」

「お前なぁ!! 本気で死ぬかと思ったんだぞ!!」

「我がおるのに、死なせるわけがなかろう」

「信用できるかぁぁ!!」

「ふふっ。これほど面白い客は久しぶりじゃ」

はるたは立ち上がろうとした。

しかし、膝が笑っている。

結局、もう一度床に座り込んだ。

「……くそっ。足に力が入らねえ……」

その様子を見たリリアは、さらに楽しそうに笑った。

レインは、そんな二人の間に浮かびながら、深いため息をついた。

「……リリアさん」

「なんじゃ?」

「今のは、さすがにやりすぎです」

「ふむ。そうかのう?」

「そうです!」

リリアは少し考え込むような仕草を見せた。

そして、にっこりと微笑んだ。

「では、次はもう少し穏やかに落としてやろう」

「次がある前提で話すなぁぁぁ!!」

はるたの絶叫が、再び玉座の間に響き渡った。

リリアは、いつまでも楽しそうに笑っていた。

世界の境界を守る吸血鬼の真祖。

伯爵級の悪魔を瞬く間に消し去る、圧倒的な存在。

その力をもってすれば、一人の人間を安全に帰還させることなど造作もない。

ただし、安全に帰すことと、怖い思いをさせないことは、リリアにとってまったく別の話らしい。

「……もう二度と、お前の見物には付き合わねえ」

はるたは床に座り込んだまま呟いた。

リリアは悪戯っぽく目を細める。

「ふふっ。次も楽しみじゃのう」

「だから次はねえって!!」

また一つ、はるたの怒声が玉座の間に響いた。

その声を聞きながら、リリアは心底満足そうに笑っていた。