多種族監視機関《ルミナス》。
世界のいずれの国家にも属さず、異なる種族や領域の均衡を監視するために存在する組織。その本部は、通常の方法では辿り着くことのできない中立領域に置かれていた。
その中心に位置する玉座の間では、吸血鬼の真祖リリアが、相変わらず退屈とは無縁の時間を楽しんでいた。
もっとも、その相手をさせられているはるたにとっては、迷惑以外の何物でもなかった。
「……なあ、リリア」
「なんじゃ?」
「そろそろ帰らせてくれないか?」
玉座に腰掛けた少女は、金色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「帰る? どこへじゃ?」
「とりあえず神代家だよ。ハルカたちに何も言わずに連れてこられたんだからな」
はるたは呆れたように答えた。
元の世界へ帰還する方法を調べていたはずが、気づけばルミナスへ連れてこられ、吸血鬼の真祖を相手に延々と話し込んでいる。
しかも、相手はこちらの都合などお構いなしだった。
「ふむ。そうじゃったのう」
リリアはもっともらしく頷いた。
「じゃあ、戻してくれるのか?」
「もう少し話してからでもよかろう」
「だから、俺の都合は!?」
「ふははは! 主と話しておると退屈せぬからのう!」
「……俺はそろそろ退屈な時間が欲しいんだけどな」
はるたが肩を落とすと、隣に浮かぶレインが小さく笑った。
「はるた。リリアさんも、あなたに聞きたいことがたくさんあるのでしょう」
「そりゃわかるけどさ……」
レインは玉座へ向き直った。
「ただ、私たちも調査の途中です。リリアさん、できれば一度、ハルカさんたちのところへ戻していただけませんか?」
「ふむ……」
リリアは顎に指を添え、考えるような仕草を見せた。
その反応に、はるたはわずかな期待を抱く。
しかし、リリアが答えるよりも早く、玉座の間の扉が勢いよく開かれた。
「リリア様! 緊急報告です!」
駆け込んできたのは、ルミナスの制服を身にまとった男性職員だった。
整えられた制服とは対照的に、その表情には明らかな緊張が浮かんでいる。入室の許可を待つ余裕もないほど、事態が切迫しているらしい。
「……む?」
リリアが顔を上げた。
職員は玉座へ歩み寄りかけたが、途中で足を止めた。
見慣れない青年が一人。
そして、その隣には青白い光をまとった女性が浮かんでいる。
「……失礼しました。こちらの方々は……?」
職員の視線が、はるたとレインの間を行き来する。
はるたは軽く手を上げた。
「……どうも」
「こんにちは」
レインも丁寧に会釈する。
職員はさらに困惑したようだったが、リリアは気にも留めず、片手を軽く振った。
「我の客じゃ。構わぬ、報告せい」
「はっ!」
職員は姿勢を正した。
「境界監視網に異常反応を確認しました。異界との境界線が突破され、悪魔が一体、こちらの世界へ侵入しています!」
その言葉に、はるたの表情が変わった。
レインも職員へ視線を向ける。
リリアは玉座に座ったまま、静かに尋ねた。
「階級は?」
「魔力反応および境界突破時の負荷から、危険度Sランクと判定されました!」
「……ほう。伯爵級か」
リリアの金色の瞳が、わずかに細められた。
ルミナスの危険度分類は、最低のFランクから始まる。上位にはS、SS、SSS、そして既存の基準では測定できない領域が存在する。
悪魔の階級に当てはめれば、Sランクは伯爵級、SSランクは公爵級、SSSランクは魔王級。そして測定不能ともなれば、邪神級に相当する。
今回現れたのは伯爵級の悪魔。
決して軽視できる存在ではない。通常の戦闘員が対峙すれば、甚大な被害をもたらしかねない相手だった。
「侵入地点は?」
リリアが尋ねる。
「上空です。現時点で地上への降下は確認されていません。境界突破地点付近にとどまっていますが、周囲の空間には依然として歪みが生じています」
「ふむ……」
リリアは頬杖をつき、しばらく考えるように目を細めた。
その横で、はるたは小さく息を吐く。
(……Sランクか)
伯爵級の悪魔がどれほど危険な存在なのかは知っている。放置すれば、周辺地域に被害が及ぶ可能性もあるだろう。
しかし、その報告を聞いたリリアの反応は、あまりにも落ち着いていた。
いや、落ち着いているというより、興味がなさそうだった。
彼女にとって、伯爵級など脅威にもならない。
赤子の手をひねるほど容易く排除できる相手なのだから、当然といえば当然だった。
「リリア様、現地部隊への対応指示をお願いいたします」
職員が頭を下げた。
「……ふむ」
リリアは視線を落とした。
そして、ふと、はるたへ目を向ける。
「…………」
金色の瞳が輝いた。
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
はるたは眉をひそめた。
(……おい)
リリアの視線が、はるたを捉えたまま動かない。
(……なんだ、その顔)
「……ふふっ」
小さな笑い声が漏れた。
「面白いことを思いついたぞ」
はるたの背筋に、嫌な予感が走った。
「……リリア?」
リリアは玉座から立ち上がった。
長い金髪が揺れ、黒と深紅のドレスが静かに広がる。
「今回は我が出よう」
職員が驚いたように顔を上げた。
「……リリア様が、ですか?」
「うむ。たまには我が直接赴くのも悪くなかろう」
「承知しました。直ちに現地部隊との連携を――」
「その前に、座標を寄越せ」
「はっ!」
職員は端末を操作した。
空中に立体的な地図が展開され、上空に発生した境界異常の位置が表示される。赤い警告表示が明滅し、悪魔の魔力反応が数値とともに映し出された。
「対象は現在、この座標に出現しています。位置の変動は小さく、魔力反応も継続して確認されています」
リリアは表示を一瞥した。
「ふむ。十分じゃ」
「現地部隊には、リリア様が直接対応される旨を伝えます」
「うむ。周辺空域への接近を禁じよ。こちらで結界を張る」
「承知しました!」
職員は速やかに指示を送った。
はるたは、そのやり取りを眺めながら、少しだけ安心した。
リリアが直接対応するのなら、悪魔の侵入はすぐに収束するだろう。戦力差を考えれば、ほとんど戦闘にすらならないはずだ。
問題は、彼女がなぜあれほど楽しそうなのかということだった。
「さて、はるたよ」
「……ん?」
リリアが満面の笑みを浮かべる。
「主も来るのじゃ」
「…………は?」
数秒間、はるたの思考が停止した。
「……いや、なんで?」
「せっかくじゃ。見物するとよい」
「見物って、お前……相手はSランクの悪魔だぞ?」
「うむ」
リリアは頷いた。
「じゃから?」
「じゃからって……俺は普通の人間なんだよ!」
「知っておる」
「だったら、なんで連れていくんだよ!」
「ふふっ。主の反応が楽しみでのう」
「目的がおかしいだろ!!」
リリアは声を上げて笑った。
「ふははは! 案ずるな。我がおる」
「お前がいるから余計に不安なんだよ!」
はるたは反射的に一歩後ずさった。
リリアの実力は知っている。その力をもってすれば、伯爵級の悪魔など相手にもならない。
だが、彼女の気まぐれな性格も十分に知っている。
相手がどれほど強いかより、リリア自身が何を思いつくのか。その方が、今のはるたにとっては恐ろしかった。
「……リリア。俺は行かねえぞ」
はるたは、はっきりと言い切った。
「そうか」
リリアはにっこりと笑う。
「ならば、連れていくまでじゃ」
「……おい?」
彼女が片手を持ち上げた。
その瞬間、玉座の間の空間が音もなく裂けた。
黒紫色の亀裂が広がり、その内側に底の見えない空間が現れる。
「……ちょっと待て!」
はるたは慌てて後ずさった。
「俺は行かねえって言ってんだろ!」
「ふむ。聞こえておるぞ」
「だったら――」
言い終える前に、身体がふわりと浮いた。
「……は?」
両足が床から離れる。
見えない力に全身を包まれ、そのままリリアの方へ引き寄せられていく。
「おいおいおい!」
はるたは必死に手足を動かした。
しかし、何をしても抵抗にならない。踏ん張るための床さえ、すでに足元にはなかった。
「リリア! 待てって!」
「ふふっ。無駄じゃぞ」
「わかってるけど、抵抗くらいさせろよ!!」
リリアは楽しそうに笑った。
圧倒的な力の差。
人間の身体能力など、彼女の前では何の意味も持たなかった。
力比べにすらならない。
抵抗を許さない理不尽さを、はるたは全身で思い知らされていた。
「レイン! なんとか言ってくれ!」
「リリアさん! はるたは本当に嫌がっています!」
レインが慌てて声を上げる。
しかし、リリアは一向に気にする様子がなかった。
「安心せい。すぐに済む」
「そういう問題ではありません!」
「ふははは!」
リリアははるたを引き寄せたまま、空間の裂け目へ歩み寄った。
「では、行くぞ」
「だから待てってぇぇ!!」
はるたの絶叫とともに、三人の姿が亀裂の中へ消えた。
空間は何事もなかったかのように閉じ、玉座の間に静寂が戻る。
残された職員は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「…………」
そして、小さく呟いた。
「……リリア様、随分と楽しそうだったな」
◇
次の瞬間。
はるたの視界いっぱいに、青空が広がった。
「…………え?」
眩しい光。
頬を打つ冷たい風。
そして、身体を包み込む妙な浮遊感。
はるたは瞬きをした。
目の前には、黒と深紅のドレスをまとったリリアがいる。
彼女は何事もないように、空中に浮かんでいた。
長い金髪が風になびき、金色の瞳が楽しそうに輝いている。
「ふむ。座標は正確じゃな」
リリアが満足そうに呟く。
はるたは、ゆっくりと視線を下げた。
遥か下方に、街並みが見えた。
建物も道路も、まるで精巧な模型のように小さい。地上を走る車など、点のようにしか見えなかった。
「…………」
はるたは、もう一度足元を見た。
床がない。
地面もない。
当然、足場など存在しない。
「…………おい」
小さく呟く。
次の瞬間。
「うわああああああああ!!」
はるたの絶叫が、大空に響き渡った。
「リリアぁぁぁ!!」
反射的に、目の前の少女へしがみつく。
両腕で必死に身体を抱え込み、決して離れまいと力を込めた。
「なんじゃ、騒々しいのう」
リリアは平然としていた。
「なんじゃじゃねえよ!!」
はるたは顔を引きつらせる。
「なんで空なんだよ!?」
「悪魔がここに現れたからじゃ」
「そりゃそうだけど!!」
「座標に誤りはないぞ?」
「そういうことを聞いてるんじゃねえ!!」
はるたは必死に叫んだ。
リリアが上空へ転移した理由は理解できる。
報告された悪魔の侵入地点が空中だったのだから、座標を指定して移動すれば当然こうなる。
理屈はわかる。
しかし、理解できることと納得できることは別問題だった。
「……お前は飛べるからいいよな!」
「うむ」
リリアは誇らしげに頷いた。
「流石は我じゃろう?」
「褒めてねえよ!!」
「ふふっ。主も浮いておるではないか」
「お前が支えてるだけだろ!!」
「その通りじゃ」
「認めるなぁぁ!!」
リリアは声を上げて笑った。
はるたは、さらに強くしがみついた。
一瞬でも手を離したら落ちる。
もちろん、リリアにそのつもりがないことは理解している。だが、足元に何もない状況で、数千年を生きる吸血鬼の気まぐれに命を預けているという事実が、何より恐ろしかった。
「……おい、リリア」
「なんじゃ?」
「絶対に落とすなよ?」
「ふむ」
リリアは少し考えた。
「……どうしようかのう?」
「考えるな!!」
「ふははは!」
「笑い事じゃねえ!!」
金色の瞳が、愉快そうに細められる。
リリアにとって、はるたの反応は期待以上だった。
先ほどまで威勢よく反論していた青年が、今では必死に自分へしがみついている。
恐怖で顔を引きつらせ、口では文句を言いながらも、決して手を離そうとしない。
その姿が、たまらなく面白かった。
◇
「はるた!」
青白い光が揺れ、腕時計型の端末から投影されたレインが、はるたの隣に姿を現した。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫に見えるか!?」
「……見えません!」
「だろうな!!」
レインは困ったように眉を下げた。
「リリアさん。はるたを安全な場所へ移動させていただけませんか?」
「安全な場所?」
「はい。少なくとも、足場のあるところへ」
リリアは小首を傾げる。
「ここは安全じゃぞ?」
「……リリアさんにとっては、です」
「ふむ。確かにのう」
リリアは納得したように頷いた。
はるたは期待を込めて顔を上げる。
「……じゃあ!」
「しかし、悪魔はここにおる」
「…………」
「ゆえに、今はここが最も都合がよい」
「ですよねぇぇ!!」
はるたは力なく叫んだ。
リリアは満足そうに笑う。
「ふふっ。さて、そろそろ仕事をするかのう」
その言葉と同時に、彼女の視線が変わった。
金色の瞳が、前方を捉える。
はるたも、おそるおそる顔を上げた。
少し離れた上空。
そこには、黒い雲のような魔力をまとった異形の存在が浮かんでいた。
人型に近い輪郭を持ちながら、頭部からは湾曲した角が伸び、背中には巨大な黒い翼が広がっている。
周囲の空間には、境界突破による歪みが残っていた。
その中心で、赤黒い魔力が不気味に脈動している。
「……あれが、今回の悪魔か」
はるたは呟いた。
悪魔は、こちらの存在に気づいたようだった。
巨大な翼がゆっくりと動き、赤く輝く瞳がリリアを捉える。
次の瞬間。
空気が、重くなった。
周囲に漂っていた魔力が膨れ上がり、見えない圧力となって広がっていく。
はるたの身体が、反射的に強張った。
「……っ!」
これが伯爵級の悪魔。
Sランクに分類される存在だった。
しかし、リリアはまったく動じなかった。
「……ふむ」
金色の瞳が、わずかに細められる。
「随分と騒がしい客じゃのう」
悪魔の視線が、リリアへ向けられた。
何かを察したのか、その動きがわずかに止まる。
だが、リリアはそんな反応など気にも留めなかった。
「まずは、周囲への影響を遮断せねばな」
彼女は片手を持ち上げた。
はるたの身体を支えたまま、もう一方の手を空へ向ける。
「……紅き結界」
静かな声だった。
次の瞬間。
空中に、巨大な深紅の魔法陣が展開された。
幾重にも重なる紋様が、複雑な軌道を描きながら回転する。
赤い光が上空を走り、無数の線となって広がっていく。
それは悪魔を中心に、周囲の空間そのものを包み込むように展開されていった。
「……うおっ!?」
はるたが思わず声を上げる。
目の前で、巨大な紅い結界が形成されていた。
球状の結界は空中に浮かび、悪魔を逃さぬよう周囲の空間を封鎖していく。
やがて、深紅の光が完全に閉じた。
その内部では、悪魔の放つ赤黒い魔力が渦巻いている。
しかし、どれほど魔力が膨れ上がっても、結界の外へ漏れ出すことはなかった。
「……すげえ」
はるたは思わず呟いた。
紅き結界。
その存在を知っていても、実際に目の前で見る光景は別物だった。
巨大な魔法陣が展開され、空間そのものが封じられる。
そして、そのすべてを、リリアは片手で行っていた。
「……これでよい」
リリアは満足そうに頷いた。
「周囲への影響は遮断した。あとは片づけるだけじゃ」
はるたは、ゆっくりと彼女を見つめた。
「……お前、ほんと規格外だな」
「ふふっ。今さら何を言っておる」
リリアは楽しそうに微笑んだ。
その足元には、何もない。
遥か下方には地上。
目の前にはSランクの悪魔。
そして、彼女は片手で結界を張りながら、もう一方では人間一人を平然と支えている。
はるたは、その圧倒的な力を改めて実感していた。
「……いや、知ってたけどさ」
「ほう?」
「こうして実際に見ると、やっぱ違うわ」
「ふむ。主にも少しは我の偉大さが理解できたようじゃな」
「……偉大さっていうか、理不尽さっていうか」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言ってんだよ」
リリアは声を上げて笑った。
「ふははは! よい、よい!」
しかし、次の瞬間。
結界の内側で、悪魔が大きく翼を広げた。
赤黒い魔力が一気に膨れ上がり、巨大な衝撃波となって結界へ叩きつけられる。
ドンッ!!
鈍い振動が、空間全体へ響いた。
はるたは反射的に身体を縮めた。
「うわっ!?」
だが、結界は微動だにしなかった。
深紅の光が静かに輝き、悪魔の攻撃を完全に受け止めている。
リリアは、その様子を眺めながら小さく笑った。
「……ふむ。元気じゃのう」
「いやいやいや! あれ、結構やばいだろ!?」
「そうか?」
「そうかって、お前……!」
「伯爵級じゃぞ?」
リリアは、まるで当然のことのように答えた。
「我が相手をするほどでもない」
その言葉には、虚勢も慢心もなかった。
ただ、圧倒的な実力差を認識している者の、率直な感想だった。
はるたは苦笑した。
「……まあ、お前からすりゃそうだろうな」
「うむ」
リリアは頷いた。
「それよりも……」
金色の瞳が、はるたへ向けられる。
「……なんだよ?」
「主の顔の方が、よほど面白い」
「はぁ!?」
リリアは声を上げて笑った。
「ふははは! 先ほどから、ころころと表情が変わりおる!」
「誰のせいだと思ってんだよ!!」
「研究室では、あれほど威勢がよかったというのにのう」
「状況が違うだろ!!」
「ふふっ。今は我にしがみついて離れようともせぬ」
「離したら死ぬだろ!!」
リリアは楽しそうに笑った。
はるたは、もう何度目かわからないため息をついた。
(……くそっ。完全に遊ばれてる)
だが、彼女の手は一度も緩んでいない。
恐怖を煽るような冗談を口にしていても、はるたを落とす気など最初からないのだろう。
そのことだけは、何となく理解できた。
だからといって、安心できるわけではなかったが。


