重厚な扉が閉まり、玉座の間に静寂が戻った。
はるたは、望が立ち去った扉を見つめていた。
家族が生きている世界もある。
その事実を知った望が、これからどのような選択をするのか。はるたには、まだわからない。無数に存在する世界線の中には、望が家族と暮らす未来もある。しかし、今ここにいる望が、そこへ辿り着けるとは限らなかった。
そして、はるたにはもう一つ、望に伝えなかった事実がある。
それは、別の世界線の話ではない。
今、この世界に存在している、一人の少女に関わる秘密だった。
「……ふむ」
玉座から、リリアの声が響いた。
「主も、和春と同じじゃな」
はるたが顔を上げる。
リリアは頬杖をついたまま、金色の瞳を細めていた。その表情には、先ほどまでの厳粛な雰囲気とは違う、どこか悪戯めいた笑みが浮かんでいる。
「……どういう意味だ?」
「口がうまい」
「おいおい。いきなりそれかよ」
「ふふっ。褒めておるのじゃぞ?」
「どうだかな……」
はるたは苦笑した。
リリアが口にした和春という名前。
神代和春。
その人物と自分の考え方が似ていることに、はるたは驚かなかった。むしろ、似ていなければおかしいとさえ思っている。
しかし、その理由を説明するつもりはなかった。
リリアは、そんなはるたの表情を眺めながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「主は、望に嘘をつかなかった。じゃが、すべてを話したわけでもない」
「……まあな」
「そして、隠しおったな?」
はるたの表情から、わずかに笑みが消えた。
リリアは金色の瞳を細める。
「望の妹の魂が、もう転生しておることを」
「…………」
はるたは答えなかった。
その沈黙を見て、リリアは小さく笑った。
「言えば、違ったのではないか?」
静かな問いだった。
望が長い年月をかけて抱えてきた悲しみ。その原因となった家族の死。
失われた妹の魂が、すでに新しい命として生きている。
それを知れば、望の感情も少しは変わったかもしれない。
だが、はるたは首を横に振った。
「……言えねぇよ」
リリアがわずかに眉を上げる。
「ほう?」
「未来が変わるどころじゃねぇ……」
はるたは、望が出ていった扉へ視線を向けた。
「知り得てはならない情報だろ。少なくとも、今は……」
その声には、迷いと同時に、明確な意思があった。
リリアは黙って聞いている。
はるたは小さく息を吐いた後、ふと思い出したように眉をひそめた。
「……ってか、お前」
「なんじゃ?」
「あんだけの血だけで、どこまで俺の記憶読みやがった?」
リリアの口元が、ゆっくりと緩んだ。
「ふふっ。さて、どこまでじゃろうな?」
「おい!!」
玉座の間に、リリアの笑い声が響き渡った。
「ふははは! 我に血を飲めと言うたのは主じゃろう?」
「そりゃそうだけどさ! ここまで見られるとは思ってねえよ!」
「ならば、もう少し慎重になるべきじゃったのう」
「……くそっ。正論なのが腹立つ」
はるたは額に手を当てた。
リリアに血を差し出したのは、自分が創造主であることを知らせるためだった。その判断自体に後悔はない。
だが、彼女がどの記憶を読み取り、何を理解したのか。
それを把握できていないことは、少々厄介だった。
何しろ、相手は退屈を嫌う吸血鬼の真祖である。
興味を持ったことには、遠慮なく踏み込んでくる。
(……本当に、面倒な奴だな)
そんなはるたを眺めながら、リリアは満足そうに笑っていた。
◇
「しかし、はるたよ」
リリアが改めて口を開いた。
「なぜ、そこまで隠す必要がある?」
「……ん?」
「望の妹のことじゃ」
はるたは表情を引き締めた。
リリアは頬杖を外し、静かに続ける。
「望がどれほど家族を大切にしておったか、主も知っておろう。魂が輪廻へ戻り、新たな生を得た。それを知ることは、あやつにとって悪いことばかりではあるまい」
「……ああ」
はるたは頷いた。
「望なら、きっと喜ぶだろうな」
その答えに、リリアはわずかに目を細めた。
「……ほう?」
「妹が幸せに生きているとわかれば、あいつは素直に喜べる男だよ」
はるたは迷わず答えた。
望は厳しい男だ。
規律を重んじ、責任感が強く、必要なら敵を殺すことさえ躊躇しない。
しかし、その根底には他者の命を大切にする心がある。
失った家族を愛しているからといって、転生した相手の人生を自分のものにしようとするような男ではない。
新しい命として幸せに暮らしているなら、その幸せを心から祝福できる。
はるたは、そういう望を知っていた。
「……だったら、なおさらではないか?」
リリアが首を傾げる。
「知れば喜ぶ。ならば、教えてやればよかろう」
「……そう簡単な話じゃねえんだよ」
はるたは腕を組んだ。
「知ることによって変わるのは、望の気持ちだけじゃない」
「ふむ?」
「これから出会う人間も、その人との関係も、選択も、全部変わる可能性がある」
リリアは黙っていた。
はるたは続ける。
「例えば、今の時点で妹が誰に転生したのかを教えたら、望はどうすると思う?」
「……会いに行くじゃろうな」
「だろうな」
はるたは頷いた。
「でも、何も知らずに出会った場合はどうなる?」
リリアの金色の瞳が、わずかに揺れた。
はるたは、その反応を見ながら言葉を続ける。
「相手が誰なのかも、どんな関係になるのかも、最初から決まってるわけじゃない。お互いを知って、少しずつ距離を縮めていく。その過程で生まれるものだってあるだろ」
リリアは静かに耳を傾けていた。
「最初から答えを教えたら、その過程そのものが変わる」
「……なるほどのう」
「だから、少なくとも今は言わない」
はるたは、はっきりと答えた。
リリアはしばらく考え込んだ後、小さく笑った。
「ふむ。主は、知っておるからこそ教えぬのじゃな」
「……そういうことだ」
◇
「ですが、はるた」
隣に浮かぶレインが、静かに口を開いた。
「一つ、確認してもいいですか?」
「ああ。なんだ?」
レインは少しだけ考えてから続けた。
「情報を伝えないという判断も、相手の選択に影響を与えるのではありませんか?」
はるたは、わずかに目を細めた。
「……ああ。もちろんだ」
「望さんが真実を知れば、これまでとは違う行動を取るかもしれません。でも、知らなければ選べない道もあるはずです」
「その通りだな」
はるたは素直に頷いた。
情報は、選択肢を増やすこともあれば、減らすこともある。
何かを知ったことで、それまで気づかなかった可能性が見える場合もある。反対に、知ってしまったからこそ、以前と同じようには行動できなくなる場合もある。
そして、情報を伏せるという行為もまた、誰かの未来へ影響を与える。
「だから、絶対に教えちゃいけないとは思ってない」
はるたは答えた。
「ただ、今伝える必要があるのかって話だ」
レインは静かに頷いた。
「……今でなければならない理由はない、ということですね」
「ああ」
はるたは、望が出ていった扉を見つめた。
「何より、望には今、考えることがある」
家族が生きている別の世界が存在する。
その事実を知ったばかりの望が、何を思い、どのような答えを出すのか。
それは、まだわからない。
そこへさらに、妹の魂がすでに転生しているという情報まで与える必要があるのか。
はるたは、そうは思わなかった。
「情報を増やせば、それだけ選択肢が増えるとは限らない。知る順番だって大切なんだよ」
「……なるほど」
レインは小さく頷いた。
しかし、はるたは続けた。
「まあ、これが正しい判断かどうかはわからねえけどな」
「……え?」
「俺が言わないことで、違う未来になる可能性だってある。だから、これが唯一の正解だなんて言えない」
はるたは苦笑した。
「でも、俺は今、そう判断した。それだけだ」
レインは、しばらく彼を見つめていた。
そして、小さく微笑んだ。
「……はるたらしいですね」
「そうか?」
「ええ。自分の判断を絶対の正解だとは言わないところが」
はるたは肩をすくめた。
「そんなもん、誰にもわからねえだろ」
◇
「ふふっ……やはり面白い」
リリアが笑った。
はるたが顔を上げる。
「……何がだよ」
「主は、無限の可能性を語っておきながら、その可能性を知る機会を望から奪った」
「……ああ」
「しかも、それが正しいかどうかわからぬと言う」
リリアは愉快そうに目を細めた。
「随分と矛盾したことをしておるのう」
はるたは苦笑した。
「そうだな」
「否定せぬのか?」
「できねえよ。事実だからな」
リリアは少しだけ目を丸くした。
はるたは続ける。
「情報を教えることも、教えないことも、誰かの未来に影響する。だったら、何を選んだって何かは変わる」
「……ふむ」
「だから、考えるしかないんだよ。その情報を伝えることで、何が起きる可能性があるのかを」
リリアは、静かに頷いた。
「なるほどのう」
はるたは玉座を見上げた。
「それに、お前だってわかるだろ?」
「なんじゃ?」
「望がどんな男なのか、一番よく知ってるのはお前じゃねえか」
リリアの表情が、わずかに変わった。
長い年月を共に過ごしてきた。
幼い頃に家族を失い、憎しみを抱え、それでも前へ進もうとしてきた望を、ずっと見てきた。
彼は決して、家族を失った悲しみだけで生きている男ではない。
正義感が強く、規律を守り、誰かを守るために戦い続けてきた。
そして、誰かの幸せを心から喜ぶことのできる男でもある。
「……ああ」
リリアは静かに答えた。
「望は、そういう男じゃな」
はるたは頷いた。
「だから、俺もあいつを信じてる」
リリアは金色の瞳を細めた。
「……ほう?」
「望がいつか真実を知ったとしても、きっと自分で考えて答えを出せる」
「……ふむ」
「だったら、俺が今、先回りして答えを与える必要はないだろ」
その言葉に、リリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……主も、なかなか頑固じゃのう」
「お前に言われたくねえよ」
「ふははは!」
玉座の間に、リリアの笑い声が響いた。
◇
「……リリア」
しばらくして、はるたが口を開いた。
「なんじゃ?」
「妹の転生については、望には言わないでくれ」
リリアは、金色の瞳を細めた。
「……我に命じるつもりか?」
その声音には、わずかな威圧が混じっていた。
はるたは首を横に振る。
「いや。頼んでるんだ」
「……ふむ」
「俺が勝手に決めていいことじゃない。望のことを一番よく知ってるのは、お前だろ」
リリアは黙って聞いていた。
はるたは続ける。
「それに、お前にはお前の考えがある。俺の言うことが全部正しいなんて思ってねえよ」
リリアの口元が、わずかに緩んだ。
「……なるほどのう」
彼女は玉座の背もたれに身体を預け、しばらく考え込んだ。
そして、静かに頷いた。
「よかろう」
はるたが顔を上げる。
「……いいのか?」
「うむ。少なくとも、今すぐ望に知らせるつもりはない」
「……ありがとな」
リリアは小さく笑った。
「ただし、いつまでも隠すとは限らぬぞ」
「ああ。それでいい」
はるたは頷いた。
リリアが自分で判断したのなら、それを尊重する。
今は秘密を守る。
しかし、いつか知らせるべきときが来るかもしれない。
その判断まで、今ここで固定する必要はなかった。
◇
はるたは、再び玉座の間の扉を見つめた。
望はまだ知らない。
失った妹の魂が、すでに別の命として生きていることを。
そして、その存在が決して遠い場所にいるわけではないことも。
神代和華。
のどか。
はるたは、その少女の姿を思い浮かべた。
穏やかで、理解力が高く、他人の気持ちを大切にする少女。
彼女は彼女自身の人生を生きている。
望の妹の代わりとして存在しているわけではない。
そして、望もまた、彼女を過去の妹の代わりとして扱うような男ではなかった。
はるたは、そのことを知っていた。
無数に存在する未来の中には、望とのどかが親しくなり、彼女が望を「お兄ちゃん」と呼ぶ世界もある。
望は、なぜかのどかに甘かった。
普段は厳格で、規律を重んじる男なのに、彼女に対してだけはどこか態度が違う。
その理由を、望自身は知らない。
何も知らずに出会い、互いを知り、関係を築いていく。
そして、ずっと後になって、魂のつながりを知る。
そんな未来がある。
(……だから、今は言えねえんだよ)
はるたは小さく息を吐いた。
今ここで真実を明かせば、その未来は大きく変わるかもしれない。
それが悪い結果になると決まったわけではない。
しかし、まだ何も知らない二人が、自分自身の意思で歩む道を、創造主という立場から先回りして決めたくはなかった。
「……はるた?」
レインが静かに声をかける。
「……ん?」
「何か考え事ですか?」
はるたは小さく笑った。
「ああ。ちょっとな」
「……そうですか」
レインは、それ以上聞かなかった。
彼女には、はるたがまだ何かを考えていることがわかった。しかし、今すぐ言葉にするつもりがないことも感じ取っていた。
リリアは、そんな二人を眺めながら、楽しそうに笑った。
「ふふっ。主は本当に隠し事が多いのう」
「お前が知りすぎなんだよ」
「我に血を飲ませたのは主じゃろう?」
「だから、それはもういいって!」
リリアは高らかに笑い声を上げた。
「ふははは! やはり主は面白い!」
はるたは呆れたように肩をすくめた。
「……本当に、退屈しねえな。お前は」
「当然じゃ!」
リリアは得意げに胸を張った。
「退屈など、我には似合わぬからのう!」
はるたは苦笑した。
世界の境界を管理する吸血鬼の真祖。
その自由奔放さに振り回されながらも、彼女が望を大切に思っていることは理解できた。
そして、望とのどかがいつかどのような関係を築くのか。
それは、まだ語るべきときではない。
知っているからこそ、口にしない。
未来に無数の可能性があるのなら、その可能性を誰かの言葉一つで決めつけるべきではない。
はるたは、閉じられた扉をもう一度だけ見つめた。
(……望)
いつか真実を知る日が来るかもしれない。
そのとき、彼がどんな表情を見せるのか。
はるたには、いくつもの可能性が思い浮かんでいた。
だが、その答えを今、決めるつもりはなかった。
望の人生は、望自身のものなのだから。


