Boundary & Mind-心の境界線-創造主-


「……なぜ、俺の家族だったんだ」

望の声が、静まり返った玉座の間に響いた。

つい先ほどまで、はるたに刃を向けていた男。その水色の瞳には、今も激しい怒りが残っていた。しかし、その声には怒鳴りつけるような勢いはない。むしろ、長い年月をかけて積み重なった感情を、必死に抑え込んでいるようだった。

はるたは答えなかった。

望の過去を知っている。幼い頃、ソウルイーターによって両親を目の前で引き裂かれ、さらに妹まで奪われたことも。リリアが間一髪で悪魔を撃破したことで家族の魂は輪廻へ戻れたものの、失われた命は二度と戻らなかったことも。

そして、望がなぜ神を憎んでいるのかも。

すべて知っているからこそ、簡単には答えられなかった。

「……答えろ」

望が一歩踏み出した。

ノスクの切っ先は下がっていたが、武器を収める様子はない。その手には、今も力がこもっている。

「なぜ、あの日だった。なぜ、俺の家族だったんだ」

はるたは、ゆっくりと息を吸った。

あの日の出来事について、どれだけ言葉を尽くしても、望が失ったものは戻らない。それは理解している。

しかし、ここで黙り続けるわけにもいかなかった。

「……望」

はるたは顔を上げた。

「俺は、世界を創造した」

水色の瞳が鋭く細められる。

「……それは聞いた」

「ああ。だが、俺が創造したのは、世界のすべてを一つの結末へ導く仕組みじゃない」

はるたは静かに言葉を続けた。

「どんな人物が存在し、何を中心に世界が動き始めるのか。その構造を作った。そして、その世界に幾千、幾万……いや、無限ともいえる可能性と選択肢を与えた」

「……選択肢?」

「そうだ」

望は眉をひそめた。

はるたは、彼の反応を確かめながら続ける。

「人は選択する。小さなことから、人生を左右するような大きなことまでな。その一つひとつが未来を変えていく」

誰と出会うのか。誰を信じるのか。どの道を進み、どの道を選ばないのか。

その選択によって、新しい未来が生まれる。

しかし、はるたが語ろうとしている世界の仕組みは、それだけではなかった。

「そして、可能性は未来だけにあるわけじゃない」

望の表情が、わずかに変わった。

「……どういう意味だ」

はるたは一度、玉座へ視線を向けた。

リリアは何も言わず、二人を見つめている。先ほどまでの悪戯っぽい笑みは消えていた。

彼女は、はるたが何を語ろうとしているのか理解している。

だが、その先を代わりに説明することはしなかった。

はるたは望へ向き直った。

「過去、現在、未来。それらは同一の時空の中に存在している」

「…………」

「ある選択によって、違う未来が生まれる。そして、創造主が新しい可能性を加えれば、過去も現在も異なる世界が生まれる」

望は黙って聞いていた。

「俺が創造したのは、可能性が一つに固定された世界じゃない。人が選択し、それぞれの人生を歩める世界だ」

はるたは、まっすぐに望を見つめた。

「……今、俺たちがいるのが、どの世界線なのかは誰にもわからない」

玉座の間に、静かな声が響く。

「だが、選択が違えば、別の世界がある。異なる過去を持ち、異なる現在を生き、違う未来へ進んでいく世界が」

望の水色の瞳が、わずかに揺れた。

はるたは、少しだけ言葉を止めた。

そして、静かに告げた。

「……つまり、お前の家族が生きている世界もある」

◇

望は動かなかった。

ノスクを握る手も、はるたを見据える視線も、そのままだった。

「…………何?」

しばらくして、低い声が漏れた。

はるたは繰り返した。

「お前の両親も、妹も、生きている世界がある」

「……ふざけるな」

望の眉間に深い皺が刻まれた。

「そんなことを言って、俺が喜ぶと思ったのか?」

「……思ってない」

「だったら、何が言いたい!」

望の声が強くなる。

「あいつらは死んだ! 俺の目の前で! 何もできずに、ただ見ていることしかできなかった!」

はるたは言葉を挟まなかった。

「父さんも、母さんも……妹も!」

望は歯を食いしばった。

幼い頃の光景が、記憶の奥から鮮明によみがえる。

助けを求める声。伸ばされた手。目の前で崩れていく、当たり前だった日常。

何千回、何万回と思い返したところで、結果は変わらない。

リリアに救われた。

家族の魂は、輪廻へ戻ることができた。

それでも、自分の隣に家族が戻ってきたわけではなかった。

「……別の世界で生きているから、それでいいとでも言うのか」

望の声が震えた。

はるたは静かに首を横に振った。

「違う」

「……何が違う」

「別の世界が存在していても、今のお前が家族を失った事実は変わらない」

望は黙った。

「お前が生きてきた時間も、抱えてきた苦しみも、別の世界があるからといって消えるわけじゃない」

「…………」

「俺は、それをなかったことにしようとしてるんじゃない」

はるたの声は落ち着いていた。

しかし、その表情には苦しさが滲んでいた。

「ただ、お前の家族が失われることだけが、唯一の可能性じゃなかった。それを伝えたかった」

望は、しばらくはるたを睨みつけていた。

そして、低い声で尋ねた。

「……ならば、なぜこの世界では死んだ」

はるたは口を閉じた。

「ほかの世界では生きている? 選択によって未来が変わる? そんなことは聞いていない」

望は、ゆっくりとノスクを持ち上げた。

「俺が聞いているのは、この世界のことだ」

切っ先が、はるたの胸元へ向けられる。

「なぜ、俺の家族が死ななければならなかったのか。それを聞いている」

はるたは、その刃を見つめた。

答えを求める望の気持ちは理解できる。

だが、すべての出来事に、本人が納得できる理由が存在するとは限らない。

ましてや、家族の死に対して、誰もが受け入れられる答えなど簡単に出せるはずがなかった。

「……望」

はるたは、ゆっくりと口を開いた。

「俺は、お前の家族が死んでよかったなんて思ってない」

「…………」

「それに、今のお前を作るために家族の死が必要だったとも言わない」

望の眉が、わずかに動いた。

「家族が生きていたら、別の人生があったはずだ。その人生が、今のお前の人生より劣っていたなんてこともない」

はるたは静かに続けた。

「ただ、俺は世界を創造した。そして、その世界に生きる人間には、それぞれの意思と選択がある」

「……それが答えか」

「いや」

はるたは首を横に振った。

「これだけで、お前の問いに答えられたとは思ってない」

望は表情を変えなかった。

「……なら、答えろ」

「俺が世界を創造したことと、お前が失ったもの。その二つを、たった一つの理由で結びつけて納得させることはできない」

はるたは拳を握りしめた。

「俺がどんな言葉を並べても、お前の家族が戻ってくるわけじゃない。お前が納得できるとも思ってない」

望の瞳には、怒りが残っていた。

はるたは目を逸らさなかった。

「だから、俺を許せとは言わない」

◇

「……許す?」

望が低く呟いた。

その口元が、わずかに歪む。

「……俺がお前を許すとでも思ったか」

「思ってない」

「なら、なぜそんな話をした」

はるたは少し考えた。

望が求めていたのは、失われた家族に対する答えだった。

だが、はるたが伝えられるのは、世界の構造と、そこに存在する可能性だ。

その情報が望にとって救いになるのか、あるいは新しい苦しみを生むのか。

それを、創造主である自分が決めるべきではなかった。

「……お前に、知らないままでいてほしくなかったからだ」

望が眉をひそめる。

「何をだ」

「可能性を」

はるたは静かに答えた。

「今のお前が生きている世界だけが、すべてじゃないということを」

「…………」

「それを知って、どうするかはお前が決めればいい」

望は、しばらく何も言わなかった。

「……家族が生きている世界がある」

ゆっくりと、その言葉を繰り返す。

「そこには……俺もいるのか」

「ああ」

「……俺が、家族と暮らしているのか」

「そうだ」

望は、ゆっくりと目を閉じた。

もしも、あの日がなかったら。

もしも、家族が無事に朝を迎えていたら。

父親と食卓を囲み、母親に叱られ、妹に振り回されるような日々が続いていたら。

そんな人生が、どこかに存在している。

その可能性を、考えたことがなかったわけではない。

何度も願った。

あの日に戻れたら。

ほんの少しでも、何かが違っていたら。

だが、それは決して叶わない願いだと思っていた。

それが今、創造主を名乗る青年によって、別の世界には存在すると告げられた。

「…………」

望の手が、ノスクの柄を強く握り直した。

「……なら」

小さな声が漏れる。

「……なら、そこへ行けば……」

言いかけて、望は口を閉じた。

はるたは何も言わなかった。

そこへ行く方法があるのか。

別の世界へ渡ったとして、その家族は自分を知っているのか。

そして、そこにいるもう一人の自分は、どうなるのか。

考えなければならないことは、いくらでもある。

だが、望はまだ、その問いを口にしなかった。

ただ、家族が生きている世界があるという事実を、必死に受け止めようとしていた。

◇

「……はるた」

レインが静かに声をかけた。

はるたはわずかに顔を向ける。

彼女は何も言わず、望の様子を見つめていた。

レインもまた、今の言葉がどれほど重い意味を持つのか理解している。

別の世界に家族が生きている。

それは希望になり得る。

しかし、今の望にとっては、取り戻せないものを改めて突きつけられる言葉でもあった。

そのどちらとして受け止めるかは、望自身にしか決められない。

「……リリア」

不意に、望が口を開いた。

玉座の少女が、静かに視線を向ける。

「なんじゃ?」

「……こいつの言っていることは、本当なのか」

リリアはすぐには答えなかった。

金色の瞳が、はるたへ向けられる。

彼女は、血を介してその記憶の一部を見ている。

世界の構造も、無数に広がる可能性も、目の前の青年が創造主であることも知っていた。

しかし、だからといって、望が家族を失った痛みまで消せるわけではない。

「……ふむ」

リリアは静かに頷いた。

「少なくとも、我が確かめた限り、はるたが創造主であることに偽りはない」

望は黙って聞いていた。

「じゃが、主が何を信じ、どうするかは主自身の問題じゃ」

その声には、いつもの悪戯めいた響きがなかった。

「我は主の代わりに答えを選ぶつもりはない」

望は、ゆっくりと視線を落とした。

リリアが自分に何かを押しつけようとしていないことはわかった。

長い年月を共に生きてきたからこそ、その言葉の意味も理解できる。

それでも、簡単には割り切れなかった。

「……そうか」

短く答える。

そして、はるたへ視線を戻した。

「……俺は、お前を許さない」

はるたは静かに頷いた。

「……ああ」

「家族が生きている世界があるとしても、今の俺の家族が死んだ事実は変わらない」

「わかってる」

「……簡単に、わかったようなことを言うな」

鋭い言葉だった。

はるたは口を閉じた。

望は続けた。

「お前は、俺が何を失ったのか知っているのかもしれない。だが、そのとき俺が何を感じたのか、どれほど苦しかったのか……それを経験したわけじゃない」

はるたは、ゆっくりと頷いた。

「……そうだな」

望の言う通りだった。

何が起きたのかを知っていることと、その苦しみを経験したことは違う。

その境界線を、はるたは越えることができない。

「……だから、俺がお前の気持ちを全部理解してるなんて言わない」

望は黙った。

「ただ、知らなかった可能性があることだけは伝えたかった」

はるたは、それ以上言葉を重ねなかった。

◇

長い沈黙が流れた。

やがて、望はノスクの切っ先をゆっくりと下ろした。

怒りが消えたわけではない。

はるたを許したわけでもない。

ただ、今ここで斬ることが、自分の求める答えにつながらないことは理解していた。

「……今は、斬らない」

低い声が響いた。

「リリアが止めた。それだけだ」

「……わかった」

はるたは短く答えた。

望はノスクを収めると、玉座の間の出口へ向かって歩き始めた。

その背中には、先ほどまでの殺意とは違う、重い沈黙がまとわりついていた。

扉の前で、望は足を止める。

「……創造主」

はるたが顔を上げた。

望は振り返らなかった。

「……家族が生きている世界があると、言ったな」

「ああ」

「……その言葉、忘れるなよ」

はるたは、静かに答えた。

「忘れない」

望はそれ以上何も言わず、扉の向こうへ姿を消した。

重厚な扉が閉まる音が、玉座の間に響いた。

◇

はるたは、しばらく動けなかった。

望の怒りを理解しているつもりだった。

なぜ神を憎み、なぜ悪魔を殺し続けるのか。その理由も知っていた。

しかし、実際に本人と向き合い、問いかけられると、知識だけでは届かないものがあることを痛感した。

「……難しいな」

小さく呟く。

レインが隣へ視線を向けた。

「……ええ」

はるたは、望が消えた扉を見つめていた。

「世界を創造することと、そこで生きる人間の苦しみに向き合うことは、全然違うんだな」

レインは静かに頷いた。

「はるたが世界の構造を知っていても、そこに生きる人たちの気持ちを、すべて決められるわけではありませんからね」

「ああ」

はるたは小さく息を吐いた。

「……でも、それでいいんだと思う」

レインが顔を向ける。

「……どういうことですか?」

「俺が全部決めて、全部答えを出す世界だったら、そこに生きる人間の自由なんてないだろ」

はるたは静かに答えた。

「だから、望が俺を許さなくてもいい。憎んでもいい。それも、あいつ自身の選択だからな」

レインは、しばらく黙っていた。

そして、小さく微笑んだ。

「……そうですね」

玉座のリリアは、二人の会話を静かに聞いていた。

普段なら、面白そうな話にはすぐに口を挟む彼女も、今は何も言わなかった。

望が抱えているものを知っている。

そして、はるたが語った可能性の意味も理解している。

だからこそ、簡単に笑い飛ばすことはできなかった。

「……はるたよ」

リリアが口を開く。

はるたが顔を上げた。

「なんだ?」

「主の言う無限の可能性とやら……」

金色の瞳が、わずかに細められる。

「なかなか、厄介なものじゃのう」

はるたは苦笑した。

「……そうだな」

「可能性があるということは、選ばねばならぬことも増える」

「……ああ」

リリアは、望が出ていった扉へ視線を向けた。

「そして、どの道を選ぼうと、失ったものが消えるわけではない」

はるたは黙って頷いた。

無限の可能性。

それは、すべての苦しみをなくす魔法ではない。

ただ、どれほど厳しい現実の中にあっても、未来がたった一つに決められているわけではないということ。

そして、その先へ進むかどうかを決めるのは、創造主ではない。

そこに生きる人間自身だった。

はるたは、もう一度だけ扉を見つめた。

(……望)

彼がこれから何を考え、どのような選択をするのか。

それを、はるたが決めるつもりはなかった。

ただ、今まで知らなかった可能性を一つ示した。

それが、望にとって何を意味するのか。

答えが出るのは、まだ先のことだった。