Boundary & Mind-心の境界線-創造主-


「……色々ありすぎて、思考が巡ってなかったな」

はるたは小さく息を吐いた。

自分が創造した世界への転移、ハルカたちとの出会い、帰還方法の研究。そして、目の前にいる吸血鬼の真祖による突然の連行。次から次へと起こる出来事に対応するうちに、肝心な可能性を見落としていたらしい。

自分がこの世界へ現れたことで、新たな世界線が生まれたのではないか。

それは、先ほどリリアが提示した仮説だった。

「……頼りない創造主じゃな」

玉座に腰掛けたリリアが、愉快そうに笑った。

「主の頭なら、その程度は考えつくじゃろうに」

「考えつかなかったわけじゃねえよ。そこまで頭が回ってなかったんだ」

「ふむ。言い訳か?」

「事実だっての!」

リリアは口元に手を添え、くすくすと笑った。

自分を創造したとされる青年が、こうして目の前で必死に弁解している。その光景が、彼女にはたまらなく愉快だった。

はるたは苦笑しながら玉座を見上げる。

「……それにしても、お前、本当に楽しそうだな」

「当然じゃ。これほど面白い出来事、そうそうあるものではないからのう」

リリアは頬杖をつき、金色の瞳を輝かせた。

「我は退屈が嫌いじゃ。長く生きておると、大抵のことには驚かなくなる。じゃが、主のような存在は初めてじゃ」

「そりゃそうだろうな」

「しかも、創造主とやらが随分と人間臭い。もっと偉そうな存在かと思えば、我に威圧されて汗をかき、連れてこられれば文句ばかりじゃ」

「普通の人間だからな、俺は」

「ふふっ。それがまた面白いのじゃ」

はるたは肩をすくめた。

リリアが自分に興味を持ったことは、もはや疑いようがない。問題は、その興味がどこへ向かうのかだった。

彼女は気まぐれで、面白そうなことを見つけると遠慮なく首を突っ込む。

そして今、その対象になっているのは自分自身だった。

(……しばらくは振り回されそうだな)

はるたがそんなことを考えていると、リリアが不意に口を開いた。

「ところで、はるたよ」

「……今度はなんだ?」

「主の世界線の話じゃが……」

リリアはわざとらしく言葉を区切った。

そして、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「IFの世界線じゃったら、面白いがのう」

「…………」

はるたの動きが止まった。

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

いや、正確には理解したくなかった。

「……おい」

「なんじゃ?」

「……今、なんて言った?」

「IFの世界線じゃったら面白い、と言うたのじゃ」

リリアは平然と答えた。

はるたの顔から、すっと血の気が引いた。

(……待て)

公開している物語なら、まだいい。

そこには作者として見せたい世界があり、伝えたい思想があり、読者に読んでもらうことを前提とした物語がある。

だが、IF世界線は違う。

誰かに評価してもらうための作品ではない。公開するつもりもない、自分の趣味と妄想を遠慮なく詰め込んだ、完全な私的創作だった。

恋愛関係も、人物同士の距離感も、公開作品とは大きく異なる。成人向けの展開も容赦なく盛り込み、官能小説や恋愛ゲームのような濃密な場面まで書いている。

つまり、他人に見られることなど想定していない。

しかも、その物語の登場人物が、今まさに目の前で笑っているのだ。

「全然面白くねえ!!」

はるたは反射的に叫んだ。

「なんじゃ、急に大きな声を出しおって」

「急にも何もあるか!」

はるたは額に手を当てた。

「……あれは俺の妄想だぞ。思いっきり十八禁だ……!」

自分で口にした瞬間、余計に恥ずかしくなった。

リリアは、その反応を見逃さなかった。

「ふふっ。そうじゃな」

「……なんだよ」

「なかなか自由な発想をしておるようじゃのう」

「褒めてねえだろ、それ!」

「褒めておるぞ? 我は面白いものが好きじゃからな」

「そういう問題じゃねえ!」

はるたは頭を抱えた。

自分が創造主であることを知らせるために、リリアへ血を差し出した。

それは必要な判断だった。

しかし、考えてみれば、記憶を探る能力を持つ相手に自分の血を渡したのである。

読まれたくない記憶まで見られる可能性は、当然あった。

(……いや、わかってた。わかってたんだけどさ!)

よりによって、そこに食いつくとは思わなかった。

リリアは玉座の上で楽しそうに足を揺らしながら、さらに言葉を続けた。

「主が書いたというのに、ずいぶん慌てるものじゃな」

「そりゃ慌てるだろ!」

「ふふっ。描くというのか、覗くというのか……どちらが正解かなど、どうでもよいが」

「……おい、それ以上はやめろ」

「創造した世界を、随分と自由に楽しんでおるようじゃのう」

「言い方ぁぁ!!」

リリアはとうとう声を上げて笑い始めた。

「ふはははは! なんじゃ、その顔は!」

はるたは真っ赤になった顔を片手で覆った。

「……頼むから忘れてくれ」

「嫌じゃ」

「即答すんな!!」

「これほど面白いものを、なぜ忘れねばならぬ?」

「俺が恥ずかしいからだよ!」

「ふむ。では、なおさら忘れられぬのう」

「最悪だ、こいつ!!」

玉座の間に、リリアの楽しそうな笑い声が響き渡った。

◇

しばらくして、はるたは深いため息をついた。

「……もういい。好きに笑え」

「ふふっ。随分と早い降参じゃな」

「お前に言い返したところで、喜ぶだけだろ」

「ほう。よくわかっておるではないか」

「自分で設定した性格だからな」

思わず本音が漏れた。

リリアは目を細める。

「そうじゃったのう」

その口元には、まだ笑みが残っていた。

はるたは少しだけ表情を緩めた。

からかわれるのは面白くないが、彼女がこういう人物であることは最初から知っている。

退屈を嫌い、自分の興味に忠実で、気に入った相手を遠慮なく振り回す。

しかし、気まぐれだからといって愚かなわけではない。

むしろ、その判断力と知性は、はるた自身がよく理解していた。

先ほどの世界線に関する考察も、その証拠だった。

「……それにしても」

はるたは改めてリリアを見つめた。

「お前とこうして話すことになるとは思わなかったな」

「ふむ。我もじゃ」

「だろうな」

「自分の世界を創った人間が現れるなど、聞いたこともないからのう」

リリアは玉座の背もたれに身体を預けた。

「しかも、その創造主が帰り道を見失っておる。実に愉快じゃ」

「そこは笑うなよ」

「ふははは!」

はるたも、つられて小さく笑った。

確かに、奇妙な話だ。

自分が生み出した世界の中で、自分が生み出した人物と会話している。

そして、その人物に新しい可能性を示され、からかわれ、今は玉座の前で笑っている。

物語を書いていた頃には、想像もしなかった光景だった。

もっとも、リリアが笑っている理由と、自分が笑っている理由は少し違うのだろう。

「……なあ、リリア」

「なんじゃ?」

「お前、自分が創られた存在だって知って、どう思った?」

リリアの笑みが、わずかに変わった。

「……ふむ」

金色の瞳が、はるたを真っ直ぐに捉える。

「奇妙な気分ではあるのう」

「だろうな」

「じゃが、それだけじゃ」

「……それだけ?」

リリアは頷いた。

「主が我を創ったというのなら、それは事実なのじゃろう。じゃが、我が歩んできた年月まで消えるわけではあるまい?」

はるたは黙って耳を傾けた。

「我は我じゃ。主がどういうつもりで我を創ったのかは知らぬが、今ここで考え、話しておるのは我自身じゃろう?」

「……ああ」

「ならば、それでよい」

リリアはあっさりと言い切った。

はるたは、その言葉を静かに受け止めた。

自分にとっては、創作した人物。

しかし、彼女にとっては、自分自身の人生。

何千年もの年月を生き、数えきれないほどの出来事を経験し、数多くの選択を積み重ねてきた。

それらは、はるたの知識の中に存在する設定であると同時に、彼女が生きてきた現実でもある。

「……そうだな」

はるたは小さく頷いた。

リリアは満足そうに微笑んだ。

「ふふっ。ようやく納得したか?」

「いや、納得っていうか……」

少し考えてから、はるたは答えた。

「……お前らは、ちゃんと生きてるんだなって思っただけだ」

リリアは一瞬だけ目を丸くした。

そして、再び笑った。

「ふははは! 当たり前じゃ! 我を何じゃと思っておった?」

「吸血鬼の真祖」

「それだけか?」

「退屈嫌いのわがまま女王様」

「……余計なものが混じっておるぞ」

「事実だろ?」

「ふふっ。言うではないか」

リリアは愉快そうに目を細めた。

◇

玉座の間に、しばし穏やかな沈黙が流れた。

はるたは、先ほどまでの会話を思い返していた。

自分が創造した世界。

そこに存在する人々。

そして、その世界の中で、自分自身が一人の人間として行動している。

もし、この世界が自分の転移によって新たに分岐したのだとすれば、今後の出来事は既存の物語とは異なる可能性がある。

それは帰還方法の問題だけではない。

この世界の均衡にも影響を及ぼすかもしれなかった。

「……リリア」

はるたが口を開く。

「一つ、聞いてもいいか?」

「なんじゃ?」

「俺がこの世界に来たことで、何か問題が起きる可能性はあると思うか?」

リリアの表情から、笑みが少しずつ薄れていった。

代わりに、王としての落ち着きが戻ってくる。

「……ふむ」

しばらく考えた後、彼女は静かに答えた。

「可能性はあるじゃろうな」

はるたは眉をひそめた。

「……やっぱりか」

「ただし、今の段階で断定することはできぬ」

リリアは頬杖をつき直した。

「主がこちらの世界に現れた。それ自体が、すでに異常な出来事じゃ」

「ああ」

「じゃが、異常であることと、害を及ぼすことは同じではない」

その言葉に、はるたは顔を上げた。

「……なるほど」

「境界を越えた存在が、すべて敵というわけではない。問題は、その存在が何をもたらすかじゃ」

リリアは静かに続けた。

「主が何者であろうと、我が守るべきものは変わらぬ」

その声には、先ほどまでの悪戯好きな少女を思わせる響きはなかった。

「世界の均衡じゃ」

はるたは黙って頷いた。

リリアは世界の境界を管理する王だ。

普段はわがままで自由奔放でも、その責任を忘れているわけではない。

必要であれば、世界を守るために非情な決断を下すことさえある。

それが、はるたの創り上げたリリアという存在だった。

「……つまり、俺が問題を起こしたら容赦しないってことか」

「当然じゃ」

即答だった。

はるたは苦笑する。

「……だろうな」

「じゃが、今すぐ主をどうこうするつもりはないぞ」

「……そうなのか?」

リリアは、再び楽しそうに笑った。

「せっかく面白いものを見つけたのじゃ。すぐに壊してはつまらぬじゃろう?」

「……俺はおもちゃかよ」

「ふふっ。違うのか?」

「違うわ!!」

玉座の間に、再びリリアの笑い声が響いた。

◇

「さて、はるたよ」

リリアが姿勢を正した。

「主の話は、まだまだ聞き足りぬ」

「……だろうな」

はるたは肩をすくめた。

「でも、俺も聞きたいことがある」

「ほう?」

「この世界の境界についてだ。元の世界へ帰る方法を探すなら、お前らが持ってる情報は役に立つかもしれない」

リリアは興味深そうに目を細めた。

「ふむ。ルミナスの情報を求めるか」

「ああ。もちろん、何でも教えろとは言わねえよ」

「当然じゃな」

「でも、可能性があるなら調べたい」

はるたは真剣な表情で続けた。

「俺は元の世界に帰りたい。そのために必要な情報なら、一つでも多く集めたいんだ」

リリアはしばらく彼を見つめていた。

そして、満足そうに頷いた。

「ふむ。よかろう」

「……協力してくれるのか?」

「我が面白いと思う間はな」

「……結局それかよ」

「ふははは! 当然じゃ!」

はるたは呆れたように笑った。

しかし、悪い話ではなかった。

少なくとも、ルミナスの長であるリリアが自分に興味を持ち、話を聞いてくれる。

帰還方法を探す上で、大きな手がかりになる可能性はある。

「……まあ、よろしく頼むよ」

「うむ!」

リリアは楽しそうに頷いた。

「しかし、はるたよ」

「……なんだ?」

「主のIF世界線の話も、いずれ詳しく聞かせてもらおうかのう」

「蒸し返すなぁぁ!!」

「ふはははは!」

はるたは両手で顔を覆った。

(……駄目だ。こいつ、絶対忘れねえ)

何千年も生きている吸血鬼の真祖。

世界の均衡を守る王。

そして、退屈を何より嫌う、気まぐれな自由人。

そのすべてが、目の前の少女を形づくっている。

はるたは、自分の創造した人物がここまで自由奔放だったことを、改めて実感していた。

(……とんでもない奴を創ったもんだ)

だが、不思議と後悔はなかった。

自分が思い描いた人物が、こうして自分の意思で笑い、考え、行動している。

その事実は、創作者として何よりも興味深いものだった。

はるたは、ゆっくりと顔を上げた。

「……さて、リリア」

「なんじゃ?」

「そろそろ真面目な話に戻ろうぜ」

リリアは、にっこりと微笑んだ。

「ふむ。主が我を退屈させぬのならな」

「……注文の多い女王様だな」

「ふふっ。今さらじゃろう?」

はるたは苦笑した。

確かに、その通りだった。

創造主と、吸血鬼の真祖。

二人の対話は、まだ始まったばかりだった。

そして、世界の境界を越えてきた青年の存在が、これから何を引き起こすのか。

その答えは、まだ誰にもわからなかった。