黒紫色の光が収束し、足元に硬い床の感触が戻ってきた。
はるたは周囲を見渡し、思わず息を呑んだ。
そこは、巨大な宮殿を思わせる空間だった。
天井には色鮮やかなステンドグラスが広がり、無数の柱には繊細な黄金の装飾が施されている。高窓から差し込む光が磨き上げられた大理石の床に反射し、深紅の絨毯に描かれた金色の紋様を美しく浮かび上がらせていた。
左右には荘厳な燭台が並び、天井からは深紅の垂れ幕が幾重にも下がっている。
その最奥には、豪奢な玉座があった。
そして、そこに座っているのは、先ほどまで隣にいたはずの少女だった。
長い金髪を優雅に流し、黒と深紅のドレスをまとった吸血鬼の真祖。リリアは玉座に深く腰掛け、頬杖をつきながら、こちらを見下ろしている。
「……ここがルミナスか」
はるたは小さく呟いた。
多種族監視機関《ルミナス》。
現世と異界の境界を監視し、世界の均衡を維持するために存在する組織。その本部は世界のどの地図にも記されず、通常の手段では辿り着けない中立領域に置かれている。
その設定は、もちろん知っていた。
しかし、実際に足を踏み入れると、想像していた以上の迫力がある。
はるたが周囲を眺めていると、玉座から声が響いた。
「さて……はるたよ」
顔を上げる。
リリアは楽しそうに目を細めていた。
「主が我を作った……いや、この世界を作った創造主なのはわかったが……」
言葉を区切り、彼女は改めてはるたを見つめた。
「何とも奇妙な話じゃのう」
その口元には笑みが浮かんでいたが、金色の瞳は真剣だった。
はるたは肩をすくめる。
「流石に、血を飲むと記憶を読めるだけあるな」
そして、思わず苦笑した。
(……この設定、作っといてよかった)
リリアが記憶を読み取る能力を持っていなければ、いくら自分が創造主だと説明しても、信じてもらえたかどうかわからない。
もっとも、その能力を使うために自分の血を差し出すという判断には、それなりの危険が伴っていた。
相手は吸血鬼の真祖だ。
気分を損ねたからといって些細なことで人を殺すような人物ではないが、世界の均衡を脅かす存在と判断されれば、容赦なく排除することもできる。
その力も、判断基準も、はるたは知っている。
(……じゃなきゃ殺されてた……割とマジで……)
あの研究室で自分が正体不明の侵入者として扱われ続けていたら、状況はさらに悪化していたかもしれない。
だからこそ、血を差し出した判断そのものに後悔はなかった。
ただし、ルミナスへ強制的に連れてこられたことについては、別の話だった。
「……で?」
はるたが口を開く。
「わざわざここまで連れてきて、何を聞きたいんだ?」
リリアは頬杖をついたまま、わずかに首を傾げた。
「ふむ。聞きたいことなら山ほどあるぞ」
「だろうな」
「じゃが、その前に一つ確かめたい」
彼女の瞳が鋭くなる。
「主は、なぜこちらの世界に来た?」
はるたは腕を組んだ。
「……それがわかれば苦労しねえよ」
「ほう?」
「俺だって、来たくて来たわけじゃない。元の世界に戻る方法を探してるところなんだよ」
リリアは興味深そうに耳を傾けていた。
「そもそも、何が原因じゃ?」
その問いに、はるたはしばらく考え込んだ。
原因。
思い当たる出来事はある。
自分で開発していた次元収納装置。その実験中に発生した異常によって、空間の裂け目に巻き込まれたことだ。
しかし、それがどうして世界そのものを越える現象につながったのか。
そこまでは、まだ説明できない。
「……俺もわからねえよ」
はるたは正直に答えた。
「次元に関わる装置を実験してたら、空間に異常が起きた。そこからこっちに来たのは確かなんだけどな」
「ふむ」
リリアは目を細めた。
「お主、次元を超えたのじゃぞ?」
その声には、先ほどまでの気まぐれな調子とは違う響きがあった。
「そもそも、あり得ることなのか?」
はるたは答えに詰まった。
この世界には、現世と異界を結ぶ境界が存在している。リリアたちは、その境界を越える者たちを監視している。
しかし、はるたが越えてきたのは、それとは根本的に異なるものだった。
単に異界から現世へ移動したわけではない。
自分が暮らしていた現実から、自分が創作した世界へ入り込んでしまったのだ。
それを、これまで知られていた次元移動の仕組みだけで説明できるのか。
はるた自身にも、答えはなかった。
◇
「……ただ一つ」
しばらく考えた後、はるたは口を開いた。
リリアが視線を向ける。
「俺は、自分の作った世界に来た」
「うむ。それはわかった」
「そして、記憶を読んだならわかるだろうが……」
はるたは言葉を選びながら続けた。
「俺が作った物語には、いくつもの展開がある」
同じ人物が登場しながら、選択によって未来が変わっていく世界。
ある世界では出会うはずのなかった人物が出会い、別の世界では結ばれるはずのなかった者たちが結ばれる。
一つの選択が、その後の人生を大きく変えていく。
はるたは、そうした複数の物語を書いてきた。
だからこそ、今、自分がいる世界についても、一つの疑問を抱えていた。
「……どの枝かわからねえ……」
小さく呟く。
リリアは、その言葉に反応した。
「枝?」
「ああ」
はるたは顔を上げた。
「同じ世界から、違う展開に分かれていく。それぞれの物語を、俺は別の世界線として考えてたんだ」
それは、単純な物語の書き直しではない。
最初の選択が異なれば、その先の人間関係も、出来事も、未来も変わる。
はるたは複数の世界線を創作していたが、目の前に存在するこの世界が、そのどれに該当するのかは判断できていなかった。
リリアは、しばらく黙っていた。
やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「ふむ。お主の本編が正史であるなら、IFは外史か……」
はるたは頷きかけた。
しかし、リリアはそこで考えを止めなかった。
「……いや」
金色の瞳が、わずかに細められる。
「主がおることで、そもそも外史ではないのか?」
「…………」
はるたは思わず口を閉じた。
リリアは頬杖をつきながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「この世界の構造は、選択肢の枝分かれじゃろ? 主がそう創造した」
「ああ」
「ならば、主自身がこの世界へ現れたことも、一つの分岐ではないのか?」
はるたは、玉座の少女を見つめた。
確かに、そう考えることもできる。
もともと存在していた世界線のいずれかに転移してきたのだと思っていた。
だが、自分がこの世界へ来たという出来事自体が、新しい分岐を生み出した可能性はないだろうか。
その場合、今いる世界は、単純に既存の物語のどれかと一致するとは限らない。
リリアは続けた。
「そもそも、主がこの世界に現れることは、本編に含まれておったのか?」
「……いや」
「ならば、それ自体が既存の筋書きから外れた出来事じゃろう?」
はるたは腕を組み、考え込んだ。
自分が創造した世界の中で、自分自身が一人の登場人物として行動している。
当然、その行動は周囲に影響を与える。
ハルカと出会ったこと。
のどかと話したこと。
そして、リリアに創造主だと知られたこと。
そのどれもが、これまでの物語にはなかった出来事だ。
それならば、自分が現れた時点で、新たな可能性が生まれていても不思議ではない。
ただし、それは現段階では仮説にすぎなかった。
世界が実際にどのような仕組みで分岐しているのかは、まだわからない。
そして、創造主が世界へ入り込むという異常な現象が、どのような影響を及ぼすのかも。
◇
「……リリア」
はるたは顔を上げた。
「お前、すごいな!」
思わず口から出た言葉だった。
リリアがわずかに眉を上げる。
「……ほう?」
はるたは身を乗り出した。
「なるほど……そういう考えもあるのか……」
リリアは、その反応を満足そうに眺めていた。
「ふふっ。何をそれほど驚いておる?」
「いや、俺はずっと、どの世界線に来たのかを考えてたんだよ」
はるたは自分の思考を整理するように続けた。
「でも、お前の言う通り、俺が来たこと自体が新しい分岐になる可能性もある」
「うむ」
「だったら、既存の物語と違う出来事が起きても、それだけでどの世界線か判断できるとは限らねえよな」
リリアは、楽しそうに頷いた。
「そういうことじゃ」
はるたは小さく笑った。
自分が創り上げた人物と、こうして世界の構造について議論している。
しかも、その人物から、自分が考えていなかった視点を提示されている。
奇妙な状況だった。
だが、決して不快ではなかった。
むしろ、思考が広がっていく感覚があった。
「……面白いな」
はるたが呟く。
リリアも、同じように笑った。
「ふふっ。そうであろう?」
「ただ、そうなると問題が一つ増えるな」
「なんじゃ?」
はるたは真剣な表情に戻った。
「……帰り方だよ」
仮に、この世界が新しい分岐によって生まれたものだとしたら。
元の世界へ戻るためには、単に転移現象を再現するだけでは足りないかもしれない。
どこから来て、どこへ戻るべきなのか。
その経路を特定する必要がある。
「俺が来たのは、自分の作った世界だ。でも、どの枝なのかわからない。そして、帰るための道も見つかってない」
はるたは小さく息を吐いた。
「……やっぱり、簡単じゃねえな」
リリアはしばらく黙っていた。
金色の瞳が、はるたを静かに見つめる。
その表情からは、先ほどまでの無邪気な笑みが薄れていた。
代わりに浮かんでいるのは、長い年月を生きてきた者特有の落ち着きだった。
「……ふむ」
小さく頷く。
「主の話を聞く限り、まだわからぬことが多いようじゃのう」
「ああ。だから調べてる」
「なるほど」
リリアは再び頬杖をついた。
「しかし、面白い」
「……何が?」
「自分で創り上げた世界に迷い込み、その帰り道がわからぬとはな」
はるたは苦笑した。
「……笑い事じゃねえんだけど」
「ふははは! 我にとっては、十分に面白いぞ!」
「だろうな……」
その返答に、リリアはますます愉快そうに笑った。
しかし、はるたも今度は呆れるだけではなかった。
目の前の少女は、自分が創造した人物だ。
だが、こうして会話していると、彼女は間違いなく自分の意思で考えている。
与えられた知識を繰り返しているのではない。
自分の経験と理解をもとに、疑問を抱き、別の可能性を提示してくる。
そこには、はるた自身とは異なる視点があった。
「……リリア」
「なんじゃ?」
「やっぱり、お前すごいな」
リリアは一瞬、きょとんとした。
そして、得意げに笑みを浮かべた。
「ふふっ。当然じゃ。我を誰だと思っておる?」
「吸血鬼の真祖で、退屈が嫌いなわがまま女王様」
「……余計なものが混じっておるぞ?」
「事実だろ?」
リリアの眉がぴくりと動いた。
しかし、怒り出すことはなかった。
むしろ、その遠慮のない返答を面白がるように、口元を緩めた。
「……ふふっ。やはり主は面白いのう」
はるたは肩をすくめた。
「そりゃどうも」
二人の間に、短い沈黙が流れる。
玉座の間には、無数の燭台の炎が揺れていた。
窓から差し込む光が床に反射し、金色の紋様をゆっくりと照らしている。
はるたは改めて、目の前の光景を見渡した。
世界を創造した自分。
その世界の均衡を守るために存在するリリア。
本来なら交わるはずのなかった二人が、今、同じ場所で会話している。
そして、その会話によって、自分が考えもしなかった可能性が生まれていた。
(……世界線の分岐、か)
リリアが提示した仮説は、まだ証明されたわけではない。
しかし、帰還方法を探る上で、無視することのできない視点だった。
自分が知っている物語と、目の前で進んでいる現実。
その二つは、必ずしも一致するとは限らない。
はるたは、ゆっくりと顔を上げた。
「……さて」
リリアが楽しそうに微笑む。
「まだまだ聞きたいことは山ほどあるぞ、はるたよ」
はるたは苦笑した。
「……だろうな」
そして、玉座に座る吸血鬼の真祖を見つめ返した。
彼女との対話は、まだ始まったばかりだった。


