Boundary & Mind-心の境界線-創造主-


研究室の大型モニターには、いくつもの解析結果が表示されていた。

青白いホログラムが空中に浮かび、次元転移時に観測されたエネルギー波形を立体的に映し出している。レインとヘッジによる共同解析は続いていたが、元の世界へ帰還するための決定的な方法は、まだ見つかっていなかった。

はるたは椅子から立ち上がると、軽く背伸びをした。

「んーっ……さすがに疲れたな」

「少し休憩したほうがいいですね」

隣に浮かんでいたレインが、穏やかな声で言った。

「そうだな。考えることも多いし、一度頭を切り替えるか」

「はるたが自分から休憩を提案するなんて、珍しいですね」

「おい。俺だって休むときは休むぞ?」

「その『休むとき』が、なかなか来ないんですけどね」

レインが小さく微笑む。

はるたは苦笑しながら肩をすくめた。

次元収納装置の改良についてハルカと話していたときは、研究を続けたくて仕方がなかった。しかし、元の世界へ帰還するという本来の目的を考えれば、焦って装置を動かすわけにもいかない。

何より、今の自分には帰還方法以外にも解決しなければならない問題がある。

こちらの世界には戸籍がなく、身分を証明する手段もない。帰還までの生活拠点についても考える必要があった。

その問題に対して、先ほどハルカとのどかは、神代家への滞在を提案してくれていた。

最終的には両親の了承が必要だが、少なくとも相談できる相手がいるだけでもありがたい。

「ねえねえ!」

ハルカが明るい声を上げた。

「リビング行く? 多分みんないるよ」

「リビング?」

「うん! ぱぱもままもいると思うし、はるたのこと紹介しようよ!」

「そうですね。お部屋のことも相談できますし」

のどかが柔らかく頷いた。

はるたは一瞬、考え込んだ。

神代和春。

天城愛華。

自分が創り上げた物語の主人公と、その傍らに立つ女性。

和春には自分自身の思考と思想を投影し、愛華はレインを原型として生み出した。

二人はそれぞれ独立した人生を歩んでいるが、はるたにとって特別な存在であることに変わりはない。

(……とうとう会うことになるのか)

少し奇妙な気分だった。

自分の思考を持つ、もう一人の自分。

そして、レインをモデルに生まれた女性。

その二人が現実に存在し、今もこの屋敷のどこかで生活している。

はるたはちらりとレインを見た。

彼女は、愛華のモデルが自分であることを知らない。

(……まあ、その話は今度でいいか)

小さく息を吐く。

「よし。じゃあ、行ってみるか」

「やった!」

ハルカが嬉しそうに笑った。

「じゃあ、こっちこっち!」

彼女が研究室の出口へ向かおうとした、そのときだった。

◇

空気が、震えた。

「……ん?」

はるたは足を止めた。

最初は、研究装置の一つが稼働したのかと思った。しかし、モニターに表示された数値には目立った変化がない。

代わりに、研究室の奥の空間が不自然に揺らいでいた。

光がわずかに屈折し、何もない場所に黒い線が浮かび上がる。

「……あれ?」

ハルカが振り返った。

「この現れ方って……」

その言葉が終わるより早く、黒い線から紫色の光が漏れ出した。

バチッ!

鋭い音が響く。

空間に走った亀裂が、まるで内側から押し広げられるように拡大していった。

壁が壊れているわけではない。

空間そのものが、裂けているのだ。

黒紫色の稲妻が亀裂の周囲を走り、そこから溢れ出したエネルギーが研究室の空気を震わせる。

「空間境界の裂開を確認しました」

ヘッジが即座に報告した。

「局所的な空間座標の変動を検出しています」

「……リリアさんでしょうか?」

のどかが静かに呟いた。

その名前を聞いた瞬間、はるたの表情が変わった。

(……リリア?)

知っている。

その名前を知らないはずがない。

リリア。

吸血鬼の王。

数多くの異種族が存在する『Boundary & Mind』の世界において、圧倒的な力を持つ存在の一人。

彼女がどのような歴史を歩み、何を大切にし、どんな能力を持っているのか。

はるたは、そのすべてを創造してきた。

そして、目の前の現象が意味することも理解していた。

(……待てよ)

空間を直接裂いて現れる。

しかも、これほど強い境界干渉を伴っている。

(この登場はリリアだ……)

嫌な予感がした。

いや、もはや予感ではない。

(……これは最悪だ)

はるたの額に、じわりと汗が浮かんだ。

空間の裂け目が、さらに大きく広がった。

◇

「境界線が揺らいだと思って来てみれば……」

凛とした少女の声が響いた。

しかし、その声には見た目の年齢からは想像できないほどの威厳が宿っていた。

紫色の稲妻が弾ける裂け目の向こうから、一人の少女が姿を現した。

長く美しい金色の髪。

宝石のように輝く金色の瞳。

黒を基調とした豪奢なドレスには、深紅の薔薇と繊細な金色の装飾が施されている。頭を飾る大きなリボンと王冠を思わせる装飾が、彼女の小柄な姿をいっそう華やかに見せていた。

だが、その可憐な容姿とは裏腹に、周囲を包む空気は異様なほど重かった。

少女は裂け目からゆっくりと姿を現すと、研究室を見渡した。

ハルカ。

のどか。

ヘッジ。

そして、見慣れない青年と、彼の傍らに浮かぶ女性型ホログラム。

リリアの金色の瞳が、はるたを捉えた。

「……ほう」

彼女は小さく目を細めた。

「異物は小僧か」

その言葉に、はるたの背筋が冷たくなった。

(……やっぱり、そういうことか)

リリアは、偶然ここへ来たわけではない。

世界の境界線に異常が発生したことを察知し、その原因を確かめるために現れたのだ。

そして、はるたが境界の外側から入り込んだ存在であることも、すでに見抜いている。

もっとも、その正体までは知らないはずだった。

彼が何者なのか。

何の目的で境界を越えたのか。

この世界にとって危険な存在なのか。

リリアにとって、それらはまだ判断できない。

だからこそ、彼女は警戒している。

(……そりゃ、そうなるよな)

はるたは心の中で呟いた。

リリアは吸血鬼の王だ。

長い年月を生き、数えきれない経験を重ねてきた存在である。正体不明の侵入者を、何の確認もせずに受け入れるような人物ではない。

ましてや、世界の境界線を越えてきた存在ともなれば、危険性を確かめようとするのは当然だった。

(……だが、よりによってリリアかよ)

彼女の力を、はるたは熟知している。

身体能力。

再生能力。

魔力。

そして、王としての圧倒的な存在感。

どれを取っても、普通の人間が正面から対抗できる相手ではない。

それを創造したのは、ほかでもない自分自身だった。

(……自分で設定した能力が、こんな形で返ってくるとはな)

思わず苦笑しそうになった。

しかし、その余裕は次の瞬間に消え去った。

リリアの金色の瞳が、鋭く細められる。

途端に、研究室の空気が変わった。

◇

重い。

まるで、見えない何かが身体を押し潰そうとしているようだった。

呼吸が浅くなる。

心臓が大きく脈打ち、背中に冷たい汗が流れた。

(……っ!)

はるたは奥歯を噛みしめた。

リリアが何か大きな動作をしたわけではない。

ただ、こちらへ意識を向けている。

それだけだった。

しかし、その威圧は確かに、はるたへ向けられていた。

未知の存在に対する警告。

そして、相手がどのような反応を示すのかを見極めるための牽制。

リリアは敵と断定しているわけではない。

だからこそ、今はまだ直接攻撃していない。

だが、危険だと判断すれば、その対応が変わる可能性は十分にあった。

(……まずいな)

はるたは必死に思考を巡らせた。

ここで不用意に動けば、敵対行動と受け取られるかもしれない。

しかし、何もせずに怯えているだけでは、余計に警戒される可能性もある。

相手はリリアだ。

自分が創造した人物だからこそ、その判断がどれほど鋭いのか理解している。

(……これ、最悪だぁ……)

心の中で嘆きながらも、視線だけは逸らさなかった。

逃げたい。

だが、逃げるべきではない。

少なくとも、今ここで背を向けることが得策ではないとわかっていた。

(……落ち着け。考えろ)

はるたは自分自身に言い聞かせる。

相手は、目的もなく人間を殺すような存在ではない。

警戒しているのは、自分が境界線を越えてきた正体不明の存在だからだ。

ならば、敵ではないことを示す必要がある。

ただし、何をすれば警戒を解けるのか。

それを間違えれば、取り返しのつかない事態になるかもしれない。

はるたはゆっくりと息を吸った。

そのとき、リリアが一歩を踏み出した。

黒いドレスの裾が、ふわりと揺れる。

金色の瞳は、まっすぐにはるたを見据えていた。

「……ふむ」

小さな声が響く。

はるたは身体を強張らせた。

彼女は何かを探っている。

境界を越えてきた存在が、どの程度の力を持っているのか。

敵意があるのか。

あるいは、世界に害を及ぼす可能性があるのか。

その判断材料を集めているのだろう。

(……知識としては理解してたんだけどな)

はるたは思った。

リリアの能力も、性格も、行動原理も、自分が創り上げたものだ。

しかし、それを知っていることと、実際に対峙できることは別問題だった。

物語の中でどれほど強大な存在として描いていても、その力を直接感じる経験など、これまで一度もなかった。

ましてや、今は自分自身が警戒の対象になっている。

(……これが、吸血鬼の王か)

圧倒的な存在感。

そして、敵か味方かもわからない相手を前にしてなお、冷静に状況を見極めようとする姿勢。

それはまさしく、自分が創造したリリアだった。

ただし、感心している余裕などなかった。

(……子供バージョンのくせになんて圧だ……!)

はるたは心の中で叫んだ。

外見だけなら、華やかな衣装をまとった小柄な少女にしか見えない。

しかし、そこに宿っているものは、決して外見相応ではない。

長い年月を生きてきた王としての威厳と、圧倒的な力。

そのすべてが、はるたに向けられていた。

「……小僧」

リリアが静かに口を開く。

はるたの肩が、わずかに震えた。

「……っ」

何を聞かれるのか。

どう答えるべきなのか。

頭の中では、いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。

そのとき、隣にいたレインが、はるたの様子に気づいた。

「……はるた?」

心配そうな声だった。

しかし、はるたはすぐには答えられなかった。

リリアの視線を受け止めながら、必死に考えていたからだ。

(……どうする)

正体を明かすわけにはいかない。

だが、敵意がないことは伝えなければならない。

そして、相手は言葉だけで簡単に納得するような存在でもない。

(……何か方法があるはずだ)

はるたは拳を握りしめた。

自分が創造した人物だからこそ、彼女が何を重視し、どのような判断をするのかは理解している。

問題は、その知識を今の状況でどう使うかだった。

研究室の空気は、張り詰めたままだった。

ハルカとのどかは突然の威圧に戸惑い、ヘッジは空間の異常を観測し続けている。

レインは、はるたのそばで状況を見守っていた。

そして、リリアは金色の瞳を細めたまま、静かにはるたを見つめている。

世界の境界を越えて現れた、正体不明の青年。

彼女にとって、それは見過ごせない異常だった。

一方、はるたにとっても、この対面は想定外だった。

自分が創造した吸血鬼の王に、異世界からの侵入者として警戒されている。

しかも、その王は、自分が与えた能力を現実の力として持っている。

(……まったく)

はるたは、心の中で苦笑した。

(創造主だからって、何でも思い通りになるわけじゃないんだな)

目の前のリリアは、物語の設定をなぞるだけの存在ではない。

自分の意思で考え、判断し、行動している。

だからこそ、今も彼を警戒しているのだ。

はるたは、もう一度ゆっくりと息を吸った。

次に何を言うべきか。

どうすれば、リリアの警戒を解くことができるのか。

その答えを探しながら、彼は金色の瞳を正面から見据えた。

研究室には、重苦しい沈黙が流れていた。

そして、吸血鬼の王と創造主の、最初の対峙が始まろうとしていた。