研究室には、相変わらず青白いホログラムの光が満ちていた。
壁一面に並ぶモニターには、次元転移時に観測された異常なエネルギー波形や、空間座標の変動を示す数値が表示されている。中央の大型テーブルでは、複数の立体映像がゆっくりと回転し、レインとヘッジが解析を続けていた。
二人のAIによる共同解析は、順調とは言い難かった。
そもそも、次元収納装置の暴走によって異なる世界へ転移するという現象自体、通常の実験では想定されていない。観測できた情報にも限りがあり、原因の特定には相応の時間が必要だった。
はるたは椅子の背もたれに身体を預け、目の前の数値を眺めていた。
先ほどまでハルカと次元収納デバイスの改良について熱く語り合っていたが、レインから帰還研究の優先を念押しされ、現在は二人とも大人しく解析結果を待っている。
もっとも、ハルカは暇さえあれば別の設計図を呼び出そうとして、そのたびにのどかから視線を向けられていた。
そんな光景を眺めているうちに、はるたはふと、別の疑問を思い浮かべた。
「そういえばさ、今こっちの季節っていつなんだ?」
何気ない質問だった。
しかし、ハルカは少し意外そうに目を丸くした。
「今は夏休みだよ! 大学も休み〜!」
「ああ、そうなのか。へぇ、夏休みか」
はるたは顎に手を添えた。
自分が元の世界にいたときとは、季節が一致していない。
もちろん、世界そのものが異なる以上、暦や時間の進み方まで同じとは限らない。とはいえ、手がかりが一つ増えたことは確かだった。
「そういえば、はるたさん」
隣に座っていたのどかが、興味深そうに顔を向けた。
「ねぇねは十九歳で、私が十六歳です。はるたさんはいくつですか?」
「俺は二十四だな」
「えっ!」
ハルカが勢いよく振り向いた。
「年上だったんだ!」
「いや、そんなに驚くことか?」
「だって、研究の話してたら年齢なんて気にならなかったし!」
「まあ、それは俺も同じだな」
はるたは苦笑した。
確かに、ハルカと話している間、彼女の年齢を意識することはほとんどなかった。
新しい技術を見つけるたびに目を輝かせ、複雑な構造をすぐに理解し、次々と新しい発想を生み出す。その姿は、年齢という数字だけでは測れないものだった。
だが、はるたにとって重要なのは、彼女たちとの年齢差ではなかった。
(……ハルカが十九歳)
表情を変えないまま、頭の中で情報を整理する。
(ってことは、もうリリアとは出会ってるはずだ)
脳裏に、三人の少女の姿が浮かんだ。
金色の髪を持つ吸血鬼の王、リリア。
青い髪をなびかせる人魚の瑠璃。
そして、神代家の一員となるルル。
いずれも、はるたが細部まで作り込んだ人物たちだった。
その生い立ちも、性格も、歩んできた人生も知っている。
リリアが何を背負い、どのような決断を下してきたのか。瑠璃が人間に対して抱く複雑な感情も、ルルが神代家にとってどのような存在なのかも。
すべて、彼自身が物語の中で描いてきた。
(つまり……瑠璃やルルもいる時期か……)
はるたは静かに目を細めた。
ハルカが十九歳という情報から推測すれば、少なくとも自分が構築した物語の時間軸では、彼女たちがすでに登場している時期に当たる。
ただし、それはあくまで一つの世界線における話だった。
彼が創造した『Boundary & Mind』には、複数の世界線が存在する。
人物の基本的な設定や過去に共通点があっても、その後の選択によって人間関係や出来事が変わっていく。それぞれが独立した物語であり、必ずしも同じ道筋をたどるわけではない。
そして、今の自分には重大な問題があった。
(しかも、夏ってことは……)
ハルカの科学力が一気に跳ね上がる時期。
それが、ちょうど今頃だった。
彼女は以前から卓越した発明能力を持っている。しかし、ある時期を境に研究の幅が大きく広がり、それまで以上に高度な技術を次々と形にしていくようになる。
その転換点も、はるたは知っていた。
(……なるほどな)
彼はゆっくりと息を吐いた。
目の前にいるハルカは、すでに三十キロの次元収納デバイスを完成させ、百キロへの拡張を研究している。
年齢と季節、そして現在の技術水準。
それらを組み合わせれば、物語上のおおよその時期を推測することはできる。
だが、まだ決定的な情報ではない。
(もうすでに、色々なことが起きてるかもしれない……)
はるたは研究室の天井へ視線を向けた。
自分が知っている出来事が、すべて同じように発生しているとは限らない。
(でも、この世界線でも同じように進んでいるとは限らない)
それが最も重要な問題だった。
自分は、ここにいる人物たちの設定を知っている。
性格も、価値観も、どのような状況で何を選びやすいのかも理解している。
しかし、彼らが今までにどのような選択をしてきたのか、そしてこれから何を選ぶのかまでは、まだ確認できていない。
創造した世界に転移したからといって、目の前の現実が、自分の知る物語と完全に一致している保証などなかった。
(なろう版、ノベマ版、そして俺しか知らないIF世界線……)
はるたの脳裏に、それぞれの物語の展開が浮かぶ。
公開している二つの世界線には、共通する人物や出来事が存在している。しかし、物語が進むにつれて人間関係も選択も異なっていく。
さらに、公開していない別の可能性もある。
どの世界線にも、彼自身が考え抜いた歴史と設定が存在していた。
(年齢と季節だけじゃ、まだ判断できないな……)
はるたは腕を組み、考え込んだ。
ここがどの世界線なのか。
それを知ることは、単なる好奇心の問題ではない。
もし物語の進行状況を正確に把握できれば、今後起こり得る出来事や、すでに存在している技術を予測できるかもしれない。
それは元の世界へ帰還するための研究にも役立つ可能性がある。
一方で、これまでの出来事を確認しないまま、自分の知識だけを頼りに行動するのは危険だった。
(……まずは情報を集めるしかないか)
そこまで考えたところで、不意に声が聞こえた。
「はるたさん?」
「……ん?」
顔を上げると、のどかがこちらを覗き込んでいた。
紫色の瞳が、心配そうに揺れている。
「どうしました?」
「え?」
「急に黙ってしまったので。何か気になることでもありましたか?」
「ああ……いや!」
はるたは慌てて笑みを浮かべた。
「こっちの世界のこと、色々気になってさ」
「そうだったんですね」
のどかは柔らかく微笑んだ。
「確かに、別の世界からいらっしゃったのですから、気になることも多いですよね」
「ああ。俺の世界とは違うところもあるだろうしな」
はるたは後頭部をかいた。
のどかの反応は自然だった。
突然、見知らぬ世界へ転移した人物が、その世界について知りたがる。それ自体に不思議なことはない。
実際、はるたには尋ねたいことが山ほどあった。
しかし、その質問の仕方には注意しなければならない。
知っているはずのない人物の名前を口にすれば、当然、不審に思われる。
未来の出来事を知っているかのような発言をすれば、さらに説明が難しくなるだろう。
ましてや、彼らの人生そのものを創造したなどと、今ここで明かすつもりはなかった。
「だったら何でも聞いてよ!」
ハルカが元気よく会話に加わった。
「研究のことでも、こっちの世界のことでも! 私たちが知ってることなら教えられるよ!」
その明るさに、はるたは思わず笑った。
「ああ、助かるよ」
「ふふっ。そうですね」
のどかも楽しそうに微笑む。
二人とも、何の疑いもなく自分を受け入れてくれている。
そのことが、今のはるたには少し不思議だった。
彼女たちにとって、自分は突然現れた異世界の来訪者にすぎない。
だが、はるたにとって彼女たちは、長い時間をかけて人生を創り上げてきた、大切な登場人物だった。
同じ場所に座り、同じ会話を交わしていても、互いに知っている情報の量はまるで違う。
そして、その差を埋めるためには、彼自身が慎重に言葉を選ばなければならなかった。
(……さて)
はるたは小さく息を吐き、再び二人へ顔を向けた。
(次は何を聞くか)
尋ねたいことは、いくらでもある。
神代家の現在の状況。
これまでに起きた出来事。
ハルカが研究している技術の進捗。
そして、今いる世界がどの可能性の先にあるのか。
だが、答えを急ぐ必要はない。
まずは、目の前の二人と自然に会話を重ねながら、少しずつ情報を集めていけばいい。
自分が創り上げた世界について、自分自身が改めて学んでいく。
それは、奇妙でありながら、どこか心を躍らせる経験でもあった。
はるたは小さく笑みを浮かべた。
物語の中では、彼女たちは幾度となく未知の世界や困難に立ち向かってきた。
だが、今度は自分の番だ。
自分が知らない未来を、自分自身の選択によって進んでいく。
その先に何が待っているのかは、まだわからない。
そして、ここがどの世界線なのかを確かめるための手がかりは、きっと今後の会話の中にも隠されている。
研究室のモニターには、相変わらず複雑な数値が流れ続けていた。
元の世界へ帰る方法は、まだ見つかっていない。
それでも、はるたの表情には先ほどまでとは違う、静かな好奇心が宿っていた。
創造主であることと、この世界のすべてを知っていることは、決して同じではない。
それを理解しているからこそ、彼は考えることをやめなかった。
壁一面に並ぶモニターには、次元転移時に観測された異常なエネルギー波形や、空間座標の変動を示す数値が表示されている。中央の大型テーブルでは、複数の立体映像がゆっくりと回転し、レインとヘッジが解析を続けていた。
二人のAIによる共同解析は、順調とは言い難かった。
そもそも、次元収納装置の暴走によって異なる世界へ転移するという現象自体、通常の実験では想定されていない。観測できた情報にも限りがあり、原因の特定には相応の時間が必要だった。
はるたは椅子の背もたれに身体を預け、目の前の数値を眺めていた。
先ほどまでハルカと次元収納デバイスの改良について熱く語り合っていたが、レインから帰還研究の優先を念押しされ、現在は二人とも大人しく解析結果を待っている。
もっとも、ハルカは暇さえあれば別の設計図を呼び出そうとして、そのたびにのどかから視線を向けられていた。
そんな光景を眺めているうちに、はるたはふと、別の疑問を思い浮かべた。
「そういえばさ、今こっちの季節っていつなんだ?」
何気ない質問だった。
しかし、ハルカは少し意外そうに目を丸くした。
「今は夏休みだよ! 大学も休み〜!」
「ああ、そうなのか。へぇ、夏休みか」
はるたは顎に手を添えた。
自分が元の世界にいたときとは、季節が一致していない。
もちろん、世界そのものが異なる以上、暦や時間の進み方まで同じとは限らない。とはいえ、手がかりが一つ増えたことは確かだった。
「そういえば、はるたさん」
隣に座っていたのどかが、興味深そうに顔を向けた。
「ねぇねは十九歳で、私が十六歳です。はるたさんはいくつですか?」
「俺は二十四だな」
「えっ!」
ハルカが勢いよく振り向いた。
「年上だったんだ!」
「いや、そんなに驚くことか?」
「だって、研究の話してたら年齢なんて気にならなかったし!」
「まあ、それは俺も同じだな」
はるたは苦笑した。
確かに、ハルカと話している間、彼女の年齢を意識することはほとんどなかった。
新しい技術を見つけるたびに目を輝かせ、複雑な構造をすぐに理解し、次々と新しい発想を生み出す。その姿は、年齢という数字だけでは測れないものだった。
だが、はるたにとって重要なのは、彼女たちとの年齢差ではなかった。
(……ハルカが十九歳)
表情を変えないまま、頭の中で情報を整理する。
(ってことは、もうリリアとは出会ってるはずだ)
脳裏に、三人の少女の姿が浮かんだ。
金色の髪を持つ吸血鬼の王、リリア。
青い髪をなびかせる人魚の瑠璃。
そして、神代家の一員となるルル。
いずれも、はるたが細部まで作り込んだ人物たちだった。
その生い立ちも、性格も、歩んできた人生も知っている。
リリアが何を背負い、どのような決断を下してきたのか。瑠璃が人間に対して抱く複雑な感情も、ルルが神代家にとってどのような存在なのかも。
すべて、彼自身が物語の中で描いてきた。
(つまり……瑠璃やルルもいる時期か……)
はるたは静かに目を細めた。
ハルカが十九歳という情報から推測すれば、少なくとも自分が構築した物語の時間軸では、彼女たちがすでに登場している時期に当たる。
ただし、それはあくまで一つの世界線における話だった。
彼が創造した『Boundary & Mind』には、複数の世界線が存在する。
人物の基本的な設定や過去に共通点があっても、その後の選択によって人間関係や出来事が変わっていく。それぞれが独立した物語であり、必ずしも同じ道筋をたどるわけではない。
そして、今の自分には重大な問題があった。
(しかも、夏ってことは……)
ハルカの科学力が一気に跳ね上がる時期。
それが、ちょうど今頃だった。
彼女は以前から卓越した発明能力を持っている。しかし、ある時期を境に研究の幅が大きく広がり、それまで以上に高度な技術を次々と形にしていくようになる。
その転換点も、はるたは知っていた。
(……なるほどな)
彼はゆっくりと息を吐いた。
目の前にいるハルカは、すでに三十キロの次元収納デバイスを完成させ、百キロへの拡張を研究している。
年齢と季節、そして現在の技術水準。
それらを組み合わせれば、物語上のおおよその時期を推測することはできる。
だが、まだ決定的な情報ではない。
(もうすでに、色々なことが起きてるかもしれない……)
はるたは研究室の天井へ視線を向けた。
自分が知っている出来事が、すべて同じように発生しているとは限らない。
(でも、この世界線でも同じように進んでいるとは限らない)
それが最も重要な問題だった。
自分は、ここにいる人物たちの設定を知っている。
性格も、価値観も、どのような状況で何を選びやすいのかも理解している。
しかし、彼らが今までにどのような選択をしてきたのか、そしてこれから何を選ぶのかまでは、まだ確認できていない。
創造した世界に転移したからといって、目の前の現実が、自分の知る物語と完全に一致している保証などなかった。
(なろう版、ノベマ版、そして俺しか知らないIF世界線……)
はるたの脳裏に、それぞれの物語の展開が浮かぶ。
公開している二つの世界線には、共通する人物や出来事が存在している。しかし、物語が進むにつれて人間関係も選択も異なっていく。
さらに、公開していない別の可能性もある。
どの世界線にも、彼自身が考え抜いた歴史と設定が存在していた。
(年齢と季節だけじゃ、まだ判断できないな……)
はるたは腕を組み、考え込んだ。
ここがどの世界線なのか。
それを知ることは、単なる好奇心の問題ではない。
もし物語の進行状況を正確に把握できれば、今後起こり得る出来事や、すでに存在している技術を予測できるかもしれない。
それは元の世界へ帰還するための研究にも役立つ可能性がある。
一方で、これまでの出来事を確認しないまま、自分の知識だけを頼りに行動するのは危険だった。
(……まずは情報を集めるしかないか)
そこまで考えたところで、不意に声が聞こえた。
「はるたさん?」
「……ん?」
顔を上げると、のどかがこちらを覗き込んでいた。
紫色の瞳が、心配そうに揺れている。
「どうしました?」
「え?」
「急に黙ってしまったので。何か気になることでもありましたか?」
「ああ……いや!」
はるたは慌てて笑みを浮かべた。
「こっちの世界のこと、色々気になってさ」
「そうだったんですね」
のどかは柔らかく微笑んだ。
「確かに、別の世界からいらっしゃったのですから、気になることも多いですよね」
「ああ。俺の世界とは違うところもあるだろうしな」
はるたは後頭部をかいた。
のどかの反応は自然だった。
突然、見知らぬ世界へ転移した人物が、その世界について知りたがる。それ自体に不思議なことはない。
実際、はるたには尋ねたいことが山ほどあった。
しかし、その質問の仕方には注意しなければならない。
知っているはずのない人物の名前を口にすれば、当然、不審に思われる。
未来の出来事を知っているかのような発言をすれば、さらに説明が難しくなるだろう。
ましてや、彼らの人生そのものを創造したなどと、今ここで明かすつもりはなかった。
「だったら何でも聞いてよ!」
ハルカが元気よく会話に加わった。
「研究のことでも、こっちの世界のことでも! 私たちが知ってることなら教えられるよ!」
その明るさに、はるたは思わず笑った。
「ああ、助かるよ」
「ふふっ。そうですね」
のどかも楽しそうに微笑む。
二人とも、何の疑いもなく自分を受け入れてくれている。
そのことが、今のはるたには少し不思議だった。
彼女たちにとって、自分は突然現れた異世界の来訪者にすぎない。
だが、はるたにとって彼女たちは、長い時間をかけて人生を創り上げてきた、大切な登場人物だった。
同じ場所に座り、同じ会話を交わしていても、互いに知っている情報の量はまるで違う。
そして、その差を埋めるためには、彼自身が慎重に言葉を選ばなければならなかった。
(……さて)
はるたは小さく息を吐き、再び二人へ顔を向けた。
(次は何を聞くか)
尋ねたいことは、いくらでもある。
神代家の現在の状況。
これまでに起きた出来事。
ハルカが研究している技術の進捗。
そして、今いる世界がどの可能性の先にあるのか。
だが、答えを急ぐ必要はない。
まずは、目の前の二人と自然に会話を重ねながら、少しずつ情報を集めていけばいい。
自分が創り上げた世界について、自分自身が改めて学んでいく。
それは、奇妙でありながら、どこか心を躍らせる経験でもあった。
はるたは小さく笑みを浮かべた。
物語の中では、彼女たちは幾度となく未知の世界や困難に立ち向かってきた。
だが、今度は自分の番だ。
自分が知らない未来を、自分自身の選択によって進んでいく。
その先に何が待っているのかは、まだわからない。
そして、ここがどの世界線なのかを確かめるための手がかりは、きっと今後の会話の中にも隠されている。
研究室のモニターには、相変わらず複雑な数値が流れ続けていた。
元の世界へ帰る方法は、まだ見つかっていない。
それでも、はるたの表情には先ほどまでとは違う、静かな好奇心が宿っていた。
創造主であることと、この世界のすべてを知っていることは、決して同じではない。
それを理解しているからこそ、彼は考えることをやめなかった。


