世界が、音を立てて崩れていた。
青紫色の光が渦を巻き、黒い闇の中心へ向かって無数の物体が吸い込まれていく。工具、書類、金属片、そして研究室に置かれていた小型機器。それらが不規則に回転しながら、次々と闇の奥へ消えていった。
「うわっ!?」
はるたは作業台の縁にしがみついた。
目の前には、巨大な黒い裂け目が広がっている。
ほんの数分前まで、そこには次元収納デバイスの試作機があったはずだった。
異次元に物体を収納し、必要なときに取り出す。そのために開発していた装置が、今では研究室そのものを飲み込もうとしている。
「ちょっ、待て!!」
はるたは必死に身体を支えた。
しかし、引き寄せられる力はさらに強くなっていく。机の上に置かれていた工具箱が浮き上がり、中身を撒き散らしながら黒い渦へ吸い込まれた。
「嘘だろ、おい!!」
作業台の固定具が悲鳴を上げた。
金属が軋み、ボルトが一本、また一本と外れていく。
「……やばっ!」
はるたは咄嗟に別の支柱へ手を伸ばした。
だが、間に合わなかった。
バキンッ!!
支えにしていた作業台が傾き、はるたの身体が宙へ投げ出された。
「うわあああっ!!」
青紫色の光が視界を覆った。
上下の感覚が消える。
落ちているのか、飛ばされているのか、それとも何かに引き寄せられているのか。自分の身体がどちらを向いているのかさえ分からない。
はるたは反射的に左腕を伸ばした。
そこには、自分が開発した腕時計型ホログラム装置が装着されている。
「レイン!!」
叫んだ瞬間、腕時計の表面が青く輝いた。
『はるた!』
視界の端に、小さなホログラム画面が現れた。
銀白色の長い髪。
澄んだ青い瞳。
見慣れた相棒の姿だった。
「どこにつながってんだよおお!!」
『分かりません! 空間座標が正常に取得できません!』
「分からないって、お前でもか!?」
『現在の観測データでは、解析できないんです!』
「マジかよ!!」
はるたは歯を食いしばった。
レインは膨大な情報を瞬時に処理し、状況を分析することができる。しかし、その彼女でさえ、目の前で起きている現象を説明できない。
それほどまでに異常な事態だった。
『はるた! 腕時計の保護機能を起動します!』
「頼む!!」
青い光が一瞬だけ強くなった。
しかし、次の瞬間には激しいノイズが走り、ホログラム画面が大きく歪んだ。
『……通信……不安定……!』
「レイン!?」
『……はるた、応答してください!』
「聞こえてる!!」
しかし、レインの声は途切れ途切れになっていた。
やがて、視界の端に表示されていた青い画面が、一瞬だけ暗くなる。
「……おい?」
返事がない。
「レイン!?」
その瞬間、はるたの身体がさらに強い力で引き寄せられた。
視界が白く染まる。
そして――。
すべての感覚が途切れた。
◇
ドサッ!!
「いってぇぇ!!」
突然、硬い床の感触が背中を襲った。
はるたは勢いよく転がり、近くにあった作業台へぶつかった。
「ぐっ……!」
しばらく動けなかった。
何が起きたのか分からない。ただ、先ほどまで感じていた強烈な引力は消えていた。
代わりに、耳には機械の駆動音と、誰かの声が聞こえてくる。
「えっ!?」
「人が出てきた!?」
女性の声だった。
しかも、二人。
「……は?」
はるたはゆっくりと顔を上げた。
そこには、見知らぬ研究室が広がっていた。
壁一面のモニター。
複雑な装置。
床に散らばった金属片。
そして、研究室の中央には、自分が作ったものによく似た円筒形の装置が設置されている。
その奥には、青紫色の光を放つ黒い裂け目が残っていた。
「……どこだ、ここ?」
はるたは呆然と呟いた。
そのとき、目の前に人影が近づいてきた。
「ねぇ! 大丈夫!?」
明るい声。
オレンジ色の長い髪を左右でまとめ、歯車の形をした髪飾りをつけた少女。
その隣には、ピンク色を基調とした長い髪に、オレンジと銀色が混ざった少女が立っていた。
髪の左側には特徴的な三つ編みが施され、花と黒いリボンの髪飾りが揺れている。澄んだ紫色の瞳が、心配そうにはるたを見つめていた。
「大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」
彼女は近くにしゃがみ込み、はるたの顔を覗き込んだ。
さらに、その後ろには小さなハリネズミの姿をしたホログラムが浮かんでいた。
白い体毛。
水色から青へと変化する結晶質の針。
大きな青い瞳。
「未知の人物を確認しました。生命反応は正常です」
ハリネズミが落ち着いた声で告げた。
はるたは三人を見つめた。
そして、思考が停止した。
◇
(……え?)
目の前にいる少女たち。
その姿を、はるたは知っていた。
いや、知っているどころではない。
髪型も、瞳の色も、衣装も。そして、隣に浮かぶ小さなハリネズミの姿まで。
すべてに見覚えがあった。
(……嘘だろ)
心臓が大きく跳ねた。
(……ハルカ?)
オレンジ色の髪の少女。
(……のどか……?)
ピンク色を基調に、オレンジと銀色が混ざる髪の少女。
(……ヘッジまでいるのかよ……)
青く輝くハリネズミ。
三人とも、自分が執筆している『Boundary & Mind』に登場する人物だった。
神代春華。
神代和華。
そして、神代家のAI、ヘッジ。
どれも自分が考えた名前であり、自分が設定を作った存在だ。
しかし、はるたはその名前を口にしなかった。
(……待て。落ち着け、俺)
目の前の三人が何者なのか、自分には分かっている。
だが、彼女たちが自分を知っているとは限らない。それどころか、自分がなぜ彼女たちを知っているのか、説明することさえ難しい。
(……ここが本当にあの世界なら、余計なことは言わない方がいい)
オレンジ色の髪の少女が、不思議そうに首を傾げている。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「……ああ。大丈夫……だと思う」
どうにか返事をしたものの、頭の中は混乱したままだった。
夢なのか。
幻覚なのか。
それとも、次元収納デバイスが本当に異なる世界へ接続してしまったのか。
どれも信じがたい。
しかし、目の前の光景は消えない。
床に触れる手の感触。
研究室に漂う焦げた配線の臭い。
少女たちの声。
そして、背後で不気味に回転する黒い裂け目。
どれも、あまりにも現実的だった。
(……マジかよ)
はるたは喉を鳴らした。
もし、ここが本当に自分の創作した世界なのだとしたら。
自分は、どうすればいいのだろう。
◇
はるたの頭の中で、無数の可能性が浮かんでは消えていった。
(……待て。ここ、どの世界線だ?)
自分が執筆する『Boundary & Mind』には、複数の世界線が存在している。
二つの小説投稿サイトで公開している、それぞれ異なる選択肢をたどった物語。
同じ登場人物が存在していても、彼らの人生や人間関係、選択する未来は異なっている。
ある世界では出会うはずの人物が、別の世界では出会わないこともある。
ある世界では仲間だった人物が、別の世界では敵対する可能性だってある。
さらに、もう一つ。
誰にも公開せず、自分の趣味だけで書き続けている非公開の世界線が存在していた。
それは、公開作品とは大きく性質が異なる。
はるた自身の欲望や願望を遠慮なく反映させた、完全に個人用の物語だった。
恋愛関係は複雑で、男女の距離も近い。
公開作品では描かないような、かなり大人向けの展開も数多く存在している。
自分の好きな設定を詰め込み、好きな展開を考え、誰にも見せずに楽しむ。
それが目的だった。
だからこそ、公表するつもりはなかった。
(……頼むから、あっちじゃないよな?)
はるたの額に、嫌な汗が浮かんだ。
もし、ここが非公開の世界線だったら。
自分の欲望を反映した登場人物たちが、実際に目の前にいることになる。
しかも、彼らは自分の意思で行動している。
その可能性を考えただけで、別の意味で頭が痛くなった。
(……いやいや、待て。そもそも本当にあの世界なのか?)
はるたは研究室を見回した。
目の前には、自分が知っている三人がいる。
しかし、それだけでは判断できない。
彼女たちは複数の世界線に存在する人物たちだ。
研究室の構造も、自分が考えた設定と完全には一致していない。
次元収納デバイスの開発状況も分からない。
さらに、現在がどの時点なのかさえ不明だった。
(……本編? それとも別の展開か?)
はるたは必死に記憶を探った。
しかし、答えは出ない。
(……時代も分からない)
彼の頭の中で、疑問が増え続けていた。
何より、自分自身がこの世界の存在について、何一つ確証を持っていない。
だからこそ、軽率な発言は避けるべきだった。
(……まずは情報を集めよう)
はるたは慎重に周囲を観察し始めた。
◇
「ねぇ、大丈夫?」
オレンジ色の髪の少女が顔を覗き込んだ。
「どちらから来られたんですか?」
ピンク色の髪の少女も心配そうに尋ねる。
「……あ、いや」
はるたは口を開いた。
しかし、何を言えばいいのか分からなかった。
自分の名前を名乗るべきか。
どこから来たのか説明するべきか。
だが、ここが本当に別の世界なら、自分の住所や出身地を伝えても意味がないかもしれない。
それに、次元の裂け目を通ってきたという事実さえ、どう説明すればいいのか分からなかった。
「……まずい……」
はるたは小さく呟いた。
「え?」
オレンジ色の髪の少女が首を傾げる。
「……何も言えない……」
ピンク色の髪の少女は、少しだけ眉を寄せた。
どうやら、目の前の青年はかなり混乱しているらしい。
「ねぇね、少し待ちましょう」
「でも、突然あそこから出てきたんだよ?」
「それは分かっています。でも、本人も状況を理解できていないようです」
「……そっか」
オレンジ色の髪の少女は頷いた。
ピンク色の髪の少女は、はるたへ視線を戻した。
「無理に説明しなくても大丈夫ですよ。まずは落ち着いてください」
「……ああ」
はるたは小さく返事をした。
しかし、その視線は三人から離れなかった。
知っている。
確かに知っている。
それなのに、何も分からない。
その矛盾が、彼の思考を混乱させていた。
◇
そのときだった。
小さなハリネズミの周囲に、青白い操作画面が展開された。
「……春華、和華」
二人が振り返る。
「どうしたの、ヘッジ?」
「未知の人物から、精神的な動揺を示す反応を確認しました」
「……やっぱり」
ピンク色の髪の少女が小さく呟いた。
「現在のところ、重大な身体的異常は確認されていません。しかし、強い混乱状態にあると推測されます」
オレンジ色の髪の少女は、はるたを見つめた。
「……そりゃ、いきなり変な場所に飛ばされたら驚くよね」
「そうですね」
ピンク色の髪の少女は頷いた。
そして、はるたに向かって優しく微笑んだ。
「大丈夫です。少なくとも、今すぐ何かをする必要はありませんから」
その言葉に、はるたは少しだけ息を吐いた。
しかし、安心するにはまだ早かった。
自分がどこにいるのか。
どうしてここへ来たのか。
そして、元の世界へ戻る方法があるのか。
何一つ分かっていないのだから。
はるたは左腕に装着された腕時計へ視線を向けた。
青い光が、かすかに明滅している。
「……レイン」
小さく名前を呼ぶ。
しかし、返事はなかった。
いつもなら、何かを聞けばすぐに答えてくれる相棒。
くだらない冗談にも付き合い、ときには遠慮なくからかってくる少女。
その声が聞こえないだけで、こんなにも心細くなるとは思わなかった。
「……おい、レイン」
もう一度、呼びかける。
腕時計は沈黙したままだった。
はるたは唇を噛んだ。
(……頼むから、無事でいてくれよ)
そのとき。
腕時計の中央に、小さな青い光が灯った。
ピッ。
はるたの目が見開かれた。
「……レイン?」
しかし、返事はない。
表示されたのは、見慣れない文字列だった。
【通信再接続中】
【接続先不明】
【空間座標取得失敗】
そして、最後に一つ。
【精神的動揺を確認しました】
「…………」
はるたは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、オレンジ色の髪の少女とピンク色の髪の少女。
その隣には、青く輝く小さなハリネズミ。
そして背後には、未だ消えない黒い裂け目。
どう考えても、普通の状況ではなかった。
「……いや、そりゃ動揺するだろ……」
はるたは小さく呟いた。
誰に向けたわけでもない言葉だった。
しかし、その声には、わずかにいつもの調子が戻っていた。
◇
自分が想像し、物語として描いてきた世界。
その世界に、今、自分自身が立っている。
しかし、目の前にいる人々は、自分を知らない。
そして、自分自身もまた、この世界の現在を知らなかった。
はるたは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
まずは、目の前の現実を受け入れるしかない。
そして、レインとの通信を回復させること。
元の世界へ帰る方法を探すこと。
考えるべきことは山ほどあった。
その第一歩として、彼はようやく口を開いた。
「……あのさ」
二人の少女が、同時にはるたを見た。
「はい?」
「……とりあえず、ここって……」
そこで、言葉が止まった。
何と聞けばいいのか分からない。
ここはどこなのか。
今はいつなのか。
そもそも、本当に別の世界なのか。
問いは無数にある。
しかし、それをどう説明すればいいのか。
はるたは頭を抱えた。
「……ああ、もう……」
オレンジ色の髪の少女が不思議そうに首を傾げる。
「……ねぇ、大丈夫?」
その隣で、ピンク色の髪の少女は静かに微笑んでいた。
「急がなくていいですよ。ゆっくりで大丈夫ですから」
はるたは二人を見つめた。
自分が考えたはずの人物たち。
しかし、今、目の前にいる彼女たちは、自分の想像以上に自然に話し、考え、行動している。
少なくとも、この瞬間、彼女たちは確かにこの世界で生きていた。
はるたは小さく息を吐いた。
「……分かった」
そして、もう一度腕時計へ視線を落とす。
青い光は、まだ弱々しく点滅していた。
その光を見つめながら、はるたは静かに呟いた。
「……レイン。頼むから、早く戻ってきてくれ」
その願いが届いたのかどうかは、分からない。
ただ、腕時計の小さな光が、一瞬だけ強く輝いた。
まるで、どこか遠くから返事をするかのように。
◇
はるたが創り出したはずの世界。
そこには、知っているはずの人物たちが存在していた。
しかし、彼らははるたを知らない。
そして、はるた自身もまた、この世界の現在を知らなかった。
物語の中では、次の展開を考えることができる。
だが、今は違う。
目の前にいる人々は、それぞれの意思で考え、行動している。
その一つ一つが、これからの未来を変えていく。
はるたが手にしたのは、世界を思いどおりに動かす力ではなかった。
ただ、一人の人間として、その世界に立つという現実だった。
そして、その世界がどのような結末へ向かうのか。
今は、誰にも分からない。


