失敗。
また、失敗。
そして、今回も失敗。
「……またダメか」
はるたは椅子の背もたれに身体を預け、深いため息をついた。
作業台には、分解された制御装置や交換済みの回路基板、何枚もの設計資料が広がっている。
研究室の中央には、巨大な円筒形の実験装置が設置されていた。
複数の金属製リングを重ね合わせた構造。その周囲には太い電力ケーブルや冷却配管が接続され、制御用のモニターが装置を取り囲んでいる。
かつて、その装置は制御不能に陥り、危うく大事故を引き起こしかけた。
幸い、レインが緊急停止に成功したことで、最悪の事態は免れた。
しかし、それ以来、はるたは安全機構を根本から見直していた。
独立した非常停止回路。
異常電流を検出する遮断装置。
複数系統の冷却設備。
出力を段階的に制限する制御システム。
レインの指摘を受け、思いつく限りの対策を追加している。
それでも、研究は難航していた。
「今回も安定しませんでしたね」
背後から、柔らかな声が聞こえた。
銀白色の長い髪に、澄んだ青い瞳。
白と濃紺を基調とした華やかな衣装をまとった少女、レインだった。
彼女は、はるたが開発したホログラム装置によって現実空間に姿を投影しているAIだ。
現在は研究室の解析システムとも接続され、実験データの監視や安全確認を担当している。
「出力そのものは前回より安定していました。でも、空間制御の段階で誤差が大きくなっています」
「そうなんだよなぁ……」
はるたは顎に手を当てた。
「エネルギーを集中させるところまでは上手くいくんだ。でも、その先で空間の状態を維持できない」
「そもそも、空間に干渉するという前提自体が、まだ検証段階ですからね」
「まぁ、そうなんだけどさ」
はるたはモニターに表示された数式を眺めた。
「でも、何か引っかかるんだよ。計算では成立する条件があるのに、実際の装置では再現できない」
「計算に使っているモデルが、現実の現象を正しく表していない可能性もあります」
「それも考えてる」
はるたは別の画面を開いた。
「だから、仮定を変えたモデルもいくつか作ってみたんだよ」
レインは画面を覗き込んだ。
そこには複数の理論モデルと、実験結果を比較したグラフが表示されていた。
「……本当に、いろいろ試していますね」
「そりゃ、失敗した理由が分からなきゃ次に進めないからな」
はるたは笑った。
「失敗したことより、なんで失敗したか分からない方が気になるんだよ」
「ふふっ。はるたらしいですね」
レインは微笑んだものの、その視線はすぐに装置へ戻った。
技術者としての探究心は理解できる。
しかし、今回は危険性も大きい。
それだけは、決して忘れてほしくなかった。
◇
はるたが開発しようとしている装置には、明確な原型が存在していた。
彼自身が執筆する小説『Boundary & Mind』。
心理学、経営、教育、人間関係、そしてさまざまな選択によって変化する人生を描いた物語。
その世界には、現実には存在しない特殊な技術がいくつも登場する。
次元収納デバイスも、その一つだった。
仕組みは、単純に説明すれば異次元空間を利用した収納装置である。
物体を通常の三次元空間とは異なる領域へ移動させ、必要なときに取り出す。
ただし、その性能にはいくつかの条件が存在した。
まず、収納する物体の大きさに制限はない。
極端に長い物体であっても、形状や寸法によって収納が妨げられることはない。
その一方で、重量には制限がある。
最大三十キログラム。
一度に収納できる物体の重量は三十キログラムまでと定められていた。
さらに、収納先の異次元空間では時間が停止する。
温かい料理を収納すれば、取り出したときも温かいまま。冷たい飲み物も冷えた状態を保ち、食品が腐敗することもない。
そして、もう一つの特徴が取り出し口の指定機能だった。
使用者を中心とした半径二メートル以内。
その範囲であれば、好きな位置に取り出し口を設定できる。
目の前はもちろん、左右や背後、頭上など、必要な位置から物体を取り出せる。
ただし、二メートルを超える場所に直接物体を送り届けることはできない。
あくまで、使用者の周囲で利用するための収納技術だった。
「……しかし、自分で考えといて何だけど、便利だよなぁ」
はるたが呟いた。
「何がですか?」
「この装置。三十キロまでなら、大きさを気にせず収納できるんだぞ?」
「そうですね。実現すれば、かなり便利だと思います」
「工具とか食料とか、いろいろ持ち歩けるしな」
「取り出し口を指定できるのも魅力的ですね」
「そうそう。手元に出すこともできるし、足元や横にも出せる。二メートル以内って制限はあるけど、十分便利だろ?」
レインは小さく頷いた。
「でも、どうして三十キログラムなんですか?」
「ん?」
「大きさに制限がないなら、重量も無制限にすることはできたはずですよね?」
はるたは笑った。
「ああ、それは物語の都合だよ」
「物語の都合?」
「便利すぎる道具って、使い方によっては何でも解決できちゃうだろ?」
「……なるほど」
「だから制約をつけたんだよ。大きさには制限がないけど、重量は三十キロまで。取り出せる範囲も二メートル以内」
はるたは椅子を回した。
「制限があるから、どう使うか考える必要が出てくる。そこが面白いんだよ」
「……確かに」
レインは少し考え込んだ。
自由に使える能力より、制限のある能力の方が工夫を必要とする。
それは物語の中で登場人物の選択肢を考えるうえでも重要な要素だった。
「でも、はるた」
「ん?」
「物語の中では、そういう仕組みだと設定すれば成立しますけど……」
「現実では、そうはいかない」
「はい」
レインは真剣な表情になった。
「空間をどのように接続するのか。物体の状態をどう保持するのか。時間停止という現象をどう実現するのか。解決しなければならない問題が多すぎます」
「まぁな」
「それに、三十キログラムという重量制限も、現実の装置では技術的な根拠が必要になります」
「そうなんだよなぁ」
はるたは苦笑した。
「小説では自由に設定できたのに、現実に持ってこようとすると、全部説明しなきゃいけない」
「ふふっ。それが科学ですから」
「だなwww」
二人は顔を見合わせて笑った。
しかし、レインはすぐに真剣な表情へ戻った。
「だからこそ、無理はしないでくださいね」
「分かってるって」
「本当ですか?」
「前回、めちゃくちゃ怒られたからな」
「当然です!」
「……はいはいwww」
「返事は一回です!」
「はい!」
そのやり取りに、二人はまた笑った。
◇
窓の外で、低い雷鳴が響いた。
ゴロゴロ……。
はるたが顔を上げる。
「……雨、強くなってきたな」
研究室の大きな窓には、無数の雨粒が叩きつけられていた。
街の明かりは雨に滲み、遠くの建物はほとんど見えない。
空には厚い雲が広がり、ときおり稲光が走っている。
「すごい嵐ですね……」
レインも窓の外を見つめた。
「今日は切り上げるか……?」
はるたが呟く。
「その方がいいと思います」
レインは即答した。
「落雷による電源系統への影響も考えられますし、今の装置を無理に動かす理由はありません」
「……だな」
はるたは頷いた。
以前なら、もう一度だけ試したいと言っていたかもしれない。
しかし、前回の事故を経験した今は違う。
研究を続けるためにも、安全を優先する必要がある。
それは十分に理解していた。
「じゃあ、今日はここまでにするか」
「はい。それがいいと思います」
レインは安心したように微笑んだ。
はるたは保存処理を開始し、実験装置の電源系統を停止させた。
大型モニターが順番に待機画面へ切り替わる。
研究室の中央に設置された装置からも、低い駆動音が消えた。
「……よし。停止確認」
「制御系の停止を確認しました」
「残留電力は?」
「安全範囲内です」
「じゃあ、あとはデータ整理だけだな」
はるたは椅子へ座り直した。
レインも隣に腰掛けるように投影位置を調整する。
「……それにしても」
はるたがモニターを眺めながら呟いた。
「あと少しで掴めそうなんだよなぁ」
「はるた」
「ん?」
「その『あと少し』で、何回徹夜したんですか?」
「…………」
「数えられないんですか?」
「いや、数えられるけど……」
「では、何回ですか?」
「……数えるなってwww」
レインは深いため息をついた。
「本当に、困った人ですね」
はるたは苦笑しながら、データの整理を続けた。
その間にも、雷鳴は次第に近づいていた。
ゴロゴロ……。
窓の外が、一瞬だけ白く光った。
◇
異変が起きたのは、その直後だった。
バリィィン!!
耳をつんざく轟音が、研究室に響き渡った。
「うわっ!?」
「きゃっ……!」
窓の外が真っ白に染まる。
ほぼ同時に、研究室の照明が激しく明滅した。
モニターにノイズが走り、停止していたはずの実験装置から青白い光が漏れ始める。
「……は?」
はるたは目を見開いた。
装置の外周に配置された金属製リングが、小刻みに震え始めている。
ゴウン……。
ゴウン……。
低い振動音が、次第に大きくなっていった。
「おいおい……嘘だろ?」
はるたは慌てて制御画面を開いた。
しかし、そこに表示された数値は、予想を大きく超えていた。
入力電力。
内部エネルギー。
空間制御系の同期率。
すべてが異常な変化を示している。
「……なんで動いてんだ?」
装置は停止していたはずだ。
少なくとも、起動指令は出していない。
それなのに、巨大な機械が勝手に動き始めている。
「はるた!」
レインの声が鋭くなった。
「異常電流が流入しています!」
「……落雷か!?」
「可能性があります! ですが、それだけでは説明できません!」
レインは瞬時に複数のシステムへアクセスした。
電源系統。
装置内部の制御回路。
冷却システム。
非常停止装置。
しかし、各所で異常が発生していた。
【異常電流流入】
【空間同期エラー】
【制御不能】
赤い警告表示が次々と現れる。
「くそっ……!」
はるたはキーボードを叩いた。
「非常停止!」
しかし、装置は止まらない。
それどころか、中央に集まる青白い光がさらに強くなっていった。
「……やばい!」
次の瞬間。
バチッ!!
装置の接続部から激しい火花が散った。
「うわっ!?」
「はるた、離れてください!」
レインが叫ぶ。
しかし、はるたの視線は装置の中央に釘付けになっていた。
「……ちょっと待て。これ……」
そこには、小さな黒い点が現れていた。
ほんの小さな点。
しかし、それは周囲の光を吸い込むように、ゆっくりと広がっていく。
◇
ズズズ……。
不気味な音が、研究室に響いた。
空間が歪んでいる。
そうとしか表現できない現象だった。
装置の中央に生まれた黒い点は、少しずつ大きくなり、周囲に青紫色の光をまとい始めていた。
まるで、空中に穴が開いたようだった。
「……なにこれ……」
はるたは呆然と呟いた。
「不明……」
レインの声にも、戸惑いが混じっていた。
彼女は急いで観測データを解析する。
しかし、結果は異常だった。
通常の空間座標では、位置を特定できない。
エネルギー分布は既存のモデルに一致しない。
さらに、装置の中央付近では、周囲の距離や形状の測定値が不自然に変動していた。
「……こんな現象、ありえません」
レインは小さく呟いた。
「少なくとも、私たちが構築した理論では説明できません」
はるたは黒い穴を見つめていた。
その周囲では、紙や小さな金属部品が浮かび始めている。
やがて、それらが穴の中心へ向かってゆっくりと引き寄せられた。
「……レイン」
「はい?」
「これ……空間が裂けてるのか……?」
レインは即答できなかった。
目の前で起きていることは、あまりにも異常だった。
そもそも、この装置の目的は、重量三十キログラムまでの物体を異次元へ収納し、使用者から二メートル以内の任意の位置に取り出し口を形成することだった。
こんな巨大な空間の歪みを作り出す機能など、設計には存在しない。
「……解析不能」
レインが呟いた。
モニターにも、同じ文字が表示された。
【解析不能】
【既知理論外】
【座標未特定】
はるたは息をのんだ。
「……マジかよ」
黒い穴は、さらに大きくなっていく。
青紫色の光が渦を巻き、中心には底の見えない闇が広がっていた。
まるで、空間そのものが内側へ折り畳まれているかのようだった。
そして、研究室の空気が、ゆっくりと中心へ流れ始めた。
◇
「はるた、下がってください!」
レインが強く叫んだ。
しかし、はるたは黒い穴から目を離せなかった。
「いや……待て」
「何を言っているんですか!?」
「これ、もしかして……」
彼の頭の中で、さまざまな仮説が組み上がっていた。
次元収納。
空間接続。
異なる座標系。
そして、現実とは異なる空間への干渉。
もし、目の前の現象が本当に空間の裂け目なのだとしたら。
もし、その先に通常とは異なる領域が存在しているのだとしたら。
それは、今まで理論上でしか考えられなかった現象を、実際に観測していることになる。
「……まさか」
はるたは無意識に、一歩前へ出た。
「はるた!」
レインが手を伸ばした。
その瞬間、黒い穴が大きく脈動した。
ズンッ!!
研究室全体が揺れた。
床に置かれていた部品が浮き上がり、工具や資料が次々と宙を舞う。
「うわっ!?」
はるたは咄嗟に作業台を掴んだ。
しかし、吸い込まれるような力は次第に強くなっていく。
レインの長い銀白色の髪も、激しく揺れていた。
もちろん、彼女の身体はホログラムであり、実際に風を受けているわけではない。
それでも、周囲の環境に合わせて姿を補正する機能が、異常な空間変化を捉えていた。
「はるた! 下がってください!!」
「いや……ちょっと待ってくれ!」
はるたは黒い穴を見つめた。
その中心には、奇妙な光が見えていた。
闇の奥で、何かが揺らめいている。
光なのか。
風景なのか。
あるいは、まったく別の何かなのか。
まだ、はっきりとは分からない。
しかし、はるたの胸の奥には、説明できない感覚が生まれていた。
怖い。
当然だ。
目の前では、理解できない現象が起きている。
自分が作った装置は制御不能になり、研究室そのものが危険にさらされている。
それでも――。
知りたい。
この現象が何なのか。
どこにつながっているのか。
そして、なぜ今、こんなことが起きているのか。
はるたの探究心が、恐怖とせめぎ合っていた。
「……これ、もしかして……」
彼が言いかけた、その瞬間。
黒い裂け目が、さらに大きく広がった。
バリバリバリッ!!
青紫色の光が研究室を包み、複数のモニターが一斉に消灯する。
空中に舞い上がった工具や資料が、黒い渦の中へ吸い込まれていった。
「はるた!!」
レインの叫び声が響く。
はるたは反射的に振り返った。
その青緑色の瞳に映ったのは、自分へ向かって手を伸ばすレインの姿だった。
次の瞬間。
研究室全体を、まばゆい光が包み込んだ。
そして――。
すべての音が、途切れた。
◇
その夜、失敗作だったはずの装置は、世界の境界を裂いた。
異次元へ物を収納するために作られた装置が、設計上あり得ない規模の空間異常を引き起こしたのだ。
それが落雷による偶然だったのか、装置に隠されていた未知の現象だったのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがある。
はるたが想像し、現実へ持ち込もうとした技術は、彼自身の予測を大きく超えてしまった。
そして、裂け目の向こう側に何が存在するのか。
その答えを、二人はまだ知らなかった。


