ーー……夢と現が分かたれていない、此の世には……、
ーー……何時も、絶えず風が吹いていた……。
ーー……乾いた、風が吹いていた。
ーー……此の天つ風の宮にも、乾いた風が吹いていた。
天つ風の宮の主樣は天駆ける息吹の主樣と呼ばれている。地上に其の息吹で和風を戦がせ慈しみの雨を降らせる風と雨の男神樣に御座いました……。
「…息吹の主樣には、困ったものだ…」天つ風の宮の後宮に仕える者達は口々に声を潜めて囁きます。
「…地上には、もう半年も雨が降らぬと風の噂で聞いた…」天つ風の宮は雲の上に在り、雲と共に風の吹く儘に流れ地上に和風を戦がせ慈しみの雨を降らせ世情を観ながら旅をする天界の宮廷だ。
「…仕方あるまい…先代の天駆ける息吹の主樣が崩御なされてから湧いて出た後継だ…何でも先代の天駆ける息吹の主樣のたった一人の肉親であられる姫巫女が地上で卑しい人間と交わり成した忌み子だと言うではないか…」
幾ら声を潜め様と嫌でも風が便りを寄越してくるのだ。
……頼んでもいないのに。……望んでもいないのに。
「…ハァ、全て聞こえておるわ…」
御帳台の帳を上げ、止まらない溜め息を吐きながら中庭へと抜け出して、独り言ち、中庭の中央の池泉の如き雲の切れ間から何時もの如くに地上の様子を眺め観る……。
……地上は干涸び大地は罅割れている……。
……地上の民は皆、慈しみの雨を待ち望んでいる。
……解っている我が民に雨を降らせねばならぬ。
……解っている、なれど……。
「……できぬのだ……」
ーー……心に虚しく渇いた風が吹いている。
ーー……我の心は、枯れ果ててしまった。
ーー……枯渇した渇いた心では雨は降らせられぬのだ。
「…俺は、神になどなりたくなかった…」呟いた言の葉が雲の切れ間から虚しく地上に落ちていった。
「…慈雨ーもう一度、其方に逢いたいー…」
࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚
ーー……慈雨ーもう一度、其方に逢いたいー……。
乾いた風に運ばれ誰かに名を呼ばれた様な気が致しました。市女笠の虫の垂衣の合間から天を仰ぎ見遣れば白い薄布で覆った様に薄雲が広がっておりまする。
「ー御天道樣に暈が、祈雨が届くやも知れませぬー」私は、ー祈雨尼僧ー天に雨を乞い祈る。其れが私の務め。幼き頃より師匠と旱魃の地へと赴いては、乾いた大地を渡り雨を乞い祈雨の旅を続けてきました。師匠が天に召されてからも一人。私は、旅衣を纏い乾いた大地に雨をと祈り。祈雨の旅を続けて来たのです。
「お待ちしておりました!祈雨尼樣!どうか!祈祷を!我が里に慈しみの雨を!祈雨尼僧樣!お頼み申します!」
里に着くなり口々に人々は私の雨乞いの祈祷を乞う。
皆、乾いているのです。心も躰も、渇いているのです。
皆、慈しみの雨を恵みの雨を待ち焦がれているのです。
「ーええ、直ぐにでもー」
だから私はー旅衣を脱ぎさりて天色の羽衣を纏ふー
ー天色をした羽衣を纏い天へと雨を乞い舞えばー
ーー……軈て、……ポツリ、……ポツリ、と。
ーー……慈雨が降る。乾いた大地に慈雨が降る。
ーー……サァ、サァ、サァ、サァ、と。
ーー……乾いた里の人々に、恵みの雨が降り注ぐ。
ーー……雨は乾いた里の大地に染み入り。
ーー……渇いた人々の心と躰に沁み入り。
ーー……軈て、全てを潤してゆくのです。
「〜頃日炎旱日を經て〜百姓の田作〜穀物の始〜草の片葉に至るまで枯し萎るが故に〜安麻美豆繼て降零ば〜」
ーー祝詞を謡い踊り舞う、気紛れな天の雨が途絶えぬ様に只管に祈り舞を捧げる。
ーー……近頃、酷い日照りが続き、お米や農作物、草の葉一枚に至るまで枯れ萎れてしまっています。どうか恵みの雨を絶え間なく降らせて下さい……ーーと。
ただ、只管に、一心不乱に踊り舞い続けるのです。
此の身が動かなくなるまで、気力が尽き果てるまで、精根尽き果てる迄、ただ、只管に一心不乱に踊り舞い続けるので御座います。
ー…其れが私、祈雨尼僧の務めに御座います…ー
……何れ程に舞ったのでございましょうか……
……薄れ途絶え行く意識の中で……
……私は確かに、何方かに呼ばれたのでございます。
『ー…慈雨、やっと見つけた、俺の愛しい人よ…ー』
࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚
ーー…夢を見ておりました…。
ーー…幼き頃の淡い初恋の想い出を…。
師匠に連れられて祈雨の旅にて訪れた小さな里に彼は居た。風に揺れる银白色に皓る短髪がとても綺麗だった。けれど其の不思議に皓る髪のせいで里の子らに虐められては、泣いていた。繊細に戦ぐ心根の美しく優しい風の様な少年だった。
傷付いた心に風を止めて涙を凪いだ微笑みが幼気で切なくて愛しく想ったのを良く憶えている……。
然程に歳も離れていなかっただろうに、儚げで、放ってはおけずに、御転婆だった私は、彼の手を引き、彼の涙を拭い、彼を傷つける子らから、幼いながらに彼を護った。
軈て師匠の雨乞いの祈祷が終わり。彼との別れの時が来た。泣き虫な彼は不思議と泣かなかった。涙の雨を最後に降らしたのは、幼い私の方だった……。止め処なく流るる私の涙の雨を彼は、色素の薄い絹の様な色白で繊細な人形の如き美しき指先で、私が彼にした様に優しく、優しく、拭ってくれた……。
そして旅衣を纏った私に天色の羽衣を贈ってくれた。
『…此の天色の羽衣は死んだ母さんの形見なんだ…』
静かな声で言う彼に『…そんな大切な物は貰えない…』と私が言えば、彼は私を抱き締めて、こう言ってくれた。
『慈雨ー俺は、君のことが好きだよーだから、此の天色の羽衣を君に贈りたい…君が此の羽衣を纏って舞ってくれたのなら…もう一度、君と逢える気がするんだーー』
だから私はー旅衣を脱ぎさりて天色の羽衣を纏ふー
ーー天に雨を乞いながら私は彼を想い舞っている。
ーーもう一度、彼に逢いたいと。
ーー何時も、そう祈っていたのです。
ーー愛しい、彼の名は…… ……ーー
「ーー…… ……ーー」
…思い出せないのです…こんなに愛しく想ってるのに。
……己の頬に、涙が流れるるのを感じました。
……そして、頬にとても懐かしい、暖かな温もりと。
……己の頬に降る己のモノとは異なる涙の雨を感じて、
……私は、静かに目を覚ましたので御座います……。
重い目蓋を開けば朧気な意識と視界の中に银白色に皓る長髪をした凄く綺麗な殿方樣が居らしたので御座います。
「…良かった…気がついたかー慈雨ー」
光を通さぬが如くに闇黒に染まる瞳が涙に濡れ。
俄に紫色に揺蕩い、ポロポロと私の頬に綺麗な涙の雨を降らしておりました。
とても綺麗に泣く御方に御座いました。何処となく初恋の想い出の中の彼に似ている様な気が致します。
もぅ…名前も…思い出せないのだけれど……。
此の御方は何故に私の名をお知りで御座いましょう?
「…雲の切れ間から…其方の雨乞いの舞が見えたー……慈雨、やっと見つけた、俺の愛しい人よ……ー」
美しい殿方は、薄く造形の良い口唇から熱風の如き吐息を含んだ甘い声で囁かれるので御座いまする。
「ーー……もう一度、逢えて嬉しい……ーー」……と。
すっーと通った鼻梁が、私の鼻尖に触れ給う……其の儘に、互いの口唇に迄ーー触れてしまいそうな既のところにて、私は其の人世離れした美しき殿方樣へとお訊ね申し上げました。
「…はて…何方様で御座いましょう?…何故…私の名を?…何処かでお会いした事が御座いましょうか?…」
私の問いに美しき殿方樣は、ハッとしたかの如くに息を御呑みになり……目張りのある瞳を酷く驚いた様に見開いて軈て、「…そうか…憶えておらぬのか……」と、哀切の滲む涙に湿る声で呟かれました。
解らぬことだらけで御座いましたが、その御表情を見て、此の御方を其の心を私は酷く傷付けてしまった。
……其の事だけは、良く解かりました。
痛々しい程に、其の心の有り様が伝わって来るのです。
紫色に揺蕩っていた瞳が光を通さぬが如くに闇黒に染まってゆき…银白色に皓る長い髪の先が私の頬にサラリと触れて、私の頬に触れた絹の様な白き手は、とても冷たくて、ゆっくりと私の頬を撫でるようにして、軈て細長い其の指先が、银白色に皓る長い髪の先が、私から離れてゆきました……。
「…あの…」あまりにも切なげで此の儘、消えてしまいそうな程の儚さに揺れる御方に何か言わねばと声を上げようとしたらば「…無理もない…唯の人間が天界に昇れば…地上での事など…忘れてしまうのであろう……」と其の御方は呟かれました。其の御声は、まるで寒風に吹かれているかの様な凍えた響きに御座いました。
「…天界…そうですか私は…天に召されたのですね…」
そうか…私は、雨を乞い舞い踊り…召されたのか……。
「…雨は…降っておられましょうか……?」
私は祈雨尼としての務めを果たせたのでしょうか?
私の問いにーースックと、其の美しい殿方樣は御立ち上がりになりて、私に御背を向けて仰いました……。
「…其方は、天に召されてはいない…我が天界に召し出したのだー神妻ーとして……我ながら至極…勝手がましいとは思うのだが…我の妻となって欲しい…我が名はー天駆ける息吹の主ー風と雨を司る神……」
ー天駆ける息吹の主樣ーは、私の方へと向き直られて荘厳華麗ながらとても心悲しい御声で私に告げられたので御座います。
「…慈雨…例え其方が、我の事を憶えていなかろうともー我は其方を良く憶えておるー」
其れは、とても心切なき婚ふに御座いました。
「…無理強いはしたくはないのだ…其方の髪が伸び揃う迄に…良く考え応えをくれれば良い…此の天界の天つ風の宮で我が妻となるのか、そうではないのかを……そうでない時は、其方を地上に還そう……」
そしてー天駆ける息吹の主樣ーは、真愛しい程の想いを言の葉の息吹に乗せて告げなさるので御座います。
「慈雨もう一度、其方に逢えて嬉しいー愛しているー」
ーーそう、告げなさるるので御座います……。
「雨と風は我が心そのものだ暫く雨は止まぬであろう」
最後に、そう仰ってー天駆ける息吹の主樣ーは、私を残し塗籠の寝所から静かに出てゆかれたので御座います。
࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚
「果たして本当に…私は祈雨尼としての務めを果たせたので御座いましょうか…」
天つ風の宮の後宮の中庭の雲の切れ間から地上に降り続く雨を眺めて私は独り思っておりました。
『…無理強いはしたくはないのだ…其方の髪が伸び揃う迄に…良く考え応えをくれれば良い…此の天界の天つ風の宮で我が妻となるのか、そうではないのかを……そうでない時は、其方を地上に還そう……』
ー天駆ける息吹の主樣ーより婚ふを受けたあの日から私の髪は、肩の辺りにまで伸び揃っておりました。
『慈雨もう一度、其方に逢えて嬉しいー愛しているー』
……私の心は、戸惑い迷いに迷っておりました。
『雨と風は我が心そのものだ暫く雨は止まぬであろう』
あの日から、ずっと雨が降り続いておりまする。止まぬ雨の大水よる水災に地上の民は溺れ苦しんでいる。
止まぬ雨はー天駆ける息吹の主樣ーの哀しみの涙の様に御座いました。そして炎旱日を招いた乾いた風は、其の御心の虚しさ故に吹く風であったのではなかろうかと思ってならないので御座います。
此の半年程、天つ風の宮の後宮に居て思うことは、宮に仕える者からのー天駆ける息吹の主樣ーへの冷遇、奥まった私に充てがわれた此の色なき風の間にさえ風に運ばれ噂が耳に入ってくるので御座います。
『…息吹の主樣には、困ったものだ…』天つ風の宮の後宮に仕える者達は口々に声を潜めて囁くので御座います。
『…地上では、もう半年も雨が止まぬと風の噂で聞いた…』天つ風の宮は雲の上に在り、雲と共に風の吹く儘に流れ地上に和風を戦がせ慈しみの雨を降らせ世情を観ながら旅をする天界の宮廷に御座います。
『…仕方あるまい…所詮先代の天駆ける息吹の主樣が崩御なされてから湧いて出た後継…先代の天駆ける息吹の主樣のたった一人の肉親であられる姫巫女が地上で卑しい人間と交わり成した忌み子だ…しかもだ…神聖なるる神妻に…よりにもよって地上の卑しい祈雨尼僧を召し出されたとか…天世も末よ…悍ましい……』
幾ら声を潜めようとも嫌でも風が便りを寄越して来るので御座います。
……頼んでもいないのに。……望んでもいないのに。
「…此れでは、心も渇いてしまいましょう…」
…渇いた心に…きっと私が涙の雨を降らせてしまった。
「…此れでは、涙の雨は止みませぬ…」
「ー慈雨ー…我の愛しい人よ…」
不意に心悲しい風が吹きー天駆ける息吹の主樣ーが、私の前に現れました。
ーーソッと、青に時雨た私の肩まで伸び揃った髪を繊細な指先で撫で静かにそよ吹く息吹で仰るので御座います。
「ーしっとりと綺麗な髪をしているのだなー天色の羽衣と同じ色をしている……」そう、仰って私の肩にー天色の羽衣を掛け直して下さいました。傷付いた心に風を止めて涙を凪いだ微笑みでーーーーー、、、、
その瞬間に私は不意に思い出したので御座います。
幼き頃に旅衣を纏った私に天色の羽衣を贈ってくれた彼のことをーー……。
風に揺れる银白色に皓る短髪がとても綺麗だった。けれど其の不思議に皓る髪のせいで里の子らに虐められては、泣いていた。繊細に戦ぐ心根の美しく優しい風の様な少年だった。傷付いた心に風を止めて涙を凪いだ微笑みが幼気で切なくて愛しく想ったのを良く憶えている……。
『…此の天色の羽衣は、死んだ母さんの形見なんだ…』
静かな声で言う彼に『…そんな大切な物は貰えない…』と私が言えば、彼は私を抱き締めて、こう言ってくれた。
『慈雨ー俺は、君のことが好きだよーだから、此の天色の羽衣を君に贈りたい…君が此の羽衣を纏って舞ってくれたのなら…もう一度、君と逢える気がするんだーー』
だから私はー旅衣を脱ぎさりて天色の羽衣を纏ふー
ーー天に雨を乞いながら私は彼を想い舞っていた。
もう一度、彼に逢いたいと。そう祈っていたのです。
ーー……愛しい、其の彼の名は……ーー
「ーー……凪……ーー」
…やっと思い出した…こんなにも愛しさが溢れるる。
……己の頬に、涙が流れるるのを感じました。
……そして、頬にとても懐かしい、暖かな温もり。
……そうか。彼は、神と成っていたのですね。
「ーー慈雨ーー」
驚く彼に、私は告げたので御座います。
「全て思い出したわー凪ー」
あの幼き別れの時に彼が抱き締めてくれた様に今度は私が、神に成っても尚、泣き虫な彼を抱き締めて彼があの日に私の涙の雨を拭ってくれた様に彼の涙を指先で拭って、ーー……告げました。
「貴方を愛しているわー凪ーもう一度、逢えて嬉しい」
彼の涙の雨は軈て止み穏やかに凪いだ微笑みが揺蕩う。
「ー私は貴方と共に永遠に此処におりまするー」
永遠に共に地上に和風を戦がせ。
永遠に共に慈しみの雨を降らせながら。
永遠に共に世情を観ながら旅をする。
此の天界の宮廷ー天つ風の宮ーに、
ーー風に吹かれ雲と共に流れ永遠に共におりましょう。
࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚࿐ ࿔*:・゚
ーー……夢と現が分かたれていない、此の世には、
ーー……優しく穏やかな和風が戦ぐ。
ーー……慈しみの雨が甘く降り注ぎ命を育む。
ー天つ風の宮ーから恵みの風と雨が地上へと送らるる。
天つ風の宮の主樣は天駆ける息吹の主樣と呼ばれている。地上に其の息吹で和風を戦がせ慈しみの雨を降らせる風と雨の男神樣の御名前はー凪樣ーに御座います。そして凪樣の御傍には神妻樣たるる慈しみの雨を降らせる女神樣であらせらるるー慈雨樣ーがー凪樣ーより贈られし天色の羽衣を纏い永遠に共におらるるので御座います。
何処かの世のとてもとても仲睦まじき二柱樣のー風と雨とをー司る心優しき夫婦神樣の遥か遠い遠い昔々の御話に御座います。
࿐ ࿔*:・゚天駆ける息吹の主樣に愛さるる祈雨尼僧は旅衣を脱ぎさりて天色の羽衣を纏ふ࿐ ࿔*:・゚
࿐ ࿔*:・゚目出度し 目出度し࿐ ࿔*:・゚



