いよいよ、その時が来た。
本陣痛。
予定日よりも、二週間早く来たのは想定外だった。
そして、想像していたよりも――遥かに激痛だった。
あまりの痛みに、全身の骨が砕けそうな感覚に陥る。
「いっ……たぁぁぁぁぁぁい!!」
今までにないくらいの雄叫びを上げながら、梨歩はベッドの上をのたうち回る。
痛みが治まったと思ったら、またすぐに次の波が来る。
その無限ループが、たまらなく堪えた。
「ああああっ!! 何これ! 無理!! 無理――!!」
「梨歩」
「亞紗斗さん! 痛い! これほんっと痛い!!」
「わかってる」
「わかるわけないでしょおおお!」
「……そうだな」
そこは認めるんだ、と梨歩は思った。
しかし、そんなことを考える余裕すら、すぐに次の痛みで吹き飛んだ。
「っ、うぅ……!」
握っていた亞紗斗さんの手に、思いきり力を込める。
「痛っ」
「ご、ごめん……!」
「いい。握れ」
「でも」
「俺の手くらい、どうなってもいい」
「いや、それはダメでしょ……!」
つかの間の間歇。
また痛みが来れば、そんな理性は全部なくなる。
「亞紗斗さんっ!」
「ああ」
「むり! もう無理!」
「大丈夫だ」
「何を根拠に!」
「梨歩ならできる」
「精神論やめてぇぇぇ!」
その瞬間。
亞紗斗さんが、ほんの少し笑った。
「今、笑った!?」
「笑ってない」
「絶対笑ったぁ!」
「喋れるならまだ大丈夫だ」
「くぅぅっ! 覚えてろぉぉぉ……!」
こんな時まで、亞紗斗は冷静だった。
いや。
手を握る力。
額に浮かぶ汗。
あたしを見る目。
亞紗斗も、恐れている。
それでも、梨歩の前では崩れないようにしている。
梨歩が縋る場所を失わないように。
梨歩がそのことに気づいた瞬間、痛みの合間に胸が熱くなった。
(この人も、あたしと同じように、まだ見たことのない未来を怖がっている。それでも、一緒に進もうとしてくれているんだ)
*
どれくらい時間が経っただろう。
梨歩はもう体感として、よくわからなくなっていた。
「もう少しです」
そう言われても、その「もう少し」が長い。
(もう少しが、長すぎるのよ)
「あぁ……ッ!」
「梨歩」
亞紗斗の声が、梨歩の隣に落ちる。
「ここにいる」
その一言だけで。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
呼吸が戻る。
「亞紗斗さん……」
「ああ」
「手……」
「離さない」
「絶対?」
「絶対だ」
その言葉が、痛みより深く梨歩の中に落ちた。
(絶対なんて、簡単には信じられないと思っていた)
失うことを知ってしまった梨歩には、永遠も、約束も、いつか壊れるものに見えていた。
(それでも今だけは。この人の声だけは、信じたい。だから――)
「はい、いきんで!」
もう一度。
力を込めた。
「うぅ……っ!」
そして。
「――ほにゃあっ……!」
小さな泣き声が。
部屋いっぱいに響いた。
「……」
「……」
一瞬。
何が起きたのかわからなかった。
ただ。
泣き声だけが聞こえる。
梨歩の身体の中から、長い時間をかけて外へ出てきた、小さな命の声。
その声が、胸の奥に残っていた不安も、怖さも、全部震わせた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
梨歩は涙が溢れた。
「……生まれた?」
「生まれた」
亞紗斗の声。
少しだけ震えていた。
その震えを聞いて、ようやく実感が追いついた。
ああ。
この人も、ずっと待っていたんだ。と。
「ほんとに?」
「ああ」
「赤ちゃん……?」
「ああ」
梨歩の視界に――小さな、小さな身体が映った。
「……ちっちゃ」
震える声で。
それしか言えなかった。
「こんな……ちっちゃいんだ」
涙が止まらない。
怖かった。
ちゃんと母親になれるのか。
この子を守れるのか。
梨歩の中に残る過去や傷を、この子に背負わせずにいられるのか。
そんな不安が、ずっと消えなかった。
けれど。
今、目の前にいるこの子は、何も知らずに泣いている。
ただ生きようとしている。
その小さな声を聞いているうちに、梨歩もまた、この子と一緒に生きていきたいと思った。
「亞紗斗さん」
返事がない。
「亞紗斗さん?」
横を見る。
そして。
思わず笑ってしまった。
「……泣いてる」
「泣いてない」
「いや、泣いてるじゃん」
「……うるさい」
声が完全に震えてる。
「ふふっ」
「笑うな」
「だって」
あの亞紗斗が。
普段何があっても冷静で。
どんな時でも表情をほとんど変えない亞紗斗が。
今。
静かに、瞳を潤ませていた。
その姿を見て、梨歩は自身の中にあった緊張が、ようやくほどけていった。
(この人も、完璧じゃない。怖くて、戸惑って、それでもあたしとこの子のそばにいたいと思ってくれている)
その事実が、何より嬉しかった。
「亞紗斗さん」
「ああ」
「今日、何の日だっけ?」
「……梨歩の、誕生日だな」
四月六日。梨歩は二十八歳の誕生日を迎えた。
待望の我が子の誕生と重なったことが、何よりのギフトだと思える瞬間だった。
「予定日は、亞紗斗さんの誕生日だったのにね」
「それまで待ちきれなかったんだろう」
「いずれにしても、運命感じるね」
「そうだな」
「抱っこする?」
亞紗斗がフリーズした。
「……俺が?」
「パパでしょ」
「……」
「怖い?」
「少し」
珍しく、やけに素直だった。
でも、その答えが、梨歩は嬉しかった。
怖いと言えるくらい、この子を大切に思っているのだと思えたから。
やがて。
亞紗斗は抱き方を教えてもらいながら、生まれたばかりの小さな我が子を腕の中へ。
「……軽い」
亞紗斗の声が、今までにないほど優しく響いた。
その声を聞いた瞬間、梨歩の胸の奥に、静かな灯りがともった。
(この人の腕の中なら。この子はきっと、大丈夫だ)
「亞紗斗さん」
「何だ」
「顔、すごいよ」
「何が」
「見たことないくらい優しい」
「そうか?」
「うん」
亞紗斗は、しばらく何も言わずに我が子を見つめていた。
その横顔には、喜びだけじゃなく、戸惑いも、責任への恐れも浮かんでいた。
きっとこれから、うまくいかないこともある。
眠れない夜も、泣き止まない朝も、どうしていいかわからなくなる瞬間もある。
それでも。
亞紗斗は逃げない。
梨歩には、そう思える瞬間だった。
そして。
「……初めまして」
ぽつり。
「父親だ」
それだけ。
亞紗斗らしい、短くて、不器用でも――その言葉の奥には、これから何度でもこの子に向き合うという決意があった。
「もっと何かないの?」
「急に言われても出てこない」
「ふふ」
少しすると。
我が子の小さな手が、亞紗斗の指を握った。
「……」
亞紗斗は、再びフリーズした。
「亞紗斗さん?」
「……握った」
「うん」
「俺の指」
「うん」
「……」
「嬉しい?」
「……かなり」
(ああ。やっぱり。この人の「かなり」は、最上級なんだ)
梨歩はその一言だけで、胸がいっぱいになった。
この子がいつか大きくなって、今日のことを覚えていなくても。
あたしたちはきっと、何度でも話すのだろう――と。
初めて握った小さな手のことを。
初めて聞いた泣き声のことを。
そして、三人で始まったこの日のことを。
*
少し落ち着いた後、今度は梨歩の腕に赤ちゃんが抱かれた。
「……こんにちは」
小さな顔。
閉じた瞼。
小さな口。
(こんな子が、ずっと。あたしのお腹の中にいたんだ)
不思議だった。
梨歩の身体の中で育った命が、今は腕の中にいる。
嬉しいのに、まだ夢のようで。
触れれば消えてしまいそうで。
それでも、確かな重みがあった。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「家族だね」
「ああ」
「三人になった」
「ああ」
その返事を聞いた途端、梨歩は胸の奥がじんと熱くなった。
家族。
その言葉に、梨歩はずっと、失う怖さを重ねていた。
けれど今は違う。
家族は、過去に置いてきたものだけじゃない。
これから一緒につくっていくものでもあるのだ。
亞紗斗が、梨歩の髪を撫でる。
そして、額にキスをした。
「梨歩」
「うん」
「よく頑張った」
その一言で。
また泣きそうになる梨歩。
「……うん」
「ありがとう」
「またそれ言う」
「何度でも言う」
その言葉に、梨歩は目を閉じた。
頑張ったのは、今日だけではなく。
ここまで来るまでに、何度も迷って、立ち止まって、それでも歩いてきた。
その全部を、亞紗斗は知っている。
だからこそ、その「ありがとう」が、梨歩の過去までそっと抱きしめてくれるように感じた。
亞紗斗が、梨歩と我が子をまとめて包み込むように、そっと抱きしめる。
強くもなく、苦しくもない。
いつもの、絶妙な力加減。
だけど。
今までで一番、温かい抱擁。
三人の体温が重なっている。
小さな呼吸が聞こえる。
その中にいると、これまで抱えてきた寂しさが、完全に消えたわけではないのに、もう梨歩一人のものではないように思えた。
「幸せだな」
亞紗斗が言った。
それは恐らく、梨歩がこれまで聞いた中で――一番素直な彼の言葉だった。
その声を聞いて、梨歩はようやく、幸せになることを怖がらなくてもいいのだと思えた。
幸せは、失う前提で遠ざけるものじゃない。
失うかもしれない怖さを抱えたままでも、今ここにある温かさを受け取っていい。
「あたしも」
梨歩は、腕の中の小さな命を見つめながら静かに笑った。
悲しいことも。
失ったものも。
忘れられない人も。
全部抱えたまま。
それでも。
こうして、新しい命を愛している。
過去を消さなくても。
傷がなくならなくても。
未来はちゃんと。
ここまで続いていた。
そして、これからも続いていく。
泣き声に起こされる朝も。
眠れない夜も。
三人で笑える日も。
きっと、思い通りにならないこともある。
それでも。
隣には亞紗斗がいて。
腕の中には、この子がいる。
(あたしはもう、ひとりで未来を見つめなくていい。
亞紗斗さんと、この子と、今度は三人で)
梨歩はまた、新しい人生を歩いていく。
窓の向こうには、まだ見えない明日が待っている。
その先に何があるのかは、誰にもわからない。
けれど。
三人で見つめる未来なら。
きっと、どんな景色も受け止めていける。
小さな手が、梨歩の指を握った。
反対側では、亞紗斗の指を握っている。
その温もりを感じながら。
梨歩は静かに目を閉じた。
今日、生まれたのは、この子だけじゃない。
梨歩と亞紗斗。そして、愛しい我が子との三人の、新しい時間もまた。
今、ここから始まったのだ。



