妊娠初期。
梨歩はつわりが、全くなかった。
一度も吐かなかったし、匂いで気持ち悪くなることも、食べられないものが増えることもない。
むしろ……。
「亞紗斗さん、お腹空いた」
「……またか」
「またって何よ」
「二時間前に食っただろ」
「二時間も経ってるじゃん」
「……」
食欲だけが、ものすごい勢いで増えた。
最初の頃は、亞紗斗も喜んでいた。
「食べられるなら、その方がいい」
そう言って、梨歩が「おにぎり食べたい」と言えば握り、「果物」と言えば切って与えた。「プリン」と言えばすぐに買いに走った。
ただ。
妊娠五か月。
「梨歩」
「ん?」
「……体重」
「え?」
「増えてないか」
「妊娠してるんだから増えるでしょ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
体重計の表示は、妊娠前よりプラス八キロ。
「……」
「……」
「何、その沈黙」
「まだ五か月だよな」
「そうだけど」
「……順調だな」
「何が!?」
梨歩の食欲は、体重と共に日増ししていく。
その増え方に、亞紗斗だけが早くも一抹の不安を覚えていた。
そして妊娠七か月。
体重はプラス十二キロ。
「……梨歩」
「何」
「今日、健診だったな」
亞紗斗は運転席から、助手席の梨歩に言った。
「うん」
「体重、測るよな」
「測るね」
「……」
沈黙。
「何」
「いや」
「その顔やめて」
「何も言ってない」
「顔が喋ってる!」
「……俺は何も」
「『怒られるんじゃないか』って顔してる!」
「……」
「否定してよ!」
「……気をつけて行ってこい」
「あ、逃げた!」
*
今日の産院は、比較的空いていた。
受付で先に紙コップを渡され、梨歩はトイレへ。
「ちょっと出してくるね」
「出すとか言うな」
「だって、体重測定までに少しでも減らさないと」
「なら普段の食事を加減しろ」
「無理」
「……」
トイレの扉が閉まった。
亞紗斗は待合のソファーの後ろの壁面に貼られたポスターを見る。
『ガーディナー亞紗斗ステファン ソロリサイタル』
「こんなところにまで……」
「お待たせ」
「ああ」
「あ、亞紗斗さんだ」
「声がデカい」
「あ、ごめん」
梨歩はソファーに腰掛けた。
「あーあ、お腹重い。出したりない」
「だから、出すとか言うな」
「頑張ったのに少ししか出ないってどういうこと?」
「……知らん」
待合に流れるオルゴールのBGM。時折、赤ちゃんの泣き声がランダムに入りまじる。
「わあ、可愛い。新生児の声って癒されるね」
「そうだな」
「でも、あれが夜中に二~三時間おきにあると……エディは死んだらしいよ」
「あいつは生きているだろう」
「この前、職場で倒れたんだって。それも、寝不足で。玲君の夜間授乳のたびに起こされて、だいぶダメージ食らったっぽい」
「……そんなに頻繁なのか?」
「瑠花ちゃんは、わりと早い段階で夜通し寝てくれたみたいだけど。玲君は、しょっちゅう起きるらしくて。若葉もかなり参ってた」
「そうなのか」
「男の子と女の子では、違うのかな」
「さあな」
そして、いよいよ体重測定。
「ガーディナーさん」
「はい」
助産師さんが記録を見ている。
その目線が、体重の欄で止まった。
「……ちょっと増えるペースが速いですね」
「……ですよね」
自覚はある。
ものすごくある。
「前回から、何キロ増えました?」
「……二・五キロ」
「四週間で?」
「はい……」
「少し気をつけましょうか」
「はい……」
やっぱり、怒られた。
いや、正確には怒鳴られたわけじゃない。
ものすごく穏やかな声で、
「このペースで増え続けるのはよくないですよ」
と、きっちり注意された。
待合に戻ると、亞紗斗さんが待っていた。
「どうだった」
「赤ちゃんは順調」
「そうか」
明らかに安心した顔。
「……で」
「何」
「体重」
「……」
「……」
「怒られた」
「……そうか」
「笑っていいよ」
「笑わない」
「でも今、ちょっと口元緩んだ」
「緩んでない」
「緩んだ!」
「安心しただけだ」
「何に!」
「俺が言う前に、病院で言ってもらえた」
「亞紗斗さん!」
ただ、そこからは気をつけた。
夜食を減らした。
甘いものも控えた。
散歩もした。
したのに。
「おかしいな」
息をするだけで体重が増える説が、濃厚になりつつある。
妊娠九か月。
プラス十六キロ。
どんなに気を付けていても、増えるものはしっかり増えた。
そして臨月。
体重計に乗る。
「……」
「……」
「……亞紗斗さん」
「見えてる」
「まだ何も言ってない」
「数字は見えてる」
妊娠前から、プラス十八キロ。
亞紗斗が、完全にフリーズした。
「……十八」
「言わないで」
「十八キロ」
「言わないでって!」
「……十八」
「三回言う必要ある!?」
亞紗斗が、梨歩を見る。
次に、大きくなった梨歩のお腹を見る。
また、梨歩を見る。
「……全部、この子じゃないよな」
「わかってるよ!」
「せめて、三キロ前後だよな」
「だから計算しないで!」
「羊水と胎盤を入れても――」
「計算するなって言ってるでしょ!」
思わずクッションを投げる。
亞紗斗が片手で受け止めた。
「さすがに増えすぎ――」
「でも!」
「何」
「あたしだって気をつけてるんだから!」
「それは、わかってる」
「最近なんて夜食も我慢してるし」
「ああ」
「散歩だってしてるし」
「毎日付き合ってる」
「甘いものも減らしたし!」
「……隠れて食ってるだろ」
「!」
「昨日、冷蔵庫にプリンが三つあった」
「……」
「今朝、一つになってた」
「……」
「俺は食ってない」
「……」
「誰が食ったんだ」
「赤ちゃん」
「胎児は冷蔵庫を開けない」
「細かい!」
「細かくない」
亞紗斗が、ため息をついた。
でも、怒っているわけではない。
ゆっくり近づいてきて、大きなお腹へ手を当てる。
「まあ」
「……」
「母子ともに問題ないなら、それが一番だ」
「亞紗斗さん」
「ただし」
嫌な予感。
「産後は俺も一緒に歩く」
「え」
「運動」
「……」
「無理しない範囲でな」
「今から産後の話しないでよ!」
「十八キロだからな」
「また言った!」
お腹の中で。
ぐに。
「!」
「あ」
大きく胎動した。
さっきまで体重の数字に絶句していた男が、それだけで、ものすごく優しい顔になる。
「元気だな」
「ね」
「もうすぐ会えるな」
「うん」
「……」
「何?」
亞紗斗が、梨歩をじっと見る。
「何キロ増えてても」
「……うん」
「梨歩が無事ならいい」
胸が、きゅっとなる。
「赤ちゃんも」
「うん」
「梨歩も」
そっと、額にキスされた。
「無事に生まれてくれれば、それでいい」
……ずるい。
こんなの。
怒れない。
「……産んだら痩せるもん」
「期待してる」
「そこは『そのままでもいい』って言うところじゃない!?」
「健康ならな」
「現実的すぎる!」
「十八キロだから」
「もう言うなぁ!」
臨月。
赤ちゃんは順調。
梨歩も元気。
そして亞紗斗は――
妻の体重に絶句しながらも、結局最後まで。
毎晩「お腹空いた」と言われれば、
「……何食いたい」
と、台所へ立ってしまうのだった。
梨歩はつわりが、全くなかった。
一度も吐かなかったし、匂いで気持ち悪くなることも、食べられないものが増えることもない。
むしろ……。
「亞紗斗さん、お腹空いた」
「……またか」
「またって何よ」
「二時間前に食っただろ」
「二時間も経ってるじゃん」
「……」
食欲だけが、ものすごい勢いで増えた。
最初の頃は、亞紗斗も喜んでいた。
「食べられるなら、その方がいい」
そう言って、梨歩が「おにぎり食べたい」と言えば握り、「果物」と言えば切って与えた。「プリン」と言えばすぐに買いに走った。
ただ。
妊娠五か月。
「梨歩」
「ん?」
「……体重」
「え?」
「増えてないか」
「妊娠してるんだから増えるでしょ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
体重計の表示は、妊娠前よりプラス八キロ。
「……」
「……」
「何、その沈黙」
「まだ五か月だよな」
「そうだけど」
「……順調だな」
「何が!?」
梨歩の食欲は、体重と共に日増ししていく。
その増え方に、亞紗斗だけが早くも一抹の不安を覚えていた。
そして妊娠七か月。
体重はプラス十二キロ。
「……梨歩」
「何」
「今日、健診だったな」
亞紗斗は運転席から、助手席の梨歩に言った。
「うん」
「体重、測るよな」
「測るね」
「……」
沈黙。
「何」
「いや」
「その顔やめて」
「何も言ってない」
「顔が喋ってる!」
「……俺は何も」
「『怒られるんじゃないか』って顔してる!」
「……」
「否定してよ!」
「……気をつけて行ってこい」
「あ、逃げた!」
*
今日の産院は、比較的空いていた。
受付で先に紙コップを渡され、梨歩はトイレへ。
「ちょっと出してくるね」
「出すとか言うな」
「だって、体重測定までに少しでも減らさないと」
「なら普段の食事を加減しろ」
「無理」
「……」
トイレの扉が閉まった。
亞紗斗は待合のソファーの後ろの壁面に貼られたポスターを見る。
『ガーディナー亞紗斗ステファン ソロリサイタル』
「こんなところにまで……」
「お待たせ」
「ああ」
「あ、亞紗斗さんだ」
「声がデカい」
「あ、ごめん」
梨歩はソファーに腰掛けた。
「あーあ、お腹重い。出したりない」
「だから、出すとか言うな」
「頑張ったのに少ししか出ないってどういうこと?」
「……知らん」
待合に流れるオルゴールのBGM。時折、赤ちゃんの泣き声がランダムに入りまじる。
「わあ、可愛い。新生児の声って癒されるね」
「そうだな」
「でも、あれが夜中に二~三時間おきにあると……エディは死んだらしいよ」
「あいつは生きているだろう」
「この前、職場で倒れたんだって。それも、寝不足で。玲君の夜間授乳のたびに起こされて、だいぶダメージ食らったっぽい」
「……そんなに頻繁なのか?」
「瑠花ちゃんは、わりと早い段階で夜通し寝てくれたみたいだけど。玲君は、しょっちゅう起きるらしくて。若葉もかなり参ってた」
「そうなのか」
「男の子と女の子では、違うのかな」
「さあな」
そして、いよいよ体重測定。
「ガーディナーさん」
「はい」
助産師さんが記録を見ている。
その目線が、体重の欄で止まった。
「……ちょっと増えるペースが速いですね」
「……ですよね」
自覚はある。
ものすごくある。
「前回から、何キロ増えました?」
「……二・五キロ」
「四週間で?」
「はい……」
「少し気をつけましょうか」
「はい……」
やっぱり、怒られた。
いや、正確には怒鳴られたわけじゃない。
ものすごく穏やかな声で、
「このペースで増え続けるのはよくないですよ」
と、きっちり注意された。
待合に戻ると、亞紗斗さんが待っていた。
「どうだった」
「赤ちゃんは順調」
「そうか」
明らかに安心した顔。
「……で」
「何」
「体重」
「……」
「……」
「怒られた」
「……そうか」
「笑っていいよ」
「笑わない」
「でも今、ちょっと口元緩んだ」
「緩んでない」
「緩んだ!」
「安心しただけだ」
「何に!」
「俺が言う前に、病院で言ってもらえた」
「亞紗斗さん!」
ただ、そこからは気をつけた。
夜食を減らした。
甘いものも控えた。
散歩もした。
したのに。
「おかしいな」
息をするだけで体重が増える説が、濃厚になりつつある。
妊娠九か月。
プラス十六キロ。
どんなに気を付けていても、増えるものはしっかり増えた。
そして臨月。
体重計に乗る。
「……」
「……」
「……亞紗斗さん」
「見えてる」
「まだ何も言ってない」
「数字は見えてる」
妊娠前から、プラス十八キロ。
亞紗斗が、完全にフリーズした。
「……十八」
「言わないで」
「十八キロ」
「言わないでって!」
「……十八」
「三回言う必要ある!?」
亞紗斗が、梨歩を見る。
次に、大きくなった梨歩のお腹を見る。
また、梨歩を見る。
「……全部、この子じゃないよな」
「わかってるよ!」
「せめて、三キロ前後だよな」
「だから計算しないで!」
「羊水と胎盤を入れても――」
「計算するなって言ってるでしょ!」
思わずクッションを投げる。
亞紗斗が片手で受け止めた。
「さすがに増えすぎ――」
「でも!」
「何」
「あたしだって気をつけてるんだから!」
「それは、わかってる」
「最近なんて夜食も我慢してるし」
「ああ」
「散歩だってしてるし」
「毎日付き合ってる」
「甘いものも減らしたし!」
「……隠れて食ってるだろ」
「!」
「昨日、冷蔵庫にプリンが三つあった」
「……」
「今朝、一つになってた」
「……」
「俺は食ってない」
「……」
「誰が食ったんだ」
「赤ちゃん」
「胎児は冷蔵庫を開けない」
「細かい!」
「細かくない」
亞紗斗が、ため息をついた。
でも、怒っているわけではない。
ゆっくり近づいてきて、大きなお腹へ手を当てる。
「まあ」
「……」
「母子ともに問題ないなら、それが一番だ」
「亞紗斗さん」
「ただし」
嫌な予感。
「産後は俺も一緒に歩く」
「え」
「運動」
「……」
「無理しない範囲でな」
「今から産後の話しないでよ!」
「十八キロだからな」
「また言った!」
お腹の中で。
ぐに。
「!」
「あ」
大きく胎動した。
さっきまで体重の数字に絶句していた男が、それだけで、ものすごく優しい顔になる。
「元気だな」
「ね」
「もうすぐ会えるな」
「うん」
「……」
「何?」
亞紗斗が、梨歩をじっと見る。
「何キロ増えてても」
「……うん」
「梨歩が無事ならいい」
胸が、きゅっとなる。
「赤ちゃんも」
「うん」
「梨歩も」
そっと、額にキスされた。
「無事に生まれてくれれば、それでいい」
……ずるい。
こんなの。
怒れない。
「……産んだら痩せるもん」
「期待してる」
「そこは『そのままでもいい』って言うところじゃない!?」
「健康ならな」
「現実的すぎる!」
「十八キロだから」
「もう言うなぁ!」
臨月。
赤ちゃんは順調。
梨歩も元気。
そして亞紗斗は――
妻の体重に絶句しながらも、結局最後まで。
毎晩「お腹空いた」と言われれば、
「……何食いたい」
と、台所へ立ってしまうのだった。



